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賛歌  作者: ヒデヨシ
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第五章

第五章 賛歌



 雨期になった。

 雨は、降らなかった。

 空には、雨雲の一片(ひとひら)さえなく、太陽がじりじりと照りつけた。大地は乾き、生類も渇いた。地面からはゆらゆらと陽炎が立った。その陽炎のように、人心は揺らいだ。

 不穏な噂が立った。祟りだ。呪いだ。神罰だ。流言飛語が飛び交い、つまらない讒訴が、ラズィーヤの元にも届くようになった。

 一週間、十日間、雨は降らなかった。人心は、ざわめいた。

 ラズィーヤの眉が曇った。



 月が、ナーガプル村の外れの砂漠を、皓々と照らしていた。その月の下で、ナーラーヤナが座っている。側には、愛用のサラスヴァティー・ヴィーナが置かれている。ナーラーヤナの左隣には、道叡が座っている。ナーラーヤナも道叡も、結跏趺坐に足を組んでいる。二人の顔には、不思議な静けさが浮かんでいる。

 雨期に雨が降らず、衆生は渇いている。その憂いが、道叡にもナーラーヤナにもないではない。だが、そのことと、修行とは別だ。二人は、今干魃の恐れから遠い地点にいる。

 月の光は、涼しげだが、砂漠は酷暑に侵されている。湿度が高いので、昼の暑さが逃げないのだ。それなのに、雨は降らない。だが、その暑さの中で、ナーラーヤナも道叡も汗一つかかずに座っている。

「道叡様」

 キャラバンのものだろうか、駱駝の嘶く声が遠く微かに聞こえるだけの、不穏なまでに静かな夜に、ナーラーヤナの声が響いた。

「空とは、畢竟何でござりましょう」

「そうよな」

 道叡の重々しい声が答える。

「空とは、畢竟慈悲ではなかろうか」

「慈悲、でございますか」

 ナーラーヤナは、得心がいったような、いかないような、微妙な顔をした。

「慈悲だ」

 道叡が重ねて言った。

「スーフィーのファナー(自我消滅)は、かなり空に近い境地だと思う。だが、ファナーは、それだけでは自己完結しない。ファナーは、現世(うつしよ)に戻ってその意識を持続するバカー(維持)を伴って、初めて完全な境地となる。バカーは何のために必要だ。ナーラーヤナ」

「世の人々を救うため、でございますか」

「世の人々、と言ってしまっては、空の概念を完全には表せないだろう。やはり、一切の衆生、生きとし生けるもの、いや、その辺に転がっている命を持たぬ瓦礫(がりゃく)の果てまでが救われなくてはならぬ。救わずには置かぬ。それが、バカーの意味だろう」

「ブラフマンと一致した後も、人間の意識は、この現世(うつしよ)に帰ってこなければなりませぬ」

「そうだな。アッラーも、ブラフマンも、やはり慈悲が神として顕現したものだろう」

「では、シャイターン(サタン)も、アッラーの慈悲の表れなのでございましょうか。また、シヴァやクリシュナのリーラ(遊戯)も、慈悲の顕現なのでございましょうか」

「分からん」

 道叡が、吐き捨てるように言った。

「わしに分かることは、シャイターンや、神のリーラによって、お前とムムターズのような数奇な運命に導かれたものをも救うのが、慈悲であり、空なのだろう、ということだけだ」

「生きとし生けるものを救うこと。……ムムターズ様を救うこと」

 ナーラーヤナが、呟くように言った。その声は小さすぎて、さすがの道叡にも聞こえないようだった。

「そう言えば、以前道叡様は、禅宗でも悟後の修行が大事だとおっしゃいました。あれも、慈悲を行うためでございますか」

「うむ」

 道叡は深々とうなずいた。そして、目に謎めいた光を浮かべて言葉を継いだ。

「だがなあ、ナーラーヤナ。仏教には、梵天勧請(ぼんてんかんじょう)という言葉がある」

「梵天勧請、でございますか。梵天というのは、確かブラフマーのこと」

「うむ、そうだ。釈尊はなあ、最初に菩提樹の下で悟られたときに、この(ダルマ)はあまりにも難しく、聴いて理解できる者はおるまい、と思われたのだ。だから、誰にも説法しないでおこう、と決心された」

「え、でも、釈尊が説法しなければ、一切衆生は救われないままでございます。それでは……」

 ナーラーヤナが、絶句した。

「それでは、釈尊の慈悲は」

「うむ、その時の釈尊には、慈悲の心がなかったのであろうな」

 道叡が、こともなげに言った。ナーラーヤナは、今度こそ絶句し、言葉も声も出なかった。しばらくして、ナーラーヤナはようやく言葉を紡いだ。

「慈悲の心なくして、悟ることはできるのでございますか」

「うむ、仏教では、独覚、ということを言う。師もなく一人悟り、誰にもその(ダルマ)を告げないで寂滅していく者だ。この者たちには、慈悲の心はない。ただ、己の悟りのみがある」

「それは、宗教として、正しい道にあるものなのでございましょうか」

 その問いかけには答えずに、道叡は言葉を継いだ。

「釈尊も、その独覚になろうとなされたのだと言う。そして永遠の涅槃(ニルヴァーナ)に入られようとなされた。そのときに、梵天――お主たちの言う、男性の人格神ブラフマーだな――それが、釈尊に一切衆生のために法を説いて下さるようにと頼むのだ。それを、梵天勧請というのだ。釈尊は、そのブラフマーの願いに答えてかつての修行仲間に法を説かれた。初転法輪(しょてんぼうりん)という」

「はい」

 聞いているナーラーヤナの目には、真剣な光が宿っている。

「わしはなあ、ナーラーヤナ。慈悲の心なくして悟ることは、できても無意味だと思っておる」

「はい」

「だからなあ、さっきわしが言ったのとは逆に、釈尊が、菩提樹の下で悟られたときには、やはり慈悲の心をお持ちだったのだと思う。だが、あえて梵天が勧請するのを待ったのだな」

「あえて待った」

「仏教にはなあ、ナーラーヤナ、卒啄同時という言葉がある」

「卒啄同時、でございますか」

「うむ、卵の中から雛が生まれるときに、雛が卵の殻を内側から嘴でつつくのだそうだ。すると親鳥が、その卵を外からやはり嘴でつつくのだそうだ。それが同時に行われると、無事雛は卵から孵ることができる。それと同じように、教える師の教えの機と、学ぶものの学ぶ努力の機とが揃わないと、弟子は悟ることができないという言葉だ」

「教える側と、学ぶ側の機が揃う……」

「それと同じように、釈尊も、学ぶ一切衆生の機が現れるのを待ったのではなかろうか。その機が、梵天勧請として現れたとき、初めて初転法輪をなさったのではなかろうか。わしはなあ、ナーラーヤナ、梵天が勧請したとき、釈尊は内心小躍りして喜ばれたに違いないと思うのだ。だから、釈尊は、最初から慈悲の心を持っておられて、その慈悲の心を発揮される機会を待っておられたのだろうと思う」

 ナーラーヤナは、黙したまま考え込んだ。そして、ナーラーヤナは、傍らのヴィーナを結跏趺坐した膝の上に据えた。軽く調弦して、即興的に弾き始める。深く、内省的な真夜中のラーガ(旋法)、ラーガ・マールカウンスだった。ナーラーヤナの胸に秘めたムムターズへの想いが、嫋々として流れ出した。と、同時に、ナーラーヤナの神秘への思いも、力強く溢れ出した。道叡が、篳篥(ひちりき)を取り出してそれに和した。ナーラーヤナも、すぐにそれに反応して女々しい感傷よりも、男らしい意志力を感じさせる響きをより強く出すようになった。神秘への憧れ。一切衆生を救おうとする願い。祈り。山川草木悉有仏性。瓦礫(がりゃく)の果てまで救おうとする祈り。

 しばらく、二人はそうして合奏していた。

 と、月の光が一段と明るくなった。

 ナーラーヤナがふと気がつくと、右隣にもう一人の男が座っていた。ナーラーヤナのものとそっくり瓜二つのサラスヴァティー・ヴィーナを弾いている。その面差しが、どことなくナーラーヤナに似ている。しかし、ナーラーヤナよりもずっと線が太い男らしさを感じさせる。だが、ナーラーヤナはその男がやって来た気配に気付かなかった。いつの間に来たのだろう。この見晴らしのいい砂漠で。

 道叡もその男に気付いたようだ。訝しそうに男を見る。してみると、道叡も男の気配に気付かなかったようだ。ナーラーヤナが男の方を向いて、男をもう一度見た。そして、はっと息を呑んだ。

 ラクシュマナ・ダッタだった。

 アリー・マルダーンとの死闘の果てに、ヤークート・ハーンにとどめを刺され、亡くなったはずの父ラクシュマナ・ダッタが、今側にいてナーラーヤナと道叡と合奏しているのだった。

「父上」

 ナーラーヤナは、思わずヴィーナを弾く手を止めて、ラクシュマナ・ダッタの姿を見詰めた。道叡は、ではこれがナーラーヤナの父か、と得心がいったような顔をした。しかし、亡くなったはずの者が、今ここで自分たちと合奏している、という奇怪な事実には一向無頓着な様子である。その、世の常ならぬ出来事を平然と受け入れているのだ。

 ナーラーヤナと道叡のそれぞれの感懐に、我関せず、といった風をして、ラクシュマナ・ダッタは黙々とラーガ・マールカウンスの力強い旋律を奏でている。

 ナーラーヤナは、一瞬眩暈がしそうになったが、それをこらえ、淡々とまた演奏を始めた。ラクシュマナ・ダッタの技倆は、生前とは別人のようだった。明らかに、ナーラーヤナの技倆を上回っていた。その父との合奏に、ナーラーヤナは没入した。

 道叡は、途中までその二人の合奏に加わっていた。しかし、やがて篳篥(ひちりき)を口から離した。二人の合奏は、神業、とでも言いたいような境地に達していた。とても、己の技倆の及ぶところではない。そう思ったのだ。道叡は、二人の合奏に酔った。

 (たけ)高しと言う。

 薫子の舞にも感じたその思いを、道叡は味わっていた。

 二人のかき鳴らすヴィーナの曲調が激しくなっていった。それに連れて、心なしか月の光も強くなっていくようだ。辺りは、一面の砂漠である。近くに山があるわけでもない。なのに、二人のヴィーナの音は殷々として響き渡り、谺した。インド音楽特有の微分音がむせび泣いた。弦を弾く撥の音が力強く腹の底に響く。

 神韻縹渺とは、こういう音を言うのか。道叡は、夢見心地だった。

 ラクシュマナ・ダッタが、即興的なパッセージを弾く。すると、すぐにそれに応じてナーラーヤナが、そのパッセージをなぞる。だが、微妙に最後のフレーズを変形している。すると、ラクシュマナ・ダッタは、そのナーラーヤナが変形したフレーズを元にまた新しいパッセージを弾く。またナーラーヤナがそれに応じる。と、今度はナーラーヤナの方が先に仕掛けて新しいパッセージを弾いた。その間、ラクシュマナ・ダッタは、太鼓の代わりに複雑なリズムを刻んで、息子のパッセージを下から支える。ナーラーヤナのパッセージが終わると、すかさずラクシュマナ・ダッタがそのパッセージを変奏して繰り返す。二人の掛け合いは、世界の終わりまで続くかと思えた。

 と、ナーラーヤナが、全く新しいフレーズを弾いた。透明で、深い海のような哀しみに満ち、それでいて、道ばたに咲く可憐な紫色の花のように愛くるしいフレーズ。低い音から始まり、複雑な微分音の節回しを経て、高い音で精妙に(ふる)えながら急速に中音まで降りてきた。それは、世界の黎明と、世界の終わりとを同時に予告するようなフレーズだった。そのフレーズを使って、また二人の掛け合いが始まった。二人とも、恍惚とした表情をして、しかし耳はお互いの旋律を聴き合っている。今はリードしているのは、明らかにナーラーヤナだった。

 宇宙が、笑い、泣いていた。

 ナーラーヤナのヴィーナが、一人天の果てまで駆け上がるようなパッセージを弾いた。ラクシュマナ・ダッタは、かろうじてそれを追いかけた。ナーラーヤナは、今、世界中の歓びと哀しみを合わせたような音でヴィーナを弾いていた。ラクシュマナ・ダッタは、その伴奏に甘んじている。

 急に、月光の明るさが増した。それは、大変な勢いで明るさを増していき、真昼の太陽よりも輝かしく、眩しくなった。ついに、その光は太陽が爆発したような明るさになった。

 道叡は、息を呑み、心が宙に舞うような感じを覚えた。

 

 ナーラーヤナは、星の海の真っ只中にいた。上下左右、どこを見ても瞬かない星で一杯だった。その中で、ナーラーヤナは、素晴らしい旋律の上に浮いていた。それは、ナーラーヤナが今まで聴いたことのあるどのラーガとも違っていた。いわば、それは神のラーガ、とでも呼ぶべきラーガだった。その旋律と響きに酔いながら、ふと気がつくとそれは、自分、ナーラーヤナが奏でている旋律なのだった。その旋律に合わせて、星々も運行しているのだった。

 ああ、私は、今ブラフマンと合一している。ファナー(自我消滅)の境地に至っている。

 しかし、ならばブラフマンと合一し、自我が消滅したと自覚している〝我〟はなんだろう?

 そう思った瞬間だった。高く澄んだ音が、ナーラーヤナとラクシュマナ・ダッタの合奏に割り込んできた。その音は、美しかったが、神のラーガとは著しく調和を欠いていた。道叡の篳篥(ひちりき)の音だった。破調の音だった。篳篥の澄んだ高い音は、インドのラーガとは全く別の論理で鳴り響いていた。

 それは、魔の音だった。

 修行の中途で、道半ばにありながら己の得た境遇に満足してしまう者。今、この瞬間に時間よ止まれ、お前は美しいと言ってしまう者。慢心する傲慢な者。

 魔。

 その魔の音として、篳篥の音が鳴っている。

 いや、違う。

 ナーラーヤナは悟った。今この瞬間、ブラフマンと合一したと、ファナーに至ったと満足しかけた己が、

 魔。

 だった。

 ついさっき、自分は、真に魔境に陥ろうとしていたのだ。道叡の篳篥は、その魔境に満足しようとしていた自分をいさめている。

 そう悟った瞬間、ナーラーヤナの意識が異常に冴えた。

 ヴィーナの音と、篳篥の音が不思議な調和の仕方をした。それは、インドの音と日本の音との奇妙な出会い、そして融合だった。

 不意に、周りの星々が廻りだした。限りなく純粋な水のように透明な音と、透明な意識。

 そして、月の発する強い透き通った光の中に、ナーラーヤナは暗い闇を見た。それは、深い絶望の暗黒だった。人類が、いや、生きとし生けるものが、いや、路傍の小石までが抱く、憧れとしての絶望。絶壁、深淵の底の、どこまでも透明で深い闇。その闇の底には、しかし赫奕(かくやく)とした輝きがあった。その輝きと、鳴り渡る音楽の響きの中で、ナーラーヤナは理解した。光と闇とが等価であること。苦悩さえもが、良きものとして赦されること。それこそが、神の、仏の慈悲であること。いや、むしろ苦悩の、絶望の果てにこそ歓喜があること。そして、自分とムムターズとの恋が、永遠であること。しかし、その恋は結ばれぬこと。それを受容する、優しく抱き留めてくれる音楽があること。

 愛欲は、慈悲だった。

 愛欲は、空だった。

 ナーラーヤナの意識が、どんどん高みに登っていった。これ以上登れない、と思ったときに、ナーラーヤナは不意に世界への酔いから醒めた。


 覚醒。


 ナーラーヤナは、今、始原の無垢な卵から孵ったばかりの、無垢の童子だった。

 ナーラーヤナは、全てだった。ナーラーヤナは、何者でもなかった。ナーラーヤナは、宇宙に充ち満ちていた。

 そして、宇宙のどこにもいなかった。

 ナーラーヤナは、空だった。

 ナーラーヤナの意識が、遠くなった。


 道叡がふと気がつくと、今は通常に戻った月の光の下に、ナーラーヤナが一人で立ちつくしていた。道叡は、それまで意識を失っていたものらしい。

「父でございました」

「そうか。あの方がそなたの父上か。素晴らしい御仁だな。武勇にも秀で、あのように風流も解するとはな」

「道叡様」

 こう呼びかけて、ナーラーヤナは、ちょっと言葉を切った。

「私は」

「うむ、悟ったか」

「はい」

「漸近線を超えたか」

「恐らく」

「めでたいな」

「はい」

 二人は、しばし無言で見つめ合った。言葉を介さない、心の交流があった。ナーラーヤナの右目からは、一筋の涙がこぼれ落ちていた。

「明日は、恐ろしい日になりましょう」

「なに、それはどういうことだ」

 道叡が、ナーラーヤナに厳しい口調で問いかけた。だが、ナーラーヤナは無言で、砂漠の上に横たえられたサラスヴァティー・ヴィーナを見詰めているだけだった。



「スルターン! スルターン!」

 近衛兵が一人、血相を変えてラズィーヤの玉座に駆け寄ってきた。

「騒々しい。何ごとだ」

 陰になり、日向になり、ラズィーヤを支える側近のヤークート・ハーンが近衛兵をたしなめた。近衛兵は、少し落ち着きを取り戻し、ラズィーヤに伝言を伝えた。

「聖者、スンダラムールティ様が」

 スンダラムールティの名前を呼ぶとき、少し声が震えた。ヒンドゥー教徒でもない、トルコ人なのに。その法力を、よほど恐れているのだろう。

「スンダラムールティが?」

 ラズィーヤが、近衛兵に先を促した。

「はい、スンダラムールティ様が、この干魃から脱するためには、ムムターズ様を生け贄にすることが必要だ、とおっしゃいまして、近隣の村々から集まった、大変な数の群衆と共にナーガプル村へと行進しております」

「何! ムムターズを生け贄にじゃと」

 さすがのラズィーヤも、顔色を変えた。

「ヤークート、すぐに馬を」

「御意」

 挨拶もそこそこに、ヤークート・ハーンが厩へと走った。ラズィーヤは、すぐに後宮に入り、乗馬用の服に着替えた。二人は、馬の首を並べて走った。走りに走り、一ゲリー(二十五分)あまりでナーガプル村に着いた。見ると、村の入り口にニザームッディーン、チャイタニヤ、道叡、そしてナーラーヤナが立ち並び、その後ろにムムターズがいた。さらにその背後には、不安げに様子を見守るナーガプル村の村人たちがいた。ちょうどそこに、スンダラムールティ率いる群衆が近づいてくるところだった。群衆の中には、鋤や鍬を持つものもいた。群衆は、今は枯れ果て、荒れ果てて周囲の砂漠と見分けがつかなくなっている畑を踏みつけて進んできた。

 姿が見えるところまでくると、スンダラムールティが異様な格好をしているのが分かった。スンダラムールティは、素っ裸だった。下帯さえ付けずに、珍宝も丸出しである。それが、象の鼻のようにゆらゆらと揺れている。もっとも、珍宝はシヴァ・リンガと呼ばれてシヴァ神の象徴とされている。そのため、シヴァの行者であるスンダラムールティは、それを堂々と見せつけているのだ。さらに、スンダラムールティは、その青黒い肌に、灰をべっとりと塗っていた。死体を焼いた灰である。これも、シヴァの行者がよくやる姿である。その格好で、スンダラムールティは自分の身長よりも長い杖を突き、悠々と歩いてくるのだった。

 お互いが声を交わすことのできる距離までくると、スンダラムールティがぴたりと停まった。ついてきた群衆も、訓練された軍隊のようにぴたりと停まった。ナーガプル村を背後にするニザームッディーンたちと対面する位置である。両者の間、ナーガプル村から見て右手に、ラズィーヤたちがいる。

「スルターンがおられるとは、丁度よい」

 スンダラムールティが、顔をクシャッと歪ませて笑った。一見好々爺のように見えるが、その背後に、何か不気味なものを窺わせる笑みだった。

「スルターン、わしは昨夜、大変重要な啓示を得ましたですじゃ」

「聖者よ。啓示とな。余はイスラム教徒なれど、宗教に軽重はないと信じておる。ヒンドゥー教の啓示でも、余はそれを重んじよう。どんな啓示じゃ」

「はい、スルターン」

 言いながら、スンダラムールティは恭しくお辞儀をしたが、その目には、やはり、どこか剣呑な光が宿っている。

「それは、シヴァ神のお告げでございます」

「ほう」

「此度の干魃、わしも奇異なことと存じておりました。スルターンの治世は、イスラム教徒にもヒンドゥー教徒にもありがたい徳にかなったもの。神がお怒りになって、雨を降らせない罰をお下しになるはずもございません。ところが、昨夜わしに降臨いたしましたシヴァ神が、こうお告げになったのでございます」

 スンダラムールティは、もったいを付けて一つ咳払いをした。

「シヴァ神は、こう告げられました。此度の災厄は、ひとえにムムターズ・ベグムの不心得が生んだものである。ムムターズを生け贄に捧げよ。さすれば、此度の災厄も終わりを告げよう、と。そういう託宣でありました」

 終わりを告げよう、と言ったときに、スンダラムールティの目にも、一瞬不安げな様子が見えた。

「なんと! ムムターズを誣告すると申したか」

 ラズィーヤが、怒気も顕わに叫んだ。

「誣告ではございませんぞ。スルターン」

 スンダラムールティが、落ち着いた声でラズィーヤをたしなめた。

「わしの言葉は、もったいなくも大シヴァ神の御言葉。夢疑うことございませんように」

「証拠は?」

 ラズィーヤが、少し嘲りの色を含んだ笑みを浮かべながらスンダラムールティに迫った。

「いかな聖者といえども、人一人の命のかかった託宣。軽々しく神の名を騙るでないぞ。そちの申すことが、誠にシヴァの託宣ならば、その証拠があるであろう。その証拠を、余の目の前で見せてみよ」

 ラズィーヤに言われて、スンダラムールティは、またクシャッと笑った。

「ならば。軽々しく人に見せるものではございませんが」

 スンダラムールティは、背後を振り返り、群衆の中にいた従者に合図をした。従者は、八人がかりで一つの大きな木箱を運んできた。木箱は、高さが二ガズ(百五十センチ)ほどもあり、その上面は人が一人ゆっくりと座れるほどの広さだった。従者たちは、それをスンダラムールティの前に据えた。木箱の、スンダラムールティに向けて置かれた面には、階段が付けられている。スンダラムールティは、その階段を上り、腰を下ろした。

「では」

 そう言うと、スンダラムールティはラズィーヤに軽く会釈をした。

「オーム」

 おもむろに、聖音を唱える。

「オーム トリヤムバカム ヤジャーマヘー スガンディン プシュティ ヴァルダナム ウールヴァールカミヴァ バンダナートゥ ムリティヨール ムクシーヤ マー アムリタートゥ……」

 シヴァ神のマントラを長々と唱える。半眼に閉じた目に、何か不吉なものが宿っていく。

 チャイタニヤが、ニザームッディーンと道叡にそっと囁いた。

「違うな。今降りてきているのは、シヴァ神などではない。何かの邪な霊だ」

 ニザームッディーンも、道叡も、承知、という風にうなずいた。

 スンダラムールティがマントラを唱え終わると、スンダラムールティの体がくらりと揺れた。と、スンダラムールティの体がゆらゆらと揺れながら空中に浮いた。その高さは、半ガズ(三十五センチ)ほどに達した。群衆から、どよめきが漏れた。群衆の中の何人かが跪き、平伏した。ラズィーヤでさえもが、息を呑んだ。ラズィーヤの背後に並み居る、遅れて馳せ参じたトルコ貴族たちやトルコ兵たちの中にも、馬を下りるものがいた。

 ラズィーヤの近くで、宰相(ワズィール)、ニザームル・ムルクが口をあんぐりと開け、青ざめて震えている。まさか、スンダラムールティが実際に空中浮遊さえをも行える聖者、とまでは思っていなかったのである。しかし、次いでにんまりと笑った。これなら、スンダラムールティが下すシヴァの託宣は、誰もが信じるものとなるだろう。やはり、スンダラムールティに任せておけば、安心なのだ。

 スンダラムールティの口が開いた。その口から、普段のスンダラムールティの声とはまるで違う、野太い声が漏れ出た。

「我は、大シヴァ神なるぞ。我が託宣を心して聴け。此度の大干魃は、ムムターズ・ベグムの不心得によるものであるぞ。ムムターズの二人の叔父、アリー・マルダーンとフサイン・マルダーンの魂は、ムムターズが(かたき)ナーラーヤナと乳繰り合っておるのを見て、荒ぶる御霊(みたま)となっておるぞ。二人の死霊は、今でもお前たちの上で荒れに荒れておるぞ」

 こう言われて、トルコ貴族たちは、薄気味悪げに己の頭上を見上げた。

「ヒンドゥーの民よ、よく聴け」

 スンダラムールティが、大声で叫んだ。群衆は、畏まって聴く姿勢になった。

「ムムターズは、ジャーティ(カースト)の違うナーラーヤナと結婚しようとしておる。これは、ヒンドゥー教徒の掟に背く重罪じゃ。しかも、この結婚は、花嫁たるムムターズの方が、婿となるナーラーヤナよりもジャーティが高いという、プラティローマ(逆毛)の結婚じゃ。みなも知るとおり、このようなプラティローマの結婚を我、シヴァは(よみ)しない。もしこの結婚が行われたなら、その子供は永遠に我に呪われ、ジャーティから追放されてダリット(不可触賤民)となるであろう。かように呪われたムムターズが生きておればこそ、このような災厄も起こる。みなの者、ムムターズを、我が生け贄に捧げよ」

 最後は、虎が咆吼するような声だった。

 ここまで言うと、スンダラムールティから霊は去ったようだった。スンダラムールティは、しずしずと木箱の上に降りた。しばらくスンダラムールティは目を瞑ったままだったが、ようやく目を開いて言った。

「どうじゃな。わしに降臨したシヴァ神の託宣を聞かれましたかな」

 また、クシャッと笑いながら、スンダラムールティがラズィーヤに訊いた。

 さすがのラズィーヤも、青ざめた。今、スンダラムールティの空中浮遊という奇跡を、まざまざとこの目で見た。そして、スンダラムールティに、本当にシヴァ神かどうかは定かでないものの、何かの霊が降りてきたのも確かである。スンダラムールティの口から出た、シヴァを名乗る者の理屈は巧みだった。イスラム教徒をも、ヒンドゥー教徒をも納得させる論理があった。ラズィーヤにも、反論する術がなかった。このまま、スンダラムールティの託宣に従わなければならないのだろうか。

 と、群衆の中から叫び声が起こった。

「ムムターズに死を! ムムターズに死を!」

 恐らくスンダラムールティの手の者が煽動したのだろう。しかし、叫び声は、たちまちのうちに群衆全体に広まった。何百人、何千人とも知れぬ群衆が、「ムムターズに死を!」と叫んでいた。ラズィーヤは、耳をふさぎたくなった。

 スンダラムールティが、群衆の方に向き直り、左手の拳をぶるぶると震わせながら頭上に振り上げた。群衆の叫び声は、その拳の震えに従って大きくなった。スンダラムールティは、今は木箱の上で立ち上がっている。

「ムムターズに死を!」

 と、トルコ貴族の群れから、一人の女が飛び出した。

「おお、スルターン、お慈悲でございます」

 叫んだのは、ムムターズの母、オズダマルだった。

「なんじゃ、オズダマル! この上、なおナーラーヤナの命に執着するか。それとも、アリーとフサインの仇を討とうとしないムムターズの命を、差し出せとでも申すのか」

 ラズィーヤが、語気荒く叫んだ。

「いいえ、スルターン、違います」

 オズダマルが、怯えたような震え声で言った。そして、よろよろと、群衆を煽っているスンダラムールティの方に向かった。スンダラムールティの座っている木箱の前で、がっくりと膝を折る。

「おお、聖者様、お慈悲でございます。哀れな寡婦のために、お哀れみをお垂れ下さい。我が娘、ムムターズの代わりに、この皺首を差し出します。どうぞ、(わたくし)めの皺首を召し上げられまして、代わりに我が娘ムムターズの命だけは」

 ここまで言って、オズダマルは、泣き崩れた。

「お母様!」

 思いがけない母の言葉に、ムムターズはオズダマルの元に駆け寄った。

「おお、ムムターズ、愚かな母を赦しておくれ。アリーもフサインも可愛い弟なれど、やはりそなたが、誰より大事な娘。その娘を、危険な目に遭わせようなどと、母は愚かでした。どうか、どうか、哀れだと思って赦しておくれ」

 そして、ナーラーヤナの方に向かって、オズダマルは言った。

「おお、ナーラーヤナ。そなたも私を赦しておくれ。正々堂々の一騎打ちの後に、倒れた弟たちの(あだ)などと。私は愚かでした。アリーの名を、私が辱めていたも同然」

「いえ、オズダマル様、赦すなどと、そんな」

 ナーラーヤナも、慌てて言った。その言葉を聞いて安心したのか、オズダマルはまたスンダラムールティの方に向き直った。

「お慈悲でございます。聖者様。どうか、この私の皺首を召し上げられまして、我が娘ムムターズの命だけはなにとぞ、なにとぞ」

 この思いがけない和解の場面に、ラズィーヤも思わず涙ぐんだ。しかし、スンダラムールティは、嘲りながら厳しい声で言った。

「ならぬ。ならぬぞ。お前のような老いぼれのそれこそ皺だらけの首など、なにほどのものか。シヴァ神が欲しておられるのは、処女、ムムターズの命のみ」

「スルターン」

 ラズィーヤの耳元で、いつの間に近寄ったのか、宰相(ワズィール)ニザームル・ムルクが囁いた。

「スルターンも、あの空中浮遊をごらんになったでございましょう。あのスンダラムールティという男、異教の民ではございますが、やはり本物の聖者のようでございます。しかも、ああして民衆の心をしっかりと掴んでおります。ここは、やはり、異教の神にムムターズの命を捧げられた方が」

「ならぬ、ならぬ」

 否定しては見るものの、ラズィーヤの声は弱々しい。民衆。そうだ。民衆なのだ。ラズィーヤは、民衆のスルターンとして、デリーの市民と、近郊の村人たちに推戴されて玉座についた。そうであってみれば、民衆の声を無碍に無視はできない。かと言って、可愛いムムターズの命を、異教の神に捧げるなどもってのほかである。

「ムムターズに死を!」

 群衆が、また叫び始めた。

「スルターン。ご決断を」

 ニザームル・ムルクが、詰め寄るように囁いた。ラズィーヤが躊躇った。

「待てい!」

 群衆の声を突き破って、破鐘のような声が響いた。道叡であった。群衆が、一斉に水を打ったように静かになった。ラズィーヤさえもが、道叡の声に気を呑まれた。次いで、チャイタニヤが、高い声で言った。

「先ほど、スンダラムールティ殿がシヴァの声を聞かれたと言われたが、わしら三人も、いささか神の声を聴くもの。まずは、わしらに降りる神の声を聴け」

 高いが威厳のある声である。有無を言わせぬ力があった。群衆も、類い希な聖者としてのニザームッディーンとチャイタニヤの噂は聞いていた。なにが起こるのかを、しんとして見守った。

 三人の聖者が、すっと座った。

 と、

 浮いた。

 三人の聖者は、すーっと浮き上がり、木箱に乗ったスンダラムールティの頭上はるかまで達した。その高さは、およそ四ガズ(三メートル)ほどであろうか。群衆の後ろにいるものにまで、その姿はよく見えた。ラズィーヤも、これには度肝を抜かれた。見ると、傍らで、ニザームル・ムルクも青くなって震えている。群衆の前にいた何人かが、跪いた。すると、見る見るうちに数千人はいるかと思われた群衆が、みな跪いた。

 と、中で、チャイタニヤ一人が頭一つ飛び抜けて浮いた。

「我が名はクリシュナ」

 チャイタニヤの口から、さっきの高い声とは違う、深く、朗々たる声が響いた。

「我が言の葉をよく聴くがよい」

 ラズィーヤが、思わず白馬から下りた。それに倣って、まだ騎上にいたトルコ貴族たちも馬から下りた。それほどチャイタニヤの口から出る声には、神聖な威厳があったのだ。

「スンダラムールティの言葉は、間違っている。あれは、(まこと)のシヴァ神の預言ではない。このたびの干魃を鎮める生け贄は、ムムターズではない」

「おお」

 思わず、ムムターズとオズダマルは抱き合った。

(まこと)の生け贄は、この後に、我自身の口から語られるであろう。そのままで、しばし待つがよい」

 ここまで言うと、チャイタニヤは、すっと元の位置まで下がった。そのままの姿で、ニザームッディーンが口を開いた。

「のう、皆の衆。わしはイスラム教徒じゃが、今クリシュナと名乗った神は、(まこと)の神じゃと信じることができる。今少し待つのじゃ。そのうちに、わしらにも分かるような真の啓示が下されるじゃろう」

 三人の聖者は、そのまま、地面から四ガズほどの位置に浮いたままでいた。その光景は、見るものを畏怖させた。

 スンダラムールティの顔にさえ、怯えの色がある。

 しばらく静寂があった。

 陽が、中天に上った。

 人々の影が短くなった。

 正午になった。

 と、それまでも燃えさかるようだった陽が、いっそう輝きを増した。カッと、爆発するような光が辺りを照らした。人々みなが、目つぶしを食らったように、目を瞑ってしまった。ようやく人々が目を開けてみると、浮いたままの三人の聖者の前に、ナーラーヤナが立っていた。

 その姿に、人々の視線が集中した。


 浮いた。


 何の前触れもなく、ナーラーヤナが、十ガズ、いや、二十ガズ(十四メートル)ほども上空に浮いていた。人々の口から、驚きの声が漏れた。ラズィーヤも、ムムターズも驚嘆のあまりに両手で口を覆っている。チャイタニヤも、ニザームッディーンも、道叡も、一様に口をあんぐり開けている。

 それほど呆気なく、ナーラーヤナは空中浮遊を行っていた。しかも、足を組んでさえいない。立った姿のままで、二十ガズの上空に浮いているのだ。

「我が名はクリシュナ」

 さっきチャイタニヤの口から出たのと同じ、朗々たる声が辺りに響き渡った。澄んだ、厳かな声だった。まだ十八のナーラーヤナの口から発せられると、少なからず違和感を覚えさせられる。しかし、聴いているものを平伏させずには置かぬ、神聖な響きがあった。

「我が欲する生け贄は、ムムターズにはあらず。我は、我自身が生け贄となることを欲する。我が欲する生け贄は、我が名を持つもの。すなわち、ナーラーヤナである。汝らも知るとおり、ナーラーヤナは、我、クリシュナの異名である。ナーラーヤナこそが、我、クリシュナである。ナーラーヤナの言うとおりに、彼の墓所を整えよ。我は、その墓所で命終わるであろう」

 ここまで言い終わると、ナーラーヤナは、静かに二十ガズの高みから降りてきた。それと同時に、ニザームッディーン、チャイタニヤ、道叡も降りてきた。ナーラーヤナが着地したとたんに、ムムターズが駆け寄った。

「い、いけません。ナーラーヤナ様。あなたが生け贄だなんて、そんなこと、たとえ(まこと)の神のお言葉だとしても、私には信じられません。ナーラーヤナ様が生け贄だなんて。生け贄なら、この(わたくし)が……」

 取り乱して、何度も同じことを言うムムターズの言葉を遮って、ナーラーヤナが答えた。有無を言わさぬ、力に満ちた声だった。

「ムムターズ様、決まったことです。天命には逆らえません。クリシュナ神の言葉は絶対です。私は、もう既に、私がどのようにして生け贄になるか、明確に幻視しております」

「いけません! 絶対にいけません。ナーラーヤナ様」

 ムムターズが、ナーラーヤナの胸に取り縋って泣いた。しかし、少年の口元には、何か不思議に透明で静謐な、人を寄せ付けない微笑みが浮かんでいるだけだった。



「スンダラムールティ、一体これはどういうことだ」

 ニザームル・ムルクが、木箱を降りてやって来たスンダラムールティに問いかけた。多少詰問の口調もないではないが、やはりスンダラムールティを恐れている様子がありありと窺える。

「動揺なさいませぬよう」

 スンダラムールティが、クシャッと笑いながら言った。法力比べに敗れて、相当に傷ついているはずだが、そう言う気配を微塵も感じさせない。しぶとい男である。

「此度の企みは敗れましたが、なに、ナーラーヤナが死んでしまえば、ムムターズなどふぬけ同然になりましょう。それから、我らはゆうるりとスルターンを……」

「馬鹿、それ以上言うな」

 ニザームル・ムルクは、蒼い顔をして周囲を見回した。スンダラムールティは、周りのトルコ貴族に聞かれることなど、意に介していないように見える。

「あの、こしゃくな法力を使う行者ども、私が斬り殺して参りましょうか」

 サドゥラー・カーンが、逸る心を押さえきれない様子で言った。「馬鹿者!」

 抑えた声で、しかし厳しくニザームル・ムルクが叱った。

「この満座の大衆の前で、今あれほどの奇跡を見せた行者を斬り殺すなどと、戯けたことを」

「まあまあ」

 と、スンダラムールティが仲に入った。

「とにかく、いずれは雨が降りましょう。その時には、祝いの宴が執り行われましょう。その席で、兼ねての手筈通りに」

 スンダラムールティが、またクシャッと笑った。



 ラズィーヤが、少年に取り縋って泣き崩れているムムターズに優しい眼差しを投げかけながら、歩み寄って来た。

「ナーラーヤナ、さっきの啓示は、いったいどういうことじゃ。お主の墓所を造れとは、一体何ごとじゃ」

「スルターン」

 ナーラーヤナが、ラズィーヤの方に向き直った。その目には、さすがのラズィーヤも、臆してしまうほどの威厳があった。

「お願いがございます。スルターン」

「なんじゃ。何なりと申してみよ」

「この、今私が立っている場所、聖なるクリシュナが降り立たれた場所を中心に、一辺が四ガズの正方形で、深さが三ガズの穴を掘ってくださいますよう」

「穴か。本物の墓所のようで不吉な」

 しかし、そのラズィーヤの問いかけるような言葉に、ナーラーヤナは微笑んで応えなかった。

「ヤークート」

 ラズィーヤが呼ぶと、側にいたヤークート・ハーンが「スルターン」と寄ってきた。

「ナーラーヤナの言うとおりに、穴を穿つ職人を連れて参れ」

「御意」

 ヤークート・ハーンは、馬を駆って群衆の方に近寄った。

「スルターンのお召しである。井戸を掘る職人、いますぐに前に出でよ」

 群衆の中から、わらわらと井戸掘り職人が進み出た。ヤークートが数えると、全部で十四人だった。みな、井戸を掘る道具を持っている。万一、騒ぎになったときのために持ってきたものであろう。ヤークートが、井戸掘り職人に限定したのは、同じジャーティ(カースト)の方が働きやすいだろうと思ったからである。

「よし、お前たちは、いまからスルターンのお命じになる通りにするのだ。分かったな」

 その十四人が、うなずいた。みんな、どこか不安げな顔をして、暗い目をしている。ナーラーヤナが、彼らに穴を穿つ範囲を指示した。井戸掘り職人たちは、指示通りに穴を掘り始めた。

「スルターン」

「なんじゃ、ナーラーヤナ」

 ナーラーヤナのやっていることの意味が正確にはつかめないままに、ラズィーヤは問いかけた。

「この者たちが穴を掘っております間に、デリーから石工を呼び寄せ、赤砂岩で穴の底と、天井、四方を覆う石板を作らせてくださいますよう、お願い申し上げます」

「分かった。ヤークート」

「スルターン」

「今、ナーラーヤナが言ったとおりにするように」

「御意」

 トルコ騎兵たちがデリーに向かって駆けだした。

「ナーラーヤナ様、なにをするおつもりなのですか?」

 ムムターズが、心配げにナーラーヤナの右腕に両手をかけた。

「ご心配下さいますな、ムムターズ様。(わたくし)は、ただクリシュナ神のご命令を粛々と実行いたしているのみですから」

「クリシュナ神のご命令と言えば、先ほどのナーラーヤナ様を生け贄にという?」

「そうです」

「そんな」

 ムムターズは、ナーラーヤナの右腕に取り縋った。

「いけません。ナーラーヤナ様。そんな、生け贄などと。(わたくし)を置いて、どこにも行かないで下さいませ」

 ムムターズの両目から、はらはらと大粒の涙がこぼれた。

 ムムターズは、煩悶していた。ムムターズは、ナーラーヤナになんと言われようと、自分はナーラーヤナの妻であると決めていた。しかし、ナーラーヤナに降臨した神は、本物である。アッラーへの不敬を恐れず、ムムターズもそう確信していた。ならば、神秘の道の修行者たるナーラーヤナには、その神の託宣通りにさせるのが、本当かも知れない。それが、真の妻たる者のつとめかも知れないのだ。武人が、一騎打ちで死ぬのが誉れならば、神秘の修行者は、神の啓示に従って死ぬのが本望かも知れない。武芸で、達人に近い域に達しているムムターズは、武人の誉れなら良く理解できた。武人の妻なら、一騎打ちに赴く夫を、笑って送り出すのが使命だろう。しかし、嫌だった。妻の道として正しくなくとも、ナーラーヤナを失うことは耐えられなかった。我が儘だろうか。妻のつとめに背くだろうか。そうかも知れない。それでも、どうしてもナーラーヤナを失いたくはなかった。だが、はっきりとそれを口に出して言うことも、はばかられた。ムムターズは、独り苦悩し、絶望していた。

 井戸掘り職人たちは、手慣れた様子で穴を掘っていった。幸い、一人だけ年長の者がいたので、その職人の指示でみなは一糸乱れずに仕事をした。穴の側に、掘られた土がうずたかく積み上げられた。

 群衆は、静まりかえっていた。陽に照らされて、相当に暑いはずなのに、不平不満を言う者はだれもいなかった。群衆は、ただ耐えていた。浅黒い顔に、落ちくぼんだ虚ろな目をして。何か神聖な瞬間を、ただ待っていた。

 デリーから何十頭もの馬がやってきて、大きな赤砂岩の板六枚と、十数人の石工を運んできた。石工たちは、ナーラーヤナの指示に従い、底に敷く板と蓋にする板、それに四方の壁を作る板、計六枚の板を彫った。日が傾きかける頃に、六枚の板が完成した。穴は、もう掘り終わっていた。ナーラーヤナの指示で、まず底板をロープで吊り下げて敷き、次いで四方の壁をロープで吊り下ろした。そして、隙間を漆喰で塗り固めた。

「スルターン。私は、今からこの石室の中に入ります。私が中に入りましたら、蓋を閉めてくださいますよう。蓋には、小さな穴が開けてございます。その穴に、この」

 と言って、ナーラーヤナは、村人に作らせておいた長く、太い竹の棒を見せた。

「竹の棒を差しこみます。この竹は、節が抜いてございますから、空気穴になります。蓋を閉めた後は、掘った土を盛ってくださいませ」

「み、水や食料はどうするつもりじゃ」

 聡明なラズィーヤも、今の今までナーラーヤナのしようとしていることが分からなかった。それほど、ナーラーヤナの目的は常識外れだったのである。それが今、ようやく朧気にナーラーヤナのしようとしていることが分かってきた。「許さん」と言おうとしたが、さすがに、ナーラーヤナの穏やかな気迫に圧倒されて、ラズィーヤもおずおずと訊ねる位しかできなかった。ナーラーヤナは、にっこりと笑った。世界を、しんと静まりかえらせる笑みだった。

「水も、食料も持っては参りませぬ。人は、水無しでいると、七日ほどで命絶えるそうでございます。これが、(わたくし)に昨夜啓示がありました、クリシュナ神への生け贄の方法でございます」

 ナーラーヤナは、あくまでも穏やかに言った。

「ば、馬鹿なことを申すな。飢えて、渇いて死ぬと申すか。そんなことを、スルターンたる余が許すと思ってか」

 ラズィーヤが、語気荒く叫んだ。しかし、ナーラーヤナは柳に風と受け流し、笑っているだけだ。

「ナーラーヤナ様、恐ろしいことを言わないで下さいませ。もし、ナーラーヤナ様」

 ムムターズが、恥も外聞も忘れて取り乱した。跪いて、ナーラーヤナの両足に取り縋る。その両足を揺すぶりながら叫ぶ。妻のつとめもなにも、意識から吹き飛んでいた。

「ナーラーヤナ様、お願いでございます。私の言うことを聞いてくださいませ。生け贄だなどと、そんなことを言わないでくださいませ。きっと、きっと明日になれば雨は降ります。もし、どうしても生け贄が必要なら、この(わたくし)が」

 しかし、ムムターズの必死の願いも、ナーラーヤナは黙って聞き流すだけだった。

 陽がだいぶ傾いてきた。辺りに夕闇が立ちこめ始めた。

「では、スルターン、ムムターズ様、ニザームッディーン様、チャイタニヤ様、道叡様、お別れでございます」

 ナーラーヤナが、近頃見せることのなかった優しい目でムムターズを見詰めた。その愛しい眼差しに、ムムターズは胸が詰まって何も言えなくなった。行かないでくれと言いたかった。だが、声にならなかった。ムムターズも、ただひたすらナーラーヤナを見詰めた。そして、ナーラーヤナの手に縋った。

 ムムターズが、無言で必死に取り縋るのを、柔らかに押しとどめてナーラーヤナが穴の縁に足をかけた。そして、ロープを伝って、底に降りた。

「私の、サラスヴァティー・ヴィーナを」

 言われて、ラムジラルが、サラスヴァティー・ヴィーナを穴の底に立つナーラーヤナに手渡した。その、ラムジラルの手が震えている。

 ナーラーヤナは、穴の底に結跏趺坐し、サラスヴァティー・ヴィーナを弾き出した。

「さあ。蓋を閉めて、土を盛ってくださいますよう」

 ナーラーヤナがこう言った瞬間、いきなりムムターズが穴の中に飛び降りてきた。そして、ナーラーヤナにしっかりとしがみついた。

「ムムターズ様! いけません」

「いいえ、お側に。(わたくし)は、ナーラーヤナ様とずっと、永遠に一緒でございます」

 そう言うムムターズの顔から、先ほどまでの憂いは消し飛んでいる。その顔は、至福の歓びで輝いていた。

「ムムターズ、馬鹿なことをしないで。出ておいで」

 取り乱したオズダマルが、叫んだ。

「ムムターズ、命令じゃ。そこから出てくるのじゃ」

 ラズィーヤも、蒼ざめた顔で言った。

「いいえ、スルターン、お母様。(わたくし)は、ナーラーヤナ様とご一緒に、いつまでも」

 また、ムムターズが繰り返した。

「いけません。ムムターズ様。地上にお帰り下さい」

 ナーラーヤナが、困惑したような表情で言った。陽が陰り、ナーラーヤナの顔にも翳が指した。

 と、道叡が跳躍した。

「ムムターズ、我が儘を言うでない」

 道叡が、ムムターズに当て身をして気絶させた。そして、そのままぐいと、ムムターズの体を地上まで押し上げた。ニザームッディーンとチャイタニヤが、老人とは思えない力でムムターズの体を引きずり出した。そこに、道叡がまた跳躍して戻ってきた。ムムターズが、いかに達人の域まで達していようと、まだまだ道叡の方が武芸には秀でていた。

「さあ、今のうちに、蓋をして盛り土を」

 ナーラーヤナの声に応えて、わらわらと男たちが群がり、大きな蓋を持ち上げ、それを据えた。ナーラーヤナが、下から節を抜いた竹を差し込んだ。その竹を塞がないように、男たちが、様々な道具で土を盛り上げた。

 ついに盛り土が完成した。それは、半球形の塚で、頂上から竹が突き出ていた。どこか、昔の仏教徒が建てた仏塔(ストゥーパ)を思わせる佇まいだった。時は夕暮れ。陽が、辺りを真っ赤に染めて沈みゆくところだった。恐ろしいばかりに、くっきりとした夕焼けだった。陽の周囲は赤。そしてその外はオレンジ、さらに紫に燃えた。

 陽が沈み終わろうとしていた。

 その沈む陽の頂点が、竹の先に重なった。

 その竹の先に、赫奕たる黄金の十字架が一瞬立った。

 その瞬間、竹から、ナーラーヤナの弾くヴィーナの響きが聞こえ始めた。

 気絶から覚め、ムムターズは、すでに土が盛られ終わったのを見出した。絶望し、髪を振り乱して盛り土に縋った。

「ナーラーヤナ、ナーラーヤナ。私のナーラーヤナ」

 胸の奥底からの本音が迸り出る。啜り泣きながら、叫ぶ。

「どこにも行かないで。ずっと私の側にいて。お願い……。私を置いて、どこにもいかないで」

 ムムターズが、その盛り土の上に突っ伏して号泣した。その様子を見て、ラズィーヤも涙した。ラズィーヤの隣で、ヤークート・ハーンも涙を拭った。ニザームッディーンも、チャイタニヤも、道叡も、声も出せずにムムターズを見守った。オズダマルが、そのムムターズを盛り土から、そっと引き剥がそうとした。ムムターズは、母の手を振り切り、塚に取り縋って泣いた。

 たとえ独りででも、この塚からナーラーヤナを掘り出して助けようか。そうも思った。しかし、その後にナーラーヤナに叱られるのが怖くて、それもできなかった。

 塚から飛び出した竹から響くヴィーナの音は、インドのラーガ(旋法)にはない、不思議なラーガの旋律を奏でていた。ポツリ、ポツリと高音で切れ切れの旋律をはじく。星空の彼方で、透明な水の滴が生まれ、少しずつ膨らんでいく。その滴は、ふるふると震えている。そして、自らの重みに耐えかねて、ポツンと落ちる。その水滴が集まって、細い流れとなり、さらにその細い流れが集まって、偉大なガンガー(ガンジス河)となる。そのように、ナーラーヤナのヴィーナは、切れ切れの単音から、次第に(ひめ)やかな旋律を生みだし、その旋律が共鳴弦に共鳴して深く、ゆったりとたゆたう雄渾な響きとなっていった。その旋律の不思議な力が、悲嘆に暮れているムムターズの心をも慰めた。ムムターズは顔を上げた。その両目に、輝きが戻っていた。何かを決意した光だった。ナーラーヤナは、ヴィーナに合わせて歌い出した。ナーラーヤナの声もまた、露の滴から生まれ、次第に膨らんでガンガーの流れとなった。

 その不思議な旋律は、なにを讃えているのかは分からぬが、明らかに賛歌だった。

「ああ、ナーラーヤナ、私独りを置いて……」

 慰められても、慰められても、ムムターズの慟哭は止まらない。涙さえ、今は涸れ果ててしまった。

 それでも、ムムターズは自分に問いかけずにはおれなかった。ナーラーヤナは、一騎打ちで死地に赴く武人なのではないか。笑って送り出すのが、妻たる自分のつとめではないのかと。

 そう心に言い聞かせても、言い聞かせても、漏れる嗚咽はとどまることを知らなかった。

「さあ、ムムターズ。帰りましょう」

 オズダマルが、目を拭いながら声をかけた。あの、悪鬼のような形相で、ナーラーヤナを殺せと迫ったオズダマルと、同一人物とは思えないほど優しい声だった。

「いいえ、お母様、(わたくし)はここに残ります」

 ムムターズが、小さいが、毅然とした声で言った。

「ここでずっと、ナーラーヤナ様の最期を看取り続けます」

 それが、ムムターズの決意だった。

「ムムターズ、お前……」

 オズダマルが、悲痛な表情をした。

「ああ、赦しておくれ。そんなお前にナーラーヤナを殺せと言った、この私を」

 オズダマルが、両手を顔の前で揉んで懇願した。

「赦すだなんて、お母様、そんな……」

 しかし、ムムターズは言葉を曖昧に濁したまま、哀しげな表情で塚を見詰めるだけだった。その上に、夕闇が立ちこめていった。



 こうして、九日たった。九日九晩、ムムターズはなにも食べずに、眠りもせずに塚の側に座っていた。時折、気絶するように昏倒することがあり、それが唯一の睡眠だった。ナーラーヤナと同じように、水も食べ物も摂らないつもりだったが、オズダマルが持ってくる水だけは、渇きに耐えかねて飲んでしまった。そのことで、ムムターズは己を責めた。何ごとにも、万能の智慧を持っているようなニザームッディーン、チャイタニヤ、道叡の三人の聖者も、この事態だけはどうすることもできずに、手をこまねいて見ているしかなかった。

 ムムターズは、何度も何度も繰り返し、ナーラーヤナを掘り出そうかと考えた。しかし、その後のナーラーヤナの怒りが恐ろしかった。

 三人の聖者は、飲まず食わず、交代でムムターズを見守っていた。三人の聖者にとっては、断食の修行など何ほどのこともなかった。ただ、アッラーの思し召しの、神のリーラ(遊戯)の不条理に言葉も思案も失っていた。ニザームッディーンは、この予定された愛弟子、ナーラーヤナの死という運命の前で為す術もない己を責めていた。道叡は、ナーラーヤナの完璧な悟りの瞬間に立ち会っただけに、その覚者がこんなところで命を失っていくということの理不尽さに、憮然とせざるを得なかった。チャイタニヤも、いつもの快活さを忘れ、無言でナーラーヤナのヴィーナの音を聞いているだけだった。

「道叡様」

 九日目の夕暮れ、憔悴しきったムムターズが、見守っていた道叡にいきなり問いかけた。

 道叡が一歩進み、ムムターズの側に腰を下ろした。

「道叡様は、ナーラーヤナ様がこの石室の中に入る前の晩に、ナーラーヤナ様と瞑想をなさったとおっしゃいました」

「うむ、した」

「その時に、ナーラーヤナ様は、究極の悟りを得られたとも言われました」

「うむ、その通りだ。ナーラーヤナは、あの晩、わしには及びもつかない境地で究極の悟りを得た」

「その悟りとは、どんなものだったのでしょう」

「うむ、究極の空への覚醒だな」

「空への覚醒……」

 ムムターズは、今初めて聞いたように小首を傾げた。

「それは、究極の存在との、あの、口にするのも畏れ多いのですが、合一でございましょうか」

「究極の存在というと、アッラーのことか。ならば違う」

「アッラーとの合一ではない……」

「うむ、アッラーと言うも、ブラフマンと言うも、結局は存在だ。存在は、一だ。一なるαから森羅万象は開展し、流出していく。しかし、その森羅万象はマーヤー(幻影)だ。マーヤーだからこそ、この世には、真に清浄なるものにはないはずの苦しみがある」

「はい」

「空という言葉を、サンスクリット語で言うと、シューニャだ。一方、数学のゼロも、サンスクリット語で言うと、同じシューニャだ。ゼロは、なにもない状態ではない。ゼロは、無限だ」

「え、それは、どういうことでございましょうか?」

「一と〇を足すと、一だ。しかし、一と〇をかけると、〇になる」

「はい」

「ところが、1の横に〇を並べて書くと、どうなる」

「一〇になります」

「一〇〇〇の横に、さらに〇を付け加えると?」

「一〇〇〇〇、一万になります。あ!」

「そうだ。ゼロは、無限を生み出す」

「はい」

「同じように、空も無限を生み出すのだ。空とは、充溢していることであり、溢れ出すことであり、充満していることであり、充実していることだ。アッラーも、ブラフマンも無限を属性としているだろう。だが、アッラーもブラフマンも、究極的には一者だ。一から、二が生じ、二から四が生じる。そのように世界は開展し、流出していく。それが、アッラーやブラフマンからの現象世界の現れ方だ。しかし、空は違う。空は、ゼロとして溢れ出す。そして、マーヤー(幻影)としての現象世界が生まれる。だが、ゼロはゼロだ。空は空だ。充実し、虚無ではないもの。それでも、これでもないもの。ウパニシャッドの哲人が、それにもあらず、これにもあらず、まさにあらず(ネティ)あらず(ネティ)としか表現できないと呼んだもの。それが空だ。あらず(ネティ)あらず(ネティ)のブラフマンと言うが、それは本当は、あらずあらずの空と言うべきなのだ」

「ブラフマンのようでいて、ブラフマンでないもの。アートマンのようでいて、アートマンでないもの。虚無のようでいて、虚無でないもの……」

 ムムターズが呟いた。その目には、なにがしかの理解の光が燦めいていた。

「アッラーのように無限でいて、アッラーでないもの」

 ムムターズが、苦しそうに言葉を押し出した。

ファナー(自我消滅)が意味をなさず、バカー(維持)が意味をなさない境地」

「そうだ、その通りだムムターズ。お前は、正しく理解した」

「そんな途方もない境地に、ナーラーヤナ様は至ったのですか。ならば、私などは、取り残されて当然」

 ムムターズの目に、透明な涙が一雫宿った。

「そうとは言えんぞ、ムムターズ」

 道叡の目が優しくなった。

「この空の極意こそ、円に他ならない」

「円、でございますか」

「そうだ。わしが睨んだところでは、お主も円の極意に近づいておる。ナーラーヤナは、宗教の天才だが、お前は凡才だ。だが、修行次第では、ナーラーヤナの域に近づけるぞ」

「そうでございましょうか」

 ムムターズが、心許なげに嘆息した。

「夜も更けてきた。どうだ、ムムターズ、一度ナーガプル村のニザームッディーン殿のところに戻らぬか」

「いいえ、道叡様。(わたくし)はここに残ります。ヴィーナの響きの絶えるまで、ここに残ります」

「そうか」

 塚の中央に聳える竹からは、今もナーラーヤナの歌う声とヴィーナの響きが聞こえていた。どこからそんな体力を取り出すものか、ナーラーヤナは、不眠不休で歌を歌い、ヴィーナを弾き続けた。

 それは、

 賛歌

 だった。

 細く、長い竹を通しているので、言葉は分からなかったが、明瞭にそれは何かを讃えている歌だった。その透明な響きは星空に谺し、空の星々も、その歌に呼応して優雅なリズムで踊りを踊った。その音に、しばしムムターズも道叡も耳を澄ました。

 道叡は、ナーガプル村のニザームッディーンの小屋に戻ることにした。憔悴したムムターズを一人取り残すのは忍びなかったが、悟りへの道程の端緒に立ち至ったムムターズを、ナーラーヤナと二人きりにしておきたい気持ちがあった。

 ムムターズは、一人で闇の中にいた。ふと、何か不吉な予感がし、胸騒ぎがした。明日、何かが起こるのだろうか?

 そこに、不意にオズダマルがやってきた。水差しを持っていた。食べ物は、差し入れても無駄だと言うことは、最初の数日で分かっていた。何も言わずに、ムムターズの傍らの八分の一ほど飲まれた水差しと、持ってきた水差しを交換する。たったこれしか飲まないで、という悲しげな表情で、水差しを見詰める。そして、また何も言わずに、ムムターズを抱きしめた。

「お母様」

「ああ、何も言わないで、私を赦しておくれ。そして、何とかデリーに戻っておくれ」

 オズダマルは、弱々しく懇願した。しかし、ムムターズは、微笑みながら首を横に振った。

「そう、そうなんだねえ。お前は、すっかりナーラーヤナのものになったんだねえ」

 こう言って、オズダマルは寂しそうに笑った。

「これは、宰相(ワズィール)ニザームル・ムルク様からいただいた護符だけど。この胸に、縫いつけておこうねえ」

 こう言って、オズダマルは、薄い布でできた護符の袋を、ムムターズの左胸に縫いつけた。そして、篝火を焚いた一団に戻っていった。駱駝の輿に乗って、デリーに帰るのだ。ムムターズは、そのまま、塚の方を向いて座り込んだ。身も心も衰弱しきっていた。とても、道叡が言うような、〝円〟の極意など、極められるとは思えなかった。気を張り詰めていても、目蓋が自然に落ちてくるようになった。

 細い月だった。靄がかかっていて星々の光は弱々しく、辺りは闇夜に近かった。ムムターズは、ほとんど昏倒するように横たわり、束の間の眠りを眠っていた。雲が出てきた。月も、弱々しい星の光も隠されてしまった。

 いきなり、斬撃があった。

 ほとんど眠っていたはずのムムターズの体が、ゆらりと最低限動いた。必殺の一撃をかわされて、襲撃者は戸惑ったようだ。少し、間をおいて様子を見ている。衰弱しきり、半ば無意識で動いているムムターズは、かえって〝円〟の極意に近づいていた。

 ムムターズの目がはっきりと覚めた。しかし、空の雲は分厚く、辺りはなにも見えなかった。と、自分が着ている服の心臓の部分が、なにやら蛍光色に発光していた。

 さっき、オズダマルが縫いつけていった護符が、発光しているのだった。

 まずい。

 ムムターズの、戦士の血が目覚めた。自分は、闇夜で目が利かないのに、この発光する護符のせいで、敵には自分の位置が分かってしまう。

 不利だ。

 しかし、胸の護符を取ることも躊躇われた。そのわずかな動きで、隙が生まれるのを恐れたのだ。先ほどの一撃で、敵の技倆は分かっていた。相当の使い手だ。全力で当たらねば、こちらがやられる。

 ムムターズは、咄嗟に目を閉じた。どうで闇夜で目は利かぬ。ならば、目を瞑って相手の気配だけで動こう。そう心を決めたのだ。体が衰弱している分、かえって精神、意識は冴え渡り、〝円〟の極意により近づいていた。

 ゆっくりと、腰に佩いた短剣を抜く。

 そのわずかな動きが生んだ隙を、敵は見逃さなかった。敵が跳躍し、ムムターズの発光する胸元目がけて、必殺の突きを放ってきた。ムムターズは、すーっと自然な流れで短剣を顔の高さまで上げた。

 狙う必要も、動く必要もなかった。暗闇の中で、敵は一直線にムムターズが構えた短剣に向かって突進してきた。ちょうど、弓の名人の前に、的が勝手に近づいてくるように。ムムターズが、すっとほんのわずかに動いた。敵の剣は、護符をかすめ、護符を切り取って流れていった。そのまま、ゆっくりと敵の頭が、ムムターズの構えた短剣に向かってくるのが分かった。

「ぎゃああ!」

 敵の左目に、ムムターズの短剣の切っ先が突き刺さった。その短剣を、もう一突きする体力があれば、短剣は脳まで届き、敵は死んでいただろう。だが、今のムムターズには、それだけの体力はなかった。

「お、おのれー」

 敵は、羅刹のような声を出して呻きながら、逃げていった。痛手を負い、発光する護符の目印もなくなった今、鬼神のように振る舞うムムターズを相手にする気力が失せたのだろう。

 敵が去ってから、ムムターズは屈んで発光する護符の袋を取り上げた。その縫い目を切ってみる。すると、中から、明滅する光を放つ蛍が十匹ほど出てきた。はて、この季節に、蛍などいないはずだが、と不審に思った。不審と言えば、オズダマルが、あんなに夜遅くなってからやって来たことも不審だ。何か、妖術のようなものが背後にある。ムムターズは、あのスンダラムールティの、クシャッとした、一見好々爺のようでいて不気味な笑顔を思い出した。

 しかし、全てはどうでもいい。

 今、この塚の中で、愛しいナーラーヤナが、死にかけている。

 その一大事に比べれば、自分の命が狙われたことなど、些細なことだ。そう思って、ムムターズは、また塚の前に跪いた。

 夜が明けようとしていた。

 運命の日だった。



 何か、ざわついた予感があった。

 朝焼けだった。いつもなら、清々しい気持ちを与えてくれるはずの朝の陽も、今は呪わしいだけだ。雨が降らず、大地が乾き、生類が渇いている状態での酷熱の太陽は、偉大な太陽神スーリヤではなく、水の流れを塞いだ悪魔ヴリトラなのではないか、とさえ思われてくる。陽が少し昇った頃に、ラズィーヤがデリーからやって来た。腹心のヤークート・ハーンと、数十人のトルコ騎兵を従えていた。それと機を合わせたかのように、ニザームッディーンとチャイタニヤ、そして道叡の三人がナーガプル村から出てきた。少し眠りかけていたムムターズも、陽が昇ると共に目をはっきりと覚ましていた。ナーガプル村からも、何人かの村人が出てきた。そして、わらわらと湧くように、そちこちから群衆が集まってきた。周辺の村から、デリーから、何かの予感に導かれたかのように、人々が何ゲリーもかけて歩いてきていた。時が経つにつれて、その人数は膨れあがっていった。

 人々は、押し黙ったまま塚を眺めている。

 その塚から突き出た竹からは、今は少し弱々しくなったものの、ナーラーヤナの歌う賛歌が、ヴィーナの響きと共に聞こえていた。

 人々は、その賛歌を聴きながら、じっと待った。

 じりじりと陽は昇り、照り続けた。渇いた人々は、その中で、ただ立ちつくして何かを待っていた。

 陽は、じわり、じわり、と昇った。だんだん、影が短くなっていった。

 しかし、なにも起こらなかった。

 それでも、人々は何か運命のようなものを耐えながら、じっと待ち続けた。ラズィーヤも、ヤークートも、ニザームッディーンも、チャイタニヤも、道叡も、一言も発しなかった。ただ、三人の聖者の顔には、どこか翳のような不安の表情が貼り付いていた。その不吉な翳を見て、ムムターズは怯えた。ムムターズは、両肩を抱いて、小さく震えた。

 人々は石像のように動かなかった。

 陽は中天に上った。

 人々の影がなくなった。

 正午だった。

 竹から聞こえていた、ナーラーヤナの声が、不意にぱったりと止んだ。ヴィーナの音も聞こえない。

 ムムターズの肩が、ビクンと動いた。

 そして、不安げな表情をして、風の音に耳を傾けるように、耳を澄ました。

 なにも聞こえなかった。

「ひぃっ!」

 ムムターズが、小さく叫び声を上げた。

 そして、素早い動きで塚の上に登り、竹に耳を押し当てた。やはり、なにも聞こえなかった。

「いやー!」

 ムムターズが絶叫した。

「ナ、ナーラーヤナ……」

 ムムターズの顔が、土気色になった。ただでさえ窶れていた、かつては薔薇色に輝いていた乙女の頬が、一瞬にして色褪せた。

「ナーラーヤナ、ナーラーヤナ、ナーラーヤナ、私のナーラーヤナ!」

 ムムターズは、喉も張り裂けよとばかりに叫んだ。

「お願い。私を一緒に連れて行って。地獄でもいい、天国でもいいから。どこまでも、どこまでもお側に……」

 竹の先を揺さぶりながら、ムムターズが必死に訴えかける。だが、もう竹の先からは、ひそりとも音は聞こえなかった。妻のつとめ。そう妻のつとめとして、覚悟は決めたつもりだった。だが、今こうして独り取り残されると、その覚悟もなにも吹き飛んだ。

「ナーラーヤナ、ナーラーヤナ……。私を置いて……」

 両手で竹を握りしめながら、ムムターズは頭を下げて慟哭した。

 と、ムムターズの手が素早く動いて、藍色のものを取り出した。硝子の小瓶だった。その小瓶の蓋を捻った。

 道叡の右手が、閃いた。

 ムムターズの手元で、赤い達磨人形が砕け散り、藍色の小瓶は、向こうに弾き飛ばされた。チャイタニヤが、老人とは思えない俊敏さでその小瓶を拾い上げた。硝子の小瓶には、傷一つなかった。硝子の小瓶の代わりに、達磨人形が砕け散ったように思われた。

 ムムターズが、佩いていた短剣を取り出し、喉を突こうとした。その手を、走り寄った道叡ががっちりと押さえた。

「早まるな、ムムターズ」

「いや!」

 ムムターズが、嫌々をするように首を振った。

「ナーラーヤナ、ナーラーヤナ、私も行きます。いつまでも、いつまでもご一緒に、お側に」

 道叡に手首を押さえられているにも拘わらず、ムムターズは必死の力でそれを振り払い、喉を突こうとした。切っ先が皮膚を切り裂き、真っ赤な鮮血が流れた。道叡は慌てて、今度はしっかりとムムターズの手を押さえ込んだ。

「いや! いやです。道叡様、手をお放し下さい」

 ムムターズは、泣き叫んだ。

 身を揉んで悶えている。

「ムムターズ、はやまるな!」

 道叡も、負けじと叫んだ。

 と、そのときだった。

 ムムターズの頬に、何か小さく冷たいものがぶつかった。

 頭にも。

 肩にも。

 手にも。

 痛かった。だが、何だか心地よかった。

 湿った風が、ひんやりと肌を冷やした。

 ざわざわと、湧き立つ予感があった。

 道叡の頭にも、同じような小さなものがぶつかった。

「こ、これは」

 道叡は、驚いて空を見上げた。

 降ってきていた。

 雹だった。

 大粒の雹が、バラバラと降ってくるのだった。ぐんぐんと黒い雨雲が広がり、やがて、沛然として雨が降り始めた。立ち竦み、耐えて待ち続けていた人々の上に、ごうごうと雨が降り始めたのだ。人々は、両手を広げて天を振り仰いだ。

「奇跡だ!」

 群衆の誰かが叫んだ。

「奇跡だ。クリシュナの奇跡だ」

「ハレ、クリシュナ、ハレハレ」

「おお、ハレ、クリシュナ、ハレハレ」

 人々が、歓喜の涙を流しながら叫ぶ。抱き合う。地に伏して、天を仰ぎ、両手を組んで拝む。鋤や鍬を振り上げ、打ち鳴らす。気が狂ったように笑う。赦し、赦しあう者の上への、そして、赦しあえぬ者たちの上への奇跡。

 さすがのムムターズも、呆気にとられて、喉を突くことも忘れ、天を振り仰いでいる。その顔に、大粒の雨が降りかかる。髪が濡れ、顎から水滴がこぼれ落ちる。その隙に、道叡が短剣を奪い取った。

「こ、これは」

 ラズィーヤが傍らのヤークート・ハーンに言った。

「これは、(まこと)にナーラーヤナが行った奇跡なのであろうか?」

「分かりませぬ」

 さすがに剛毅なヤークート・ハーンも、この奇跡には肝を潰したらしい。畏れのあまりに、言葉も出ず、ただずぶ濡れになっている。

「おお、アッラーは誉め讃えられてあれ」

 馬上のトルコ貴族たちも、天を振り仰いで祈りの言葉を発する。

「これは」

 道叡が、唸るように言った。

「真の奇跡だな」

「まさに」

 チャイタニヤが応じた。ニザームッディーンも、同意とうなずいた。

「わしらの、他愛もない通力とは格が違う。本当の奇跡を、ナーラーヤナはなし遂げたのだなあ」

 道叡が嘆息する。ニザームッディーンも、チャイタニヤも、がっくりと肩を落として降りしきる雨を眺めている。雨の代わりに失った者は、あまりにも大きい。しかし、これも神の意志なのだ。

 雷が鳴った。

 辺りは白光に包まれ、天が割れ落ちるような轟音が鳴り響いた。しかし、その轟音でさえ、今は人々が発する歓びの声への伴奏に過ぎない。人々は、酔ったように笑いながら踊り狂った。

「ハレ、クリシュナ、ハレハレ」

「おお、ハレ、クリシュナ、ハレハレ」

 歓びの声は、バーラタ(インド)の地、全土に響き渡るようだった。雨は激しく降り注ぎ、豪雨となって人々を打った 。それでも、人々は歓喜に我を忘れ、踊り狂った。

 ラズィーヤが、白馬を進めた。白馬を降りて、塚の上で、泣き伏しているムムターズに声をかける。

「愛しいムムターズ。我が娘よ、さあ、デリーへ帰ろう」

 ムムターズは応えない。ラズィーヤは、塚の上まで登り、呆然として雨を見ているムムターズを抱きしめた。

「さあ、娘よ。デリーに帰ろう」

「いいえ、スルターン」

 ラズィーヤの言いつけに逆らったことのないムムターズが、首を横に振った。

「私は、ここに残ります。ナーラーヤナ様のお側に。永遠に」

「ムムターズ、お前……」

 ラズィーヤは絶句した。

「このナーガプル村に、小さな小屋を建ててくださいませ。そこに住んで、ずっとこのナーラーヤナ様のお墓をお守りいたします」

「どうあっても、デリーには戻らぬと申すか」

 ラズィーヤの声には、困惑と、しかし優しい響きがあった。そこにオズダマルがやってきた。

「スルターン、お慈悲でございます。ムムターズの言うとおりに。この通り、お願いでございます」

 こう言って、オズダマルはラズィーヤの前に跪き、額ずいた。

「オズダマル、お前はそれでよいのか」

「はい、スルターン。若い二人を、無碍に引き裂こうとした身でございますれば。今度ばかりは、娘の言うとおりにしてやりたいと」

「そうか」

 意を決したらしく、ラズィーヤは、さっと身を翻した。

「ヤークート」

「スルターン」

「ナーガプル村の中に、ムムターズの住む小屋を建ててやってくれ」

「御意」

「ムムターズ、幸せに暮らすのだぞ。何か困ったことがあれば、いつでもデリーにおいで。お前の訴えは、誰の訴えよりも早く聞こう」

 ムムターズは、ラズィーヤに向かって額ずいた。

 オズダマルが、従者に持たせた、油紙に包まれたものをニザームッディーンに手渡した。

「ムムターズの着替えでございます。あの有様で、これ以上雨に打たれれば、風邪を引いてしまうことは必定。なにとぞ、これに着替えさせていただいて……」

「これは、用意のいいことだのう」

「はい、あの様子では、もし雨が降ったときに、と思いまして……」

「分かった。母御よ。これ、ムムターズ」

 ニザームッディーンに呼びかけられて、ムムターズはニザームッディーンの方を向いた。

「いつまでもそこで嘆いていても、せんないこと。何ごともアッラーの思し召しじゃ。さあ、そこから降りてきて、わしの小屋で沐浴し、着替えるのじゃ」

 ムムターズは、案外素直にうなずいた。

 そして、竹に口づけをした。

 ナーラーヤナの生前には、一度も叶わなかった口づけだった。夢にまで見た口づけだった。竹が、少し震えたような気がした。その震えを、歓びに目を見開いてムムターズは見詰めた。

 それから、意を決したように塚から降りてきた。

「あら」

 ムムターズが、驚いたように声を出したので、ニザームッディーンも、チャイタニヤも道叡もラズィーヤも、そしてオズダマルもムムターズの視線の先を追った。

 そこには、緑の双葉が一つ可愛らしく芽を出していた。

「ほう、雨のおかげじゃな。よい(しるし)じゃ」

 チャイタニヤが、独りごちた。

「さあ、みなの者、それぞれの家に帰るのじゃ。そして、思う存分畑を耕せ。沐浴もせよ」

 ラズィーヤが、大きな声で叫んだ。「ハレ、クリシュナ」と踊り狂っていた人々も我に返り、家路を急ぎ始めた。

「それでは、ムムターズよ、今日はさらばじゃ」

 さっと白馬に跨り、ラズィーヤはヤークート・ハーンとトルコ騎兵たちを従えてデリーへと向かった。オズダマルも、駱駝の輿に乗り、ラズィーヤの後を追った。

 ムムターズは、ニザームッディーンたち三人に囲まれ、ナーガプル村に入っていった。



 次の朝、十日ぶりに沐浴し、爽やかな顔になったムムターズが起き出してきた。その顔には、憂いの痕がくっきりと残っていたが、生き抜いていく意志力もいささかよみがえっているようだった。ナーラーヤナの塚を守る。その使命感があった。昨日の夜、ラズィーヤから、夕食用にと大急ぎで下賜された、洋燈で温められた肉入りのスープや、様々な果物のジュースと、砂糖入りのチャイを少しずつ飲んだので、体力も僅かながら回復していた。ニザームッディーン、チャイタニヤ、道叡も、小屋から出てきた。

 雨は、まだしとしとと降っていたが、既に豪雨というような降り方ではなくなっていた。ムムターズの足は、自然にナーラーヤナが葬られている塚の方に向かった。三人の聖者もついていった。ふと気がつくと、足下に昨日の双葉があった。心なしか成長していた。踏みつけないように気をつけながら、ムムターズは、その双葉の前に跪き、双葉に口づけをした。双葉が、歓びにふるふると震えた、と見えた。

 と、その双葉がぐんぐんと伸び始めた。

「おお」

 道叡も、ニザームッディーンも、チャイタニヤも、一様に驚きの声を上げた。

 双葉は成長し、あっという間に幹になった。幹が、地面から湧き出でるように伸びでて、たちまちのうちに太くなる。その幹から、四方に枝が生える。見る見るうちに、若葉がその枝に萌え出でた。ぐんぐん、ぐんぐん幹は地面から、次から次へと湧き出で、吹き上げてくる。枝もまた、ぐんぐんと伸び、若葉が盛んに繁っていく。その木は、菩提樹だった。もう、背の高い道叡の頭上まで伸びている。

「これは驚いたなあ」

 道叡が、嘆息した。

「まったく、ナーラーヤナには驚かされるばかりだ」

「では、これもナーラーヤナ様が行われた奇跡なのでしょうか」

 ムムターズが、道叡に訊ねた。

「どう思われる。ニザームッディーン殿、チャイタニヤ殿」

「うむ」

 道叡に話を振られて、ニザームッディーンが白い顎髭をしごいた。

「やはり、これはナーラーヤナの奇跡の一環なのだろうのう」

「うむ」

 チャイタニヤも、胸を掻きながらうなずいた。

「これほどの木が、瞬くうちに生長するとは、まさに奇跡じゃな」

 ムムターズの頬に、微かに赤みが差した。どこか嬉しげに、そして誇らしげに、ムムターズは微笑み、胸を反らした。菩提樹の幹を抱き、しばらくそうした後に、軽く口づけをした。そうしている間も、菩提樹は成長を続けていた。

 四人は、菩提樹の背後に回り、ナーラーヤナの塚に参った。ムムターズは、ナーラーヤナの塚の前に跪き、心を無にして祈った。アッラーに祈っているのか、ブラフマンに祈っているのか、はたまたクリシュナに祈っているのか、自分でも定かではなかった。何か、この宇宙を統べている、大いなるものへの畏怖に満ちた祈りだった。

「どれ、朝食でも食べようかのう」

 ニザームッディーンが言った。その頬は、愛弟子を失った哀しみのため少し(やつ)れている。ニザームッディーンの言に従って、一同はニザームッディーンの小屋に帰った。また、挽き割りまめのスープとチャイとチャパティの朝食を摂ろうとした。そこへ、ラズィーヤの使いが来て、昨夜と同様に洋燈で温められたスープと、新鮮な果物の果汁などが届けられた。ムムターズは、まだチャパティを食べる元気はなく、肉入りのスープを少々とチャイ、それに果物のジュースを飲んだ。

「さて、ムムターズ。お主は、もう少し休んだ方がいいぞ。まだまだ、体力は回復しておらん」

 道叡が言うのに、「はい」と答えながら、それでもムムターズは寝ようとはしなかった。

「もう一度、あの菩提樹が見とうございます」

「おお、そうだのう。あの調子なら、今は相当の大木に育っておることじゃろうのう」

 ニザームッディーンが、手もなく賛成した。チャイタニヤも道叡も、否やがあろうはずもない。連れだって、菩提樹を見ようと、小屋の入り口に掛けてある布をはねのけた。

「おお!」

「こ、これは!」

 一同は、一様に驚きの声を上げた。ナーラーヤナの墓があるはずのところに、途轍もない巨木が生えていたのだ。ざっと見たところ、高さ三十ガズ(二十一メートル)はあるだろうか。視線の上に広がる樹冠は、さながら森である。これが、あの、朝は双葉に過ぎなかった菩提樹なのだろうか。

「いつの間に……」

 ニザームッディーンが、呟いた。一同、同じ思いである。

「行ってみよう」

 道叡が、先に立って歩き出した。ニザームッディーンの小屋から、四分の一ゲリー(六分)も経たずに件の菩提樹の下までたどり着いた。根本に立って見上げると、巨木の大きさを改めて思い知らされる。太い根が縦横に走り回っている。太さが、一ガズ(七十センチ)ほどもあるだろうか。ちょうど、道叡の頭の上辺りから、枝が横に伸びて樹冠を形成している。そして、枝々には、黄色い花が咲いていた。その花から、甘い香りが漂ってくる。幹の太さは直径が三ガズ(二メートル)ほどもあるのだろうか。四人が手を連ねて、やっと幹の周りを囲めるほどである。

 裏に回ってみると、巨木の根はナーラーヤナの塚を囲むように廻っていた。まるで、塚を守っているかのようだった。

「こんなものが、朝餉の合間に成長するとはのう」

「本物の奇跡とは、まこととんでもないものじゃな」

 老人二人が、話し合う。道叡は違うことに着目していた。村人の様子がおかしいのだ。ナーガプル村から、朝の野良仕事に出てくる村人たちが、この異様な菩提樹に驚きもせずに、まるで、この巨木は千年の間ここに立っていた、と言わんばかりの態度で歩きすぎていくのだ。目もくれないとは、このことだ。

「ムムターズ、村人を見ろ」

「はい、道叡様。(わたくし)も、おかしいと思っておりました」

 そこに、馬の群れがやって来た。ラズィーヤと、その護衛のトルコ騎兵たちだった。ラズィーヤは、馬を下りると、ムムターズに近寄って言った。

「よく寝られたか、ムムターズ」

「はい、スルターン、お陰様で」

 答えるムムターズが、しかし憔悴しきった顔であることには、ラズィーヤも気がついている。

「聖者、ニザームッディーンよ。昨夜と今朝は、差し出がましいのを承知で、ムムターズへ食料を届けたが、迷惑ではなかっただろうか」

「おお、迷惑などということはなかったのう。ご寄進は、ありがたくみんなで頂戴したでのう」

「では、これも、余から、ムムターズを預かってくれていることに対するお礼である。受け取ってくれるだろうか」

 ラズィーヤがそう言うと、従者が、大盛りの果物籠を持ってきた。そして、銀の器の下に洋燈が灯され、まだ湯気を上げているスープが運ばれてきた。やはり籠に大盛りのチャパティ、それに銀の大皿に羊の焼き肉が盛られ、これも洋燈で暖められていた。

「朝食は、すでにすんだだろうが、せめてムムターズにこの果物の一口なりと食べさせて欲しいのだが」

「おお、これは、ありがたいな」

「では、この寄進を受け取ってもらえようか」

 ラズィーヤが、それでもまだ心配げに聞いた。清貧を尊ぶ真正のスーフィーに出過ぎた真似だと叱られはしまいか、と危惧しているのである。昨夜も今朝も、ずいぶんそれで気を揉んだのである。

「うむ、食事はすませたばかりだがのう、なに、若い体じゃからのう。ご喜捨いただいたものは、ちゃんとムムターズの腹に収まることじゃろうて」

 ニザームッディーンが、笑った。だが、その笑いには、やはり翳が宿っている。

「まあ、ニザームッディーン様」

 ムムターズが、顔を真っ赤にしてニザームッディーンを睨んだ。その様子が少し元気そうだったので、ラズィーヤもほっとして笑った。

「さあ、それでは、この菩提樹の木陰で食べるとしよう。それにしても、ナーラーヤナも、ちょうどいい墓標の(もと)で亡くなったものだな」

 そう言いながら、ラズィーヤは、菩提樹の幹をぽんぽんと叩いた。

 言ってから、ラズィーヤは、しまった、という表情をした。今、ムムターズにナーラーヤナのことを思い出させるのは、まずい、と思ったらしい。

 だが、ムムターズと道叡は、別のことに気がいっていた。ラズィーヤも、この菩提樹が、昔からこの場所に立っていたと思い込んでいるのだ。ナーガプル村の、この辺りの地形を知るもの全てに、この木は昔から立っていたと思い込ませているのだろうか。だとしたら、それはどんな途方もない力なのだろう。

 一同は、樹冠の下にペルシャ絨毯を敷き、その上にご馳走を並べた。十日近い絶食の後、無理をせずに滋養のある飲み物だけを飲んでいたのがよかったのだろう。ムムターズは、食欲をいささか取り戻していた。マンゴー、バナナ、グアバなどの果物を小鳥が啄むようにつまむ。肉のたっぷり入ったスープを一口飲む。チャパティを食べる。羊の肉まで、一切れ食べた。三人の聖者たちは、普段は質素な暮らしに慣れているが、食べ物があるときは遠慮しない。元来は、菜食主義のバラモンであるはずのチャイタニヤまでが、羊の肉を美味そうに頬張っている。まだまだ若い道叡などは、かなり旺盛な食欲を見せる。ニザームッディーンのみが、なんとなく心ここにあらず、という感じであまり食べ物に手を付けない。やはり、愛弟子の死に心を痛め、食欲を失っているのだ。スープのみを、ちまちまと啜っている。チャイタニヤと道叡が、時折そんなニザームッディーンを気がかりそうに見やる。

 こうして、ムムターズの無事を確かめたラズィーヤが、帰っていくと、道叡がおもむろに言った。

「どれ、ムムターズ、今一度ニザームッディーン殿の小屋で眠った方がよい。その憔悴しきった顔、見ておれんぞ」

「でも、道叡様、(わたくし)は昨夜、ゆっくりと寝させていただきました」

「そう思っておるのは、お主だけだ。さあ、帰ろう」

 そう言って道叡が先頭に立つと、ムムターズも渋々従った。ムムターズは、何度も背後を振り返り、ナーラーヤナの眠っている塚を見た。

 こうして、一週間が過ぎた。その間、毎日ラズィーヤから食事が届けられた。哀しみに押しひしがれたムムターズだが、若い体が眠りを欲した。なかなか寝付けない夜もあったが、とにかく横になっているだけで体力は徐々に回復していった。それに連れて、食欲も戻ってきた。むしろ、今では明らかに生き甲斐を失っているニザームッディーンが、残る三人から気遣われるほどになっていた。

 ニザームッディーンは、ナーラーヤナの死以後、気鬱の病、マリフリヤ(メランコリー)に陥っていた。愛弟子、という点では、チャイタニヤも同様かも知れない。しかし、なんと言っても歳が違った。老い先短いニザームッディーンにとって、ナーラーヤナは生き甲斐そのものだった。それを失った、心の痛手は大きい。かと言って、自らの命を絶つなどと言うことは、敬虔なイスラム教徒としてあってはならないことだった。

 マリフリヤ。=メランコリー。

 今、ニザームッディーンが戦っているものは、この気鬱の病だった。

 そうした、ニザームッディーンを気遣いながら、道叡が、何か決意のようなものを滲ませて言った。

「さて、せっかくああやって菩提樹が育ったのだ。一つ、座ってみるとしようか。どうだ、皆の衆。悟りを得たナーラーヤナの力で育った菩提樹だ。相応の功徳があるやも知れん」

 決意は滲んでいるが、どこかに泰然とした余裕がある。ナーラーヤナの死を目にして、かえって道叡も一皮むけたらしい。今日悟れねば、明日座ればよい。明日が駄目なら、明後日。死ぬまで悟られなかったら、それもまた定め。慫慂として受け入れよう。そういう境地のようだ。

「おお、それはいい考えじゃな。どれ、わしも一つ、その仏教風の禅定とやらをしてみるとしようか」

 チャイタニヤが、相好を崩して言った。

「ふむ、わしも一つ、真似をしてみようかのう」

 己の心を気丈に奮い立たせて、ニザームッディーンが言った。円の極意を習うときに、道叡と一緒に座禅を組んだムムターズも、それに従う。

 四人は、仏陀の先例に倣って、乳粥を食べた。それから、あの巨大な菩提樹の下に行った。

 三人の聖者と、一人の乙女が、菩提樹の下で座禅を組んだ。すぐさま、四人は深い三昧境に入った。

 時が流れた。

 それから三日三晩、四人は深い三昧(サマディー)の極致にいた。

 真夜中、月の光が三人の聖者と一人の乙女を照らした。その光は、鱗粉のようにさらさらと四人の上を滑った。

 と。

 どこからともなく、ナーラーヤナが弾くサラスヴァティー・ヴィーナの、神のラーガの旋律が聞こえてきた。その旋律は、三昧の極致にいる三人の聖者の魂を宇宙に(いざな)った。そして、その意識を、ナーラーヤナの意識と同調させた。ナーラーヤナの意識は、遙かな高みにいる。しかし、三人の聖者たちは、ヴィーナの語る音律の調和に導かれ、その高みまで登っていきそうだった。

 三人の聖者が、ナーラーヤナに導かれて悟りを得るのではないかと思われた。

 と、そのとき、ニザームッディーンの体が膨らんでいった。その体は、全宇宙を覆うかに思われた。その口から、暗黒の影が吐き出された。それは、マリフリヤ(憂鬱)だった。ニザームッディーンの心を蝕むもの。いや、全宇宙の純粋精神を蝕むもの。気鬱の病、マリフリヤ。その暗黒の影を見て、さしも気丈な道叡も恐れに戦いた。チャイタニヤもまた同様である。

 それは、破調だった。宇宙の根源的な調和を打ち破るもの。人間の心を、宇宙の精神を折り、砕かせるもの。シャイターンなどより、遙かに原初的な不条理。それがマリフリヤだった。

 これが、ニザームッディーンの闘っているものの正体か。俺なら、こんなものとは拘わり合いたくないな。道叡は、そう思いながらも、マリフリヤの影をじっと見詰めた。薫子が寂滅したら、俺もこんな気分になってしまうのだろうか。拘わりたくない、という気持ちとは裏腹に、いざ、一つ格闘してみようか。そんな気概もあった。しかし、マリフリヤの影の奥には、何か宇宙的な輝きがあった。何か、燦めいているもの。

 不意に道叡は理解した。その燦めくものこそ、ニザームッディーンの信仰心であると。道叡は、己の心を探った。自分にも、確かな仏教に対する信仰心がある。そう確信できた。マリフリヤは、闘う相手ではなかった。

 光と闇とは等価だった。

 チャイタニヤは、ブラフマンの海に融け込んでいた。チャイタニヤのアートマンは、ブラフマンと完全に一体化していた。そこに、チャイタニヤは、ニザームッディーンの吐き出したマリフリヤの暗黒を見た。その暗黒を見ている〝我〟を、チャイタニヤは意識した。ブラフマンの海に融け込みながら、存在する〝我〟。ブラフマンもアートマンも超越するもの。その〝我〟を侵す宇宙的な虚無、マリフリヤ。チャイタニヤは、それを乗り越えようともがいた。ふと気がついた。それは、マリフリヤは乗り越えるものではなかった。むしろ、受け入れるべきものであった。

 傍らで、道叡とチャイタニヤがそんな苦闘をしているとも知らぬげに、ニザームッディーンは瞑想を続けていた。

 不意に、マリフリヤの暗黒の根源であるニザームッディーンが、豁然として目を開いた。そして、昂然と頭をもたげ、獅子吼した。


 存在とは空である。

 空とは、ブラフマンである。

 ブラフマンとは、アッラーである。

 畢竟、アッラーとは空である。

 そうであってみれば、我、ニザームッディーン・チシュティーも空である。

 ニザームッディーン・チシュティーは、存在しない。

 ニザームッディーン・チシュティーは、永遠にある。

 畢竟、空は空である。


 我、ニザームッディーンは、そう悟った。


 瞬間、ニザームッディーンに導かれて、道叡とチャイタニヤが、ナーラーヤナのいる高みまで飛翔した。漸近線を軽々と飛び超え。ナーラーヤナが、にこやかに笑いながら飛翔してくる三人を抱き留めた。そのまま、三人はしばらくその境地に遊んだ。


 目を開いたニザームッディーン・チシュティーが、傍らを振り返ると、チャイタニヤ・デーヴァも、道叡も悟っていた。

「同時に」

「悟ったようだな」

 チャイタニヤと道叡が言った。

 その言葉を聞いて、ムムターズが目を開いた。

「ニザームッディーン様たちは、悟られたのですか」

「うむ」

 道叡が(うべな)った。

(わたくし)は、また置いて行かれてしまいました」

「あっはっはっは」

 道叡が、闊達に笑った。

「ムムターズ、我らが悟りを得るまでに、幾年の修行があると思っておるのだ。いくらナーラーヤナとの機縁があるとはいえ、今、お前に悟られたのでは、我らの立つ瀬がないぞ」

「そうではございますけど」

 ムムターズが、膨れた。道叡が、その頭を撫でた。限りない慈愛に満ちた撫でようだった。ムムターズの愁いに満ちた顔が、少し和らいだ。月の光が、四人を優しく照らした。

 不意に、ナーラーヤナの竹から、賛歌が一節漏れ出てきたかのように聞こえた。

 しかし、それは幻聴のようだった。



「さあ、ナーラーヤナの犠牲の上にではあるが」

 こう言って、ラズィーヤは、傍らのムムターズをちらりと見た。しかし、ムムターズはいささかも動揺を見せなかった。ラズィーヤは、ほっとした。スルターンの従姉妹として上席にいるオズダマルも、同様にほっとした表情である。

「無事に天の恵みの雨も降った。今宵は、宴じゃ。存分に、飲み、かつ食らうがいい」

 ラズィーヤが、晴れ晴れとした顔で言った。ラズィーヤが座ると、人々はそれぞれの宗教の祈りを捧げた。スンダラムールティが、いやに長い祈りの文句を唱えた。その祈りの文句は、余人は知らないが、実はアタルヴァ・ヴェーダの呪いの呪文だった。宴席に連なる人々に、一種の催眠術をかけたのである。

 イスラム教徒の着る、白い衣服に身を包んだトルコ貴族たちが居並ぶ。所々に、ジャーティ(カースト)に応じて様々な色の衣服を着たヒンドゥー教徒がいる。末席には、奇跡を起こしたナーラーヤナの縁に連なるものとして、ニザームッディーン、チャイタニヤ、道叡の姿も見える。ラズィーヤの宮廷の、中庭にある噴水に面した一角である。床も、周りの柱も大理石で造られている。そこに楽士たちが待機している。

 スンダラムールティは、呪文を唱え終わると、おもむろにラズィーヤの隣の席に移動した。咎めるものは、誰もいない。

 食前の祈りが終わると、続々と料理が運ばれてきた。そして、楽士たちが演奏を始め、噴水の向こう岸では、肌も露わなシュードラの女たちが、数十人も並んでゆっくりと腰を振りながら典雅な踊りを踊り始めた。ラズィーヤの左隣には宰相(ワズィール)のニザームル・ムルクが、右隣には、スンダラムールティが座っている。さらにその右隣に、サドゥラー・カーンがやって来て座った。サドゥラー・カーンも、チャハルガーニー(四十人)の一翼を担うトルコ貴族とはいえ、まだ若輩者で位階は低い。本来は、こんなにスルターンに近い席には座れないはずであるのだが、スンダラムールティの妖術によって、こんな上席に座っても、誰も怪しむ者はいない。サドゥラー・カーンの左目には、痛々しく白い包帯が巻かれている。抑えても、血がにじんで赤くなっている。

 スープの皿を、ラムジラルが持ってきた。ラズィーヤ、スンダラムールティ、サドゥラー・カーンの三人の前に置く。本来なら、シュードラのラムジラルが、スルターンの配膳を行うなど、あってはならぬことである。これもまた、スンダラムールティの妖術である。ラムジラルは、心ここにあらず、というぼんやりとした目をしている。他の配膳係が、スープが三人分入った銀の鉢を持ってきた。ラムジラルが、その鉢から、各自の皿にスープを盛ろうとする。

 すーっ、とゆったりとした動きで、スンダラムールティの左手が動いた。懐から、藍色の硝子の小瓶を取り出す。そして、その中身を今ラムジラルが持つ銀の鉢に入れた。さすがに、スルターン・ラズィーヤの目の前で、ラズィーヤの皿に毒を入れることはできない。ラムジラルは、ラズィーヤ、スンダラムールティ、サドゥラー・カーンの皿にスープを盛った。

 スンダラムールティは素早く藍色の小瓶を懐にしまうと、黄色の硝子の小瓶を取り出した。その中身は、既に自分とサドゥラー・カーンは飲んでいる。ラズィーヤが死んだどさくさに紛れて、銀の鉢と、自分の皿とサドゥラー・カーンの皿に黄色い小瓶の解毒剤を入れて素知らぬ顔をするつもりである。そうすれば、銀の鉢から盛ったスープには、毒が入っていなかったことになる。怪しいのは、スルターン、ラズィーヤの皿ということになる。その皿を運んできたラムジラルこそが最大の容疑者というわけだ。

 真っ先にラズィーヤが焼き肉の切り身を手に取った。それに倣って、人々が思い思いの料理に手を延ばす。ラズィーヤが、まだ湯気を立てているスープを一口飲んだ。すぐに、スンダラムールティとサドゥラー・カーンもスープを飲んだ。スンダラムールティも、ニザームル・ムルクも、サドゥラー・カーンも、期待に満ちた目でラズィーヤの様子を見守る。しかし、なにも起こらない。ラズィーヤは、平然とスープを飲み続けている。スンダラムールティの目に、初めて狼狽の色が浮かんだ。

「お待ち下さい、スルターン」

 ムムターズが立ち上がり、ラズィーヤの席までやって来た。

「なにごとじゃ、ムムターズ。いかな我が娘といえども、宴席の座での無礼は許さんぞ」

 ラズィーヤが、本当の愛娘を叱るような優しい口調で咎めた。

「スルターンのお命を狙う陰謀がございます」

「なに、余の命じゃと」

「はい」

 ムムターズは、恭しくうなずくと、懐から藍色の硝子の小瓶を取り出した。

「これと同じ小瓶を、スンダラムールティも持っているはず」

 そう言って、有無を言わさずに、ムムターズはスンダラムールティの懐を探った。そして、藍色と黄色の小瓶を取り出した。

「この、私が持っております藍色の小瓶は、本来スンダラムールティが持っているはずの瓶でございます。スンダラムールティの作った毒液が入っております。私が盗み出し、こちらの、今スンダラムールティが持っていた藍色の瓶とすり替えておきました。デリーの街の、硝子細工が巧みな職人に、そっくり瓜二つのものを作ってもらったのでございます。私が、今スンダラムールティの懐から取り出しましたこの瓶に入った液体は、無害でございますが、それを知らないスンダラムールティは、スルターンのスープにこれを入れたのでございます」

 と言って、懐から、別の小瓶を取り出した。今度は、真紅の硝子の小瓶である。

「この真紅の瓶に入っている液体をニザームル・ムルクのスープに入れてみます」

 そう言って、ムムターズは落ち着いてニザームル・ムルクとヤークート・ハーンのスープに真紅の小瓶の液体を入れた。

「何も起こらないではないか」

 事実、ニザームル・ムルクとヤークート・ハーンのスープには、なんの変化も起こらなかった。

「はい。でも、これをスルターンのスープに入れますと」

 今度は、真紅の小瓶の液体を、ラズィーヤ、スンダラムールティ、サドゥラー・カーンのスープの皿に入れた。すると、さっとスープが、真紅の血の色に染まった。

「こ、これは」

 ニザームル・ムルクの隣に座っていたヤークート・ハーンが声を上げた。対照的に、ラズィーヤは、無言で、ムムターズを見詰めている。その顔には、落ち着きがある。

「この、私がスンダラムールティに持たせた藍色の小瓶に入った液体は、無害でございます。しかし、こちらの真紅の小瓶の液体と反応して、真紅に染まります。チャイタニヤ様に、調合していただきました。一方、この」

 こう言って、ムムターズは毒の入った藍色の小瓶を目の高さに掲げた。

「私が、ニザームル・ムルクの部屋から盗み出した小瓶には、猛毒が入っております」

 うなずいて、ラズィーヤは厳しい顔になった。

「これは、どういうことじゃ、スンダラムールティ」

「しかもスルターン、本来ならスンダラムールティやサドゥラー・カーンは、このような上席にはいないはずでございます」

「あ」

 さすがのラズィーヤも、この指摘には驚いた。今の今まで、何の不審も抱かなかったのだ。

「スンダラムールティ。全てお前の仕業じゃな」

 冷酷な声で、ラズィーヤがスンダラムールティを問い糾した。さすがのスンダラムールティも、咄嗟に申し開きができなくなっている。何よりも、この場に連なる者たちに、席順や、シュードラが配膳を行っていることを、奇異に思わせないようにかけておいた催眠術に、ムムターズが全くかかっていなかったことが衝撃だったのだ。

「余を、謀殺しようとしたのじゃな」

「ス、スルターン」

 いつもは、落ち着いているスンダラムールティが、明らかに動揺している。これだけで、自白したも同然だ。追い詰められたスンダラムールティは、咄嗟に妖術を使おうとした。姿を消して、逃げようとしたのだ。しかし、妖術が使えなかった。ますます、スンダラムールティは慌てた。末席に座っているニザームッディーン、チャイタニヤ、道叡の力によって、妖術が封じられているのだ。

「人間で試すのは、危険すぎますので、何かの動物で試していただきたいと思います」

 こう言いながら、ムムターズはラズィーヤに毒の瓶を渡した。

「それから、この黄色い小瓶には、その藍色の瓶に入っている毒の解毒剤が入っております。自分たちは事前にこれを飲んでおいたものと思われます」

「スンダラムールティ、そなたには、後でじっくりと申し開きしてもらおう。その場には、ニザームッディーン、チャイタニヤ、道叡の三聖者にも臨席してもらおう」

 スンダラムールティの顔が蒼くなった。三人の聖者には、自分の妖術が効かないことを悟ったのだ。

「おのれ! 小娘!」

 叫んで、サドゥラー・カーンが、短剣でムムターズに斬りかかった。あっという間のことだったが、油断なく身構えていたムムターズはすぐに反応した。腰に佩いていた短剣を抜き、応戦する。しかし、長い断食で体力が弱っているムムターズは、片目のサドゥラー・カーンに対しても、押され気味である。サドゥラー・カーンも、長剣ではなく、慣れない短剣なので闘いにくそうだ。周りにいた貴族たちは、慌てて難を避けた。

 さっとラズィーヤが立った。

 ラズィーヤが、傍らのヤークート・ハーンの腰から剣を抜いた。そして、ムムターズとサドゥラー・カーンの間に割って入った。サドゥラー・カーンの目に、怯えが走った。普段は強気なことを言っているが、ラズィーヤの剣技を恐れているのだ。

「うわぁぁあ!」

 叫び声を上げながら、サドゥラー・カーンがラズィーヤに斬りかかった。ラズィーヤは、こともなげにそれを避ける。ラズィーヤの長剣が走り、サドゥラー・カーンの左手が切り落とされた。真っ赤な鮮血が噴出した。

 サドゥラー・カーンに勝機はない。しかし、スルターンの暗殺に拘わった一味であることは誰の目にも明らかである。闘わずに逃げても、どうせ命はない。

 サドゥラー・カーンは、死にもの狂いで必殺の突きを放った。しかし、ラズィーヤはその突きを受け止めた。一合、二合、三合目はなかった。ラズィーヤの長剣に、サドゥラー・カーンの短剣は弾き飛ばされた。次の瞬間、サドゥラー・カーンの右肩から胸にかけて、ラズィーヤが袈裟懸けに切り下ろした。大きな叫び声を上げて、サドゥラー・カーンは大量の血を流しながら倒れ臥した。

 満座のトルコ貴族たち、高位のヒンドゥー教徒たちが立ち騒いだ。

「殺してはおらぬ。医者を呼べ」

 冷静な声で、ラズィーヤが言った。

「スルターン、ありがとうございました」

 ムムターズが、頭を下げる。ラズィーヤが、その頭を撫でる。

「何を言うか。余の命を救ってくれたのは、そちじゃ」

 混乱に乗じて、スンダラムールティが、紫衣を翻して逃げようとした。しかし、先に回り込んでいた道叡に、がっちりと手を押さえられて、ただでさえ青黒い顔を真っ青にしている。

宰相(ワズィール)、ニザームル・ムルク・ジュナイディ」

 ラズィーヤが、冷たく厳しい声を出した。

「サドゥラー・カーンは、そなたの腹心の陪臣。スンダラムールティも、そなたの腹心。此度の余の暗殺計画、よもやそなたが関係しておるのではあるまいな」

 ラズィーヤの詰問に、ニザームル・ムルクは、素知らぬ顔をして「知りませんな」とだけ答えて、不興げに席を外そうとした。

「お待ち下さい!」

 ムムターズが厳しい声を出した。

「私は、宰相ニザームル・ムルク様の部屋に忍び込み、スルターン謀殺の謀議を聞きました。さらに、この毒の入った藍色の小瓶も、ニザームル・ムルク様の部屋から盗み出したものです」

「ほう、わしの部屋に忍び入ったとな。また、わしの部屋から物を盗み出したと。スルターン。仮にも私はアルバリー朝の宰相(ワズィール)でございますぞ。その部屋に勝手に忍び入り、物を盗み出したとぬけぬけと言い張る小娘と、宰相たるニザームル・ムルク・ジュナイディと、どちらをお信じになりますか」

 ニザームル・ムルクは、開き直った目でラズィーヤを睨み付けた。

 ムムターズが、何か言おうとしたが、ラズィーヤが手で制した。

 これ以上問い詰めようにも、確たる物的証拠もなしに宰相を疑うことは、さすがのスルターン・ラズィーヤにもできなかった。ムムターズの証言だけでは、いかにも弱い。まずは、サドゥラー・カーンとスンダラムールティを取り調べて、動かぬ証拠を突きつける必要がある。ニザームル・ムルクの処断は、その後にしなければなるまい。そう思ったのだ。

 ニザームル・ムルクは、純白の衣装を翻して、不興げに宴の場から出て行った。

「ムムターズ、此度のそちの働き、見事である。余の命を救うだけでなく、帝国の災いの元をも摘出してくれた。褒美を取らせよう。何なりと望みを言うがよい」

 ラズィーヤが、うってかわって上機嫌な表情でムムターズに向かった。ムムターズは、畏まって言った。

「恐れながらスルターン。ムムターズは、お許しをいただいて尼になりとうございます」

「あま? あまとはなんじゃ?」

「はい、スルターン。道叡様に聞くところによりますと、日本では、女が髪を下ろして俗世間から出家し、尼という者になって、亡くなった方の菩提を弔い、修行をするのだそうでございます。ムムターズは、その尼になりとうございます」

「そちは、あのナーラーヤナの塚を守って一生を過ごそうというのか」

 ラズィーヤが、眉を顰めて言った。ムムターズが、薄い微笑みを浮かべながら、首を横に振った。

「いいえ、スルターン。一時は、(わたくし)もそう思っておりました。しかし、ナーラーヤナ様の塚を守るためには、(わたくし)自身、ナーラーヤナ様に相応しい女子(おなご)にならなければなりません。私は、まだまだナーラーヤナ様の墓守として相応しくありません。この間、あの菩提樹の下で、ニザームッディーン様、チャイタニヤ様、道叡様がお悟りになられたのに、(わたくし)一人が置いていかれたことからも分かります。ナーラーヤナ様の悟られた境地は無理としても、少しでもその境地に近づきとうございます。ムムターズは、道叡様と禅の修行をしながら、日本を目指そうと思っております」

「なんと」

 ラズィーヤがいかにも驚いたという顔をした。ラズィーヤには珍しく、顔には狼狽の色が浮かんでいる。

「ムムターズ、そんな日本などという、何処とも知れぬ遠い処まで行くなどと。そんなことは言わないでおくれ。この老い先短い母を置いて」

 肝を潰したオズダマルが、手を揉んで哀願する。

「お母様、申し訳ございません。でも、ムムターズは、もうマルダーン家の人間ではございません。ナーラーヤナ様の花嫁でございます。夫に相応しい妻になろうと努力することは、妻たる者のつとめ。親不孝にはなりますが、どうかムムターズをお許し下さい」

 ナーラーヤナ様の花嫁、と言ったときに、ムムターズは誇らしげに顔を輝かせ、胸を反らした。

「道叡、そなたは、ムムターズの願いをどう思う」

 ラズィーヤが、問いかけた。

「日本までの道など、お主のコルカタまでの船旅の話を聞くにつけ、危険に思われて仕方がないが」

「そうだな、日本までの度となれば、危険は多いな。まして、女子(おなご)の身では、危ないことはいや増すだろう」

「そうであろう。ムムターズ、愚かなことを考えるのは、やめるのじゃ」

「しかしなあ」

 道叡が、めっきりと濃くなった顎髭を撫でながら、言葉を継いだ。

「尼というしくみは、イスラム教にはないものだろう。女のスーフィーはいるが、日本の尼とは違う。ヒンドゥー教にも、女苦行者はいるが、やはり、日本の尼のように亡くなった者の菩提を弔うというのとは少し違うようだ。日本には、尼がたくさんおる。そこで尼としての心得を修行するのも悪くはないかも知れん。もちろん、日本までの道のりは遠い。危険は多い。到底生きてここ天竺に帰り着けるとは思えぬが、ムムターズもそれは覚悟の上だろうな」

「はい」

 ムムターズが、きっぱりと答えた。

「では、ナーガプル村に建てた、お前のための小屋はどうする」

「はい、(わたくし)が帰ってくるまでは、ラムジラルとナズリンに住んでもらって掃除などをしてもらおうと思っております。そして、(わたくし)は、必ずここ、ナーラーヤナ様のいらっしゃるバーラタ(インド)の地に帰って参ります」

「そうか、そこまで覚悟したか。是非もない」

 ラズィーヤは、そう言うと、愛しげにムムターズの頭を抱きかかえた。

 オズダマルは、泣きながらムムターズに寄り添った。ムムターズは、そんな母の頭を優しく撫でた。


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