墓と魔物
リートの葬儀は次の日に行われた。
空一面を覆った低い雲と、雨の匂いが混じった冷たい風の下で、男達に抱えられた真新しい棺桶が、村外れの共同墓地へと静かに運ばれていく。
泣き続ける母親とそれを傍らで支える父親。
ウィナの姿は見えない。
森の中に隠れてその様子を見守っていた“魔物”は、ウィナの事を想い、胸苦しさを覚えた。
角のように尖った耳をじっと澄ませば、村人達の会話が訊こえる。
リートを襲った悲劇を嘆き、気を失ったままのウィナを心配し、今まで崇めていた“魔物”に憤っていた。
掌のような黒い魔物を粉々にしたのは間違いだった。
普通に引きちぎっていれば、その死体を見せて村人の誤解を解く事も出来ただろう。
このままでは《魔物狩人》が呼ばれるのも、そう遠くない。
魔物に強い怨みを持つ者達が、魔物を倒す方法に習熟し、魔物を殺しうる武器を携えて、魔物を追い詰める。それが《魔物狩人》と呼ばれている人間達だ。
強大な力を持つ“魔物”も彼等だけは苦手にしている。彼等の武器には“魔物”すら傷つける物がある。彼等の追跡を諦めさせるには、人間の手が届かない場所に行くか、返り討ちにするのがいい。
手早く確実なのは返り討ち。しかし人間は殺したくない。
前に追われたときは、“銀なる竜”が住む山脈に逃げ込んで事無きことを得た。あそこは遠いが、並の魔物では生き抜けない過酷な環境は人の手を拒絶する。
でもあそこに行けば、リートとの約束を守れない。
殺すこともなく殺されることもなく、これまでのように森に留まり続けるにはと、“魔物”は考えを巡らせた。
夕方に降り始めた雨は小雨だったが、冷たい、嫌な雨だった。
昨日あんな事があったばかりなので、どの家もしっかりと戸締まりし、室内では明かりを絶やしていない。
滞り無くすんだ葬儀の後、何人かの村人――その中にはリートとウィナの父親もいた――が村長の家に集まって、夜になっても話し合っていた。
“魔物”は静かに村長の家の側に降りた。四つの翼で身体を隠し、気配をひそめた。眼は油断無く見回し、耳をそばだてて中の様子を探る。哀しみを紛らわす酒でも入っているのか、村人の声は大きかった。
昨日や昼間と同じ怒りが誰の言葉からも容易に読みとれる。特に声を荒げているのはやはり、リートの父親だった。
将来のことで父親と喧嘩が絶えないと言っていたリート。しかし最近は根負けして、街に行くのを認めてくれたと、彼女は嬉しさと申し訳なさが混じった声で教えてくれた。
あれは確か、前に会ったときだった。
それから十日ほどでこんな事になるなど、誰も思いはしなかっただろう。
父親は繰り返し繰り返し、“魔物”への怒りを露わにした。
最愛の娘の一人は無惨に殺され、残った一人も目を覚まさない。《魔物狩人》でも軍隊でも呼んで、“魔物”を駆逐しようと訴える。
おおむね周りも賛成しているが、問題はまだ残っている。
金と犠牲者の数だ。
《魔物狩人》とて無償で仕事はしない。命がかかった仕事で、武装を維持するだけでも高い金が必要だ。
軍隊を呼ぶには――被害が少なすぎる。これが村人のほとんどが殺される様な事件なら、この地方の領主も軍を動かすはずだ。殺されたのがたった一人――その人が誰かにとってどんなに大事な人だったとしても――ただの村娘が殺されただけで軍隊は動かせない。せいぜい《魔物狩人》を頼む程度だ。領主の館から遠いこの村では、それすらおぼつかないかも知れない。
話し合いは領主に頼んで《魔物狩人》を呼んでもらう事に決まりかけていく。
小さな村でも、無理にかき集めればそれなりの金は用意できる。足りない分は領主を説得して出してもらって――出来れば折半という形で収めるべく、次第に具体的な方策が議題に上っていった。
“魔物”は昼からずっと《魔物狩人》を呼ばれないようにする案を考えていたが、これと言ったものは思いつかなかった。
ウィナがリートを殺したのは、森に棲む“魔物”では無いと言ってくれれば問題ない。でもそれにはウィナを目覚めさせなければいけない。
村人は雨がやみしだい船で河を下って、街にいる領主に頼みに行くだろう。雨が降って無ければ増水した河でも、彼等は船を出しかねない。
陸路では不便な場所だったことが“魔物”とって幸いした。
雨がやむまでウィナが目覚めればいい。“魔物”の血を触媒にすれば、目覚めない人間を覚醒させることは容易い。それに忌まわしい記憶だけを忘れさせることも。これは前にもやったことがある。
難しいのはどうやってウィナの所まで行くか、だ。
家で寝ているだろうウィナの側には母親がついているはず。そうしている限り、見つからないようにするのは無理だろう。“魔物”は血を触媒に姿を消すことは出来ない。そもそも姿を消しても家には入れない。
村人達の話し合いも一段落しそうだったので、“魔物”は気配を消したままウィナの家に向かった。
家人を一人失ったばかりの家は、外から見ただけで重苦しい雰囲気に包まれているのが分かった。
おおよその見当をつけて、板戸を下ろされた窓の隙間から中を覗いてみる。ランタンの投げかける明かりの下では、椅子に座った母親がテーブルに伏したまま泣いていた。
居間の中央に置かれた四人掛けのテーブルは、普段なら家族が揃って食事をしたり、リートの将来の事で話し合う場所だっただろう。
しかしもう、その光景は無くなってしまった。
いたたまれなくなった“魔物”は、目を逸らして窓から離れた。
“魔物”は家の裏に回って、別の窓から中を覗く。闇を見通す瞳は、獣脂蝋燭一つ無い部屋の中で眠るウィナを見つけた。
リートとウィナは同じ部屋を使っていると訊いたことがある。もう一つのきれいに掃除されたベッドと棚に並んだ何冊もの本は、リートのものだったのだろう。
三回ばかりウィナに心を飛ばしてみるが、目覚める気配はない。
“魔物”は耳を澄ませて周囲を探る。村長の家ではまだ話し合いが続いていた。居間で泣き伏していた母親は泣きやんでいない。この様子ならしばらく両親が部屋に入ってくることは無いはずだ。
ならば板戸をこじ開けようかと思ったとき、小雨では流しきれぬ濃い匂いを“魔物”の鼻が捕らえた。
昨日粉々にしたはずの魔物の匂い。
匂いはさほど強くなくても、間違えはしない。
だが、どうやって生き返ったのか。燃やされて砕かれて、最後は河に流されたのだ。これまで戦ったどんな相手も、そこまでされて生き返った奴はいない。
“魔物”は嗅覚に意識を集中し、匂いの元を辿った。
警戒しながら村の中を進んでいくと、どんどん村から外れていく。匂いがしてきたのは河とは全く逆――共同墓地のほうだ。立ち止まって耳を澄ませば、微かに湿った物音が墓地から訊こえる。
大きく息を吸い込んだ“魔物”は曇天の夜空に吠えた。自分がここにいることを村人に知らしめ、警戒を促すためだ。
もし昨日の魔物だとしても、武器を持った村人が相手なら、そう簡単には殺せないはずだ。どのみちここで闘えば村人の注意を引いてしまう。それなら早くから武器の準備をさせておいた方がいい。
墓地で蠢いていた気配は、吠え声に反応して動きを早めた。
逃がすものか。
粉々にして死なぬのなら、今度は砂粒ほどに砕いてやればいい。
腹の底に燃えさかる怒りを貯めて、“魔物”は闇の中の気配に向けて走った。
墓地の中に入った“魔物”は、自然石で作られた新しい墓石が揺れているのを見つけて、またも怒りをかきたてられた。
リートを殺しただけで飽きたらず、墓を暴いて亡骸までも踏みにじろうというのか。
と、“魔物”は足を止めた。
墓は生き返った魔物が暴いていたのではなかった。赤子ほどの大きさの魔物が十何匹も、墓からわいて出ていたのだ。
小さな魔物は“魔物”の出現に、墓石を倒しつつ蜘蛛の子のように散っていった。
“魔物”は素早く掌を傷つけ、血を触媒に顕現した雷の網を、濡れた地面に叩きつけた。雨水を伝わって大きく広がった雷に、逃げ遅れた何匹かがたまらず跳ね飛ばされた。
運良く雷から逃れた十匹以上の小さな魔物達は、“魔物”から一目散に逃げていく。追撃しようと広げた四つの翼を、数条の赤い光が射抜く。雷をくらった魔物達が逃げるのを諦めて反撃に出たのだ。
それらは大きさの割には手強かったが、皆殺しにするのにさほど手間はかからなかった。しかし、身体が小さな分、昨日の魔物より素早い小さな魔物達は、森の中へ逃がしてしまった。
運の悪いことに、急に強まった雨足のせいで匂いで追うことも出来ない。
牙を噛みしめて腹から溢れそうな炎を堪える。
足元を見ると、掘り返された土が大粒の雨で均されていっている。もう小さな魔物が出てくる様子はない。
生きた人間の身体に卵を植えつける魔物はいるが、亡骸を栄養にするのは屍喰いと呼ばれる魔物くらいで、一昼夜も経った亡骸から増える魔物など今まで訊いたことがない。
永く生きて知識を蓄えている“魔物”も、自分の無知を思い知らされた――が、一つだけ思い浮かんだ事がある。
掌のような魔物は、一昼夜経った亡骸から増えたのではないのかも知れない。
あれは屍喰いと同じく新鮮な死体から栄養を得て増えるはずなのに、リートの亡骸にかかった“魔物”の血が、植えつけられていた卵に影響を及ぼしたのではないか。
その証拠に、あれらは生まれたばかりにしては強かった上、成長しすぎていた。
もしそうなら何てことをしてしまったのだ。
あれだけの数が成長しきったら、殺し尽くすどころか逆に殺されかねない。
数が数だけに村を離れることもできない。どの程度の知能を持っているのか分からないので、不意打ちに留まらず数に任せた一斉攻撃や陽動も考えにいれるべきだろう。
“魔物”がやるべき事は多く、残された手段と時は少ない。
雨音を制して、ざわめきが“魔物”を取り囲む。
振り返ると、村の男達が手に手に武器を構えていた。昨日と違うのは長火筒がないのと、人数が倍以上になっている事だ。
“魔物”は彼等など眼中に入って無いのか、悠然と村へと歩き出す。大量の矢が撃ち放たれても足は止まらない。
村人達の囲いは、“魔物”が進むにあわせて退いていく。弓矢も弩も罵声も怒号も誰も彼も、“魔物”を止めることなど出来はしない。
その歩みが止まったのは、ウィナの家の前であった。
“魔物”の目的を察した村人達は弓矢が効かなければ、と斧や鉈で斬りかかってきたが、そんな物は何の痛痒も与えられない。
人垣を押しのけた“魔物”は扉に手をかける。中から下ろされた掛け金が“魔物”の力に耐えかねて弾けとぶ。
身を屈めて扉をくぐったと同時に銃声。
“魔物”の左眼に熱い塊が飛び込んだ。
半分になった視界の中、奥の扉から半身を出した父親が、銃口から煙をたなびかせた長火筒を構えていた。
やったか、という顔の父親の前で、“魔物”は爪を左眼に差し込んで鉛球をえぐり出す。眼窩に溜まった血を触媒に眼球が復元した。
その様を見ていた父親は腰を抜かして座りこむ。それでも長火筒に弾を込めようと、必死に火薬入れを探っている。
“魔物”の姿が怖いだろうに。逃げ出したいだろうに。子供を殺された怒りだけが彼をこの場に留まらせているのだ。
“魔物”が座り込んだ父親の横を通ろうとすると、足にしがみついてまで奥に行かせようとしない。
しがみつく父親を引きずったまま、“魔物”はウィナの部屋に入った。
蝋燭のほのかな光だけが輝く部屋の中では、母親が覆い被さって残された娘を“魔物”から庇おうとしている。
父親が何か叫んでいるが言葉になってない。たぶん、娘は助けてくれとでも言っている筈だ。
何としてでも娘を守ろうとして、拳で“魔物”を殴り、剥がれるまで爪を立てた。“魔物”はそれを見下ろしながら自分の手首を傷つけ、流れた血を掌にとって父親の指になすりつける。瞬時に血を触媒に剥がれた爪が新しく生えてきた。
“魔物”の行動に驚いた父親は、呆然と自分の指先を見つめる。
その間に“魔物”はウィナの枕元に立ち、掌に溜まった血の残りを、ウィナの額にたらした。
そして心を飛ばして目覚めるように呼びかける。
「あぅ…………」
ウィナの口から小さなうめきが漏れる。
ゆっくり目を開けていくウィナに、“魔物”は背を向けた。
あまりウィナに自分の姿を直視させたくない。忌まわしい記憶は少ない方がいい。
目を瞑って安堵の息を吐く“魔物”の後ろで、両親はやっと目覚めた愛娘をきつく抱きしめた。