魔物と魔物
もう一匹の“魔物”は、一瞥するとゆっくりと口を開いていき、その奥に揺らめく炎が輝きを増していく。
“魔物”は自分を見つめるもう一匹の“魔物”を前にして、その正体を考えるより先に体が動いた。
身を屈めて一瞬で距離を詰めると牙の生えた口を塞ぐように顔を掴み、勢いのままに外に押し出した。
赤子を守るために外へと追い出そうとする“魔物”と踏みとどまろうとするもう一匹の”魔物”、二匹の爪が石畳を削る音が霧の街に響く。
家の外に出た瞬間、掴んだままの首をへし折るように上へと捻るが、同時にもう一匹の“魔物”は青白い炎を細く絞って吐き出した。
“魔物”の右腕は肘まで消し飛び、あと一歩で首を折るには到らなかった。
だが相手の攻めは炎だけでは終わらない。
“魔物”の脇腹に爪が突き立てられると、もう一匹の“魔物”は尾を振り子のように大きく振って反動をつけて食い込んだ爪を押し込み、肉を大きく抉り取りながら振り切った。溢れる血を触媒に体を治そうとした瞬間、尾の追撃が脇腹の傷を打ち据え、鋭利な鱗が更に抉り取る。
血を吐きながら石畳へと倒れる寸前に、“魔物”は翼を大きく羽ばたかせながら地面を蹴って飛び上がった。
“魔物”はかつて“銀なる竜”が言っていた事を思いだしていた。
“魔物”に同族はいない。
この世界に生きるものの殆どは種族という括りの中にあるが、幾つかのものは何かの拍子に産まれた一体だけの生き物である、と。
“銀なる竜”は“魔物”を「唯一なるもの」と呼び、この世で一つだけの存在である事を教えてくれた。
同族は滅びたのではなく、最初からいない事も。
今分かるのは、赤子のいる部屋の中へ炎の息を吐こうとしたと言う明確な殺意。もし“銀なる竜”も知らぬ同族であったとしても、許せる事ではなかった。
もう一匹の“魔物”は翼を広げて飛び立つと、真っ直ぐに突っこんでくる。腕と腹の傷を治す間を与える気は無いようだ。
相手はまだ街を背負う位置にいる。雷の触媒にする血は十分に流れているが、下手な手を打てば街を巻き込む。
“魔物”はぎりぎりまで引きつけると、顔を狙う爪を左腕で捌きながら血を触媒に右腕の傷から雷を顕現。傷口ごと相手の顔に叩きつける。
至近距離にしか届かない雷だが、その分だけ威力は高い。
凄まじい放電に伴う反動で“魔物”の右腕は肩の近くまで吹き飛ぶが、もう一匹の“魔物”も大きく吹き飛ばされる。
顔を押さえて吼えていたもう一匹の“魔物”は、明かな殺意を込めた視線で“魔物”を睨みつけた。多少の加減はしていたが、顔に直撃させても焦げすらしていない。
霧の中でも霞むことなく相手が見えるのは僥倖であった。
血を触媒とする魔法を全力で打ち合えば、辺りへの被害はどれほどになるか分からない。しかも霧で相手が見えにくくなれば尚更だ。
そこでふと気がつく――
少し離れただけで周囲の家の形すら霞んで見えなくなり、濃い所では自分の手すら見えなくなりそうな霧の中で、もう一匹の“魔物”の姿は鱗一枚までしっかりと見えている。
“魔物”は脇腹の傷に手を当てると、溢れる血を手に取り霧の中に撒き散らす。続けて四つの翼を強く羽ばたかせると血を触媒に突風を顕現させ、もう一匹の“魔物”へと叩きつけた。
相手は両手で顔を庇いながら翼を羽ばたかせて、嵐のような風に逆らい留まろうとする。
“魔物”とてこの突風でどうにかなるとは思っていない。ただ一つだけ、確かめたい事があった。
霧を引き裂くように顕現した突風に、もう一匹の“魔物”の姿が揺らぐ。それを見た“魔物”は突風に飛び乗って一気に間合いを詰め、足の爪を叩き込む。
が、“魔物”の爪は何の抵抗もなくもう一匹の“魔物”の体を通り抜けた。
“魔物”の予想は当たった。
突然現れたもう一匹の“魔物”は、港町を包む霧と密接に関係する幻の類だ。しかもただの幻ではなく、見た者に傷をつけ殺しうる、呪詛のような幻。
殺された人達の服が傷ついていないのも、幻であるなら当然の事であった。
“魔物”は血を触媒に魔法そのものを消しさる事は出来ないが、幻の触媒が霧であるならば打てる手はある。
“魔物”は右腕の傷を抉って血を翼に塗りつける。そして強く羽ばたきながら血を触媒として幾つものつむじ風を作り出して街中にばらまいた。
幻の“魔物”はそうはさせまいと、細く絞った炎の息を繰り出すが、そこかしこのつむじ風で霧が巻き上げられる中では“魔物”に届く事なく消えてしまう。
魔法で作られたつむじ風は二十を超える。幾つものつむじ風が街から霧を吸い上げ散らしていくと、次第に霧に隠されていた人々の姿が現れてくる。
まだかなりの人々が生き残っていた事に“魔物”は安堵し、血の付いた翼をもう一度羽ばたかせて幻の“魔物”へ向けてつむじ風を叩きつける。
幻の“魔物”は身を翻して逃げようとするが、幾つものつむじ風が巻き起こす乱れた風に体を形作る霧を薄められ、一声だけ叫びを残して跡形も無く消えていった。
当面の相手はいなくなったが、これほど大規模な魔法を使うとなれば生半な相手では無い。
人にせよ魔物にせよ悪魔にせよ、元を絶たねばつむじ風が無くなれば、すぐにでもまた港町は霧に包まれるだろう――
と、不意に聞こえた大きな破砕音に目をやると、船着き場に留まっていた帆船の数倍はある巨大な二枚貝のような魔物が、灯台をへし折り、船を押し潰しながら上陸しようとしていた。
巨体を誇る魔物は何度も目にしていたが、これほどのものは見た事がない。
霧が晴れ夕陽に照らされる殻は淡い紅玉のような色合いをたたえているが、その縁を沿うように並んだ十を超える目が辺りを見回し、隙間からは骨のように白い肉の管が二本伸びていた。
大木のような管の片方からは吐息のように霧の塊を吹き上げていたが、“魔物”が街中に放ったつむじ風がそれを散ら巻き上げていく。もう一本の管は長く伸び、街を蹂躙するように動き回っていた。
相手は“魔物”の姿を認めたのか、街中に伸ばしていた管の先を振り上げると、その体躯からは信じられない早さで繰り出してくる。
だが“魔物”はそれを易々と避けると、すれ違い様に爪を立てて切り裂いた。大きさこそかなりのものだが、手応えはかなり柔らかい。人が振るうナイフでも切り裂けるであろう強さしかなく、“魔物”の爪の前では薄衣を裂くようなものだった。
透明な体液を撒き散らしてのたうつ肉の管から、ぼろぼろと何かの塊がこぼれて街路や屋根の上に落ちる。
人の死体だ。
頭を潰された子供、首を切られた老人、様々な死体が肉の管からこぼれて落ちる。
魔物の中には人を食うものは多いが、この二枚貝の魔物は死体を食うようだ。その死体を大量に得る為に、霧を吐いて幻を使って人を殺す。
この体躯と魔法からすれば、小さな街なら一晩もあれば滅ぼし食べ尽くすだろう。
だが“魔物”は目の前でそんな事を許すつもりは無かった。
“魔物”は右腕の傷から血を拭い、それを触媒に雷を顕現させて左腕に纏わせる。いくら固い殻で身を守っていようと、二枚貝である以上は隙間を空けなければ何も出来ない。それに一度殻の中に入り込んでしまえば、あとは周りの事を考えずに済む。
雷を纏わせた爪を構え、“魔物”はつむじ風の間を縫うように飛び迫った。
二枚貝の魔物は殻を閉じようとするが、間に合う早さではない。それを悟ったのか、霧を吹き上げていた管を“魔物”へ向け、魔力の籠もった霧の塊を撃ち出した。
だが“魔物”はその直撃を無視して左腕に纏った雷を投げつける。球状の雷は過たず殻の隙間に飛び込み炸裂する。
かなりの魔力を込めた雷だが、如何せん相手が大きすぎた。殻の隙間から煙を立ち上らせて二本の管が苦しげにのたうつが、まだ殺すには到らない。
“魔物”は更に魔力を込めた雷を顕現すべく、四つの翼を大きく広げて脇腹の傷から血を拭い――その瞬間、二つの翼が切り飛ばされた。