芽吹きまで
“魔物”の鼻では老婆から病の匂いは感じられない。
傷の匂いもしない。
ただ、弱り切った生き物の匂いがするだけだ。老婆が眠りにつくまでは、しなかった匂いだ。
“魔物”が離れていた間に何があったのかは分からない。“魔物”は老婆の横に膝を突くと、掌に爪を立てて握り込み溢れ出る血を老婆の口元に垂らした。
魔力の籠もった“魔物”の血は、傷も病も癒し活力をもたらす。
しかし垂らされた血は、老婆の口に届く前に爆ぜて消えた。
目を見開く“魔物”に、少しだけ目を開いた老婆は苦しげな声で言った。
「ああ……いいんだよ。ちょいとズルしてたんだから、これも仕方の無い事さ……」
消え入るような声を上げながら、老婆は汗の浮いた顔で微笑んだ。
「北の山に棲む竜に会った事は前に言ったけれど、その山の何よりも恐ろしい所は、『刻の巡りがずれている』事なのさ。“銀なる竜”の住処に辿り着けても、山下りるとずれていた刻が元に戻って、雪山の中で老いて死んじまうのさ……だから、その山から下りてこられた人間なんて、数える程か……」
“魔物”は血に濡れた手で老婆の手を握るが、直に血を塗り込もうとしても“魔物”の血は老婆に触れる前に霧のように消えてしまう。
「死なずに下りてくるにはね、“銀なる竜”の血を、分けて貰うしかないのさ……そのせいもあって、あたしゃ……これでも、人の倍も生きてるのさね。それが、あたしの、ズル、ってやつさ……」
言われて気付くが、この街の朽ち果て方は老婆の見かけから考えると進みすぎていた。“魔物”は自分がいつから生きているのかも知らず、刻の流れは旅の最中に山々の色でしか気にしていない。
人の歳を気にするような営みをしていなかったから、老婆から言われるまで気付かなかった。
「でも、もう、生きるだけ生きて、こうして……故郷にも戻れたんだから、本当に、良い人生ってやつだったよ」
皺だらけの小さな手が“魔物”の手を弱々しく握った。
「ありがとうねぇ……あんたのおかげだよ。あんたがいなかったら、とてもじゃないけれどこうして皆の墓を作るだなんて出来なかったよ」
“魔物”はまるで戦いの最中のように素早く考えを巡らせた。
老婆の体が“魔物”の血を弾くのは、単純に“銀なる竜”と言う魔物の血が与えていた魔力の方が遙かに大きいからだ。そしてその魔力が枯渇しそうな今になっても、“魔物”の血が持つ魔力を上回っている。
この差を覆す一番簡単な方法は、“魔物”の血をより多く、魔力の総量を上回るほどに与えれば良い。
しかし刻の巡りをずらす程の魔力の差を覆すには、どれだけの血が必要になるかは見当も付かない。
“魔物”は空いた手の指先を揃えると、鋭い爪の先を自分の胸に当てた。
だが今まさに胸を貫こうとした“魔物”の手を老婆の言葉が止めた。
「やめとくれよ……あたしが死ぬのは、寿命って奴だよ。あんたが無茶するような事じゃないんだよ」
老婆の手は、握ったままだった“魔物”の手を力なく撫でた。
「魔物のあんたが、そこまでしてくれるのは嬉しいけど、それよりも……あんたじゃなきゃ頼めない事があるのさ……頼まれてくれるかい……?」
“魔物”は一も二もなく頷いた。
日が傾く頃、“魔物”は老婆の亡骸を抱えて街外れの墓地へとやってきた。
眠るように亡くなった老婆の顔は、ほんの少し口角が上がり、安らかな笑みを浮かべているようだった。
“魔物”は声一つ立てる事なく穴を掘り、老婆の亡骸を穴の底に横たえる。
土を埋め戻し、老婆の体が次第に隠れていく間、瞬き一つしなかった。
真新しい墓に石を一つ置き、そして小さな木を一つ植えた。
これが老婆の頼み事の一つだ。
自分が死んだ後、街の皆と同じ場所に埋葬して欲しいと、老婆は言い残した。木を植えたのは“魔物”なりの手向けであった。
老婆がいなければ――もし“魔物”一匹だけであったら、街の人達を今のように埋葬する事は出来なかっただろう。
木の一本くらいは手向けても街の人達も許すはずだ。
そして“魔物”は老婆が書き残した羊皮紙を手に昼夜の別無く、街の到る所にまだ遺されていた遺骨を埋葬していった。
休む事無く、声も無く、墓を掘っては遺骨を納めていく。
たった一匹で。
“魔物”は倒れた石壁の上に腰をゆっくりと下ろした。そこは老婆の墓の傍らで、“魔物”と老婆が作った墓地を見渡せる場所でもある。
老婆が書き残した遺骨は全て墓に納めた。
数はゆうに千を越えていた。
“魔物”は休まず遺骨を墓へと納め続けていたが、それでも老婆と一緒にいた時よりは手が遅かった。
分かる限りの遺骨を墓へと納めるのは、老婆に頼まれた事の一つだったが、これで老婆に頼まれていた事は全て果たした。
獣に掘り返されないように老婆の亡骸は深く埋めたが、それでもまだ“魔物”が離れている隙に寄ってくる獣や魔物はいる。
しかし“魔物”がこうして墓の傍らにいる限り、例え飢えていてもそこらの獣や魔物はまず寄ってこない。“魔物”と戦ってまで墓を掘り返そうとするくらいなら、もっと容易く狩れる相手を選ぶ。
石壁の上に腰を下ろした“魔物”は、時折視線を動かすだけで、翼を畳んだままそこから動かなかった。
周りの山の色が紅く染まり、風が冷たくなっていっても“魔物”は動かなかった。
一面が雪で白く染って体に雪が積もっても、“魔物”は身動ぎ一つせずに見つめるだけであった。
やがて雪が溶け、芽吹きの季節を迎えて、やっと“魔物”は四つの翼を大きく開く。そのまま軋む体を確かめるように動かすが、その瞳は一点を見つめたまま動かない。
その視線の先には、老婆の墓に植えた木があった。
そこに咲いたばかりの小さな花は、まるで老婆の髪の色のように真っ白な花だった。安らぐような花の匂いを大きく吸い込むと、“魔物”は翼を羽ばたかせて空へ舞い上がった。
またいつか、草木がこの街を覆った頃、老婆の墓に手向けた木が大きくなった頃にここへ来よう――“魔物”はそんな事を考えながら、また当てもなく風に乗り、次のねぐらを探しに飛んでいった。




