終章
終章
菩提樹の葉が、風に優しく揺れている。満開の、花の香りも漂ってくる。雨期もそろそろ終わるインドの午後である。
ムムターズは、道叡の手で、あれほど見事だった栗色の長髪を短く切ってもらった。ヴェールは、顔を隠すのではなく、髪を隠すために後ろに被っている。そして、質素な白い羊毛の粗布を着ている。どこから見ても、立派な女スーフィー修行者である。
その姿で、巨大な菩提樹の背後にある、ナーラーヤナの墓に詣でている。ニザームッディーンとチャイタニヤ、そして道叡がその後ろに控えている。道叡は、すでに編み笠に杖の旅姿に身を整えている。さらにラズィーヤ、ヤークート・ハーン、オズダマルの姿も見える。オズダマルは、涙に暮れている。
「やはり、行くのか、ムムターズ」
諦めたのか、晴れ晴れとした顔でラズィーヤが訊いた。
「はい、スルターン。ムムターズは参ります。そして、きっとナーラーヤナ様に相応しい妻として、ここに帰って参ります」
可憐で健気な笑顔で、ムムターズが言った。ムムターズも、ようやくあの快活さを取り戻してきてはいる。しかし、やはりその顔から、深い憂いは去らない。
空は、青く晴れ渡っている。しかし、雨期らしい雨は何度も降り、今年の実りはもう約束されたも同然だった。行き交うナーガプル村の人々の顔も明るい。
ナーラーヤナの墓は、すでに雨を降らせた聖者の聖廟として、近隣の人々が詣でる場所となっている。イスラム教徒、ヒンドゥー教徒の区別無く、人々は拝みにやってくる。墓の下には、赤、黄、オレンジ、菫色、色とりどりの花が溢れんばかりに供えられている。
そこへ、あの、三人の聖者に祝福された赤ん坊が、カンチャン婆さんに抱かれてやってきた。カンチャン婆さんは、墓に詣でに来たのだ。
「ほれ、ここに眠られていらっしゃるのが、雨をもたらす聖者、ナーラーヤナ様じゃぞ。素晴らしい奇跡を起こす聖者様じゃぞ」
カンチャン婆さんは、ようやく皺くちゃの猿から、人がましい顔になってきた赤ん坊に話しかける。赤ん坊が、ふわぁ、と眠そうにあくびをした。聖者に対する敬意もなにも、あったものではない。その様を見て、ムムターズがくすりと笑った。道叡も、痣のある逞しい顔で破顔した。チャイタニヤも、にやにや笑っている。
ニザームッディーンは、まだマリフリヤが去らない。悟っても、マリフリヤとは関係がないらしい。悟った瞬間には、ナーラーヤナを失ったことからくるマリフリヤを克服したと思ったのだが、そうでもないようだ。宇宙の根源的な〝苦〟であるマリフリヤ。それを乗り越えてこそ悟りがあるのではないか。そうも思ったが、それはそれでまた別のことのようである。恐らく、ナーラーヤナの死に対する哀しみが癒えぬ限り、マリフリヤは去らないのだろう。つまりは、ニザームッディーンの顔に、屈託のない笑顔が戻ることは永遠にないということだろう。ムムターズの晴れやかな笑顔の陰に潜む、透明な水のような哀しみが、永遠に消えることがないように。
「さあ、では行こうか」
道叡が、言った。
「はい」
ムムターズは、ラズィーヤに向き直った。
「では、参ります。スルターン。くれぐれもニザームル・ムルク様の陰謀には、お気をつけ遊ばしてくださいませ」
「うむ、分かった。娘よ。そなたも、息災でな」
「ムムターズ、旅では、水が変わると聞きます。気を付けて行っておくれ。そして、必ずここに帰ってきておくれ」
オズダマルが、涙ながらに訴える。
「はい、お母様」
答えたムムターズは、くるりと振り返り、塚に向き直った。そして、一歩一歩愛おしむように、別れを惜しむようにゆっくりと塚を登った。
そして、頂上から突き出た竹に、心を込めて、口づけをした。
一瞬、静寂があった。
不意に、竹の中から、美と愛の女神ラクシュミーへの賛歌が一節聞こえてきた。
ムムターズは、歓びに顔を輝かせた。その頬が薔薇色に染まり、目に一滴涙がたまった。その涙を拭い、愛おしそうにその竹に寄り添い、想いを込めてもう一度口づけをする。そして、弾むような足取りで塚から降りてきた。
「では行け。我が娘よ。そして、必ずここへ帰ってくるのだぞ」
ラズィーヤの言葉に、ムムターズが可愛らしい笑顔で応えた。
「はい、スルターン。私は必ずここへ帰って参ります」
そして、大きく息を吸い込んで誇らかに叫んだ。
「ナーラーヤナ様の妻として」
了