生きるのが怖い、ときみは言った。
明治辺りの文学風を目指して挫折しました
古い仮名遣いらしき表現はそのためです
生きるのが怖い、ときみは言った。
怖くなどないさ、と否定しても、怖くて仕方がないのだと否定を返されたので、ならば死ねば良いぢゃないか、とぼくが言うと、死ぬのはもっと怖い、ときみは答えた。
なるほど、きみが死なない理由がよくわかった。
きみはずいぶん怖がりのようだねえ、とぼくがつぶやけば、きみは困ったように微笑んで頷いた。
少し意地の悪い心地になって、ぼくはきみに問い掛けた。
でも、ひとはいづれ死ぬものだよ、と。
きみはまた、困ったように頷いて、死ぬのは怖くないのだ、とのたまった。
おやおや、さっきとは真逆の言葉ぢゃあないか、とぼくが笑うと、死ぬのは怖くないけれど、生きた証がなにも残らないのは怖いのだ、ときみは拳を握り締めた。
まだ、生きた証がないから死ぬのが怖いのだ、と。
死んだあとのことなんて気にするのかい、とぼくが問えば、死んだあとにどうなるかわからないから気にしておくのだ、ときみは答えた。それから、でも、生きた証の残し方なんてわからないから、生きるのが怖い、と言った。
矛盾している。なんて滑稽なことだろう。死ぬための準備が出来ていないから死ぬのが怖いのに、死ぬための準備をすることも怖い、だなんて。
きみはほんとうに恐がりのようだねえ。
ぼくがくつくつと喉を鳴らすと、きみはその通りだとでも言いたげにうなだれた。
いっそう、死んでみたら楽になるのぢゃないかい、とぼくが提案すると、そうかもしれない、ときみはうなだれたまま答えて、でも怖いのだ、と小さく言った。
生きた証とはなんだい。
ぼくはうなだれたきみの頭に問い掛けた。
わからない。
きみはひどく弱々しい声で答えた。
きみは、難儀な子だねえ。
呆れたように言えばしょんぼりと肩を落とし、自分のように平凡な人間には、大それたことなんて出来ないのだ、と、言い訳のように唇を噛む。
くくく、と喉を鳴らす。
意地の悪い心地はまだ残っていたが、追い遣って甘やかしてやることにした。
きみは平凡な子ぢゃあないさ、と声を掛ける。うなだれた顔に手を伸ばし、そっと肉付きの良い頬に触れて持ち上げた。
少し涙目になった目を見て、笑う。
きみは自分ではどこにでもいる平凡な人間だと思っているかも知れないが、このぼくがきみを気に入ったんだからねえ。きみがいくら平凡だと主張しても、だれもきみを平凡だなんて思いやしないさ。
ぼくが言ってやれば、そんなことはない、ときみは眉を下げた。
周りがきみを見る目を思い出して、ぼくはなにも言わないまま口端に嘲笑を乗せた。きみはほとほと、鈍感な子のようだ。
自分が周りから救世主扱いされているなんて、きみはちっとも知らないのだろう。
生きた証が欲しいと言うのなら、ぼくが作ってやろうぢゃないか。
とびきり優しい顔をして、ぼくはきみに言った。
折り畳んで懐にしまって置いた紙を取り出し、きみに手渡す。きみはきょとんとしたまま受け取った紙を開き、ぽかんと目を見開いた。
それに名前を書くと良い。そうすれば、きみの名前が歴史に遺る。
わなわなと唇を震わせるきみにそう言えば、信じられない、と言う顔で見返された。
追い遣って置いた意地の悪い心地が、こっそりと戻ってくる。
こつりときみの額を小突いて、ぼくはきみに顔を寄せた。
申し訳ないがすぐに死なせてはやれないよ。きみにはぼくの、後継者を生んで貰わなくちゃあいけない。ぼくの後継者を生めるのはきみひとりだからねえ、誰も、きみを平凡だなんて思いやしないさ。
そう耳元に囁けば、こぼれそうなほどまん丸に開いた目に、あふれそうなほどたっぷりと涙を貯めたきみの頬に、さっと朱が刷かれた。意地悪く微笑んで、大きな目を覗き込む。
答えは、と問うぼくに、きみは震える唇で答えた。
それからもたびたび、生きるのが怖い、ときみは言った。
こんなに幸せで良いのか、となんどもぼくに問うた。
そのたびぼくは、正当な対価だ、と笑った。
そして-。
死ぬのが怖い、ときみは小さくつぶやいた。
ひどく痩せた細い手でぼくの手を掴み、困ったように微笑む。
あなたを置いて、死ぬのが怖い。
ぼくはきみの手を握り返し、その耳元に唇を寄せた。
大丈夫。すぐ追い付くさ。
きみは、微笑んで、目を閉じた。
痩せ細った手を握ったまま、ぼくは目を閉じた。
ああ、もうきみはいないのか。
きみがいない世界を、これから生きて行くのか。
生きるのが怖い、とぼくは言った。
拙いお話をお読み頂きありがとうございます
文学ってなんだろう
彼女は幸せで
彼女が幸せなら彼も幸せでした