日食
商人は、絶望を貼りつけたような顔をしながら、ぽつりと呟いた。
「……の、呪いがなんだってんだ……これぐれぇ、解呪できる奴ぁ、いくらでもいらぁっ……」
ガタガタと足を震わせながらも、商人は後ずさる。
そして、一目散に逃げ去っていった。
「ふむ。呪いが解けぬと知ったときの反応が見物だな」
くつくつと俺は喉を鳴らす。
「魔王みたいな顔してるわよ」
サーシャがいらぬ茶々を入れてくる。
「そういうお前こそ、楽しそうな顔をしているではないか」
そう指摘すると、彼女は作ったような微笑みを見せた。
「スッとしたわ。ああいうお金がすべてだと思ってそうな奴、嫌いだもの」
「なに、もう二度と金とは縁のない体だ。心を入れ替えるしかあるまい」
「本気で言ってるの?」
あの商人が心を入れ替えるとは到底思えない、といった口振りである。
「そうでなければ、緩やかに死ぬのみだ。命がかからねば、己と向き合えぬ者もいる。些細なきっかけだがな。二千年前には、かような経験を経て、聖人と呼ばれるほどの成長を果たした者もいる」
呆れたように俺を見た後、サーシャは妹に視線を移した。
「どう思う、ミーシャ?」
ミーシャはしばらくじっと考え、ぽつりと言った。
「……死にそう……」
「あくまで己の信念を貫き、金に殉じて死ぬのなら、それもまた奴の生き方だ」
サーシャは開いた口が塞がらない様子だ。
「そんな格好いい死に方するとは思えないけど……絶対、惨めで悲惨な末路が待ってるわ」
「アノスらしい」
ミーシャは淡々と言った。
「……あのっ……」
声をかけられ、振り向くと、さっきのフードを被った少女がそこにいた。
「ありがとう。助かったよ」
屈託なく、彼女は笑う。
「なに、礼を言われるほどのことではない。お前に一つ、聞きたいことがあってな」
きょとんと彼女は俺を見返した。
「なあに?」
「大精霊の森、アハルトヘルンへの行き方を知っているか?」
すると、その少女は俺の手をがしっと両手でつかんできた。
「信じてくれるのっ?」
ふむ。予想外な反応だな。
「信じるもなにも、アハルトヘルンが実在することは知っている」
「え……?」
少女は目を丸くした。
「もしかして、行ったことがあるの?」
「ああ」
そう口にすると、少女は更に食いついてきた。
「本当にっ? いつ?」
「最後に行ったのは、二千年前だな」
「二千年前……?」
またびっくりしたように少女は目を見開いた。
「まあ、それは信じなくてもいい。アハルトヘルンに行くには、その噂を知る必要があってな。お前がアハルトヘルンへの行き方を知っているのなら、それを教えてくれないか?」
すると、少女は考え込むように俯いた。
「無論、ただでとは言わぬ。お前が望むものを用意しよう」
彼女は顔を上げ、強い視線を俺に向ける。
「じゃ、アハルトヘルンへの行き方を教える代わりに、私も一緒に連れていってくれない?」
ほう。これはまた意外な申し出だな。
「まあ、連れていくのは容易だが、アハルトヘルンに何用だ?」
少女は押し黙った。
心なしか、表情が沈んだ気がする。
「言えぬことなら、無理には聞かぬ」
少女は俯き、静かに口を開いた。
「……わからない……」
「わからないとは?」
一瞬押し黙り、それから少女は言った。
「……おかしなことを言うかもしれないけど……」
「決して笑わぬと約束しよう」
顔を上げ、俺の目を見つめると、少女はニコッと笑った。
「良い人だね、あなたは」
「そうか?」
こくりと少女はうなずき、また神妙な顔つきになった。
「私ね、記憶をなくしちゃったんだよ……」
「ほう。難儀なことだな」
「気がついたら、この街にいて……なにかやらなきゃいけないことがあったと思うんだけど、思い出せない……」
訥々と彼女は語る。
「だけど、この街を歩いてたら、大精霊の森アハルトヘルンの噂を耳にしてね。思い出したんだよ。アハルトヘルンに行かなきゃいけないんだって。どうしてかは覚えてないんだけど、すごく大事なことがそこにある気がするんだよ」
「記憶を思い出したい?」
ミーシャが尋ねると、少女はうなずいた。
「忘れちゃいけないことを、忘れちゃった気がするんだ。きっと、アハルトヘルンに手がかりがあるはずだから」
なるほどな。
まあ、悪意はなさそうだ。
見たところ、大した魔力も感じられぬ。
油断は禁物だが、連れていっても害はあるまい。
「どうするの?」
サーシャが俺に訊く。
「いいだろう。アハルトヘルンまで連れていってやる」
「ほんとっ! ありがとうっ!」
天真爛漫に少女は笑い、俺の手を再び握って、ぶんぶんと上下させた。
「それで、肝心のアハルトヘルンへの行き方はどうなっている?」
「うん。って言っても、完全にこれが正解かはわからないんだけど、順を追って説明するよ。まず精霊は噂と伝承によって生まれる生き物で、アハルトヘルンは大精霊の森っていう伝承の精霊なんだよ」
「一ついいか?」
気になることがあり、俺は尋ねた。
「精霊が噂と伝承によって生まれるというのは、誰から訊いた?」
「あ、これは誰からも聞いてないよ。記憶を失う前から、知ってたみたい。だから、私はきっと精霊や、アハルトヘルンに関わりがあったんだと思うんだけど」
魔族は精霊と関わりが薄い。
世界に壁ができてからは更に関わりがなくなったはずだ。噂と伝承によって、精霊が生じるというのを知っていたということは、この時代の魔族ではあるまい。
いや――そもそも魔族ではない、か。
「続けてくれ」
「あ、うん。それでね。アハルトヘルンはその噂によって、行き方がころころ変わるの。だから、私は情報屋をやって、色んな噂を集めたんだよ。その中で多かったのが、アハルトヘルンはリシャリス草原にあるっていう噂。それから、ジエヌス鉱山っていうのもあったかな。このどちらかだと思う」
「場所はリシャリス草原だというところまではわかっている。霧が立ちこめるという噂はなかったか?」
「うん。あったよ。月が太陽を覆い隠し、昼が夜になる間、リシャリス草原に不可思議な霧が立ちこめるっていう噂が一番多かったかな」
「ふむ。では、それの可能性が高そうだな」
「えーと、ちょっと待って」
サーシャが額に手を当てながら、言う。
「月が太陽を覆い隠しって、どうするのよ?」
「日食?」
と、ミーシャが呟く。
「そんなの滅多に来ないでしょ? それまで待つわけ?」
「あ、それも調べたんだよ。次の日食は九日後の十二時二七分から、三分間ぐらいあるんだって」
リシャリス草原はデルゾゲードからさほど離れてはいない。
ノウスガリアが遠征試験の制限期間を一〇日にしたのはそのためか。
「そ。じゃ、一応、試せるは試せるわけね」
「三分以内に妖精を笑わせる?」
ミーシャが言う。
「それが問題よね。なにをしたら、笑うのかしら?」
サーシャが少女に視線を向けると、彼女は言った。
「悪戯好きの精霊を笑わせるってことだよね? たぶん、その妖精はティティっていう精霊なんだけど、その子たちは新しい物好きだから、斬新なものを見せると笑ってくれるっていう噂が有力だよ」
「斬新って言われても……」
なにが妖精ティティにとって、斬新かというのが問題だ。
「まあ、やってみればいい。行くぞ。ミーシャ。レイたちに報せておいてくれ」
「ん」
彼女たちに両手を差し出す。
「行くぞって……今の話聞いてたわよね? 次の日食は九日後よ? 今行ってもどうしようもないじゃない」
「問題ない」
「問題ないって……」
俺は手の平を返し、魔力を集中する。
魔法陣を一〇〇ほど重ねた多重魔法陣を展開し、そこに指先をくぐらせた。
「<森羅万掌>」
右手が蒼白い輝きを纏う。
それは距離を越え、あらゆる物をこの手に収め、掌握する魔法。
<森羅万掌>の手で、俺はぐっと空を掴む。
そして、ゆっくりと腕を動かした。
「……嘘……でしょ…………?」
目の前の光景にサーシャは息を飲む。
太陽の一部が欠けたのだ。
「……月が、動いてる……」
ミーシャはじっとその空の月を見つめている。
彼女の魔眼ならば、<森羅万掌>の手が月をわしづかみにしているのが、わかったことだろう。
「ふむ。さすがに軽くはないな」
足に魔力を込め、ぐっと大地を踏みしめながら、少しずつ腕を動かしていけば、やがて、太陽が完全に月の後ろに隠れた。
往来を行き交う人々がいったい何事かと皆そろって天を仰いでいる。
昼が、夜に変わっていた。
「理解したか?」
呆然と空を見上げたままのサーシャに、改めて手を差し出す。
「星の一つ、動かせぬ俺ではない。行くぞ」
月を動かす魔王……。
さてさて、いったい、どうやって妖精を笑わせるのでしょーか。