脱出
“魔物”がへし折った木を男達が筏にする。女達は家で旅支度を調えている。突然決まったので大した物は持っていけなくとも、着の身着のまま村を離れるよりはよかった。
村の動きを察知した魔物達が森の奥で蠢いている気配がある。しかし襲ってくることはなく、じっと動向を伺っているだけだ。
夜通し準備をして、やっと用意が調った時はもう明け方になっていた。雨が霧雨程度に弱くなったのは幸いだ。
河岸に移動した村人達は、四艘の船と五艘の筏に分乗して一斉に河を下る事になった。時間を空けると最初の船が出たのを見た魔物達が、船出を待っている村人を襲いかねないからだ。
出発の前になって、背負い袋を背負ったウィナが“魔物”のところに来た。右手にはいつか渡した“魔物”の羽根を持っていた。
“魔物”はうつむいているウィナの頭を優しく撫でた。
これがウィナと会える最後かも知れない。“魔物”はすでに心を決めていた。身体が砕けても、たとえ首だけになってもウィナを守ると。
こう言うときは心を飛ばさないほうがいい。そんな事をしなくても気持ちは伝わる。
ウィナは顔を上げ、“魔物”の手に自分の手を添えて言った。
「いっこだけ、おねがいがあるの」
今まで気丈に耐えてきたのだろう、堰を切ったようにウィナの瞳から涙がこぼれていった。
無理はない。十にもならぬ年で、あの体験は辛すぎる。血を触媒に記憶を消してあげようかとしたとき、ウィナは涙にむせびながら言葉を紡いだ。
「おね……お姉ちゃんを、あんなにしちゃった奴……っく……やっつけて、ほしいの。絶対に絶対に、やっつけてほしいの。おねがい……」
ウィナは“魔物”の手をぎゅっと握った。
心を飛ばしてそれに答える。
ウィナは手の甲で涙を拭いながら言う。
「ありがとう……」
“魔物”はウィナを両親の所に送ると、村人に背を向けてぐるりと睥睨した。
匂いが近づいている。
腹の底に積もった怒りに火を入れ、大きく開いた口から熱い呼気を漏らした。畳んでいた四つの翼が広がったのを合図に、船と筏は一斉に離岸する。
そして同時に、二十を超える赤い光の槍が“魔物”めがけて殺到した。
それらすべてを炎の息でかき消す。
数が足らない――思うが早いか、下流で悲鳴が上がった。振り向けば河の中から伸びた触手が船に絡みついているのが遠くに見えた。
“魔物”は翼を羽ばたかせて一目散に船へと急ぎ、その速さのまま河に飛び込む。
濁った水の中でも奴等の気配と匂いは伝わってくる。厄介なことに相手は三匹。そのうち二匹が船に近い場所にいる。両手首を交互に傷つけ、水に血を溶かしこむ。血を触媒に生き物すら切り裂く流れが顕現。鋭利な流れを気配の方向に叩き込む。
当たり所がよかった一匹の気配が消える。手負いの二匹から、五条の赤い光の槍が伸びるが、濁った水に散らされて“魔物”を傷つけられない。
まだ水に溶かしこまれている血を触媒に、凄まじく早い流れを自分の周りに顕現する。“魔物”の身体はその流れに乗って、一気に船へ近づく。
勢いを生かした爪の一振りが、船に取り付いた奴を両断。
赤い光の槍が使えないと分かった残る一匹は、“魔物”に殴り合いを挑む。もみ合いながら流される二つの魔物。体格は最初の奴より二回りは小さくとも、力はそれほど劣ってない。
“魔物”は流れを操って、そのまま水上に飛び出した。横を過ぎる船から悲鳴と歓声が上がった。
一瞬そちらに気を取られて注意が疎かになる。その隙に赤い光の槍が“魔物”の身体を穿った。
反撃に指先の目玉を全部噛みちぎる。無言で身体をよじる隙を捉えて、細く絞った炎の息で掌のような魔物を二つに焼き切った。
安心には早い。
まだ十匹程度は残っているはず。
“魔物”は奴等を押しとどめる為に村へと舞い戻った。
その日の夕方、“魔物”は無人の村に戻った。
殺した数は十九を数えたが、もう奴等の気配や匂いはない。すべて殺し尽くせたようだった。
しかし“魔物”の代償も大きかった。
胸から腹にかけて大きく肉が抉れ、右脚は膝の辺りから無くなっている。尻尾は根本から切られ、四つの翼のうち動くのは一つだけ。牙も欠けたし両腕も満足に動かない。
血を触媒に傷を塞いで身体を治したいが、触媒にする血もあらかた流し尽くしてしまった。
ここまで来られたのも奇跡に近い。
村人が――ウィナが帰って来られるように、村を守らなければならない。その想いが死にかけた身体を動かしていた。
夢と現実の狭間にいるような頭に、ふと思い浮かぶ懸念。
自分はリートの墓に花も手向けていないではないか。それに、彼女の墓を誰か直したのだろうか。
“魔物”は誰かが作った花壇から花を一輪失敬して、村外れの墓地に這いずっていく。
――ああ、やはり、直している暇はなかったのか。墓石は倒れて、土は掘り返されたままだ。
“魔物”はのろのろと墓石を立てなおして土を均していく。全部終わる頃には月が中天に達してしまった。
魔物達に踏みにじられた花束をかき集め、その中に失敬した一輪の花を加えた。
これでいい。
ウィナ達を迎える準備は出来た。
気懸かりなのは、それまで生きていられるかだ。
人が神に祈る時のように膝をついた恰好で、“魔物”は静かに瞑目した。
今日見る夢には誰が出てくるだろうか。
出来れば、リートとウィナがいい。
そんな事を考えながら、“魔物”の意識は深く深く落ちていった――