第一話・喰い留める男
昼下がりのカフェ、マクスは時間を持て余していた。
仕事のために街にやってきたものの、来て早々に相棒から待機してろと言い渡され、初めて訪れた場所なので行くあてもなく、仕方ないのであちこち歩き回ってようやく今ゆっくりできそうな場所へたどり着いたところだ。
客は誰もいないので、四人用の席を広々と取って座った。卓上には大きなソーセージが三本、塊のままのハム、オイルサーディンの缶詰、貝のスープの缶詰、一口大のビスケットが十二枚、ゆで卵三個、バナナひと房、りんご二個、皿にうずたかく積み上げられたマッシュポテトの山、そして大きなビン入りの牛乳――所狭しと食料が並んでいる。一人分にしては多すぎるその量をうんざりするような目つきで眺めてから、マクスは傍のカウンター席に座る若い男の店員に肩をすくめてみせた。
「俺だってどうかと思うけどな。ま、生きてりゃ腹が空く、仕方ねぇさ」
店員が吐き気を催したようなうめき声で応えてきたので、マクスはくっくっくと笑い、右端のハムから制圧を開始した。テンポよく胃の中に放り込みながら、外のテラスに繋がる窓を横目で観察する。
ひび割れの多いアスファルトの路面、ビル壁のあちこちに施されたスプレーアート、道端に打ち捨てられたガラクタやゴミ、お世辞にも綺麗な景観とは言えない街だ。だが、どこか生まれ育った故郷に似ているな、とマクスは懐かしさを覚えていた。嫌って、憎んで、苛まれて、出て行った後に少しだけ後悔の念を覚えさせるような、そんな街に思えた。
食料を八割がた片付けたところで、マクスは思わず舌打ちした。通りを歩く人の中で、一際目立つスキンヘッドの大男と目が合ってしまったのだ。すぐ逸らそうと思ったが、既に遅い。通りの反対側にいた大男は、ゆっくりとした足取りでまっすぐこちらへ向かってくる。傍にいた仲間たちも呼応するように一斉に足並みをそろえて男の後を付いてきた。
「飯くらいゆっくり食わせろってんだよ」
面倒で厄介な状況になりそうだ。ため息を吐いて、マクスは残りの食料を口に詰め込み、牛乳で一気に流し込んだ。
そうしている内にテラスにたどり着いた大男が、マクスを睨みつけながら、ドン、と両手でガラス戸を叩いた。付いてきた仲間連中も思い思いにガラスに手を打ち付けてくる。一触即発の状況にも焦ることなく、マクスは立ち上がって身支度を整え始めた。
「悪いな。ちょっと場所を借りるだけのつもりだったんだけどよ」
店員が抗議するように両手を振り上げる。もう一度「悪い悪い」と謝ってから、マクスはテーブルの脚に立てかけてあった得物を拾い上げた。赤いグリップに銀色のヘッド、T字型に枝分かれした両端はそれぞれ大きなへら型の刃先とくちばし型の鋭利な刃先になっている。登山用具のピッケル、或いは工事現場で使うつるはしに似た道具だった。違う点があるとすれば、柄に取り付けられた銃の引き金のようなつまみくらいだ。
【アグニ】、製作者が付けた銘が記されたグリップ部分を両手でしっかり握り締めると、マクスはカウンター席に座る――正確には、カウンターテーブルに胸部を縫い止められてもがいている――店員に向き直った。
「ほんと悪いな、せめてゆっくり寝かしつけてやるよ」
そしてくちばし型の刃先をそのまま一息に店員のこめかみへ突き刺した。嫌な音を立てながら刃は半ばまで潜り込む。明らかな致命傷だ。だが、
「ヴァァァァァァァ!」
脳まで達する一撃を受けながら、店員は目を見開いて絶叫した。その表情には理性や正気、およそ人間味と呼べるものは一切残っていない。マクスへの、いや、目の前の生物への衝動的な欲求だけが現れていた。
人ならざるモノへ驚くことなく、そして躊躇なく、マクスはグリップの引き金を引いた。
じゅうううぅぅぅ! 店員の頭の傷口から煙が立ち昇る。【アグニ】の刃先が超高熱を発して皮膚を、脳を、頭蓋骨を灼いているのだ。
マクスは灼熱の刃を一気に振り抜いた。血と脳しょうを飛び散らせながら店員の頭部は両断され、頭の半分を失った身体は二、三度痙攣して、やがてぐったりと動かなくなった。
「今日はもう閉店だな。あいつらには俺がそう伝えとくよ」
カウンターテーブルと店員の身体とを縫い止めていた、小型の銀の槍を引き抜きジャケットの内側にしまうと、マクスはテラス側へ視線を戻した。
ガシャアアアアアアアン!!
と、同時に、盛大な破裂音が店内に響き渡った。倍の数に膨れ上がった連中の圧力にガラスが耐え切れず一斉に割れたのだ。なだれ込んできた連中は勢い余ってガラス片の上に倒れ込んだが、まるで痛がる様子もなく、いや、そもそも意に介することもなく、ふらふらと立ち上がってきた。
その連中は、一言で言えば生きた死体であった。何の感情も読み取れない虚ろな目、生気のない青白い肌、言葉にならないうめき声を上げ、緩慢な動作で迫ってきている。よく見れば誰も彼もが血まみれで、身体からは微かな腐臭を漂わせている。
屍兵。マクスと相棒の所属する機関において連中はそう呼ばれている。あらゆる生物を媒介とする特殊なウイルスに感染し、自我を失い、目的のために歩かされ続けている。脳が完全に破壊されない限り、身体が腐敗しようと内蔵が損傷しようと動き続ける彼らが、生者に会った場合に取る行動は一つしかない。
即ち、喰らう。
「ヴァォォ」
「グアッ! ヴァッ! ヴォォッ!」
「ヴアァァァッッ!」
威嚇と言わんばかりに絞り出される屍兵たちのうめき声に対し、マクスは薄笑いを浮かべながら【アグニ】を斜に構えた。
「がっついてるところ悪いけど、もう閉店だってよ。だからとっとと……」
屍兵の一体、最初に目が合った大男が血まみれの口元を大きく開き、周囲を先導するように両手を突き出してのろのろと突進してくる。合わせてマクスは深く深く息を吸い込み――
「還って寝てな!」
吐き捨て、飛び出した。
姿勢を低くしてヘラ型の刃先の一撃で、まず大男の左足をへし折る。体制を崩し下がってきたスキンヘッドめがけて反対側のくちばし型の刃先を突き立て、床まで一気に叩きつける。
グリップの引き金を引き、灼きながら刃先をねじり込むと、頭部を破壊された大男は「ヴァ」という声だけを残して動かなくなった。
マクスは潰れたスキンヘッドから素早く刃先を引き抜き、ヘッド部分の腹で次に襲いかかってきた屍兵の胸を突き押した。後ろに控えていた他の屍兵数体もろとも倒れ込んだ数秒の隙に、左側から迫ってきていた屍兵のこめかみを突き刺し砕く。
「おらよっ!」
一番近い屍兵へ転がっていた椅子をぶつけて牽制しながら、マクスは打ち倒した屍兵の頭から【アグニ】を引き抜いた。
ほんの少しできた間で、店内を見渡す。カフェに入り込んでる屍兵の数は残り十体、外には恐らくその倍以上いるだろう。キリがない、が、仕方がない。マクスは再び深く息を吸い込む。
シンプルなプランを立てる。入口を開ける手間は間違いなく面倒だ。ならば突破は割れた窓からがいい。そこまでに倒す屍兵の数は数体で構わない。後は追撃を振り切るまで全力疾走、狭い路地を使えばおよそ数百メートル、どうにかなる。
覚悟を決めマクスは息を止めた。同時に、近寄ってきていた屍兵の一体を蹴り飛ばす。その反動のままに割れた窓の方へ向かって走り出す。
ルート上には三体いた。一体目は肩への一撃で近くのテーブルに叩きつけ、返す一撃で二体目の顎をかち上げる。カウンターまで吹き飛んだそいつに構うことなく、マクスは三体目の掴みかかってくる腕を振り払った。そのまま懐に入り込み、体当たりで壁に押し付け、ジャケットの中から銀の槍を取り出し、口腔内へ突き刺した。
「こんなもんしか出せなくて悪いが、ま、ゆっくり喰っていってくれ」
頭を縫い止められた屍兵はより一層苦しそうなうめき声をあげたまま、両手を突き出してもがいている。マクスは追ってきてる屍兵に近くのテーブルを投げつけてから、窓を抜けてテラスへ躍り出た。
外に出た瞬間、うめき声のコーラスと虚ろな視線が一斉にマクスに襲いかかった。通りにはざっと見渡しても四十体以上は屍兵が集まってきている。予想よりも面倒なことになってるらしい。
「どう見ても定員オーバーだ。そんなに喰いたきゃよその店行って……」
「命令だ、マクス」
唐突に鼓膜を震わせた冷徹な低音声に、マクスは一瞬、緊張感を忘れて怒鳴り返した。
「いきなりかよ! 今それどころじゃねぇんだ、聞こえんだろ? ウーウーアーアーうるせぇだろ?」
「貴様の現在地は把握している。そこから南に三百メートルの建物へ向かってもらう」
「だから、今取り込み中というか、屍兵の群れに囲まれてんだよ、人気者なんでな。テキトーに散らさないと後々面倒……」
「この地区の人間が住む公営団地、そこがコミューンの中心だ。目標は建物を拠点にしている。侵入し、索敵しろ」
こめかみの集音マイク越しに送ったマクスの抗議は届いていないらしく、イヤホン型通信機の向こうから届く声は淡々と説明を続けている。
「だから命令はここを乗り切ってからで……」
「前進だ、マクス。それ以外にするべきことはない」
「あのなぁ」
「予定時刻まで残り二時間だ。貴様が今命令を実行できないならば、私が行く」
マクスは思わず歯ぎしりした。徐々に迫ってくる屍兵の集団を眺め、わずかな逡巡の後、ため息混じりに応えた。
「俺が行く。あんたは備えてろ」
「そうか。次の命令があれば連絡する」
それだけ告げられて、通信は切れた。
「あークソっ! ホントにもうあの女は……ッツ!」
不意に走った激痛に顔を歪めると、背後まで近づいていた屍兵が肩に爪を突き立てていた。腕をへし折り引き剥がしてから、マクスは吐き捨てた。
「前進しろって言われたんでな。俺はもうお暇させてもらうよ」
テラスに集まっていた屍兵を押し出し、空間を作って歩を進める。背後から襲ってくる相手には蹴りを入れ、さらに進む。
血飛沫とうめき声が飛び交う中、マクスは次会った時に相棒に言ってやりたい文句の内容を考えながら、ひたすらに前進を続けた。
マクスへの通信を切ってから、スカーレットは淡々と準備を開始した。
まず、名前と同じ色の腰まで届く長髪を紐で括る。周囲の屍兵は排除してあるが、万が一のために動作が取れるよう、ジャケットは脱いで床に敷く。その際、護身用の拳銃とナイフだけは取り出して手の届く位置に置いておく。
床に設置した黒塗りの狙撃銃――グリップに描かれた銘は【ドゥルガー】――のスコープを覗き、狙撃ポイントまでの距離を確認する。覗き見ている光景にタイミングや角度、あらゆる条件を乗せてイメージを投影し、引き金を引くジェスチャーを繰り返す。
あとは集中力の持続と栄養だ。スカーレットは尻のポケットから取り出した小さなケースから錠剤をそのまま口に落とし込む。ガリガリと錠剤を奥歯で砕き、喉の奥に流し込んでから、スカーレットは深呼吸を開始した。
スー、ハー、スー、ハー、スー、ハー。徐々に呼吸のリズムを安定させていく。次第に意識が研ぎ澄まされていく。
後は状況が整うだけだ。スカーレットは静かに待ち続ける。
「おおおおっらぁ!」
背後から襲いかかった屍兵を蹴り倒し、マクスは近くの狭い路地へ逃げ込んだ。道の先は金網のフェンスで行き止まりになっていたが、都合がいい、とマクスは笑みを浮かべながら路地を駆けた。
『ヴァァァァァァッツ!』
後ろから迫ってきているうめき声の数は十や二十ではきかない。ならば――フェンスに到達する直前でマクスは跳躍した。二メートル以上ある金網のへりに指をかけて身体を持ち上げ、一息にフェンスを飛び越えて路地の向こう側に着地した。
『ヴァアアァァァ』
数秒遅れてフェンスにたどり着いた屍兵たちが、網に身体を押し付けてもがいていた。恨めしそうに伸ばした腕とうめき声にマクスは手を振って応える。
「お前ら息臭いぞ、寝る前に歯は磨いとけよ」
フェンスに背を向けて、周囲を確認する。路地の向こうに何体か歩いているのは見えるが、とりあえず近くに屍兵はいないようだ。マクスは安堵の息を吐いて、目線を上げた。
マクスの正面に目的地である公営団地が立っている。距離はおよそ数十メートル、少し寄り道はしたが、きちんとたどり着けたようだ。
ジャケットの内ポケットから懐中時計を取り出して現在時刻を確認する。予定時刻まで残り一時間四十分、急ごう、マクスは直線上の敵の数を数える。見える位置で確実にこちらを捉えてきそうな屍兵はせいぜい四、五体といったところか。障害物はないので駆け抜ける分には問題ない。プランはシンプルなのが一番だ。
「真っ直ぐ行って殴り込むとしますか」
深呼吸を二回して、マクスは全力疾走を開始した。
路地から抜け出た瞬間、周辺を徘徊する屍兵の視線が一斉に突き刺さる。意に介さず、マクスは走る。
最初に襲いかかってきた屍兵を【アグニ】のヘッドで突き飛ばす。次にルート上で這いつくばっていた屍兵のハゲ頭を踏み超え、その反動を借りて更に加速する。ルート上に立ちはだかってきた若い女の屍兵へ、姿勢を低くしてタックルをかまし、そのまま肩に担ぎ上げて後ろに投げ落とす。団地の手前で待ち受けていたメガネの優男の屍兵には、仕方がないので足を止め、一撃で一息に頭を打ち砕いた。素早く周囲を確認するが、他の屍兵はのろのろと向かってきてはいるものの、こちらまでたどり着くには時間がかかりそうだ。マクスは呼吸を整えながら余裕を持って団地を見上げた。
「到達、っと」
でかいビルだ。しかし、外から見ても分かるほどに一つ一つの部屋は狭く、蜂の巣のように押し込められている。規模は違うが故郷の街で住んでいた薄汚れたアパートを思い出させて、マクスは苦笑した。シャツなどが干したままのベランダがいくつか見られる。あそこまで引きずり出せばいいのか、相棒に確認しようとしたがやめた。適切なポジションを抑えているだろうし、こっちの動きは確実に把握している。問題があれば向こうから連絡してくるだろう。
今考えるべきことは一つだ。マクスは極めて慎重な歩みで、入口をくぐってロビーに入り込んだ。
「ヴァヴァヴァァァ!」
すぐ脇から聞こえてきたうめき声に振り返ると、近くの窓から屍兵の老人が顔を押し付けるようにしてマクスを威嚇していた。恐らくそこは管理事務所で、彼は管理人なのだろう。マクスは軽く会釈を返した。
「どーも、ちょっとお邪魔しますよ。一時間ばかしね」
近くにドアはあるが、わざわざ出てきて出迎えるつもりはないようだ。手を振って通り過ぎ、廊下を渡って階段へ向かう。
階段を上りながら作戦開始前に与えられていた資料の内容を反芻する。
今回の目標は拠点型、段階は『拡散』、警戒心はまだ高くないはずだ。このタイプが建物を拠点とした場合、多くは潜るが、この団地に地下階層はない。習性上、元々住んでいた場所に潜んでいる可能性が高い。となれば、場所を把握するポイントは一つ、屍兵の数だ。
目標、それはウイルスの発生源となる生物である。これと接触した他の生物は屍兵となり、その屍兵たちが更に他の生物と接触し、屍兵を増やしていく。そして屍兵たちは感染源を中心に一種のコミューンを形成する。感染と増殖、コミューン内の生物を巡るサイクルの中でウイルスは変異を繰り返し、やがて一つの結果へ至る。
マクスとスカーレットの任務はこの発生源を殺し、コミューンを瓦解させることである。
一階と二階にはほとんど屍兵の気配が感じられなかった。三階、四階、階段の手すりの影から覗くように廊下を観察するが、徘徊する屍兵はいない。五階、六階――
「ヴァヴォァ」
七階に続く階段の踊り場に屍兵が一体座り込んでいた。まだ小学生くらいの男の子だ。両足の膝から下がない。マクスと目が合うなり歯を剥いて食いつこうとしてきたが、ろくに動けないので、ただ両腕をじたばたさせるばかりだった。
「いい子だから大人しくしてろよ。すぐにぐっすり眠れるようになる」
マクスの言葉に応えるように、
「ヴァアアアアアアアアアアアアアアアアアッッッ!」
屍兵が絶叫する。一泊おいて背後で扉の開く音がいくつも聞こえてきた。上からもうめき声と足音のハーモニーが響いてくる。挟み撃ちか。マクスはグリップを力強く握り直してから深呼吸した。
「もてなし、歓迎、ありがたいね。んじゃ、賓客として一丁、パーティーを盛り上げてやりますか」
得物を構えたまま跳躍するようにしてマクスは階段を駆け上がる。踊り場で挟まれれば不利だ。だが最後の数段を踏む前に足が止まった。二百キロはありそうな肥え太った巨漢の屍兵が最上段を塞いでいたからだ。
「ヴァヴォファ」
裂傷で頬までめくれ上がった唇を精一杯に開き、巨漢は噛み付きにかかってくる。マクスは這うような低い姿勢でこれを迎え撃った。太い刃先でアキレス腱の辺りを削ぎ落とし、体勢の崩れた巨漢のでっぷりしたぜい肉をつまんで階下へ引きずり倒す。ついでに転がっていく尻へ蹴りを入れ、勢いを借りて階段の上まで跳んだ。
巨漢はもう立てない。せいぜい上手いこと足止めになってくれ、と手を合わせてから、マクスは七階の廊下に向き直った。
七階の狭い廊下にひしめき合う屍兵の数はおよそ三十、肉体の腐敗度合いはどいつもこいつも軽度なものだ。おそらく一番使い物になる連中だけが集まっているのだろう。
厄介だ。そして――マクスは心臓の内側から湧き出してくる感情に呼応するように口の端を歪め、歯を剥き出しにして笑った。
「沸けよ、お前ら。さんざん騒いで楽しんだら、後は泥のように眠らせてやる」
『ヴァァァァァッ!』
屍兵の群れが両手を突き出し、血まみれを口角を広げ迫り来る。マクスは【アグニ】を構えたまま一気に距離を詰め――。
「なんてな」
一番近い部屋へ開けっ放しのドアから飛び込んだ。目標との接触までにこれ以上体力は消費できない。追ってくる屍兵を閉め出し、マクスは部屋の中を見渡す。
狭い室内はあちこちモノが散らばっていたり、それらに血が付いていたり、悪臭も酷かったが、とりあえず屍兵は見当たらない。
安堵の息を漏らすと同時に空腹が襲ってきた。舌打ちして、マクスはキッチンを物色し始める。冷蔵庫の中身はほとんど空だった。僅かに残っていた食料品も外の連中と同じくらい腐っていて食えたものじゃない。だが引き出しにチョコレートとビスケットが残っていた。ごまかしにはなる。片手に持てるだけ持って無造作に口に放り込みながら、マクスはベランダに出た。
この団地はやや古い作りだが非常用設備は整っている。部屋は全てベランダで繋がっていて、蹴破り戸だけで仕切られている。
ドアに張り付いた屍兵が群がって壁やらガラスやらを叩きながらうめき声を張り上げている。しばらくは張り付いていてくれるだろう。その間に目標を見つけ出して引きずり出す。マクスは最初の戸を斜めに引き裂いて蹴破った。
開けた穴を抜け、マクスは素早く隣室を見渡した。こっちも散らかっていて分かりにくかったが、それらしいモノは見当たらない。次の部屋へ向かうべく、マクスは再び【アグニ】を振るう。
破壊、索敵、破壊、索敵――四つ目の部屋を覗きんだマクスは警戒心と共に動きを止めた。人の声が聞こえる。緊張で乾いた喉につばを流し込んで、半開きのガラス窓から部屋の中へと侵入する。
『政府は今回の○○地区における一連の騒動について、テロの可能性が高いとの見解を発表していますが、依然としてその詳細は明らかに……』
リビングの壁に沿うようにして置かれたテレビでアナウンサーが時事ニュースを読み上げている。車椅子に座った住人が一人、そのテレビの前でくつろぐように佇んでいた。
背もたれから伸びる頭は真っ白で、肘掛けに置かれた手はしわだらけだ。老人、結構な高齢だろう。だが――マクスは【アグニ】をしっかりと握り直した。老人の皮膚は外で会った屍兵とは明らかに鮮度が違う、腐敗していない。
きい、と音が響く。しわくちゃの手が車輪を動かし、ゆっくりと反転しようとしていた。老人がマクスの方へと徐々に向き直ってくる。
正面から見た老人の顔はひどいものだった。黄色く濁った左目は既に瞳がなく、残った右目も焦点が合っていない。痩せこけた頬には誰に突き立てられたのか、ナイフが刺さったままで、その傷と口の端から血がぼとりと滴り落ちていた。半開きの口内には犬歯と欠けた前歯くらいしか残っていない。そして青白い皮膚はところどころ腐敗し始めていた。
「……ァァァァッ」
うめき声は哀れなほどかすれている。老体で感染したせいでほとんど動けないようだ。やはり屍兵だった。だが、マクスにとってそれは既にどうでもいい事に過ぎなかった。彼の視線は一点、老人の膝の上に注がれていた。
そこに居たのは一匹の『犬』だった。前足だけで半身を持ち上げ、知性を感じさせる視線をマクスに注いでいる。短い体毛に短い足、恐らくはこの家で飼われていたコーギー犬で、老人は飼い主なのだろう。恐らく、そう恐らくは、だ。その『犬』の全身は鮮やかな金色の体毛に覆われ、両目は身につけた首輪と同じ真紅に輝いていた。そんなコーギー犬などいるわけがない。
『犬』へ向けて睨み返しながら、マクスは慎重な仕草で耳の通信機に触れ、一言だけを相棒へ送った。
「発生源と接触、引きずり出すから後は頼む」
「了解した」
通信を切って、マクスは【アグニ】を構えた。『犬』は興味深げにそれを見ているものの、じりじりと間を詰めていくマクスに対してまるで動こうともしない。
注意深く慎重にマクスは歩を進め、刃先の当たるギリギリの距離で【アグニ】を振りかぶった。一撃で致命傷、とはいかないだろう。だが、動きを止めれば後は相棒がどうにかしてくれる。さらに半歩踏み込み、溜めた力を一気に解き放つ。
渾身の一撃、刺さる直前、確かに『犬』は「笑って」いた。
「…………ッヅッ!?」
肉を突き破ることなく、くちばし型の刃先は『犬』の牙によって受け止められていた。再度力を込めてもそれ以上刺し込む事ができない。
『犬』の姿は、既に先ほどのコーギー犬の原型をとどめてはいなかった。全身の筋肉は異常なまでに膨張し、数瞬前よりも体格が二回りは肥大化している。特に凄まじいのは【アグニ】を受け止める首で、ネコ科の猛獣並みに太く変貌している。
瞬きするほどの速度での変態、戦慄と共にマクスは確信した。段階が『拡散』から『選択』に移行しつつある。
ここで仕留めなければならない。マクスは【アグニ】の引き金を引く。一瞬で超高熱に達した刃先で牙を灼き、口内を切りさ――
「はあ?」
唐突にマクスは宙を舞っていた。【アグニ】ごと投げ飛ばされたのだと気付いた時には、背中からリビングのテレビに叩きつけられていた。
衝撃と激痛で息が止まる。飛びそうになる意識をなんとか繋ぎ留め、【アグニ】を支えにマクスは必死に起き上がった。睨みつけた先では、元の姿に戻った『犬』が、後ろ足で耳の裏をかいていた。事も無げ、といった様子だ。
「……じいさん、ちょっと躾が……なってねぇぜ。そこのクソ犬はよ!」
吐き捨てて飛び出す。今度は下からすくい上げるように【アグニ】を振るう。その一撃はあっさりとまた牙で受け止められたが、問題ない。マクスはグリップに添えていた右手を放し、ジャケットの袖口に忍ばせていた銀の槍で間髪入れずに目を狙う。
瞬間、【アグニ】を受け止めた『犬』の口の端が持ち上がった。確かに「笑って」いた。
足場を蹴り、軽く飛び上がった『犬』は空中で器用に身を翻し、マクスの槍をかわしてのけた。同時に【アグニ】の刃先から牙を放し、柄を踏み台にしてマクスの方へと駆け上がる。
まずい、そう思った時にはマクスは既に喉を噛みちぎられていた。吹き出した血による喪失感と痛みにぐらついた頭に、『犬』の後ろ足が放った蹴りがトドメを刺した。首がもげそうな程の衝撃に吹き飛ばされ、マクスはガラス窓を突き破ってベランダにたたき出された。
「カッ…………ハッ!」
仰向けに倒れ込んだマクスの全身を激痛が駆け巡る。耐えながらどうにかもたげた視界に『犬』を映す。『犬』はマクスの方など見ていなかった。目を細め、大口を開けてあくびすると、老屍兵の膝の上で丸くなってしまった。
「移り気なクソ犬……め。愛想がねぇペットは嫌われる……んだぜ」
悪態を吐きながらも、マクスは戦力の差を嘆いていた。屍兵とはモノが違う。いや、そもそも人を含めたあらゆる生物とは種として違うのだ。
イニシエーター、創世の権利を得た生物。人の世を終わらせる生物。たとえまだ未完成でも、人間一人にどうにかできるわけがないのだ。
不意に何かを引きずる音が聞こえてきた。瞳だけを動かして見ると、マクスが通ってきた蹴破り戸のルートから屍兵が二体、こっちに向かってきていた。すぐ立ち上がらなければ、そう思った瞬間にまた別の方向から激しい破壊音が響いた。隣室の、マクスが来たのとは別方向の蹴破り戸が破られ、中年女の屍兵が一体、這うようにそこを抜け出てきた。
「…………ハッ、ハハッ! クソ、ッタレだ、な。全く」
もうすぐ屍兵がマクスの元へたどり着く。感染と捕食、二つの本能に突き動かされた連中にかかれば、ものの数分でこの身体は食い尽くされるだろう。
指一本動かすだけで激痛が走る。多分逃げようとすればもっと苦しいのだろう。やめておけ、と記憶の中の誰かがマクスに囁く。クソッタレの人生なんぞ放り出しちまえ、と優しく語りかける。
中年女の屍兵がマクスのすぐ脇で牙を剥いた。顔からいくのか。勘弁しろよ、とマクスは笑みを浮かべた。
「血がかかっちまうだろうが」
右手に忍ばせた銀の槍を、マクスは女屍兵の額に突き立てた。動く度に背中に刺さるガラス片の痛みをこらえながら、万力のように力を込めて深々と刃をえぐりこませる。振りかかった返り血に目を細めるも、躊躇なく槍を貫通させた。
「あんたキスが下手そうだからよ、遠慮しとくわ」
動かなくなった屍兵を押しのけ、マクスは歯を食いしばりながら身体を持ち上げた。どうにか手放さずに済んでいた【アグニ】を杖がわりに、苦痛を押し殺して必死に立ち上がる。
別方向から来た屍兵が掴みかかってきたのを、マクスは【アグニ】で押し返して引き金を引いた。超高熱のヘッドが衣服を灼き、皮膚を灼く。
「ヴァァァァァッ!」
「熱くねぇか? 痛くねぇか? 羨ましいな。けど、そんな身体はごめんだな」
喋る度に喉の傷から血が滲む。かすれた声は実際は既に言葉として成立していないかもしれない。それでも、マクスはしゃべり続ける。
「俺は『人間』だからな。痛かろうと苦しかろうと、もがいている内は『人間』なんだよ!」
灼き貫いた胸部から、すくい上げるように【アグニ】の刃先が屍兵の頭を縦に裂いた。マクスはそのまま後ろから続いてきた屍兵の脳天にへら型の刃先を打ち下ろし、叩き潰す。
痛みと疲労でふらつく身体を引きずるようにしてベランダから舞い戻る。リビングの中央、全く変わらない位置で老屍兵の膝の上で寝ていた『犬』は、再び対峙したマクスへと「笑い」かけた。
「主賓が呑気に寝てんじゃねぇよ。パーティーはこれからだぜ、犬っころ」
【アグニ】を構える。多分、まともに振れるのはあと一撃だ。マクスは攻撃のためのプランを思い浮かべた。シンプルかつ、できることだけをする。それが相棒が彼に教えた任務の心構えだ。
『犬』が立ち上がる。その身体は一瞬にして変態し、金色の猛獣と化した。
「行くぞ、クソ犬」
吐き捨ててマクスは【アグニ】を振りかぶった。『犬』は牙を剥き待ち受けている。
だが、振り上げた【アグニ】を空中に放り投げ、マクスは拳を固めて『犬』に打ち下ろした。虚をついた一撃、にも関わらず『犬』はひるむこともなく拳に食らいついた。
「ッヅゥゥゥゥゥ!」
鋭利な牙が肉に食い込む感触と、皮膚を食い破られる激痛とで泡を吹きそうになる。だが、それでもマクスはにやり、と笑い返した。
「餌は選ぶべきだったな」
口内でマクスは今まさに噛みちぎられようとしている手に力を込める。手の平の中に握りこんでいた槍を、舐め回してくる舌めがけて思いっきり突き刺した。
『ヴヴヴヴヴヴヴヴワワッッッ!!』
叫び声と共に『犬』は手を吐きだした。その、苦しげな横っ面へめがけて、マクスは残った手でキャッチした【アグニ】を振るう。
一瞬、我に返った『犬』はかわそうと身を翻したが、渾身の一撃はいち早くその頬へ到達した。
『ギャウン!』
『犬』は悲鳴を上げながら割れたガラス窓からベランダへと吹き飛んだ。ようやく届いた。マクスは崩れ落ちそうになる身体を無事な手と【アグニ】で支えながら、満足げにつぶやく。
「お前も痛いか?」
応えるように『犬』はすぐさま身を起こした。血まみれの顔面にはさっきまであった余裕が失われ、敵意がほとばしっている。弾かれたように後ろ足で跳びだし、マクスの喉もとめがけて一直線に向かってくる。
笑みを浮かべたまま、特に身動き一つせずにマクスはこれに相対した。反撃の代わりに一言だけ送る。
「索敵完了、後はよろしく」
その瞬間、スカーレットはイメージしていた。
対象までの距離、対象の移動速度、射角、障害物の有無、それら無数の歯車ががっちりと噛み合うタイミングを繰り返し思い描いていた。
吸い込まれるようにそこに現れた敵めがけて、ただ引き金を引く。
愛機【ドゥルガー】は微塵のブレもなく正確にその殺意を弾丸に伝え、勝鬨の火を吹いた。
眼前まで迫っていた『犬』は、後頭部に受けた衝撃で方向を変え、マクスを通り過ぎて床に転がり落ちた。
あちこち痛い身体をどうにか動かして振り向くと、『犬』は床の上で四肢を痙攣させながらもがいていた。マクスは淡々と言葉をかける。
「そいつはただの銃弾じゃない。俺の相棒が撃った特別製だ。お前はもう助からないぜ」
その言葉に反抗するように『犬』は震えながら立ち上がってきた。牙を剥き「笑う」。マクスは続けた。意味はないだろうが、言わずにはいられない。
「お前らイニシエーターは肉体を瞬時に変態させることができる。進化と維持、だったっけな。お前らの根幹であるウイルスのその機能をもってすれば、どんな致命傷でもあっさりと直しちまうだろうな」
再び動き出そうとしたところで、『犬』の顔が苦痛に歪んだ。後頭部の傷口から赤黒い染みが全身に広がっていく。
「だがお前に撃ち込んだそいつは、お前らの保有するウイルスよりも凶暴でな。接触した対象を短い時間で骨の髄まで食い殺す。もっとも、他に感染しない分お前らよりはマシだと思うけどな」
金色の体毛が抜け落ち、口内からは血が滴り落ちる。ついに倒れ伏した『犬』は、苦痛に苛まれながらもじっとマクスを見ていた。いや、正確にはマクスの左手――切断寸前にも関わらず、【アグニ】のグリップを握り締めている左手をだ。
「……気になるか? まああれだ。痛いだけマシってやつだよ。お前の屍兵みたいに何も感じなくなっちまうと『人間』じゃなくなっちまうからな」
血を吐いた。そのあとに『犬』は「笑い」、二度と動かなくなった。
亡骸を一瞥してから、マクスは身体の痛みに顔を歪めながら歩き出した。外にはまだ屍兵が残っている。帰るまでが任務だ。相棒ならそう言うだろう。
「……よう、冷徹女。無事でなによりだな」
「貴様は負傷しすぎだ。訓練が足りんらしいな」
街の外れ、封鎖された地区の端にあるビルの入口で待っていた相棒は、通信の時同様に淡々とマクスの働きを評した。
「対象の進化が想定以上だったんだよ。あれは俺でなくても大変だったろうぜ」
「ならば対処を私に任せろ。貴様の判断ミスだ」
間髪入れずに返されて、マクスは反論する気を失くした。確かに、この相棒が出ていれば早かったかもしれないが、それだけはご免だ。
「もう予定時刻だ。撤退するぞ」
「ああ、分かってるよ」
答えてから、マクスは一度だけ街の方を振り返った。ここは故郷によく似ていた。出て行かざるを得なかったあの居場所に。
「……急げよ」
「これでも急いでるんだよ」
踵を返した、その背後、遠くから爆発音が鳴り響いた。二人とも意に介すことなく歩き続ける。
街は残った屍兵ごと焼却される。ウイルスを跡形もなくなるまで消し飛ばし、全ては跡になる。それは二人にとっていつも体験している、ただの後始末の風景だ。
進化生命体イニシエーターと、立ち向かう人類の機関、これは滅亡と創世を賭けた戦いの物語である。