魔物と歌
“魔物”は風に乗って流れてくる微かな音に首を巡らせた。
風が奏でる音にしては、高く、低く、何かの韻を踏んでいるようにも聞こえる。
羽ばたくのをやめて風に乗り、耳を澄ませて音の出所を探ると、眼下に広がる草原の向こう、“魔物”の目にも遠くに見える小高い丘の方向から聞こえてくる。
先を急ぐ訳でも行き先のある旅でもない。
気の向くままに四つの翼を羽ばたかせ、気の向いた所で羽を休める。一所に季節が何回も巡るほどいる事もあれば、日が昇ってからたどり着いた場所から日が暮れぬうちに旅立つ事もある。
“魔物”は翼を強く羽ばたかせると、音と雲を運ぶ風に逆らうようにして小高い丘へと向かっていく。
眼下では、一抱えもあるような鼠の家族が、怯えるように寄り添いながら空を往く“魔物”を見上げていた。
丘へと近づくにつれ、音は次第にはっきりと聞こえてくる。確かに、この音は韻を踏んでいる。その音は何かの声のようでもあるが、楽器の奏でる音のようにも感じる。
その音は悲しげであったり、楽しげであったりと、ころころと響きが変わっていく。そしてその音に混じって風が運んできた匂いの中には、確かな魔法の匂いがあった。
“魔物”は意識して匂いを嗅ぎ、草木の匂いに混じる魔法の匂いを判別しようとしたが、これまで嗅いだことのない匂いとしか分からなかった。
“魔物”は長く長く生きている。
人にはあまり使い手のいない血液を触媒とする魔法を操るだけではなく、“銀なる竜”の住処で得た知識の中には、人が使う魔法だけでなく魔物や悪魔の使う魔法も含まれている。その知識を元に旅の中で匂いを嗅ぎ、どんな魔法がどんな匂いを放つかは凡そ知っているつもりであった。
その記憶や知識の中にない、ただし魔法とは分かる匂い。
悪魔の使う魔法のような胸の悪くなる匂いとは遠く離れ、魔物や人が使うにしては澄んだ匂いがしている。
まるで、獣も通わぬ高山の頂で息をしているようだ。
“魔物”は小高い丘の麓へ降りると辺りを見回した。
近くには動物の気配も、動物がいた痕跡も無い。草木には毒があるようにも見えず、まばらに見える木々には実はなっていないようだが、鳥が羽を休めた様子も無い。
勿論、それらを餌とする魔物がいた匂いも残ってはいない。
少し首を巡らせると、木陰に隠れるようにして“魔物”が立って入れそうな大きさの洞窟があった。誰かが隠したのではなく、木々が育つにつれて隠してしまったのだろう。
小さく鼻を鳴らして匂いを確かめると、音に混じって流れてきた魔法の匂いはこの洞窟の奥からしている。
“魔物”は興味が向くままに、翼を畳むと中へと入っていった。
“魔物”は匂いを嗅ぎながらゆっくりと足を進める。闇夜でも見通す目を持っているが、洞窟の中は誰によるものか魔法による薄明かりが残っていて、目を凝らす必要すらなかった。苔もそれらを餌とする虫も見当たらない。
そんな不自然なまでに生き物の気配がない洞窟の中で、“魔物”はうっすらと残る足跡に気がついた。
片足を引きずりながら剣か何かを杖のようにして歩いた跡。その跡は歩幅を段々と小さくしながら奥へと続いていく。もしかしたら洞窟の外にもあったのかも知れないが、風雨でかき消され草で覆い隠されてしまっては気づきようがなかった。
洞窟の最奥、行き止まりはまるで小さな広場のようになっていた。大きめの人家が丸ごと入るような空間の中央には小さな泉が湧いている。
少し目を動かして足跡を追ってみると、右側の壁際に座り込んだ誰かの亡骸まで続いていた。
亡骸は鎧を着たまま壁に背を預けるように座り込み、その手は未だに剣を握っている。まるで今にも起き上がってきそうな姿をしているが、“魔物”の鼻には彼が生きていない事が明らかであった。
生き物の匂いはしないが、腐っている匂いも全くしていない。剣も鎧もうっすらと錆が浮いていても、作りの確かさやさり気なく施された装飾は一目で彼がそれなりの地位や腕を持っていると分かった。
“魔物”が歩を進めると、誰何の声がかかった。
「お前は何……? それ以上、近づくのはやめなさい」
突如沸いた気配に顔を向けると、泉の上に薄衣を着た若い女が立っていた。
人とは思えぬ気配と美しさを持った女は、波紋もなく水上を歩いて近づいてくる。
「不思議な気配がするけれど、お前は何だ? 魔物とも人とも悪魔とも違うようだけれど……」
厳しく問いただすような声は、声音さえ気にしなければ澄んだ声であった。
“魔物”は心を飛ばして答えられる事に答え、その後に気になる事を訪ねると、女は少しだけ眉根に皺を寄せて睨み付けたものの、声は少しだけ穏やかになった。
「言葉も操れないなんて不躾な生き物ね、お前は。ここは……昔々の大戦で、部下に、仲間に裏切られて、ここまで逃げて力尽きた彼の……墓よ」
最後の一言だけ、女は逡巡した。
「私に名前は無いが、その理由はお前とは違う。自然に、世界に、名前を冠して支配しようという試みを私は厭うだけだ。故に私は、お前に名乗る名前を持たぬ」
ああ、と“魔物”は合点がいった。
この女は、人のような姿をしているが人でも魔物でも、ましてや悪魔でもない。この女はこの近辺――もしかしたらここ数日飛んできた地域を司る精霊だ。
精霊は、滅多な事では死なず、老いる事もなく、変わっていく事も殆どないと聞く。ある国を司る精霊がいるとすれば、国の趨勢によって少しばかり変わる事はあるが、またその場所に国が興れば精霊はその国の精霊となり、国が滅びて野に還れば国の精霊は野の精霊となって在り続ける。
精霊を滅ぼすのは、その地域全て、大地も何もかも根刮ぎ抉り取るに等しい行為が必要と言われている。
それほどに精霊は世界の有り様と繋がっていると、以前に“銀なる竜”から聞いていた。
「お前が聴いたのは、彼へ贈った私の歌だ。歌に乗せた忌避の魔力を掻い潜ってここまで来たのは褒めてやろう。だが早々に立ち去れ。ここはお前が来て良い場所ではない」
睨み付けるような視線には強い言葉を裏付けるように、強い拒否の意志がありありと見て取れる。
「彼には長い長い慰めが必要なのだ。それほどまでに、彼の周りを思う心は大きく、それが裏切られた恨みも底が知れぬ」
“魔物”から視線を外し、女は亡骸を悲しげに見つめた。
「人の身とて、これほどまでに恨みを抱えられるとは私も知らぬ事であった。解き放てば、悪魔を呼ぶより大きな災いとなるであろう」
“魔物”は女の視線を追うように亡骸を見つめた。
途端、亡骸の手が動き剣を握る。
そしてうなだれていた首が持ち上げられ、その瞳が“魔物”を見つめた。
それだけで“魔物”は総毛立ち、四つの翼を広げて身構えた。
若い男だったのだろう。
年の頃は二十かそこら、若さがまだ残る顔立ちに表情は無く、大きく開かれた洞のように暗い瞳には歳経た“魔物”を身構えさせる程の、深く深く強い恨みだけが宿っていた。
まるで、悪魔のようだ――“魔物”はそれが人であった事を忘れてしまう程に強く思った。
身構える“魔物”とは違い、女は一つ大きく息をついた。
「少し起きてしまったか……お前が来たからだ」
言い終えた女の喉から、“魔物”が聴いた旋律が流れ始めた。
人に寄らぬ歌。
自然が奏でる音が広間に満ちると、亡骸は剣から手を放し、また首をうなだれた。
“魔物”は心を飛ばして、精霊に訪ねた。
彼が本当に悪魔のようになってしまう前に、自分が彼を討つ事を許して欲しいと。
しかし、やはり女を首を横に振った。
「やはり不躾だなお前は。信じていた者達に裏切られ、このような恨みを抱えてしまった男に牙を剥こうと言うのか。彼に必要なのは、この恨みが消えるほどに、長い長い安寧だ。お前の爪ではない」
咎める言葉に、“魔物”は何も返す事は出来なかった。
辞する旨を心を飛ばして伝え、女と亡骸に背を向ける“魔物”に声がかかった。
「もう二度と、お前はここに来られる事はないだろう。だが、お前に彼を想う心が朝露の雫程でも在るというのなら、彼の恨みが靄のように晴れて消えてしまう事を願ってやってくれ」
それだけ言うと、女はまた歌い始めた。
魔力の混ざった歌は心地よい音であったが、“魔物”に疾く去れと急かしていた。
洞窟の外に出た“魔物”は、翼を広げると大きく羽ばたいて空へと昇った。
振り返って目を凝らしても先ほどまでの丘は霞んでしまっている。しかし耳にはまだ精霊の歌が風に乗って聞こえてくる。
あの精霊は、一体どれほど昔から、これから幾つの季節が巡るまで歌い続けるのだろう――精霊は滅多な事では死なない。老いる事もなく、彼をずっとずっと慰め続けるのだろう。
“魔物”に祈る相手はいない。
だが、悪魔の如く大きな恨みを抱いて倒れた彼に、安らかな時が来る事を願わずにはいられなかった。
それだけを強く願い、この場所の事は忘れようと思った。
それが女の願いでもあり、彼の為にもなるであろう。
“魔物”は歌声に背を向けて、山の向こうへ沈む夕日へと向かって飛んでいった。




