第四章
第四章 すれ違い、そして陰謀
1
「ちょっと、ラムジラル、あたしの手紙の返事は、一体いつくれるのよ。何よ、すっとぼけた顔をして。あたしの手紙はどうしたのよ!」
ラズィーヤの宮廷の調理場で、昼食の後片付けをしていたラムジラルは、恋人のナズリンに怒鳴り込まれて泡を食った。
「手紙って、なんの?」
「まあ、とぼける気? あたしがあんたに恋文をやってから、もう二週間も経つのよ! その間、あたしはやきもきしながら、あんたからの返事を待っていたんだから」
「恋文?」
ラムジラルが、嬉しそうな顔をして問い返すと、ナズリンは顔を真っ赤にした。
調理場には、ラムジラルとナズリンの他には、誰もいない。インドでは、高位のジャーティの者は、低位のジャーティの者が作った料理を食べることは許されない。それは、宗教的な穢れとなる。必然的に、料理人は、最高位のジャーティであるバラモンが多くなる。インドを支配したトルコ人たちも、すぐにその風習を取り入れた。調理をするのは、高位のトルコ人である。そして、後片付けなどの雑用をするのが、ラムジラルのような、低位のジャーティ、シュードラ出身のインド人である。ナーガプル村出身のラムジラルは、調理場の雑用を努めるべく、ラズィーヤの宮廷に雇われているのである。ナズリンは、他の村出身だが、ラムジラルと同じジャーティである。ナズリンは、主に宮廷内の掃除を受け持っている。同じジャーティ同士は結婚が容易なので、出会ったときからお互いに意識していた。もちろん、言い寄ったのはラムジラルの方ではある。しかし、積極性は、ナズリンの方が一枚上だった。
「さあ、あたしの手紙への返事はどうしたのよ。それとも、まだとぼける気」
「と、とぼけるって、いや、そんな」
気の弱いラムジラルは、ナズリンの気勢に押されている。
ラムジラルは、ヒンドゥー教徒が着る紫色の上下を着ている。口髭を蓄えてはいるのだが、何となく弱々しい印象を与える。ナズリンは、貧しいので、色鮮やかなサリーは着られないが、それでも精一杯小綺麗で、多彩な色のサリーを身に纏っている。鼻にはピアスをしている。豊かな胸、ふっくらとしたお尻。顔は、ぽっちゃりして目が大きく、少々勝ち気そうではあるが、けっこう男好きがする顔である。ナズリンはじれったそうに足踏みをした。それに、ラムジラルはのんびりと答えた。
「手紙って……」
ラムジラルが、途方にくれたような表情をした。いきなり、ぱっとその目に理解の光が浮かんだ。そして、手を打って言った。
「手紙って、あれか。あの茶色の紙の……」
「そうよ。使い走りの子供に持たせて、あなたに言付けたでしょう」
「あれなら、地図を書いてインディラ様に渡して」
「インディラ様? ちょっと、それ、どういうことよ。なんであたしの恋文を、インディラ様に……。ヒィッ」
いきなり、ナズリンが両手で口を押さえた。
「な、何よ、あんた、まさか、ムムターズ様に横恋慕して……。なんて馬鹿なことを。身分違いもいいところじゃない!」
「ち、違うよ! ナズリン、誤解しないでくれ。そんなムムターズ様に懸想するなんて、大それたことを俺が考えるわけが無いじゃないか」
「じゃあ、どうしてあたしの恋文を、ムムターズ様に渡すのよ。友達に手伝ってもらって、一週間かけて書いた手紙なのよ。分かった、あんた、あたしの手紙をまねて、ムムターズ様に恋文を書いたのね。この卑怯者!」
叫ぶなり、ナズリンは、調理場を飛び出していった。
「ナズリン!」
ラムジラルは、右手を伸ばして追いすがろうとしたが、ため息をついて諦めた。追いかける代わりに、両手で頭を掻きながらうずくまってしまった。いつもの、気の弱いラムジラルである。
ラムジラルは、頭を抱えて途方にくれている。ナズリンを失えば、一生結婚は難しくなる。それだけでなく、ラムジラルは、肉感的なナズリンに心底惚れていたのである。それでも、優柔不断なラムジラルには、次にどういう行動を起こしたらいいのか分からなかった。太陽は中天に明るく輝いている。しかし、ラムジラルの心は暗かった。
いきなり、ラムジラルは立ち上がった。今までのラムジラルなら、そのまま意気消沈し、女々しく座り込んでいただろう。だが、今回だけは違った。
ラムジラルにとって、ナズリンはかけがえのない女だったのである。
とにかく、こうしてはいられない。
決断の遅いラムジラルにしては珍しくこう奮起すると、ナズリンの後を追って駆けだした。
2
ナズリンは、宮廷の廊下を、どすどすと荒い足音を立てて歩いていた。誰か人がいれば、そんな不作法は咎められるはずだが、幸い、廊下を歩いている人影はなかった。
泣きたかった。ラムジラルは、ちょっと気が弱くて頼りないところがあったが、同じジャーティで、歳も似合いの青年である。気の弱さは、別の言い方をすれば、優しさ、という側面にも通じていた。
ナズリンは、すでに二十二歳である。六歳や七歳という幼児同士で結婚する幼児婚の珍しくないインドでは、女の二十二というのは完全な行き遅れである。しかし、近所の村のシュードラで、ナズリンに釣り合う年頃の男はいなかった。それが、都合良くラムジラルと出会ったのである。歳もほどよく、しかも男ぶりもなかなかいい。ナズリンは、だからラムジラルに言い寄られたときには、飛び上がらんばかりに喜んだ。それでも、見かけ上は、つれない素振りをした。何回か言い寄らせて、ようやくナズリンが色よい返事をしたときのラムジラルの喜びようったらなかった。それが、こともあろうに身分違いのムムターズに横恋慕するなんて。
ナズリンは、普段は誰もいない納戸に入って思い切り泣こうと思った。辺りに誰もいないのを確かめ、納戸の扉をそっと開けた。中に入り、またそっと扉を閉める。納戸の中は、真っ暗である。なんとなく湿った、黴くさい匂いがする。ここなら、思い切り泣ける、と思ったときに、不意に奥の方から「ムムターズ」という言葉が聞こえてきた。
「ヒィッ! だ、誰!」
誰もいないと思っていた暗闇の底から聞こえてくる声は不気味だった。
「誰だ!」
厳しい誰何の声が聞こえた。納戸の奥を仕切っていたカーテンがさっと引かれた。男が三名見えた。小さな洋燈が灯っていた。男たちの顔は、定かには見えない。
「ムムターズの手の者か」
またムムターズという名前が聞こえた。嫉妬に狂うナズリンの胸に、その名前はずしりと重く響いた。
「ムムターズ様……、ムムターズ様……」
三人の男の一人、黒い顎髭を生やした男が、腰からナイフを取り出そうとした。それを、リーダー格と思える、白い顎髭の男が止めた。ナズリンの異様な様子に気付いたのだ。ナズリンは伸び上がり、体を突っ張るように強ばらせた。それから急にくずおれるように腰を落とした。
「サドゥラー・カーン、洋燈を持ってこい」
ナズリンの目が、ひっくり返り、白目だけになった。ごーごーと、いびきをかいているような声が聞こえてきた。不意にナズリンの口から、男のような太いしわがれ声が漏れだしてきた。最初は意味をなさない唸り声だったが、次第に意味のある言葉の断片を話し出した。
「わらわは、破壊と恩寵の女神、ドゥルガーであるぞ」
不意にその声は、明瞭な意味を持って話し出した。
「ムムターズには、悪霊が取り憑いておる。非業の死を遂げたアリー・マルダーンと、フサイン・マルダーンの死霊じゃ。この二人の悪霊が、デリーに災いを起こすぞ。おお、恐ろしい災いじゃ。雨期を恐れよ。ゆめゆめ疑うことなかれ。わらわは、破壊と恩寵の女神ドゥルガーじゃ」
ここまで言って、ナズリンは首をがっくりと折って気絶した。
三人の男は、顔を見合わせた。
リーダー格の白い顎髭の男が言った。
「スンダラムールティ、この女は何者だ。本物の聖者か?」
「いや、そういう者ではありませんな」
スンダラムールティと呼ばれた男が、軽蔑も顕わに答えた。
「村の拝み屋の家系ででもあるのでございましょう。多少の霊感はあるものの、本当にドゥルガー女神と交流しているものではございません」
「そうか、ならば、この女はここに放っておこう。場所を移そう。ここは、もう謀議の場所としては使えん。くそ。命冥加なラズィーヤとムムターズめ」
「この女、殺してしまわなくてもようございますか?」
さっきナイフを抜こうとした黒髭の男が、白い顎髭の男に聞いた。目に殺気がある。剣呑な男である。
「いい。宮殿の中で、あまり簡単に人を殺めるものではない。この暗闇の中では、我らの顔も見ておるまい。この女が入ってきてからは、聞かれて困ることも話してはおらん。行こう。この女が目覚める前に」
そう言って、白い顎髭の男は、さっさと先に立った。スンダラムールティと、ナイフの男が、その後に付き従った。ナイフの男は、最後に、ナズリンが目を覚ましていないかどうか、念入りに確認していった。
3
どれくらい経っただろうか。暗闇の中で、ナズリンは目を覚ました。自分が口走った恐ろしい預言について、ナズリンは何も覚えてはいなかった。この暗い納戸にいた三人の男についても、何も覚えてはいなかった。ただ、何か恐ろしいという感情だけがあった。この暗闇の中から、逃げ出さなくてはいけない。そう思った。ナズリンは、急いで納戸から抜け出た。
納戸から出て、自分が、さっきまでどんな思いをしていたかを思い出した。愛しているラムジラルに裏切られたのである。また怒りがこみ上げてきた。同時に、泣きたいような悲しみも覚えた。どうしよう。どこで泣こう。こう考えながら、無意識のうちに歩いた。ふと気がつくと、初めてラムジラルに想いを打ち明けられた、調理場の裏の井戸に来ていた。栴檀とアマルターシュの木が生えていた。調理場から、多種多様な香辛料の香りが漂ってくる。このアマルターシュの木陰で、初めてラムジラルに接吻を許したのだ。どうしよう、この井戸に身を投げようか。そう思ったとき、耳に懐かしい声が届いた。
「ナズリン。探したんだぞ」
「ラムジラル!」
ラムジラルが、駆け寄ってきた。そして、ナズリンの肩に手をかけて、その肩を揺すった。
「ナズリン、誤解しないでくれ。俺は、本当にお前のことが好きなんだよ。愛しているんだ。ただ、一つ謝らなくっちゃいけないことがあるんだ」
「謝る! この不実者! 今更、なんの言い訳があるのよ!」
叫ぶなり、ナズリンは、ラムジラルの手を払い、井戸に身を投げようとした。
「よせ、よすんだ」
ラムジラルは、慌てて、ナズリンを抱きしめた。そのラムジラルの手の中で、ナズリンはもがきにもがいた。
「放して、この不実者!」
「待て、落ち着いて聞いてくれ。俺みたいなシュードラが、よりにもよってスルターンの縁戚に連なるムムターズ様に懸想するなんてことがあるわけないじゃないか。なあ、落ち着いて考えてくれよ。あまりにも身分違いで、そんなこと最初から考えられないよ」
「でも、今のムムターズ様の想い人は、ヒンドゥー教徒のナーラーヤナ様じゃないか」
「でも、ナーラーヤナ様は、クシャトリヤの名門の出だというぜ。それに、第一ナーラーヤナ様はあんなにいい男で、ヴィーナの腕も、歌声も、素晴らしいそうじゃないか。いくら貧乏でも、聖者ニザームッディーン様の弟子だし。俺なんかとは、あまりにも違いすぎるよ。なあ、そうじゃないか」
ラムジラルの必死の説得に、ナズリンも少し落ち着いてきたようである。体から少し力を抜いて、井戸から身を離した。だが、まだまだその体は固かった。
「じゃあ、あんたが謝らなくっちゃいけないことって何よ。やっぱり、ムムターズ様に懸想していたんでしょう」
「違う、違うよ」
ラムジラルは、必死で否定した。
「俺が謝らなくっちゃいけないのは、お前に嘘をついたことなんだ」
「どんな嘘よ」
場合によっては、許さない。また井戸に身を投げる。と言わんばかりにナズリンが身構えた。
「お、俺はなあ、ナズリン」
恥ずかしさに消え入りそうな声で、ラムジラルが言った。顔が真っ赤になっている。
「俺、実は読み書きができねえんだ」
「え? なんですって?」
「俺はなあ、お前には読み書きができるって嘘をついていたが、本当は読み書きができねえんだよ。だから……、だからお前からもらった手紙を、お前からのものだって気がつかなくて」
身を固くして身構えていたナズリンも、ちょっと拍子抜けしたようだ。
「あんた、読み書きができなかったの……」
呆然として、呟くようにナズリンが言った。
「ああ、お前が読み書きができねえって聞いたときに、俺はつい見栄を張っちまって、それで、そんな嘘を……」
「でも、でも使いにやった子供から聞けば、あたしからの手紙だって分かるじゃない」
「ああ、あの小僧っ子め」
こう言って、ラムジラルは地団駄を踏んだ。
「あの小僧、俺に手紙を渡すときにただ、これ、って言っただけなんだよ。だから、字の読めない俺には、ちんぷんかんぷんだった。何だろうなあ、って見つめていたら、丁度そこにインディラ様が入ってきて、ナーガプル村までの地図を書いてくれって言うじゃないか。それで、手近にある紙っていったら、お前の手紙しかなくて、それでその裏に……」
「地図を書いたのかい」
「ああ、面目ねえ」
ナズリンが、拍子抜けしたような顔になった。
「分かった。でもねえ、簡単には許せないよ」
「ああ、何をされてもいいよ。覚悟はしている。お前が、俺のところに戻ってきてさえくれるなら、何でもしてくれ」
そう言って、ラムジラルは、ナズリンの足下に跪いた。ナズリンは、そのラムジラルを立たせて言った。
「あんたのほっぺたを、思い切り平手打ちするよ」
「ああ、そんなことで許してくれるんなら、思いっきり殴ってくれ」
歓びに顔を輝かせて、ラムジラルは両手を大きく広げた。ナズリンは、大袈裟なスィングで、ラムジラルのほっぺたを叩こうとした。しかし、途中で止めてしまった。そして、ラムジラルの胸の中に飛び込んだ。
「ああ、大好きだよ、あんた」
「おお、俺もだよ。俺もお前のことが大好きだよ。ナズリン」
二人は、熱烈に接吻を交わした。ひとしきり接吻が終わった後で、二人は井戸の壁にもたれかかって座った。
「それにしても」
ラムジラルが訝しげに言った。
「ムムターズ様はともかく、インディラ様は、お前の手紙が読めたんじゃねえかなあ。その手紙の裏に、どうして地図を書けなんて言ったんだろう」
「あんたも馬鹿だねえ」
ナズリンが、愛しげにラムジラルの頭を撫でながら言った。
「あたしが書いたのは、ヒンディー語の手紙だよ。インディラ様は、上級バラモンの娘だから、読み書きはペルシャ語とサンスクリット語しかできないよ。何せ、インディラ様が、ムムターズ様の乳母になったのが二十四の時。今四十だよ。小さい頃に読み書きを習ったとしても、もう、その頃にはこのバーラタの大地はトルコ人に支配されていたんだからね。教えられるのは、トルコ人が使っているペルシャ語と、バラモンなら素養とされるサンスクリット語だけだよ」
「なるほどなあ。ナズリン。やっぱりお前は頭がいいなあ」
「何言ってるんだよ、ラムジラル」
照れながら、ナズリンはラムジラルの頬に接吻をした。
4
それから四ヶ月後、宮殿の宰相に与えられた一角の奥まった一室である。例の納戸に集まっていた三人の男たちが、テーブルを囲んでいた。白い顎髭を蓄えた、威厳のある男が、宰相のニザームル・ムルク・ジュナイディである。今一人、体にヒンドゥー教徒の着る紫色の布を巻き付けただけの老人が、スンダラムールティである。スンダラムールティというのは、シヴァ派のバクティ運動を起こした聖人の名前である。その名前を名乗るこの男は、シヴァ派の行者である。そして、最後の黒い髭に、剣呑な目つきをした男がニザームル・ムルクの懐刀でチャハルガーニーの一人、サドゥラー・カーンである。さすがに宰相の部屋らしく、豪奢なペルシャ絨毯が敷かれ、その上に、臙脂色のベルベットを張った猫足の椅子が数脚、さらに黒檀などで作られた調度がいくつか置かれている。壁には、多彩で美しい色に織り上げられたインド更紗の壁掛けがかけてある。窓の分厚いカーテンが閉められていて、薄暗い。中央のテーブルには蝋燭が灯っている。三人は顔を寄せ合って、ひそひそと密談をしている。
「ラズィーヤは、なんとしても除かねばなりません」
どこか激したような、それでいて陰々滅々とした声で言ったのはサドゥラー・カーンである。
「女のくせに、我らトルコ貴族に命令するなど僭越なこと。しかも、イスラム教徒とヒンドゥー教徒を分け隔てなく扱うなど、トルコ人支配者として相応しくございません。今度は、なにやらヒンドゥー教徒に課せられていた人頭税を廃止し、ヒンドゥー教徒とイスラム教徒の税を同じにするつもりとか。とんでもないことでございます」
顔にも暗い影のある、陰気な男である。
「ふむ。それにしても、邪魔なのが、あのムムターズという小娘じゃ。チョロチョロ、チョロチョロと宮殿内のそちこちに出没しおって、おちおちと謀議もできん」
ニザームル・ムルクが、苦々しそうな口調で言った。
「かえすがえすも、あの納戸が見つけられてしまったのが口惜しい。この部屋では、一々人払いをしなければならず、目立ってしまう。まったく、あの邪魔な、シュードラ女めが」
ニザームル・ムルクは、深いため息をついた。だが、すぐに気を取り直したように言った。
「ところでスンダラムールティ。お主、以前にムムターズの母オズダマルを使ってムムターズを亡き者にしようと言っていたな。それはどうなった」
「はい」
スンダラムールティが畏まって応えた。
「その義でございます。オズダマルは、あの場では激情に駆られてムムターズを勘当いたしましたが、やはり我が娘。最近は、勘当のことをいたく後悔し、迷っている様子。あの腑抜けた有様では、実の娘を殺させることはやはり難しいことかと」
「そうか。実の母親が、我らに邪魔なムムターズを殺す。なかなか皮肉の効いた、面白そうな趣向だと思ったのだがなあ。残念だ。しかし、ではどうする。ムムターズは邪魔だ。なんとしても除かねばならぬぞ」
「はい。しかし、そのムムターズも、例のシュードラ女の託宣のおかげで、上手く除けそうでございます。あのシュードラ女、ただ我らの邪魔をしたのではなく、いわばありがたいシヴァ神のお導きにより現れた天恵かと。何せ、あの女が口走ったドゥルガー女神は、勿体なくもかしこき大シヴァ神の神妃でございますれば」
スンダラムールティが、落ち着いた声で言った。なんだか、愛嬌のある好々爺に見えるが、こんな謀議に加わっているところを見ると、なかなかそうでもないのだろう。
「うむ、スンダラムールティ、お主はそう言うが、具体的には、どうしようというのだ。それに、あの女、どうしてムムターズを呪おうと思ったのか。それがいくら考えても解せん」
「具体的な方法につきましては、このスンダラムールティにお任せを。決して悪いようにはいたしません。あの女の託宣のことでございますが、少し調べてみましたところあの女の想い人が、ムムターズに懸想したことがあるそうでございます。何せ、ムムターズはあの器量。身分の違いを考えなければ、思いを寄せる男は大勢おります。その嫉妬の思いが、ああした託宣の形をとって現れましたのかと」
「なるほどな」
「しかも、やはり憑きもの持ちの家系だそうでございます。であれば、あのような託宣が出てくることも、腑に落ちますことかと」
スンダラムールティの説明に、ニザームル・ムルクも納得したようだ。
「それにしても、雨期というのは、象徴的でございますな。雨が降らなくても災い。降りすぎても災い。やりようによっては、ことはなかなか面白い方向に進みますかと」
スンダラムールティが、言っていることの凶々しさとは裏腹に、妙に人懐っこい笑顔で言った。その笑顔の、皺に埋もれた目には、何か底知れぬ暗黒の燦めきがあった。
「ふむ、スンダラムールティ。そちには何か良い考えがあるのだな。どうじゃ、そのお主の考えを、少し話して聞かせんか」
ニザームル・ムルクが、どこか浅ましい表情を浮かべて言った。スンダラムールティが、またクシャッとした愛嬌のある顔で笑った。
「全て、このスンダラムールティにお任せを」
「ふむ。やはりそうか。ではそういうことにしよう」
うなずいてから、ニザームル・ムルクがもう一度言った。
「今一度、手順を確認しよう」
ニザームル・ムルクが鷹揚な態度で、スンダラムールティの方を見た。スンダラムールティが、これまた鷹揚に答えた。
「左様でございますな。まず、何はともあれ、このアルバリー朝からラズィーヤを取り除くことが肝要。女のスルターンでは、イスラム教徒もヒンドゥー教徒も心の底からは心服いたしますまい。むしろ、宰相様がスルターンの位につくことこそ、この国の安定に寄与しますことかと」
スンダラムールティのおべっかに、ニザームル・ムルクはまんざらでもない顔でうなずいた。
「その通りだ。女のスルターンなぞ、絶対に認められん。そんなものの下におっては、チャハルガーニー(四十人)の一党、末代までの恥だ」
サドゥラー・カーンが、陰気な中に、少し激した感情を込めていった。
「だが、あの小娘、ムムターズが邪魔だ。神出鬼没でどこにおるか分からぬし、しかも武芸に長けておる。何、宰相様のご命令さえあれば、ムムターズごとき、わしが斬り捨ててやるのだが」
「これこれ、サドゥラー・カーン、はやまるでない。ムムターズと、わしらの接点と言えば、まずは宮廷内。宮廷内で、刃傷沙汰は御法度じゃ。いかにチャハルガーニーが、ラズィーヤとその一党を快く思っていないといっても、宮廷内で貴族を斬り殺したりしたら、反感を持つものも出てくる」
「そうでございますな。サドゥラー・カーン様には、また別の場面でお出ましを願いましょう。しかし、あの女の託宣で、いい手筈が整いました」
「と言うと」
ニザームル・ムルクが、促すようにうなずいた。
「詳しい手筈については、お任せを。ムムターズを、雨期の災いを鎮めるための、神への生け贄にする方法がございます」
「生け贄?」
「はい。雨期の災いを鎮めるためとなれば、ムムターズズの生け贄に反対するものはおりますまい。しかし、スルターン、ラズィーヤだけはムムターズの生け贄を許しますまい」
「うむ、その通りだな」
ニザームル・ムルクが、その白い顎髭をしごいた。
「しかし、宮廷内に有力な後ろ盾を持たないラズィーヤにとって、デリーとその近郊の民衆の支持だけが頼りでございます。民衆の意志に逆らって、ムムターズを助けることは、いかにスルターンといえどもできることではございません」
こう言いながら、スンダラムールティはクシャッと笑った。何度見ても、愛嬌のある顔であるが、そこはかとない威厳も感じさせる。見ると、身分では絶対的に上のはずの宰相ニザームル・ムルクも、スンダラムールティには畏れの念を抱いているように見える。
「しかし、ムムターズは民衆に人気があるぞ。そのムムターズを生け贄になどと、どうやって民衆を納得させるつもりだ。まさか、この間の女の、ドゥルガー女神の託宣などと言うのではあるまいな」
ニザームル・ムルクが、それでもなお疑わしげに言った。
「その点はご心配なさいますな。所詮ドゥルガー女神は、畏れ多い大御神シヴァの神妃の一柱に過ぎません。このスンダラムールティ、もったいなくもシヴァ神ご自身の託宣を受ける手筈を整えております。民衆も、スルターン、ラズィーヤも納得させてご覧に入れましょう。雨期には、雨が多い日も少ない日もございます。多い日を洪水の前触れとし、少ない日を干魃の前触れとする。ムムターズを陥れる手は、いくらでもございます故」
「ほう、シヴァ神自身か」
ニザームル・ムルクが感心したように言った。しかし、サドゥラー・カーンは、少し胡散臭げに聞いた。
「民衆に、そなたがシヴァ神から託宣を受けたと、どうやって信じさせる。この部屋で託宣があった、と言っても、宰相様の証言があってもラズィーヤはもとより、民衆もなかなか信じまいぞ」
「ぬかりはございません。ちゃんと、それなりの舞台が整うように手筈を考えてございます。誰もが、私の託宣を、畏れ多くも勿体ないシヴァ神ご自身の託宣と信じさせる奇跡を起こしてご覧に入れましょう」
スンダラムールティは、妖気を帯びた目を埋没させて笑った。ニザームル・ムルクも、サドゥラー・カーンも、少し鼻白んだ顔でスンダラムールティを見詰めた。
「多少面倒なのが、ムムターズと恋仲にあるナーラーヤナ・ダッタでございます。ナーラーヤナ自身はなんの力もない小僧でございますが、きゃつには、ニザームッディーン・チシュティーという師匠がおります。このニザームッディーンと、近頃その下に寄宿しておりますチャイタニヤ・デーヴァとは、なかなか侮れない法力を持っております」
「ほう、お主でも恐れるほどの法力か?」
ニザームル・ムルクが、ちょっと驚いたように言った。してみると、スンダラムールティは、相当の法力をの持ち主であるらしい。
「なに、一対一なら、なんと言うほどのことでもございませんが、二人がかりでは、やはり手強いと思われます。そこで、そちらの方は、いっそ力押しで」
「なるほど、そうするとサドゥラー・カーン、そちの出番というわけじゃな」
サドゥラー・カーンが、無言で重々しくうなずいた。
「サドゥラー・カーン様は、あのアリー・マルダーン様に勝るとも劣らぬ剣技の持ち主、いざとなれば、スルターン、ラズィーヤと闘われても、お勝ちになれるかと。そのサドゥラー・カーン様にかかっては、多少の法力を持っていても老人二人。あの二人がムムターズの生け贄に反対いたしますことは必定でございますれば、雨期の災いを除く託宣に逆らう不埒ものとして成敗なされることは、雑作もないことかと」
サドゥラー・カーンは、薄い唇の左端を軽く上げて笑った。酷薄な表情が浮かんだ。
「だが、最近、道叡とかいう胡散臭い男も加わったと聞くぞ」
ニザームル・ムルクが、あくまでも不安要因を取り除こうと、しつこく食い下がる。
「なんの。道叡とかいう男は、邪教である仏教の信奉者。正統なるシヴァ神の信徒である私には、造作もない相手」
こう言って、スンダラムールティは、またクシャッと笑った。
「で、肝心のラズィーヤはどうする。いくらサドゥラー・カーンが剣技に優れているとはいえ、スルターンを斬り殺させるわけにはいくまいぞ」
「そのことでございます。このスンダラムールティによい策略がございます。ムムターズを生け贄に捧げれば、雨期の災いは止みまする。そのとき、いかにラズィーヤがムムターズを可愛く思っていたとしても、祝宴を開くのは必定。そのときに、スルターン、ラズィーヤに毒を盛るのでございます」
「ほう、毒か。しかし、その毒はどうやって手に入れる。また、どうやってラズィーヤに毒を盛る」
「それにつきましては、ただいま、準備中でございます。大船に乗ったお気持ちでお任せを」
「そうか。そちがそう言うなら間違いはあるまい」
そう言ってニザームル・ムルクは、頼もしさと、恐ろしさが綯い交ぜになった複雑な表情でスンダラムールティを見た。
5
暑い日であった。間もなく雨期になるのであるから、それは当然の話なのだが、さすがに暑さになれているバーラタ(インド)の地の人々も、みな日陰でぐったりしている。そんな気怠い午後である。
ムムターズは、宮殿の調理場に向かってゆっくりと歩いていた。アマルターシュの木には、大ぶりの鮮やかな黄色の花が房状に連なって垂れ下がっている。その豪奢な花房が、幾本も幾本も垂れている様は、まるで黄金が降り注いでいるようにも見える。調理場の裏口に着くと、井戸端の木陰で休んでいる男がいた。その男に声をかけた。
「ラムジラルという人はどこですか」
アマルターシュの木陰で、居眠りをしていた男が、慌てて飛び起きた。
「ムムターズ様!」
男は、大いに驚いて立ち上がり、居住まいを正した。ラムジラルであった。
「は、はい、私がラムジラルでございます。ムムターズ様」
「ああ、よかった。すぐに会えました」
こう言って、ムムターズが微笑んだ。しかし、どこか様子がおかしい。ムムターズの笑顔といえば、誰の心をも明るくする、花のような笑顔だったはずである。それが、今のムムターズの顔には、憂いが忍び寄り、心なしか頬も青ざめ、面痩せしているようである。
「これを」
こう言って、ムムターズがラムジラルに何かを手渡そうとしたときに、丁度ナズリンがやってきた。寂しげな微笑みを浮かべたムムターズとは対照的に、ナズリンは幸福そのもののような笑顔で駆けてきた。
「ヒィッ! ム、ムムターズ様」
太陽のような笑いを浮かべていたナズリンの顔が、一瞬にして凍り付いた。それでも、ナズリンはムムターズに向かって恭しくお辞儀をした。
「何よ! ラムジラル、やっぱりあんた、ムムターズ様と」
と、ここまで言って、さすがにムムターズ本人の前では、浮気をしていただろうとは言えずに、言葉に詰まった。
「ま、待てよ、ナズリン。こ、これは違うんだ」
「何よ、何が違うっていうのよ。色事じゃなかったら、何でムムターズ様が、こんな卑しい調理場ごときに来るのよ」
ナズリンは、地団駄を踏んでいる。
最初、何が起こったのか、訳が分からずに困惑していたムムターズも、どうやら事の次第が飲み込めてきたらしい。口に手の甲を当てて「クスッ」と笑った。しかし、その笑いさえもが、どこか寂しげで、影が薄い。
「ナズリンとやら、そんなにラムジラルを責めないでください。私は、何もラムジラルへの恋文を持ってここに来たのではありませんよ」
「え、そ、そんな、ムムターズ様がラムジラルごときに恋文などと」
あんまり単刀直入に言われたもので、慌てながらも、ナズリンの頬は、さっと青ざめた。
「今日は、私はこれを返しに来たのです」
そう言って、ムムターズが茶色の紙を差し出した。
「あ! これは、私がラムジラルにやった恋文」
「そうだそうですねえ。昨日、ヒンディー語が読める者に読んでもらいました。こんな大事なものを預かったままでは心苦しいので、これをラムジラルに返しに来たのです。では、あなたが恋人のナズリンなのですね。仲が良さそうで、羨ましい」
ムムターズが、俯いた。いかにも寂しげである。
「え、でも、ムムターズ様には、ナーラーヤナ様という想い人が」
ナズリンが言った。ナズリンは、訳が分かって安心顔である。
「いいえ」
ムムターズが首を振った。その首が、華奢で、今にも折れそうに見える。やはりおかしい。ムムターズの体は、女らしい線は保っているものの、武芸で鍛えられ、華奢な部分などないはずである。それが、今は本当に拈れば折れる手弱女に見えている。
ヒヨドリの鳴く声が聞こえた。嘴と足が真っ赤なヒヨドリが、井戸辺に木陰を作っている栴檀とアマルターシュの枝から枝へと飛び交っている。
「あ、手紙の他にこれを。これは、大事な手紙をずっと預かりっぱなしだったお礼です」
手渡されたものを、ラムジラルが見ると、豪華な首飾りだった。立派な金細工に、本物の宝石が嵌め込まれている。
「恋人のナズリンに上げてください。きっと似合うと思いますよ」
ラムジラルが、ナズリンの首に首飾りをかけてやった。豊満な胸の上で揺れるその首飾りは、なかなかナズリンに似合っていた。ナズリンは、嬉しさのあまりに、顔を輝かせた。
「では、二人仲良くね」
立ち去ろうとするムムターズを、「お待ち下さい」とナズリンが引き留めた。
「ムムターズ様、何かお悩みをお持ちでございますか? お顔の色が勝れないようでございます。もしかすると、恋の悩みとか」
「え」
ムムターズは、驚いたように足を止めた。
「そう、分かりますか?」
ムムターズが問うのに、ナズリンは「やっぱり」と言ってうなずいた。恋する女同士の勘である。
「ナーラーヤナ様が、声をおかけしても応えてくださらないのです」
ムムターズは、井戸の傍らに横座りに座った。ナズリンも、その側にうずくまる。ラムジラルは、所在なさげに突っ立ったままでいる。
よほど思いがたまっていたのだろう。ムムターズは、問わず語りに、今までのことを話し始めた。ナーラーヤナが、ムムターズの手を振り払ってナーガプル村に駆けていったところまでくると、ナズリンも同情したのだろう、ムムターズの手に自分の手を重ねた。
「でも、ムムターズ様は、今もしきりにニザームッディーン様のところまでお出かけと聞いておりますが」
「ええ、昨日も行って参りました。でもそれは、道叡様に武芸を教わりに行っているのです。その時は、ナーラーヤナ様もご一緒に教わります。でも、私が話しかけても、一言も口をきいて下さいません。ただ、黙々と武芸の稽古にはげまれるだけなのです」
「ムムターズ様、まさか」
ナズリンが、急にムムターズの手をぎゅっと握りしめた。
「いけません。ムムターズ様。決してはやまってはいけません」
ナズリンの切羽詰まったような様子に、ラムジラルが驚いた顔をした。
ムムターズも、ラムジラル同様に驚いたような顔をしたが、不意に笑い出した。
「まあ、ナズリン、私は決して自殺しようなどと思っているわけではありませんよ。ただ、静かに身辺整理をしているうちに、いい智慧も……、ナズリン、あなた一体どうしたの? ラムジラル、これは……」
ムムターズが発した自殺という言葉に、己も井戸に身を投げようとしたことのあるナズリンの抑圧が反応したものだろうか。ナズリンの様子は、明らかに異様になっていた。あの納戸の時同様に、体を突っ張り、ごーごーという声を口から漏らしている。
「わらわは、ドゥルガー女神であるぞ」
ナズリンの口から、嗄れた、野太い男のような声が漏れ出た。
「ヒィッ」
ラムジラルが、小さな叫び声を上げると、平伏して額ずいた。ナズリンに、またドゥルガー女神が降臨したのだ。ドゥルガー女神は、シヴァの神妃の一柱である。シヴァは、ヴィシュヌのようなたくさんのアヴァターラはもたない。代わりに、シヴァにはカーリー、ドゥルガーを初めとするたくさんの妃がいる。この妃たちは、性力によって、この現象世界を支配するものとして崇拝される。そのとき、シヴァは真実在として、現象世界には拘わらないとされる。そのことを示すために、しばしばシヴァが死体のように横たわり、その上で幻影である現象世界を紡ぎ出す踊りを踊るカーリーやドゥルガーの絵画が制作されている。ラムジラルのナーガプル村でも、ドゥルガーは最も崇拝される女神の一柱である。それで、ラムジラルも幼い頃から慣れ親しんでいるのだ。
「どうしたの、これは、ラムジラル、一体何が起こったの?」
性急な口調で、ムムターズがラムジラルに訊いた。
青い顔をし、震える声でラムジラルが答える。
「ナズリンに、ドゥルガー女神様が、降臨なさったのかも知れません。ナズリンの母には、時々こういうことがあるそうでございますが……」
ムムターズの耳元で、囁くようにラムジラルが答える。ドゥルガー女神を畏れているようである。
「ムムターズよ、よく聴くがよい。宰相、ニザームル・ムルクは、そなたの命を狙っておる。そして、そなたを亡き者にした後には、ラズィーヤの命をも奪おうとしておる。心するがよい」
野太い声が告げた。
「スルターンを!」
ムムターズにすれば、自分の命はどうでもいい。ナーラーヤナにも見放された今、惜しくはない命である。しかし、スルターン、ラズィーヤのこととなれば話は違う。もっと詳しく話を聞こうとしたが、ナズリンはすでにがっくりと首を落とし、意識を失っていた。
「ラムジラル、ナズリンの託宣は、信頼できるのですか」
さっきまで、意気消沈していた者とは思えない気丈さで、ムムターズが訊いた。
「はい、ナズリンの母が下ろす託宣でしたら、その確かさは、近隣の村でも評判でございます。恐らくその血が流れているナズリンの託宣も……」
ラムジラルが、誇らしげな、しかし少し恐怖も綯い交ぜになった表情で言った。
「もしかすると、今日、この時間にムムターズ様とナズリンが出会ったのも、ドゥルガー女神様のお導きによるものかと」
ムムターズは、しばし考え込んだが、すぐに意を決したように言った。
「分かりました。ナズリンを頼みます。私には行くところがあります」
足早に立ち去るムムターズに、ラムジラルが「お気をつけて」と声をかけた。その声に、ムムターズはにっこりと微笑んだ。華のような笑顔だった。
6
「これは、千匹の毒蛇から採った毒を、アタルヴァ・ヴェーダの呪文を唱えながら、煮詰めたものでございます。これを、たとえ一垂らしでも口にすれば、命がなくなることは必定でございます」
スンダラムールティが、藍色の硝子の小瓶に入った毒を示しながら言った。アタルヴァ・ヴェーダは、リグ・ヴェーダを初めとする、四つのヴェーダ、サンヒターのうちの、最後のヴェーダである。様々な呪文を集めたヴェーダであるが、中には邪神を祓ったり、人を呪ったりする呪文もあるのである。
「なるほど、それをラズィーヤの食事に入れれば、ラズィーヤの命を奪うことができるというわけか」
ニザームル・ムルクが、感心したように言った。
「しかし、そのように熱を加えて煮詰めてしまっては、毒の効き目がなくなってしまうのではないか」
ニザームル・ムルクが、素人らしい感想を言った。
「いいえ、そのためのアタルヴァ・ヴェーダの呪文でございます。この呪文を唱えながら煮詰めますと、毒はその効力を失わずに、かえって煮詰まった分効力を増すのでございます。なんでしたら、お試しになりますか」
スンダラムールティは、瓶の蓋を捻りながら、意地悪な表情で言った。
「い、いや。それはいい。その義については、そちを信じよう。たとえムムターズを除いたとしても、まさかスルターンを刀で殺すわけにもいかんからなあ。のう、サドゥラー・カーン」
問いかけられて、サドゥラー・カーンは、少し悔しそうに言った。
「ご命令とあれば、私がラズィーヤを斬り殺しますのに」
妙に生真面目なサドゥラー・カーンの答えに、少し鼻白んでニザームル・ムルクはスンダラムールティの方を向いた。
「で、どうやってそれをラズィーヤに飲ませる?」
「はい、雨期の災いが終わったときの祝宴で、私と宰相様が、スルターンと会食をいたします」
「しかし、いかに聖者とはいえ、ヒンドゥー教徒であるそなたが、スルターンの近くで陪席することなどありえんぞ」
「そこは、私の法力にお任せを。人々に、私がスルターンの隣に座っていても、おかしいと思わせぬだけの法力が、私にはございます」
「ほう」
ニザームル・ムルクが、少し薄気味悪そうにスンダラムールティを見た。
「その場で、私と宰相様、そしてスルターンが一緒に口にする料理に、私がこの毒を」
言って、スンダラムールティは藍色の硝子瓶を目の前に掲げ、振って見せた。
「入れるのでございます」
「しかし、それでは、わしもそなたも死んでしまうではないか」
ニザームル・ムルクが、少し不興げに言うのに、スンダラムールティはこともなげに答えた。
「そこは、ご安心なされ。私は、すでにこの毒の解毒剤を造っております」
こう言って、スンダラムールティは、もう一つ、黄色の小瓶を取り出した。
「この解毒剤を飲んでおりますれば、いかな猛毒といえども全く無害なものとなりまする」
「なるほど。それでラズィーヤのみが死ぬという訳か」
「はい、同じ器から盛り分けた料理を、スルターンと私と宰相様が同時に口にいたしますれば、私と宰相様を疑うものは出てこぬかと」
「なるほどなあ。しかし、調べれば、わしとそなたの料理にも毒が入っていたことが分かるぞ。そうなれば、毒を口にしたのに、死ななかったわしとそなたに嫌疑がかかるぞ」
「ご安心を。スルターンの死のどさくさに紛れて、私と宰相様の料理にも、この解毒剤を入れるのでございます。そういたしますと、私の料理と宰相様の料理には、最初から毒が入っていなかったことに」
「するとどうなる」
「はい、料理ではなく、器に毒が塗られていたこととなりましょう」
「なるほど。器を用意したものに嫌疑がかかる訳じゃな」
「御意」
「では、誰か生け贄を準備しておいたほうがいいな」
「ぬかりはございません。調理場に、ラムジラルと申すシュードラがおります。この男、この間偽ドゥルガーが憑いたナズリンと申す女子の想い人でございます。この男に嫌疑がいくように仕向ければ、なかなか面白いことになりますかと。このラムジラルの背後は、ぼやかしてはおきますが、オズダマルに繋がるようにしておいてもよろしいかと」
「ほ、お主も、相当にあくどいことを思いつく男よのう。しかし、シュードラは、そのような宴席の場には入ってこれんぞ」
「そこはそれ。私の法力でいかようにも」
スンダラムールティが、また目を皺の中に埋めてクシャッと笑った。
「なるほど。よし、その話気に入った。その通りにことを運べ。ただし、わしの料理に毒を入れることはまかりならん。万が一ということもある。サドゥラー・カーンも陪席させ、その料理に毒を入れればいいじゃろう」
「御意」
スンダラムールティも、サドゥラー・カーンも、恭しくお辞儀をした。スンダラムールティは、藍色の小瓶と黄色の小瓶を、寄せ木細工で造られた棚の、隠し扉に入っている小箱に隠した。三人は、奥まった小部屋から出て行った。
しばらく、小部屋を静寂が支配した。
と、分厚いカーテンがさざ波のように揺れた。
カーテンの奥から小柄な人影が現れた。
出てきたのは、ムムターズだった。
ムムターズは、この頃道叡に隠形の術を習っている。自らの気配を消す術である。ナズリンに降臨したドゥルガー女神から、ニザームル・ムルクの計画を聞いたムムターズが、この小部屋に忍んでいたのである。
その隠形の術は、武術の達人である、サドゥラー・カーンはおろか、妖術を操る、スンダラムールティにさえ気配を気付かせなかったほどの域に達していた。
ムムターズは、隠し扉の仕掛けられている棚に、足音を忍ばせて近づいた。棚の奥の隠し扉は、巧妙に模様に紛れさせられていたが、ムムターズはスンダラムールティの手元を注意深く見ていたので、比較的容易く仕掛けを見抜くことができた。ムムターズは、寄せ木細工の小箱を取り出し、中から藍色の小瓶を取り出した。
ムムターズは、気配を消しながら、宰相の部屋から出た。そして宮殿を抜け出し、デリーの街に入った。道叡の教えを、現実に使うことができて、胸がわくわくしている。
「よいか、ナーラーヤナ、ムムターズ」
道叡が厳しい声で言ったことを思い出す。少林拳の体術の技を一通り習い終わったところで、道叡が言葉を発したのだ。
「少林拳の極意は、ただの体術にあるのではない。それは、禅の教えに通じておる。その極意に、いつぞやナーラーヤナが賊に襲われたときにわしが言った〝円〟が出てくる」
「円、でございますか」
ナーラーヤナが、得心がいかない、という風に訊いた。
「円だ。禅宗には、十牛図というものがある。自分の心を牛に喩えて、それを探すことを禅の修行の段階として描いたものだ。その一が尋牛。自分の本来の心である牛を探し尋ねていくところだ。二が見跡。牛の足跡を見つけ、自分の心の手がかりを得る。三が見牛。本来の自分を見つける。十牛図では、ここで初めて牛の頭が出てくる。四が得牛。本来の自分を掴まえる。牛に縄を付けようとしている姿として表される。五が、牧牛。本来の自分を手に入れる。牛に手綱を付けて、帰ろうとする。六が騎牛帰家。本来の自分を、確実に手に入れる。手綱を放し、笛を吹いて牛に乗っている図だ。七に忘牛存人。本来悟っている仏が、本当なら無明に迷うはずがない。本来の自分である、牛のことなど忘れて、くつろいでいる姿だ。十牛図には、もう牛は描かれていない。しかし、人はいる。そして、その八番目が、何もない、ただの丸い円なのだ」
「何もない」
「そうだ。人牛倶忘という。探す人も、探される牛もない。つまり、己も、己の心もない状態だ。迷いも悟りも超越した絶対的な〝空〟の境地だ。スーフィーの言うファナーの境地と似ておる」
「八番目がファナーでありますれば、九と十は……」
「そうだ。市井に帰って、その空を維持すること。スーフィーの言うバカーの境地に似ておる。九が、返本還源。花は紅、柳は緑。根本的な自然に帰るところだ。十牛図には、ただ梅の花が咲いている姿として描かれる。最後、十が入鄽垂手。日常生活の中に立ち戻り、仏として人々の中で暮らす。棒と袋を持ち、たたずんでいる人の姿で表される。まさに、バカーだな。だが、今は、八番目の円のことだ」
そう言って、道叡はナーラーヤナとムムターズを怖い目をして睨んだ。
「よいか。この、心を空にする境地に至ると、闇夜でも目が見えるようになる。逆に、昼間でも、己の気配を消すことができるようにもなるのだ」
「あ!」
ムムターズが叫んだ。
「では、あの闇の中で道叡様が賊を倒されたのは」
「うむ、そうだ」
道叡が、重々しくうなずいた。
「わしの友人に、弓矢の名手がおる。その男は、全く何も見えぬ闇の中で、矢を的に当てることができる」
「闇の中ででございますか」
ムムターズが、驚いたような声を出した。道叡が賊を倒したときには、相手の気配があったはずである。それならまだ納得できる。しかし、気配のない弓矢の的を、闇夜に射ることができるとは。本当だとすれば、神技としか言いようがない。
「その男によると、本当に心が空になったときには、的を狙わずとも、的の方から勝手に矢に当たってくるのだそうだ。わしは、到底その境地にはいたっておらんがな。その弓の名人が、闇夜で矢を二本放つと、最初に当たった矢の矢筈に、二本目の矢が当たるぞ。わしもそれを見たときには、背筋が凍り付いたものよ」
道叡が、苦み走った笑みを浮かべて言った。ナーラーヤナも、ムムターズも信じられないという顔をした。
「だから、今日からは、体術の訓練に合わせて、座禅の修行も一緒に行おう。ひたすら、己の心を空にするのだ。ナーラーヤナは、こういう修行にも慣れておるから、比較的容易く極意を得るだろうが、ムムターズには難しいぞ」
「はい」
顔に決死の覚悟を浮かべてムムターズは言った。ナーラーヤナに置いて行かれないように、ひたすら尾いていこう。
こうして、数ヶ月の間、ムムターズは、ナーラーヤナと一緒に道叡の下で修行に励んだ。正直、ナーラーヤナに対する想いを断ち切って空の心境に至るのは無理な話だった。それでも、ムムターズもナーラーヤナも、暗闇でも人の気配を知り、物陰などに隠れれば、容易には人に己の気配を察せられない域には達した。今日もその修行の成果があって、スンダラムールティにさえ気配を勘付かれずにすんだのである。
ムムターズは、藍色の硝子の小瓶を懐に、デリーの街をひたすら急いだ。