霧に沈む
水鳥たちの騒ぐ鳴き声で“魔物”は目を醒ました。
うっすらと瞼を開けると、夕焼けに赤く染まった空が見えた。すっかり寝入ってしまった“魔物”は横になったまま手足と尾を伸ばして大きくあくびをした。
喉から出る唸りに水鳥たちは更に騒ぐが、それも仕方の無い事であった。“魔物”の気配で近寄らないのならまだしも、あくびとは言え唸り声を聞いても住処を主張する水鳥たちに“魔物”は心の中で謝った。
住処に上がり込んだのは“魔物”の方だ。日が沈みきる前に今日のねぐらを探そうと体を起こすと、飛び込んできた景色に目を見開いた。
港町が丸ごと家々の形が分からなくほど濃い霧に覆われ、まるで街の代わりに巨大な綿がそこに鎮座しているかのようだった。
霧は海風が吹いても端の方が少したなびくだけで動こうとしない。見れば何羽もの水鳥が、鳴きながら霧の外を飛び回っているが、その中に入ろうとはしていない。
“魔物”は爪を立てて両手を握りこむと、流れる血を触媒にして掌に耳を顕現させ、四つの耳を澄ませて様子を探る。
呼吸を止めて水鳥の鳴き声の更に奥にある音に集中すると、街中からかすかだが確かに人の声――悲鳴が聞こえた。それも一つや二つではない。街の至る所から聞こえてくる。
“魔物”は翼を広げて崖から飛び降り、その勢いのまま滑空して霧の中へ飛び込んだ。
霧は自分の手も見えなくなりそうなほどに濃く、まるで真っ白な闇のようだ。
“魔物”はそこかしこから聞こえてくる悲鳴に辺りを見回すが、奇妙な事に人の姿が全く見えない。
辛うじて見えた家の壁に爪を立てて貼り付き耳を澄ますが、足音、悲鳴、倒れる音が聞こえる方を凝視しても人影すら見えない。
霧の中は濃い魔法の匂いに満ちていて、鼻がおかしくなりそうな程だ。魔法の匂いに紛れてしまって、人がいる事は分かってもどこにいるかが全く分からない。普段匂いで周囲を探る事に慣れきっていた“魔物”にとって、鼻が効かなくなるのはかなりの痛手だった。
“魔物”は牙を軋らせながら、ゆっくりと街路に降りた。
事ここに到っては、人に姿を見られても仕方が無い。
意を決し、ゆっくりと一歩を踏み出した“魔物”の体に見えない何かがぶつかり、魔法の匂いの中でも分かる、血の匂いが漂った。
翼を広げて跳び退る目の前で、まるで霧が固まっていくように人の姿を取っていき、見る間に船乗りらしき男の姿が現れる。喉を押さえた指の隙間からは鮮やかな血が溢れて、男の足下に血だまりを作っている。その顔は恐怖に引きつり口の端からは血の泡を吹いていたが、しかし“男は魔物”の事を見ていなかった。男は目を見開き、自分と“魔物”の間辺りを凝視している。
男は“魔物“が手を伸ばすより早く、膝から崩れ落ちるように石畳へと倒れ込んだ。
“魔物”は男に駆け寄りながら手を強く握り込み、溢れる血を触媒に男の傷を癒そうとしたが、傍らに膝を突いて傷に手を当てた時にはもう、男は事切れていた。
“魔物”はそっと男の体を道の脇に横たえ、見開いたままの目を瞑らせて両手を組ませる。この男の宗派ではないかも知れないが、“魔物”が知っている弔い方はこれしかなかった。
男は船乗りらしく日に焼けていて荒事にも慣れていそうな体つきをしているが、それが腰のナイフすら抜かずに殺されている。首を狙うとなれば職業暗殺者の類を思いつくが、男の傷は刃物による物では無かった。
喉笛は何かに噛み切られたように裂けている。虎や獅子、狼のような牙を持つ猛獣か――もしくは魔物による傷だ。
だが傷そのものは致命的であっても比較的浅い。
男を殺した相手は噛み方が甘かったか、それとも口そのものが小さいかだ。男の体には他の傷は無く、噛み損ねたなら喉への一撃だけで攻めの手を止めた事になる。口が小さいとしたら、それでも肉を食いちぎれる顎を持っている事になる。
何にせよ、男は“魔物”の前に現れた時点では立っていられた。そして“魔物”は男を殺した相手を見ておらず、その相手についたはずの返り血の匂いも感じていない。
“魔物”はよく知っていたが、牙で喉笛を噛み切れば溢れた血は口に流れ込みやすい。それが致命的な傷ならば少なくとも血を浴びずに済む事はない。
返り血を殆ど浴びずにこのような傷を与えうる魔物は、“魔物”の記憶には無かった。
せめて鼻が効けばと、軋む程に牙を噛みしめた“魔物”は立ち上がると、耳を澄ませて一番手近な悲鳴へと駆け出し――突然現れたものに躓いて蹈鞴を踏んだ。
石畳に爪を立てて踏みとどまった“魔物”が振り返ると、そこには小太りの女がうつぶせ倒れている。
確かに数瞬前までは何も無かったが、思い返すよりも早く“魔物”は倒れた女の横に跪いて体を起こす。だが女は先ほどの男と同じように顔に恐怖を張り付けたまま、腹からおびただしい血を流して死んでいた。
まだ女の体には温もりが残っており、頬を伝った涙も乾いていない。腕に引っかかったままの篭の中にはパンや茹でた野菜と魚を和えた料理の入った器があった。倒れた拍子に器は割れていたがまだ料理からは湯気が漂い、香辛料の匂いが濃い魔法の匂いの中でも感じられた。小太りの女が作ったものか、それとも買った物かは分からないが、誰かの夕食になるはずだったのだろう。
“魔物”に気付かれず、ほんの十歩と離れていない場所で死んでいたと言う事実に歯噛みする。
女の顔を撫でるように眼を瞑らせた“魔物”はふと、女の腹から滲む血に違和感を持った。“魔物”は手で服についた血を軽く拭うと、どこにも服の破れた所が見当たらない。しかし血の量からすれば傷は一箇所とは思えない。
“魔物”は爪で服を少し切り裂いて直に傷を探す。
すると数カ所を、恐らく刃物か鋭く長い爪で刺されたらしき傷がすぐに見つかるが、“魔物”の爪が服を裂くまで服には傷一つなかった。
魔法を使えば服や鎧を傷つける事なく相手を殺す事は出来る。となれば、牙だけでなく魔法にも用心しなければならないが、魔法の匂いで満ちた濃い霧の中ではどちらも分かりにくい。
下手に動けば不意を打たれるが、それでも
“魔物”は壁から壁へ飛び移るようにして街中を駆け回る。
霧の中には、目には見えはしなくてもまだ人がいる――例え見えなくても触れる事は出来るので“魔物”が路地を駆けては、見えなくなっている人達を跳ねとばす可能性があった。
見えなくても、触れれば何かに襲われる前に助けられるかも知れない。“魔物”は一縷の望みに賭けた。
今は鼻に頼るのを止め、全神経を耳と目に集中させて辺りを生存者を探していた“魔物”の耳に、激しい泣き声が届いた。
壁を蹴り、泣き声の元へ向かう“魔物”の視界には、どんどん死体が現れてていく。一目見て死んでいる事が分かるものもあれば、断末魔の痙攣を起こし、目の前で死んでいくものもいる。
一つ分かるのは、見えた時にはもう――手遅れだという事だ。
自分への怒りとこの事態を引き起こした何かへの怒りが、炎となって食いしばった牙の間から漏れる。
激しい泣き声は扉が半開きになった家の奥から聞こえる。“魔物”は扉を荒々しく開けて中に飛び込んだ。
そこには部屋の奥に設えた小さな小さな寝台を守るように事切れている、一組の男女の死体があった。泣き声の主は寝台の上で、幼いながらも両親に起こった異変を感じているか火が付いたように泣いている。部屋の中まで立ちこめる霧は外よりは薄く、寝台の上からつり下げられた木の玩具や、寝台の横にある棚には畳まれた新しい赤子の服が置かれているのが見えた。
この二人は寝台の上で泣き叫んでいる、まだ歩く事も出来そうにない赤子を守ろうとしたのだろう。父親は片手に銛が握られていて、もう片手は寝台の手すりを固く掴んでいる。母親はその横で寝台に覆い被さるようにして、自分を盾に子供を守ろうとしたまま死んでいた。
“魔物”は夫婦の目を瞑らせると、二人の手を繋ぎ合わせて寝台の隣に横たえた。夫婦の顔には恐怖もあったが、最後の瞬間まで家族を守ろうとする決意が見て取れた。
“魔物”は怒りのあまり、頭から血の気が引いていくのが分かった。
この赤子は、両親の名を口にする前に、その両親を失ってしまった。物心ついた時に顔を思い出せるかどうかも分からない。
何かが目の前の赤子から両親を奪ったのだ。
途端、家の奥から走り出てきた小さな影が寝台の横にある棚に飛び乗り、“魔物”は咄嗟に爪を振り上げたが、すぐにその手を止めた。そこに見たのは、長い尻尾を膨らませ毛を逆立てて威嚇の声を上げる一匹の黒猫だった。
“魔物”の気配や匂いは動物を遠ざける。威嚇される事はあるが、繋がれていないのであれば殆どの動物は逃げる事を選ぶ。
これまで“魔物”が生きてきた中で、猫に立ち向かわれたのは初めての事だった。
黒猫は歯を剥き出し“魔物”を睨みつけて威嚇の声を上げたまま、じりじりと泣き続ける赤子の近くへと寄っていく。
あと一歩でも赤子に近づけば、飛びかかってくるだろう。
子供を守ろうとして死んでしまった夫婦に代わって、黒猫は幼い命に近づく相手に立ち向かおうとしていた。
“魔物”は翼を小さく畳み、すり足で少しずつ赤子と黒猫から離れていく。下手に近づいて刺激するよりは、魔法で一人と一匹を守る壁を作った方が安全であろう。
何が起こるか分からない場所で連れ歩く訳にはいかない。
数瞬思案を巡らせていた“魔物”は石畳を掻く音に振り向き、そこにいたものを見て呆気にとられた。
戸口に立つものは人には似ているが、四枚の翼と太い尾を持ち、手足の先には鋭利な爪を生やし、体は灰色の鱗で覆われていた。耳まで裂けた口には剥き出しになった牙、息と共に青白い炎が漏れ、黒い髪の毛の奥からねじくれた二本の角が生えている。
半ば前髪に隠れているが、人のような二つの目が“魔物”を見据えていた。
そこにいたのは、紛うことなき“魔物”自身だった。