第三章
第三章 道 道 道
1
「これが反比例の双曲線じゃ。ギリシャの数学者、アポロニウスが円錐曲線の一つとして取り上げたものでのう」
こう言いながら、ニザームッディーンは、土間の土にY=-1/Xの図形を描いた。第四象限の曲線である。
「この曲線は、Xの値が大きくなるにつれて、限りなくX軸に近づいていく。しかし、永遠にX軸と交わることはない。こういうときに、このX軸のことを漸近線というのじゃよ」
「なるほどなあ。このX軸が究極の悟りか」
道叡が感に堪えたように言う。
「すると、このX軸に近づいていく曲線こそが、我らが修行していく道ということになる。そう言いたいのだな」
「うむ、お主は、このX軸を悟りと呼ぶが、わしならむしろ神との合一と呼びたいのう。じゃから、神との合一は永遠に得られない、スーフィーにとっての究極の憧れなのじゃよ」
「じゃがなあ、わしらヨーガ行者は、何度もブラフマンとの合一を体験するぞ」
チャイタニヤが割って入った。ナーラーヤナは、自分など及びもつかない聖者たちの議論を、ただじっと聞いている。
「そのブラフマンとの合一体験というのは、多分わしの至った小悟の体験と同じなのではないだろうか。またニザームッディーン殿が、アッラーを見た、という体験も同じなのではないか。多分、チャイタニヤ殿も、その合一体験を繰り返すうちに、以前よりも進んだ境地に至った、と感じたことがあるのではないかと思うが」
「うむ、それならあるな。ブラフマンとの合一体験を繰り返すうちに、我に返ってみると、以前の合一体験よりも、より深い境地で合一したなあ、と感じることは良くある」
「わしもじゃよ。同じアッラーのお顔を拝んだ体験でも、後に行くに従ってアッラーのお顔がより鮮明に、はっきりと見えるようになったという気がする」
「やはりな。わしも、小悟するたびに以前より深い境地に立ち入れた、と思うことが多かった。だがなあ、わしらは、そのまま禅定して悟ったままではおれんぞ」
「うむ、そうじゃな。瞑想の深みの中で、ブラフマンと合一すると、心、アートマンは歓喜に包まれるが、肉体のほうは死んだようになってしまう。そのまま瞑想の深みに居続ければ、本当に死んでしまうことになる。じゃから、一度はこの世に戻ってこなければならん」
「スーフィーも同じじゃのう。神を見、自我意識が消滅した状態をファナーと呼ぶ。しかし、どんな高みに至ったスーフィーでも、そのままの状態でおることはできん。この現世に戻ってきて、ファナーで得た境地を持続しなければならん。この持続の状態をバカーと言うのでのう」
「神秘体験というものは、どの宗教でも同じだな。もっとも、禅の悟りは、文字通り醒めてしまうことだからなあ、神秘体験と言っていいのかどうか分からぬが。まあ、どの道、禅でも悟後の修行というものが尊ばれる。悟った後に、現世でさらに修行を続ける。その心構えこそが大事だと、我が師、道元も常々言っておった」
「ほー、悟後の修行というのか。ふむ、確かにそれは大事じゃな」
チャイタニヤが、痩せた胸をかきながら言った。
「だからなあ、わしらの修行は、この漸近線に近づいていく曲線に巻き付いた螺旋のようなものではないかと思う。一見、悟りと現世との間をくるくると廻っているように見えて、実は、じわじわと上に上がっていく。しかし、漸近線である真の大悟徹底には永遠に至らぬ。そういうことなのではないかなあ」
「なるほど。螺旋を描いて上昇しながら、漸近線、つまりアッラーには至らぬのが、修行の道か。やはり神に到達できたと思い、アナル ハックなどと言うのは、ただの思い上がり、慢心か」
ニザームッディーンが、しみじみと呟いた。
真理というのは、唯一絶対神アッラーの九十九の異名の一つである。スーフィズムの始祖、ハッラージュは、神と合一した恍惚の中で、このアナル ハック(我は真理なり)という言葉を叫び、異端として処刑された。
「しかし、道叡。お主は、こう言ったはずじゃ。仏陀が悟った菩提樹の下で大悟徹底したと思った、とな。それは、どうなるのじゃ」
「うむ、確かに、あの時はわしも大悟徹底したと思った。しかし、今思い返すと、限りなく漸近線である悟りに近づいてはいても、やはりそれは修行の途中、一段階であるとしか思えなくなってきた。それまでの小悟とは、確かに一段階違ってはいた。しかし、X軸と完全に一致したとは到底思えんなあ」
「あの」
おずおずとナーラーヤナが口を挟んだ。三人の聖者たちが話をしているときに、ナーラーヤナが口を挟むのは珍しいことだったので、三人の聖者たちも注目した。
「もしかすると、漸近線そのものがブラフマンとの合一なのでは、無いのではないでしょうか」
ナーラーヤナは、唇をなめて言った。声が少し震えている。
「むしろその漸近線を飛び越え、第四象限から、第一象限へ跳躍することこそが、ブラフマンとの合一であり、釈尊の悟りであり、アッラーとの合一なのではないでしょうか」
「なんと!」
ニザームッディーン、チャイタニヤ、道叡が、揃って驚いたような声を出した。
「漸近線を飛び越えて別の象限に移ってしまうのか。それは考えつかなかったぞ」
道叡が呻くように言った。チャイタニヤも、ニザームッディーンもうなずいた。
「すると、ナーラーヤナが言う悟りというものは、我々の修行とは不連続なものだと、そういうことになる」
道叡が、重い口調で言った。そして、次の瞬間、なるほど、という風に膝を打って続けた。
「そうだな、悟る瞬間というのは、わしらの修行とは連続しておらんのかも知れん。だが、修行が無意味ということではないな。修行して、修行して、また修行して、その果てにある瞬間飛び越えるのかも知れん。ナーラーヤナの言うとおりだ。お主たちと話していると、わしにはそんな風に思えて仕方がない」
道叡は、この小屋に来てから、ニザームッディーンに教えられたイスラムの数学用語をなんなく駆使している。ナーガプル村にある、ニザームッディーンの小屋である。ムムターズが、ナーラーヤナとの決闘を母に強いられてから、一週間ばかり経っている。その間、道叡は、イスラム圏で発達した数学について、ニザームッディーンから教えられていた。そして、チャイタニヤを加えた三人で、その最新知識と自分たちの修行との関係について議論を重ねていたのだ。そこに、思いがけずナーラーヤナが議論に加わってきたのだった。
「ううむ、跳躍か。なるほど、確かに考えてみる必要はあるやもしれんのう」
ニザームッディーンが、白い顎髭をしごきながら言った。チャイタニヤも、胸をかきながらうなずいている。
「ナーラーヤナ、お主は、その跳躍をしたことがあるのか」
道叡が、重々しい声で訊いた。
「滅相もございません。ただ、ある時、本当にブラフマンと合一するには、跳ばなければならない、と感じたことがあるのみでございます」
「ううむ。お主は、本当に宗教的な天才よのう。わしらの数十年の修行を、軽々と飛び越えおる」
道叡が、感嘆したように言った。ニザームッディーンも、チャイタニヤも、同じようにうなずいた。
ナーラーヤナが、静かにヴィーナを調弦し、即興的に弾き始めた。その荘厳な調べの中で、三人の宗教の達人は、思い思いの思考に耽っていた。
2
「それでは、デリーまで買い出しに行って参ります」
ナーラーヤナが、三人の聖者に会釈して、ニザームッディーンの驢馬を引いてデリーに向かった。
「時にニザームッディーン殿、こちらに来て、ムムターズ殿の話などを聞いていると、イスラム教の神アッラーと、信者の間には深い谷があるそうだな。なのに、なぜ神と人とが融合する神秘思想がイスラム教に生まれたのかな? どうも、その辺が合点がゆかぬ」
ナーラーヤナが用意しておいた、いつもの献立の昼食を食べてから、不意に道叡が質問した。「ふむ」とうなずきながら、ニザームッディーンが髭をしごいた。
「そうか、そうかも知れんのう。他の宗教の信者からすれば、いささか奇妙に思えるかも知れんのう。さて、どこから話したものかのう」
髭をしごきながら、しばし黙考した。
「道叡殿は、バラモン教には知識がおありじゃったが、イスラム教の知識は、このインドに来てから初めて知ったようじゃ。そもそもの、イスラム教の成り立ちからお話しして進ぜようかのう」
道叡は、チャイのカップを手にしながら、ニザームッディーンのほうに向き直った。
「イスラム教というのは、知っての通り預言者ムハンマド――彼にアラーの祝福と平安あれ――が、大天使ジブリールから、神の言葉、クルアーンの啓示を受けて創始した宗教でのう。キリスト教が、父なる神と、子なる神の二柱の神を想定するのに対して、厳格な一神教なんじゃよ。キリスト教では、さらに聖霊を立てて、三位一体などとも言うでのう。わしらから見たら、多神教としか思えん。ちなみに、クルアーンは、ムハンマドご自身に啓示された神自身の言葉のみを指す。ムハンマドご自身の、人間としての言行は、ハディースという別の書物としてまとめられておる。このイスラム時代の前、アラブはジャーヒリーヤと呼ばれる、野蛮な多神教の時代じゃった。そこで、ムハンマドは、メッカに進軍し、占領なさったときに、カーバ神殿にあったたくさんの神々の像をみな打ち壊してしまわれた。そして、アッラーの他に神はなしと宣言されたのじゃよ」
「ほう、日本には、八百万の神がおわすから、だいぶ違うな」
道叡が、莞爾として笑った。
「厳格な一神教じゃから、神アッラーと被造物の間には、無限の懸隔があるのでのう。神のお姿を描くことも、偶像崇拝に当たるから禁止される。つまり、信者は、神のお言葉、クルアーンと預言者を通してしか神にはお会いできんのじゃ。しかも、預言者はムハンマドで最後じゃでのう。イスラム教の創始当初はそれでも良かった。ムハンマドご自身が生きておられ、日々神の啓示があったからのう。しかし、ムハンマドが亡くなられてしばらくした頃から、啓示の神、聖法の神では満足できない人々が出てきた。もっと神をまざまざと感じ、神のお姿を拝し、神を愛したいと願う人々が出てきた。それが、スーフィーと呼ばれる人々でのう」
「なるほどなあ。仏教でも、最初は仏像は造られなんだそうだ。しかし、やはり仏のお顔を直接拝したい、という人々の願望は強かった。そこで仏像が造られ、同時に大乗仏教が起こった。それと似たような事情か」
「うむ、そうじゃのう。神のお姿を拝したい、という願いは同じじゃろうのう。さて、初期のスーフィーたちは、もっぱら禁欲と苦行をこととする者たちであった。神に少しでも近づくためにのう。その苦行、瞑想の過程で神秘体験をする者たちが出てきたらしい。そうした者の中から、ラービアという女性のように、神に無限定の、絶対的な愛を捧げる者が出てきてのう。ラービアはこのように言っておる。
おお神よ、もし私が地獄の恐怖からあなたを礼拝するのでしたら、
私を地獄で焼いて下さい。
もし私が天国が欲しくてあなたを礼拝するのでしたら、
わたしをそこから追放して下さい。
しかし、もし私があなたご自身のためにあなたを礼拝するのでしたら、
どうかあなたの永遠の美を私からお取り上げにならないで下さい。
とのう」
「ほう、いい言葉だなあ」
道叡は、瞑目して、その言葉を噛みしめていた。そして、不意に目を開いて、ニザームッディーンとチャイタニヤの顔をひたと見た。
「話の途中ですまんがのう、ちょうどナーラーヤナもいない。あやつは、ムムターズ殿に懸想しておる、と見たが、どう思う」
「ふむ、それも、尋常一様の懸想の仕方ではないな。ありゃあ、命がけの恋だ」
チャイタニヤが、胸を掻きながら言った。
「わしも、そう思うのでのう」
ニザームッディーンも、苦しげな表情でうなずいた。
「だが、あやつはおのれの進むべき神秘への道のことも、命がけで臨んでおる。あやつその道と、恋との間で板挟みになっておるようじゃ。そう言う素振りは、あからさまには見せんがなあ」
道叡が言うと、他の二人の聖者もうなずいた。
「わしの見るところ、ナーラーヤナのムムターズへの思いは、今ニザームッディーン殿が言ったラービアという女性の神への思いと同等に思えるのだ」
「うむ、畏れ多いことではあるが、どうもそのようだのう」
そう言いながら、ニザームッディーンの顔には困惑の表情が浮かぶ。右手が、その白い髭をしごく。
「神へと向かう道と、ムムターズへの思いを両立させることは、果たして可能じゃろうか。実は、わしはこのところ、それを思い悩んでなかなか眠ることができんのでのう」
「だが、わしらバラモンは、妻帯しても道への精進は行うぞ」
「ふむ、じゃが、バラモンも林棲期、遊行期には、女は同道せんじゃろう」
ニザームッディーンが、苦渋に満ちた物言いをした。
「しかも、ナーラーヤナは、ムムターズの叔父であるフサインを殺したことで、己を責めてもいるようじゃでのう」
ニザームッディーンが、深いため息をついた。
「それじゃよ。なんという運命の悪戯じゃ」
いつもは剽軽なチャイタニヤが、やはり苦渋に満ちた顔をした。
「己を、フサインの仇と思っておるからには、ムムターズへの想いは、叶わぬ恋と諦めているようだでのう」
「しかし、ムムターズの方も、ナーラーヤナを尋常ならざる想いで懸想しておるぞ」
道叡が、深く、しかし少し寂びた声で言った。
「ふむ、あの二人の恋の行方は、わしらていどの通力では、見通せんな。どうなることやらじゃな」
チャイタニヤが、珍しくため息をつきながら言った。
「ううむ。煩悩即菩提とは言うが、なかなかそうもいかんしなあ」
道叡が、再び瞑目した。
ニザームッディーンとチャイタニヤも、それぞれの物思いに沈んだ。だんだん影が長くなっていき、陽が沈む頃になっても、三人の沈黙の行は続いた。
ようやく、デリーに出かけていたナーラーヤナが帰ってきた。
「思いがけなく、遅くなってしまいました。すぐ、夕食の支度をいたします」
こう言って、ナーラーヤナは甲斐甲斐しく食事の支度をした。その間も、三人の聖者は、沈黙を守った。
「わしはなあ、ナーラーヤナ」
いつもの通りの、簡素な食事が終わると、唐突に道叡が口を開いた。
「天皇と言ってな、日本の国を治めるスルターンの息子じゃ。いや、スルターンではないな。スルターンは幕府の将軍が当たるだろう。むしろカリフと言ったほうがいいな」
「カリフの息子! それはまた、大層な身分だのう」
ニザームッディーンが、驚いたように声を出した。ナーラーヤナは、なんの話が始まるのだろう、という風に道叡の言葉に注目している。
「なに、妾腹の子でな。兄弟が、何人もおる。母親が、身分の低い田舎貴族だから、その兄弟中の末席だ」
道叡が、からからと笑った。
「それでも、たいした身分じゃ」
チャイタニヤが、感嘆したように言った。
「わしはなあ、生まれるとすぐに、田舎の貴族の家に預けられた。清和源氏の子孫、井上家というところじゃ。天皇の位を継ぐ可能性はなかったからなあ。最初から臣籍降下されておる。ところで、今の日本の貴族というのは、身分は高いが手元は不如意だ。ちょうど、バラモンのほうが身分は高いが、金持ちなのは、クシャトリヤやヴァイシャなのと同じだな。それで、わしはその井上家の面倒を見ていた武士の家に後見して貰うことになった。なに、実質は、その武士の家で育ったようなものだ。そこで、わしは武芸を身につけ、さらに引き取ってくれた井上家では若干管弦の道もたしなんだ。まあ、管弦の道のほうは、才がなくてものにはならなかったがな」
こう言うと、道叡は懐から一本の横笛を取り出して、一節鳴らして見せた。
「ほう、不思議な音色じゃが、なかなかの腕前ではないか」
チャイタニヤが、驚いたように言った。ニザームッディーンも、ナーラーヤナも同意とうなずいた。
「わしも、タンブーラが弾けたら、その笛と合奏したいものだがのう」
ニザームッディーンが、立てかけてあるタンブーラを見た。ニザームッディーンは、タンブーラの名人であったが、一度驢馬から落ちて右手を骨折し、今はタンブーラを弾くことは出来なくなっている。
道叡が続けた。
「そうして、わしはその田舎貴族、井上家の下で元服した。十四の時だ。その時に初めて、わしは天皇の息子であることを知らされた。しかし、目通りはかなわぬものと思っておった。皇位継承権もない、ただのご落胤というやつだからなあ。それが、思いがけず十八の時に、上皇となっていた父に呼ばれた。そして、父との目通りがかなったのだ」
3
「井上三郎忠晴にございます」
後に後鳥羽と諡されることになる院の帝の前で、十八歳の青年武士が平伏した。井上三郎忠晴、後の僧、道叡である。初春の昼の仙洞御所である。明かり取りの向こうには、咲き匂う梅の枝が揺れている。親子三人のみの対面ということなので、簡素な部屋で人払いがしてあるが、三郎忠晴は、控えの間から、ただならぬ力量を持つ侍たちの気配を感じ取っていた。
「おお、そちが三郎忠晴か。うむ。いい若武者に育ったものよのう。井上家の地頭に育てられたと聞くが、やはり武士の下で育った面構えよのう。朕が、そちの父じゃ。わしの隣におるのが」
こう言って院は、側にいる上品そうな婦人を見た。
「そちの母、伊勢の守の女房、しのぶじゃ」
「はい。一生お目通りはかなわぬものと思い定めておりましたが、こうしてお目通りがかない、忠晴感無量でございます」
「うむ。ところで、そちは篳篥をよく吹くと聞いたが、どれ、ここで一節吹いてみせよ」
「はい、仰せとあらば」
三郎忠晴は、懐から、紫色の袱紗に包まれた篳篥を取り出した。口に当て、しばし瞑目して、おもむろに吹きだした。高く、澄んだ音が喨喨として鳴り響いた。その音には、両親を恋うような女々しい響きは一切無かった。凛々しく、雄々しく、決然とした響きの中に、しかしどこか優しい潤いと風情があった。
母の女房、しのぶが、袖で目をそっと拭った。白拍子などとのつきあいも多く、管弦の道も聞き上手な院も、思わず目を剥いた。
三郎忠晴が吹き終わると、院も、我を忘れて手を打った。母の女房は、泣き伏している。
「見事じゃ。よう吹いた。よう吹いた」
「ほんに。よう、優しく吹きましたのう。思いやりのある、しかも強い子に育ってくれて、母は嬉しゅう存じますぞ」
二人とも手放しの誉めようである。三郎忠晴は、少し照れくさそうに篳篥を袱紗に包み、懐にしまおうとした。
「待ちやれ。そちは、武芸にも秀でておると聞く。今日は、朕の侍の中から、組み討ちの名手を一人呼んでおる。その者と、一番組み討ちして見せよ。篳篥は、折っては大事。脇に置け」
「仰せとあらば」
院が手を打つと、三郎忠晴より頭一つは大きそうな荒武者が、控えの間から出てきた。
「義光、朕の子とは思わずに、存分に闘え」
義光と呼ばれた荒武者は、「仰せのままに」と院に頭を下げると、「いざ」と言いながら両腕を高く上げた。上背で、圧倒しようという心づもりらしい。そのまま、両者は激しくぶつかり合い、力比べの押し合いとなった。体の一回り大きい義光は、そのまま押し潰そうとしたが、思いの外三郎忠晴の力が強かった。両者とも、顔を真っ赤にして組み合っている。義光が、上背を生かして、三郎忠晴の上にのしかかろうとした。三郎忠晴は、その力を上手く利用して、巴投げの要領で義光を投げ飛ばした。体重の重い義光には、相当の衝撃があった様子である。
怒った義光が、突進するのに、またその力を利用して腕をとり、背負い投げの要領で投げ飛ばした。度重なる失態に、義光は逆上するかと見えたが、むしろその顔は青ざめ、目には冷静な光が宿った。間合いを開け、右回りに廻る。三郎忠晴も、慎重に距離をとって、回り込む。不意に義光が、間合いを詰めると、恐ろしいほどの勢いで、腰に向かって前蹴りを放った。
しのぶが、「ヒィッ」と叫び声を上げた。
三郎忠晴は、逆に踏み込んで、義光の軸足を払った。義光がどうと倒れた。三郎忠晴が、その上に馬乗りになった。
「そ、そこまで」
院が慌てて止めた。
「義光、今のような蹴り技が万一当たっていたら、死んでしまうではないか。仮にも、我が子ぞ」
院の顔に、脂汗が浮いている。さっき、朕の子とは思わずに、と言ったことなど忘れてしまったようだ。
「は、面目次第もございません。和子様が、思いの外お強く、手加減も何も忘れて夢中になってしまい申した。しかし、和子様は、本気になったそれがしよりもお強くていらっしゃいます。末頼もしきお方かと」
「うむ」
院は、上機嫌でうなずいた。
と、そこにころころとした毛玉が転がり込んできた。人々の視線が、その毛玉に集中した。
「これ、わかなや、いけません」
その白と茶の毛玉を追い、隣室との境の御簾を上げて一人の少女が飛び込んできた。紅梅の小袖に、萌黄の袿を着ている。少女が、毛玉を手に取った。毛玉の正体は、乳離れしたばかりで、腕白盛りの子猫であった。
「も、申し訳ございません。わかなが、急に部屋から出てしまったものでございますから」
年の頃は、二十歳ばかりだろうか。一見、幼い印象なので少女と見紛うたが、こうして子猫を抱いて撫でている姿を見ると、なかなかどうして、女盛りの色香の匂う娘である。三郎忠晴は、魂を抜かれたような顔をして、娘の顔を見つめている。しかし、その三郎忠晴の様子に、上機嫌の院は気付かないようである。
「うむ、苦しゅうない。忠晴よ、これは、朕が今一番寵愛しておる、白拍子の薫子と申すものじゃ。薫子、これが朕の息子、井上三郎忠晴じゃ。どれ、薫子、一差し舞うてみよ」
「これは和子様。薫子と申します。賤の女ではございますが、お見知りおきくださいませ」
薫子は、急いで跪くとこう挨拶し、次の間に着替えに入った。しばらくすると、薫子は白い水干に、紅の長袴を穿き、見事な銀細工で飾られた白鞘巻を下げ、黒の高烏帽子を着けて現れた。後ろに、奏楽のものを引き連れている。奏楽の者たちは、院に一礼し、三郎忠晴にも一礼すると、各々の位置に座った。薫子は、二人に一礼すると、部屋の中央にしずしずと進み出でた。箏に能管に琵琶の奏楽が鳴り響いた。さすがに、院の側に侍っているだけあって、見事な演奏である。三郎忠晴は、まずその音に聞き惚れた。
薫子が、右手を一振りして扇子を開いた。そして、凛々しい表情をしながら、低い声で今様を謌い男舞を舞った。足の踏み込み、閃くように舞う白い手。一瞬一瞬に、武芸にも通ずる、鍛えられた技があった。三郎忠晴は、ただ惚けたようにその姿に見とれ、その声に聞き入った。三郎忠晴も篳篥をよく吹く。だからこそ、薫子の舞と今様が持つ芸の深さが分かる。その芸は、三郎忠晴の篳篥の遠く及ぶところではなかった。長高しというのだろうか。背筋がすっくと伸びている。その伸びた高さが、そのまま芸の高さになっている。歳は自分より二つ三つ上だろうか。だが二年や三年で、自分がこの芸の域に到達するのは不可能だ。三郎忠晴はそう悟って戦慄した。
舞を見ているのか。
それとも薫子に見惚れているのか
いずれにしろ、三郎忠晴は忘我の境地にあった。
薫子の舞が終わった。薫子は、中央に座り、院と忠晴に礼をした。院は、上機嫌である。
「どれ、忠晴よ。今日からそちは、上北面の武士として朕の警護に当たるがよい。位は従五位下、左衛門大夫に任じよう。手柄を立てれば、出世は思いのままぞ」
「は、有り難き仰せ」
「義光が、当座の間そちの上役となる。義光と共に行くがよい」
言われて、三郎忠晴は院に礼をし、その場を辞した。
その晩、三郎忠晴はなかなか寝付けなかった。個室の一間をあてがわれているのだが、その中で先ほどから寝返りばかりうっている。目を瞑れば、薫子の姿が思い浮かんでくる。目を開けても、その姿はいっそう艶めかしく迫ってくる。心臓は、早馬を数十里も走らせた後のように激しく打っている。しかし、早馬を走らせたときのような爽快感はない。むしろ、胸が苦しくてたまらない。
女性を想うとはこういうことか。
さすがに奥手の三郎忠晴にも、思い当たるところがあった。薫子の姿形にだけ目を奪われたのではない。その舞の奥に潜む心根の高さにも惚れ込んだのだ。
こうして、三郎忠晴は、六日あまり悶々として過ごした。
薫子が愛しい。
まさか父の想い人を奪うわけにはいくまい。だが、この身を焼くような恋心をどう御したらいいものだろう。馬なら巧みに御すことのできる三郎忠晴だったが、己の心の臓の逸る想いは、どうにも手綱が取れなかった。
昼はまだいい。武芸の稽古に汗を流し、馬を走らせていれば一時薫子を忘れていられる。しかし、そうであってさえ、ふと気を抜いたときなど、たちまちのうちに脳裏は薫子の面影でいっぱいになってしまう。まして夜は、一晩中薫子の引く手、出す足、美しい顔、聴くものを惑溺させる声が頭の内を占めてしまう。三郎忠晴は、薫子を想いながら、一晩に何度も己が手で果てた。眠れぬ夜が続いたが、頑丈な体はびくともしなかった。いや、少しは面痩せし、顔つきに精悍さが増したかも知れぬ。 ついに七日目の晩、忠晴は、むっくりと起き上がった。障子を開け、廊下に出る。上北面には、侍う武士の他に、院の寵童たちも寝起きしている。忠晴は、その寵童の一人を手なづけ、薫子の寝所を探らせておいた。薫子はもしかすると今宵院に呼び出され、夜伽をしているかも知れぬ。そうも思った。だが、その時は明日にもう一度忍べばいい。明日が駄目なら明後日。もし見つかったならば腹を切ればいい、と簡単に考えている。忠晴は、足音を忍ばせて、薫子の寝所に向かった。白拍子である薫子の寝所は、後宮の外にあった。護衛が一人いたが、当て身を食らわせて気絶させた。
幸い、今宵は院の閨のともは薫子ではなかった。薫子の部屋に入ると、薫子が目を覚ました。
「誰!」
鋭く誰何する声が聞こえた。月明かりの中で、薫子は忠晴を認めたようだった。
「和子様」
「薫子殿、ご免」
言うなり、忠晴は薫子を肩に担ぎ上げた。薫子に悲鳴を上げられればそれで終わりであるが、その時はその時。やはり腹を切ればいい、と腹を括っている。が、なぜか薫子は声一つ上げない。大人しく担がれるままになっている。忠晴は、厩に走った。そこには、忠晴の愛馬、漆黒の馬、黒駒が繋がれていた。黒駒の上に、薫子を横座りに乗せると、薫子を抱くようにして黒駒に跨った。「はい!」声をかけると、黒駒は一散に走り出した。門にいた二人の衛士が槍を持って遮ろうとしたが、黒駒で蹴散らす。手綱を握ったまま飛び降りて門を開けると、そのまま黒駒を走らせながら飛び乗った。
仙洞御所から出て、最初は、井上家の荘園に行こうかとも考えた。しかし、それでは井上家に迷惑がかかってしまう。取りあえず、山里に行って隠れ住もう。そう忠晴は思った。黒駒は、主の決死の覚悟を察しているのか、風のように夜道を走り抜ける。都大路とはいえ、この真夜中には人一人の影もない。その中を走りに走って、朱雀大路から羅城門を抜けた。黒駒は、月明かりのみを頼りにどこまでも疾走する。こうして、宇治川を超えた辺りで、黒駒から降りた。黒駒ももう疲れ切っている。
「ご苦労だったな。黒駒よ。ここで別れよう。わしは、薫子殿を負ぶって、歩けるだけ歩く。さらばだ」
息の上がった黒駒が、鼻面を忠晴の顔にこすりつけてきた。
「うむ」
忠晴がうなずきながら、その鼻面を撫でてやる。
と「ミィー」と可愛いらしい声がした。見ると、薫子の胸元から、子猫のわかなが顔を出していた。薫子が、恥ずかしそうに胸元を合わせた。
「これは」
「わかなは、私と添い寝をしておりました。和子様が、あんなに乱暴に担がれるものですから、私はわかなが潰れないかと心配で」
と、ちょっと恨むような目で忠晴を見上げる。その目つきが、清純さの中に、なんとも妖艶な色気を秘めている。
「こ、これは、とんだ粗相をした」
忠晴は、うろたえて頭をかいた。
「さあ、それでは、和子様、参りましょう」
「え?」
「この馬がいる辺りでは、容易く追っ手に見つかってしまいます。できるだけ、この馬から離れなければなりませぬ」
こう言うと、薫子はさっさと歩き出した。忠晴は呆気にとられて薫子を見た。忠晴が担いで歩こうと思っていた薫子が、自分の足で歩いているのだ。
「薫子殿」
「薫子と、お呼び捨てくださいまし。和子様を一目拝見いたしました時から、薫子の命は和子様のものとなり申した。ですから、今宵和子様が夜這われていらしたときは、天にも昇る心地がいたしました」
「か、薫子」
思い切ってそう呼んで、忠晴は薫子を抱きしめた。
「嬉しゅうございます」
薫子はそう言って、そっと寄り添い忠晴の抱擁に応えた。
怖いように冴えた月の光が、白く照り差した。
「さ、和子様、参りましょう」
「うむ。黒駒よ。行け」
言われて、黒駒は忠晴たちが進む方向とは反対の方向に歩き出した。勘の鋭い馬である。
「この辺の土地なら、さほど不案内でもございません。近くに、空き小屋があったはずでございます」
こう薫子に言われて、歩いたが、行けども行けども小屋など見えはしない。一時あまり歩いて、ようやく目指す小屋を見つけた。女なのに、足の強いことである。狭い掘っ立て小屋で、入り口にはむしろがかけてあるだけであった。農繁期の、休憩所ででもあるのだろうか。むしろを上げて、中に入る。
「わかなや、ちょっと今は外に出ていておくれ」
こう言って、薫子は子猫のわかなを胸元から出した。暖かい胸元から出されて、わかなは少々不満そうに「ミィーッ」と抗議の声を上げた。
「薫子」
何も言えぬまま、忠晴は直情的に薫子を抱きしめた。薫子も情熱的に答える。
「生娘でないのが、口惜しゅうございます」
薫子が、帯を解きながら言った。薫子の目に、涙が浮かんだ。明かり取りから漏れる月の光を受けてふるふると震えるその涙を、忠晴は優しく吸った。逸る忠晴を、薫子が巧みにいなしながら、二人は契った。
4
「こうして、三日三晩その小屋で過ごしたものよ。食べ物は、わしが路銀を有り余るほど持っていたからなあ、近所の農家から買ってきた。梅の季節だからなあ、寒かったはずなのに、とんとそんな憶えもない。若かったからだろうなあ」
道叡は、豪快に笑った。
「そして、四日目に、とうとう捕縛吏がやって来た」
「それから、どうなさったのですか」
「どうもこうもない。逃げようとしても、日本国は何処もが王土だ。逃げ切れるものではない。なんと言っても、わしは父の想い人を奪った大罪人。そのまま生き伸びようとは思わなんだ。薫子は、わしに無理矢理掠われたのだから、お咎めも軽くてすむだろう。そう思って、大人しく掴まった。まあ、いずれ腹を切るつもりでおった。命は惜しゅう無かったな。薫子との三日三晩の契りは、わしにとって極楽同然だったからなあ」
「だがなあ、いくらカリフじゃとて、我が子をすぐには殺しはせんじゃろう。なあ、道叡よ」
チャイタニヤが、悪戯小僧のような顔で言った。
「うむ、その通りだ。父院も、さすがに息子を死罪にするのは躊躇われたのだろうなあ。わしは比叡山延暦寺において出家することになった。驚いたのが薫子だ。わしに掠われたと言えばすむものを、あくまでも自分からついていったと言い張ったのだ。そして、尼になって出家したいと言うのだ。院は、それも許した。渋々だがなあ。こうして、わしは仏門の修行をするようになった。叡正という名前を貰った。薫子を忘れねばならぬ、と思って一心不乱に修行したなあ。幸い、円道という朋輩がおってなあ。わしより五年早く山に入ったが、年は同じだった。素晴らしい秀才でなあ。あばた面で、まん丸い愛嬌のある顔をしておった。この円道の導きで、経を読んだ。身震いするほど感激したなあ。武士の道とは明らかに違う、仏の道がある、と心の底から思った。わしが寺に入ってしばらくして、父院が幕府に対して兵を起こした。承久の乱と言うがなあ。本来なら、父院の元に馳せ参じなければならんところだろうが、わしはとんとその気になれなんだ。何よりも、仏の道に精進して薫子という業を忘れなければならん。そう思うてなあ。仏の道を説いた教典には、それほどの魅力があった。ただ師には恵まれなかったな。比叡山の和尚たちは、みな俗物だった。三年、四年。しかし、なかなか迷いは捨てきれん。それどころか、薫子から時折文が来る。この文が嬉しくてな。本当なら捨てねばならぬところを、後生大事にとって置いたものだ。円道には隠れてな。さすがに、今は持っておらんが、日本に帰ればちゃんと取り置いてある。恥ずかしながら、文の返事を書いたこともある」
「うむ。男というものは、得てしてそんなものじゃて」
およそ女とは無縁そうなチャイタニヤが、訳知り顔に言った。
「こうして、何年比叡山で修行したかな。共に仏の道を歩んできた円道が、流行り病であっという間もなく寂滅してしまったのだ。わしは力を落とした。さっきも言ったが、比叡山ではよい師匠には出会わなんだ。教典には素晴らしいことが書いてある気がするのだが、それについて教え導いてくれる師はおらん。共に歩む朋輩もおらん。ここにいたのでは、悟りを得るどころか、薫子を忘れることさえできん。ここでの修行は無駄だ。そう思い定めた。丁度その頃だ。宋で大悟徹底した道元という僧が、深草に興聖寺という寺を建てて説法をしているという話を聞いた。そこで、わしは比叡山を捨て、その道元の下に走った。比叡山が興聖寺を弾圧していたときだからなあ、なかなか決断がいった」
道叡は、面白そうに笑った。チャイタニヤも、ニザームッディーンも笑っている。しかし、ナーラーヤナは一人その笑いに参加できずにいる。
「道元は、峻烈な師だった。わしより二つばかり若いのだがな。そんな歳のことなど忘れさせる本物の求道者だった。わしは、道叡という新しい名前を貰い、道元のいう只管打坐、ただ一心に座る修行を行った。そして、程なく小悟を得た。やれ嬉しやと、ますます修行に励んだ。それでもなあ、ナーラーヤナよ」
こう言って、道叡はナーラーヤナの顔を見つめた。真剣さと諧謔がない交ぜになった表情だった。ナーラーヤナは、思わず居住まいを正した。
「それでもなあ、小悟を得てさえも、なお薫子のことは忘れられなんだ」
「はい」
思わず、ナーラーヤナはうなずいていた。
「興聖寺に移ったことは、薫子には知らせなんだ。そうして、妄執邪念を払おうと、ますます修行に打ち込んだ。そしてなあ、ついに大悟徹底した。と言うより、師道元がわしの大悟徹底を印可したのだ。なのにだ、なのにわしには薫子のことが忘れられなんだ。その時に、本気でこう思ったのだ。煩悩即菩提。色即是空、空即是色、とな。今でも、こうして目を瞑れば、愛しい薫子の顔が瞼の裏に浮かぶ」
こう言って、道叡は瞑目した。
ナーラーヤナは、真剣な顔をしてうなずいた。秀でた額と、高い鼻筋に月の光が差した。そして、壁により掛かり、ヴィーナを爪弾きながら、物思いに耽り始めた。
その様子を見て、ニザームッディーンが言った。
「さて、ナーラーヤナは、自分のことは自分で考えるだろうて。わしらは、先ほどのイスラム教の話をしなければならんのう」
「おお、確か、ラービアと申す女性の話だったな」
「そうじゃ。ラービアが出てから、神への至上の愛をこととする神秘主義者たちが生まれたのでのう。羊毛の粗布を纏うことからスーフィーと呼ばれるようになった。そうした神秘主義者たちは、いつしか神を見、神と合一することをさえ目指すようになる。そして、ついにフサイン・マンスール・ハッラージュという神秘家が出てのう。彼は、神に酔う至高なるファナーの境地の中でこう言った。アナル ハック 我は真理なりとな。真理というのは、神、アッラーの持つ九十九の御名の一つでのう。これは。我は神なり、と言ったに等しい。こんな暴言は、当時としては許されない冒涜でのう。ハッラージュは首をくくられ、その体は火に焼かれて灰はチグリス河に投げ捨てられた」
「愚かなことじゃ。ブラフマンと合一したのなら、それは聖者だということじゃ。そのハッラージュなる者は、真の聖者だったじゃろうになあ」
チャイタニヤが、どこか悔しそうに言った。
「うむ、ハッラージュが聖者だったことは、確かじゃろうのう。だが、当時のイスラム世界では、それは許されぬ見解じゃったでのう。それで、スーフィーの教義は、一般のイスラム教徒からは隠されてしまうのじゃ。一般のイスラム世界は、イスラム法学者たちが指導する聖法が治める世界。神秘の世界は、人々からは隠されたスーフィーたちだけの世界となったのじゃ」
「なるほどなあ。それなら分かる。それなら、唯一の神を信ずる宗教として理解可能だ。だが、それがどうして今のように一般の信者までもが神秘主義者を崇拝するようになってしまうのだ」
「うむ、それはのう、今から二百年ほどまえに、アル・ガザーリーという偉大な学者が生まれたのじゃ。ガザーリーは、イスラム世界最高の大学、ニザーミーヤ学院の教授となるほどの大学者じゃった。ところが、ある日その教授職を捨てて、スーフィーとしての修行をしに旅立ってしまったのじゃ」
「なるほど。遊行期に入ったバラモンのようなものじゃな」
「うむ、まあ、似ていると言えば似ているかも知れんのう」
ニザームッディーンが苦笑した。
「こうして、厳しい修行の末に、ファナーの境地にまで立ち至ったガザーリーは、スーフィーの神秘の道こそ、真のイスラムの道じゃと確信したのでのう。ところが、ここで大変なことが起こった。なんと、ガザーリーは、晩年に再びニザーミーヤ学院の教授に返り咲いたのじゃよ。イスラム世界最高の大学であるニザーミーヤ学院の教授が、聖法による神学の道よりも、スーフィーによる神秘の道のほうが上だと確言したのじゃ。その影響は大きかった。ただ、もちろん、ガザーリーは神人合一の境地は否定したのじゃ。彼から、わしらが奉じる穏健な神秘主義が生まれたと言えるかのう。こうして、イスラム世界の表に出たスーフィーたちは、様々な教団を創った。カディーリー教団やナクシュバンディー教団、それにわしが属するチシュティー教団などじゃ。ただ、問題もあるのでのう」
「というと?」
道叡が不思議そうな顔をした。
「奇跡じゃ。民衆は、聖者に奇跡を求める。そこで、奇跡を売り物にするスーフィーも出てくる。今言った様々な教団などは、その教団自体を維持するために、祖師の奇跡を殊更に売り物にするようになってくるのでのう。はっきり言って、スーフィーの道の堕落じゃ」
ニザームッディーンが、吐き捨てるように言った。道叡も、チャイタニヤも同意するようにうなずいた。
「民衆から隠された状態にあった時のスーフィーは、奇跡などには目もくれずに修行に励んだものだそうじゃ。しかし、民衆の、様々な現世的欲望に影響を受けたスーフィーたちは、その欲望を満たしてやることによって己の声望を高めようという現世的な欲を抑え切れなんだでのう」
「ふむ、ヒンドゥー教とて同じことじゃ。奇跡というより、他愛もない通力じゃが、それを望む民衆が多すぎる。もっとも、病気を癒したり、雨を降らせたりするような、真の民衆の望みは、通力程度では叶わんのじゃがな」
三人の聖者たちは、一様にうなずいた。
5
「時にチャイタニヤ殿、以前にチャイタニヤ殿から聞いた話では、ヒンドゥー教はバラモン教から生まれたとのことだった。そして、今のヒンドゥー教は、シヴァやヴィシュヌを崇める宗教だということだった。その話を聞いた後に、つらつら考えてみたのだが、ヒンドゥー教と、先に言っておられたウパニシャッド哲学との関係がよく分からぬ。ちょうど、イスラム教の神秘主義について聞いたおりでもある。ヒンドゥー教の神秘主義についても教えてくれまいか」
「うむ」
チャイタニヤは一つ咳払いをし、おもむろに話し始めた。
「ウパニシャッド哲学は、後に六つの学派に分かれたのじゃ。中でも、最も勢力が大きく、わしも属しておるのがヴェーダンタ学派じゃ。ヴェーダンタというのは、ヴェーダの最後、という意味でなあ、ウパニシャッドそのものを指す語でもあるのじゃ。ヴェーダンタ学派は、ウパニシャッドの基本思想、宇宙原理はブラフマンであり、そのブラフマンと個我であるアートマンの合一こそ究極の救済である、という一元論の思想を受け継いだのじゃ。他の学派では、必ずしもそうではない。例えばサーンキヤ学派では、この世界は、世界の外からこの世界を観照する純粋精神であるプルシャと、世界を形作る根本物質であるプラクリティからなるとする。そして、この汚れたプラクリティの活動が停止し、清浄なるプルシャのみになったときに、真の解脱が得られるとするのじゃ。まあ、これははっきりとした二元論じゃな。じゃから、ヴェーダンタ学派こそ、ウパニシャッドの一元論的な伝統に、最も忠実な学派といえるじゃろう。このヴェーダンタ学派に、今から五百年ほどまえにシャンカラという天才が現れた。このシャンカラは、五歳の時に入門式を受け、七歳の時には全てのヴェーダの学習を終え、一切知者になったと言われておるんじゃ。そして、なんと三十二歳の若さで没してしまう」
「ほう」
「その若さで没するまでに、後のヴェーダンタ学派の基本思想をあらかた打ち立ててしまったのじゃ。まさに、天才じゃな」
チャイタニヤは、ここでぐっと言葉を抑えた。
「実のところ、わしはナーラーヤナも、このシャンカラに匹敵する天才ではないかと思っておるのじゃ」
この言葉に、ニザームッディーンも道叡もうなずいた。
「さて、このシャンカラは、仏教の僧院制度に習って、四つの僧院を造り、主立った四人の弟子に預けた。その四人の弟子は、みなシャンカラを名乗り、以降、代々その四つの僧院の法王はシャンカラを名乗ることになっておる」
ここで、チャイタニヤは悪戯っ子のような顔をした。
「そしてなあ、カリフの息子道叡ではないが、実のところわしはその四つの僧院の一つ、シュリンゲーリー寺院のシャンカラだったのじゃ」
「ほう、それは初めて聞いたのう。で、なんで、そのように栄耀栄華を極めた身が、こんなあばら屋に来たのじゃ」
ニザームッディーンが、心底驚いた風に言った。
「なに、俗世間が嫌になっただけじゃよ。そういうお主こそ、チシュティー教団の教主になるはずのところを、そこから尻をからげて逃げ出したことぐらいは、知っておるぞ」
チャイタニヤに言われると、ニザームッディーンは、これは参った、という顔をした。
「実はな」
チャイタニヤが、またもや悪戯小僧のような顔をして、道叡の顔を覗き込んだ。
「この初代シャンカラには、あるあだ名がある。道叡には興味があると思うが」
「ほう。どういうあだ名かな?」
道叡が、はて、分からん、という顔をした。
「シャンカラには、仮面の仏教徒、というあだ名があるんじゃよ」
「ほう」
道叡は、心底驚いたような声を出した。
「ヴェーダンタ学派では、ウパニシャッド群と、バガヴァット・ギーター、そしてブラフマ・スートラの三つの教典を、三つの体系と称して尊ぶ。ただ、ウパニシャッド群は、サーンキヤ学派など、六派哲学の他の学派でも尊ぶ聖典じゃ。また、バガヴァット・ギーターは、ヒンドゥー教徒なら誰でも尊ぶ聖典じゃ。バガヴァット・ギーターでは、人間のそれぞれの地位における義務を果たすことが解脱への道だと説く。ギーターの中では、同族と殺し合わなければならなくなったアルジュナという王子が、殺し合いをしたくなくて悩むのじゃ。そこで、馭者に化けた最高神クリシュナが、戦士であるクシャトリヤにとっては、戦闘こそが義務じゃから、闘って義務を果たすことが人間の道じゃ、と説くのじゃ。これは、本来マハー・バーラタという長い叙事詩の一節なのじゃが、ヒンドゥー教徒全てに崇められる聖典となっておる。さて、こうしてみると、ウパニシャッド群とギーターはヴェーダンタ学派のみの聖典ではない。そこで、ヴェーダンタ学派では、ブラフマ・スートラが根本教典ということになるんじゃ。ところで、ブラフマ・スートラは、大いなるブラフマンが〝存在〟し、そのブラフマンから世界が〝開展〟してくる、という実在論的ブラフマン一元論を説いている。ところがじゃ、ブラフマン自身からこの世界が開展したと考えると、説明できないことが起こってくる。なんだと思う?」
「さて」
道叡が、小首を傾げた。
「それは、この世界に満ちておる苦悩じゃ。どうじゃな、道叡、本来解脱している大いなる一者から開展した世界に、苦悩があっていいと思うかな」
「うむ。それは大きな矛盾だと思う。もっとも、絶対的な存在者を立てず、一切を空だと説く仏教では、この世界は、本来苦悩に満ちたものだと教えるがな」
「では、仏にも苦悩はあるのか?」
「ない。この世の有情に苦悩があるのは、無明の闇に迷っているせいだ」
「それじゃよ。シャンカラは、ブラフマンから開展した世界に苦悩があるのは、やはり無明によると考えたのじゃ。無明によって、幻影としてこの苦悩に満ちた現象世界が顕現してくる。じゃから、この現象世界にある苦悩は、本来解脱した存在であるブラフマン=アートマンとは関係がないと考えたのじゃ。この考え方を、幻影主義的ブラフマン一元論、というのじゃ」
「ほう、この現象世界は、幻影か」
「どうじゃ、仏教と似ておるじゃろう」
「うむ、確かに」
「このため、シャンカラは、仮面の仏教徒、というあだ名で呼ばれるようになる。わしも含めて、後世のヴェーダンタ哲学徒は、みなシャンカラの影響を受けておるから、隠れ仏教徒の側面を持っていると言ってもいいじゃろう」
「ううむ。イスラム教徒からすれば、到底受け入れがたい考え方だのう。唯一神アッラーは全てをみそなわしたもう。この世の善も悪も、苦悩も歓喜も悲惨も希望も、全て神の御心のままじゃでのう。悪魔シャイターンでさえ、アッラーの被造物じゃ。さっき、チャイタニヤ殿が世界の開展と言ったが、イスラム哲学では神から世界が流出すると説くのじゃでのう」
「うむ。それとよく似た考え方をするのが、民衆の信奉する、いわゆるヒンドゥー教じゃ。最高実在であるブラフマンを、ヴィシュヌやクリシュナ、ラーマなどの最高人格神と同一視し、その神のリーラによって、この世界が顕現しているとするのじゃ。人間は、この神のリーラによって弄ばれる将棋の駒に過ぎん。神のリーラじゃから、この世界に存在する苦悩さえも神の仕業として肯定されるのじゃ」
「ううむ、その考え方は、納得できんなあ」
道叡が、めっきり髭の濃くなった顎を撫でながら言った。
「とにかく、その、善も悪も支配する最高神に信愛を捧げることによって、信者は解脱できるのじゃよ」
「なるほど、それが、あの踊り、歌いながら神の名を呼ぶバクティ派というわけだな。すると、彼らも、最高実在ブラフマンを信じているわけか?」
「いや、必ずしも、そうとは言えんなあ」
チャイタニヤが苦笑しながら言った。
「やはり、抽象的で、中性の最高実在ブラフマンより、人格神であるヴィシュヌやシヴァの方が、親しみやすかろうというものじゃ。じゃから、バクティ派の民衆は、やはり最高神としては、ヴィシュヌやシヴァのような人格神を拝んでおるのじゃ。じゃが、ヴェーダンタ哲学にしろ、一般のヒンドゥー教にしろ、清浄なる絶対の一者と融合することによって解脱できると説く面において、神秘主義と言わざるを得んじゃろうなあ」
「ふむ、すると、仏教は神秘主義ではないな。仏教では、絶対的な一者を立てん。一切は空だ。迷妄、無明から醒めること、覚醒することが悟りと呼ばれる。阿弥陀仏を信じて、極楽浄土に往生することを願う者も、その極楽浄土で阿弥陀仏の説法を聞いて最終的には自分で悟ることを目的としておる」
「しかし、仏教で言う〝空〟とは、なんなのか? どうもわしにはよく分からん。無とは違うのか? 無ならば、仏教徒は無神論者ということになる」
チャイタニヤが、厳しい表情で言った。
「うむ、わしが学んだ中国の禅宗では、空と無を同じものとする。そして、〝無〟という言葉を偉く尊ぶ。しかしなあ、わしが、菩提樹の下で悟った限りでは、無と空とは同じものではない。空とは、単なる虚無ではなくて、もっと充実したものだ。何かが、充ち満ちてくるものだ。ただ、その悟りを言葉で言えと言われると困惑せざるを得んが。そうだ。以前チャイタニヤ殿がブラフマンを大海にたとえたな。ある意味において、〝空〟も大海にたとえられるかも知れん。ただし、存在しない大海だな。いや、むしろ、〝空〟とは、空かも知れん。空に浮かぶ雲が、煩悩に汚され、無明に迷う有情だ。そして、その有情たる雲は、いつしか空に融け込んでしまい、〝空〟に帰す」
「ううむ、存在しない大海とは。また難しいことを言いだしたな。有情は雲か」
チャイタニヤが、胸をぼりぼり掻きながら、しかし口とは裏腹に面白そうな顔をして言った。
「ふむ、確かに。神秘体験を言葉で表すことは難しいのう。もっとも、お主は悟りは神秘体験ではないというがのう」
ニザームッディーンが、白い髭をしごきながら言った。三人は、一様に考え込んでしまった。ナーラーヤナの弾くヴィーナの音だけが、狭い小屋に谺した。と、小屋の扉代わりになっている布が、おずおずと掲げられた。
「ムムターズ様!」
ナーラーヤナが、驚きの声を上げた。入ってきたのは、ムムターズだった。エメラルドのような碧色の瞳が、憂いに曇っている。
「ナーラーヤナ様」
囁くような小声でムムターズは言った。
「中に入ってもよろしゅうございますか? 私を、赦してくださいますか?」
「赦すなどと、何をおっしゃいます。赦していただかなければいけないのは、私の方でございます。私は、叔父様のフサイン様を殺めてしまいました」
ナーラーヤナが、消え入りそうな小声で言った。
「まあ待て、二人とも」
道叡が、野太い声で言った。
「二人して、互いに己のみを責めていてどうする。あの時の果たし合いは、運命の悪戯だ。誰が悪いのでもない。なあ、ニザームッディーン殿、チャイタニヤ殿」
同意を求める道叡に、ニザームッディーンも、チャイタニヤも、「道叡殿の言う通りだ」と一様にうなずいた。
「それにしても」
道叡が、考え込みながら言った。
「この二人の数奇な運命も、アッラーの思し召しなのか。神のリーラなのか。やはり合点が行かぬ。一つの神を立てると言うことは、この二人の運命も、その神の意図だということだぞ。そんな残酷な神があっていいものか」
「ふむ、確かに、この二人の運命が、神のリーラによるものなら、その神は残酷な神じゃな」
チャイタニヤが言って、ニザームッディーンのほうを見た。
「うむ、わしはのう、道叡殿、チャイタニヤ殿。死は定めじゃと思っておる。そして、この世のたいていの苦悩も、試練の道じゃと思っておる。ラービア様のような、類い希な例は別として、人が宗教の道に入るのは、死への恐れからではないだろうか。だが、わしはのう、今では、死を恐れぬことに関しては、はっきりとした確信がある」
この言を聞いて、道叡もチャイタニヤも同様にうなずいた。
「わしはなあ、以前は、このタンブールを演奏するのが、ズィクルに次ぐ楽しみじゃった」
こう言って、ニザームッディーンは、小屋の隅に立てかけてあるタンブールに目をやった。
「じゃが、ナーラーヤナが来た頃は、驢馬から落ちてタンブールも弾けなんだ。たとえ死んで地獄に堕ちるとしても、裁きの日に一度はアッラーのお顔を拝見できる。それだけで、わしは満足じゃでのう。しかし、こうして生きていてタンブールを弾けぬことは、アッラーの思し召しとはいえ、やはり辛い」
「でも、お師様は、音楽に対する類い希な耳を持っておられます。その耳で、私のヴィーナを聴いていただき、批評を頂くのが、何よりも勉強になります」
ナーラーヤナが言った。
「ふむ」
ニザームッディーンは、照れくさそうに咳払いをした。
「しかし、この二人の運命は……」
ニザームッディーンは、苦しそうな顔でそう言った。チャイタニヤも、苦い顔をして黙っている。
「まあ、いずれにしても、ナーラーヤナとムムターズの二人は、なにか悪戯な神に運命を翻弄されているのだろう。二人とも、手を取り合って、お互いを赦し、赦され合うのだな」
そう言って、道叡は、ナーラーヤナとムムターズの手を取って重ね合わせた。ナーラーヤナが、微笑んだ。ムムターズの顔が歓びに輝いた。ナーラーヤナも嬉しそうだが、その目にはどこか憂いが秘められている。しかし、ムムターズはその憂いに気がつかず、有頂天になった様子で言った。
「道叡様、今日は私、ドーマンを穿いて参りましたのよ。今日こそは本当の胡旋舞をお見せできますわ」
こう言って、ムムターズはくるりと一回転した。なるほど、鮮やかなバナフシュのドーマンが翻り、綺麗なくるぶしがちらりと見えた。
「ほほう、これはいいなあ。どれ、ナーラーヤナ、早速ヴィーナの支度を」
こう言いながら、しかし道叡の目は憂いを秘めたナーラーヤナの目にひたと据えられている。チャイタニヤも、ニザームッディーンも、相好を崩して笑っているが、ナーラーヤナの表情を油断なく見ている。ナーラーヤナの目には、何かを吹っ切ろうとして、吹っ切りきれない躊躇いの光が浮かんでいる。取りあえず、ナーラーヤナは、ヴィーナを引き寄せ、改めて念入りに調弦した。すると、道叡も懐から篳篥を取り出し一声、喨と鳴らした。
「どれ、わしも一つ出しゃばるとしようか。では、ナーラーヤナ、この前と同じ曲を弾いてもらえるかな。わしも、合奏させてもらおう」
ナーラーヤナは、無言でうなずいた。そして、この間弾いた舞曲の前奏を、ゆっくりと弾き出した。そのスタイに、道叡が日本的とも、インド的とも言えない不思議な旋律をかぶせた。スタイが終わり、曲のテンポが上がると、ムムターズが颯爽と小屋の中央に躍り出た。そして、また妖艶な腰つきで腰を振り始めた。大天使ジブリールでさえ、その色香に迷いそうな艶めかしさである。
そのまま、今度はくるくると回転を始めた。胡旋舞である。ドーマンがふわりと浮いて、白いふくらはぎが剥き出しになった。世の全ての男が狂いそうな、輝くような白さである。しかし、目を瞑って演奏に没頭しているナーラーヤナは、この光景を見ていない。代わりに盛んに褒めそやしているのは、ニザームッディーン、チャイタニヤの二人の老人である。
曲のテンポが徐々に上がる。それに連れて、ムムターズの回転の速度も上がる。道叡が、歯切れのいい調子で合いの手を入れる。曲が絶頂に達したときに、呼吸を合わせて演奏が終わり、同時にムムターズも寸分違わぬ呼吸で足を鳴らした。ニザームッディーンとチャイタニヤの口から、賞賛の言葉が洩れた。ムムターズも晴れ晴れとした笑顔をしている。道叡も、ナーラーヤナも同じように晴れやかに笑っているのだが、ナーラーヤナの目にはふとした拍子に深い陰影が現れる。道叡は、それを気がかりそうに横目で見ている。
「それにしても娘子よ、ここ十日ばかりは、何をしておったのかな」
ニザームッディーンが、好々爺然とした笑顔で訊ねる。
「はい、喉の傷が癒えるまで、大人しく寝ているように、というスルターンのきついお達しで、ずっと寝ておりました」
「おやおや、お嬢ちゃんが、本当に大人しく寝ていたとは、なかなか思えんがなあ」
チャイタニヤが、ニヤニヤしながら合いの手を入れた。
「あら、私がどれほどお転婆でも、スルターンのお達しには逆らえませんことよ。いくら聖者様でも、それは失礼だと思いますわ」
ムムターズが、ぷんと膨れた。
「はっはっは、これは一本とられたな」
チャイタニヤが、爽快そうに笑った。
「それにしても、今日はずいぶんと遅く来たのう。これでは、デリーの大門が開いているうちには帰りつかんぞ」
ニザームッディーンが、気がかりそうに言った。
「はい、今日は、こちらに泊めていただこうと思いまして。スルターンのお許しも得て参りました。それとも」
ムムターズが、心配そうに眉をひそめた。
「お邪魔でしょうか?」
「いやいや。お嬢ちゃんさえそれで良ければ、わしらのほうは一向に構わんさ。のうニザームッディーン殿」
チャイタニヤが、洒脱に笑いながら言った。ニザームッディーンも飄々と笑っている。
「ありがとうございます」
ムムターズが、頭を下げながら言った。頭を上げると、その目には、何か決意のようなものが込められている。その目のきつさを、道叡は、どこか不安げな顔をして見つめている。
またしても、挽き割り豆のスープに、チャパティ、チャイだけの質素な夕食が始まった。ただ、今日はムムターズも来ていることなので、貴重な胡椒やターメリックなどの香辛料が少しばかりスープに入れられている。一同は、ムムターズが、ここしばらくどんな風にインディラを手こずらせたか、という話を中心に談笑しながら夕食をとった。
6
ナーガプル村の夜は早い。灯明に使う油は貴重なので、どの家も早々に眠りにつく。ニザームッディーンも、チャイタニヤも、聖者として尊敬を集めているとはいっても、根は貧乏な修行者である。道叡は、実は日本から持ってきた路銀がまだまだふんだんにあるのだが、生活の流儀は二人の先輩に倣っている。それで、ニザームッディーンの小屋の灯明も早々と消され、一同は土間に横になって寝た。チャイタニヤが、いつも寝るときに敷いている粗布が、ムムターズの寝床として提供された。ムムターズは、何度も固辞したのだが、チャイタニヤにとうとう説得されてしまった。ムムターズ以外の男たちは、そのまま土の上にごろ寝をした。夜具も何もない。チャイタニヤに至っては、下帯以外は裸のままである。
深夜になった。ニザームッディーンや、チャイタニヤのいびきが、小屋の中に響き渡る。ムムターズは、そっと身を起こして、頭の方で寝ているナーラーヤナに顔を向けた。
「もし、ナーラーヤナ様、ナーラーヤナ様」
小声で呼びかける。すると、今までまんじりともしていなかったのだろう。ナーラーヤナがすぐに顔をムムターズの方に向けた。
「ナーラーヤナ様、こちらへ」
言いながら、ムムターズは起き上がって、小屋の扉代わりの布をそっと引き上げた。ふたりは、他の三人を起こさないようにひっそりと小屋を出た。月が出ていた。しかし雲があり、その月も隠されがちだった。その薄明の中を、ムムターズが先に立って足早に歩いていく。その後を、ナーラーヤナが、少し重い足取りでついていった。
二人が小屋を出て行くと、道叡はむっくりと起き上がった。ニザームッディーンとチャイタニヤも目を開いている。闇の中で、三人の聖者たちは視線を交わし合った。そして、道叡一人が、二人の後を追って小屋を出た。
二人は、村はずれの砂漠まで出ていた。二人が立ち止まった。道叡は、手近な木の陰で気配を潜めた。ナーラーヤナの声が聞こえ、ムムターズが振り向きざま、ナーラーヤナの胸に飛び込むのが見えた。ムムターズが、柔らかく寄り添うのに、ナーラーヤナは途方にくれた様子で硬直している。ナーラーヤナが拒んでいるらしい声が聞こえてくる。
さすがの道叡も、耳を澄ませてみても、二人の話している内容までは定かには聞き取れない。だが、ムムターズが今宵ナーラーヤナに操を捧げようとしていること。対して、神秘の道を歩もうと決意し、自分をムムターズの叔父フサインの仇と思っているナーラーヤナが、それを拒もうとしている様子は分かった。
月明かりの下で、二人の様子は仄かに窺える。愛しいムムターズに愛を告げられ、その覚悟を示されて、ナーラーヤナも嬉しくないはずはない。だが、その歓びが、かえってナーラーヤナの苦悩を深めているようだ。
二人は、どうやらナーラーヤナが、フサインの仇であるかどうかで、言い争っているらしい。仄白い光の中で、ムムターズが嫌々をするように首を振るのが見える。
「お母様には、勘当されました。今、私はマルダーン家の一族ではありません。スルターンの娘で……」
風の具合か、ムムターズの言葉が意外にはっきりと聞こえてきた。道叡は、その声に耳を傾けた。
雲が流れ、月の光がナーラーヤナの顔を鮮やかに照らし出した。そこには、明らかな苦悩の色が浮かんでいた。ムムターズは、その顔を見て声を失ってしまったようだ。
「ムムターズ様」
ナーラーヤナが、真剣な口調で言った。
「私は、ムムターズ様を、命をかけてお慕い申しております」
ムムターズの顔に、歓喜の色が浮かんだ。
「ならば、今日ここで私の操を……」
「しかし、私とムムターズ様は、結ばれないのが定め。私たちが結ばれることは、クリシュナ神も、アッラーも嘉なさいません。今、ここでお別れいたしましょう」
「そんな! 嫌です! 嫌でございます!」
ムムターズが、必死の叫びを上げ、ナーラーヤナの腕に取り縋ろうとした。しかし、ナーラーヤナは、そのムムターズの手を振り払った。
「おさらばでございます。ムムターズ様。ナーラーヤナの命は、永遠にムムターズ様のものでございます」
そう言うなり、ナーラーヤナは、ナーガプル村に向けて駆けだした。
「ナーラーヤナ様」
気が動顛して、もつれる足で、ムムターズはナーラーヤナの後を追おうとした。
「待て、待つのだ、ムムターズ」
野太い声と共に、木陰から出た道叡が、ムムターズの手を取って止めた。
「道叡様」
「ナーラーヤナは、今苦しんでおる。悩んでおる。一途にお前のことを愛してはおるが、その愛が赦される愛なのかどうかについて、確信が持てずにいるのだ。それにナーラーヤナは、神秘の道の修行者だ。その修行者が、女性を愛していいのかどうかについても迷っておる。待つのだ。ムムターズ。今、ナーラーヤナを追い詰めてはいけない。そのうち、ナーラーヤナも己の自然な心を大事にすることの大切さに気付くだろう。ナーラーヤナが、お前以外の女性に心を動かされることは断じてない。安心して待つのだ」
「道叡様」
ムムターズは、道叡の懐に取り縋って泣いた。
「待つのは、辛うございます」
「ナーラーヤナを信じるのだ。あれは、必ずお前のところに戻ってくる」
ムムターズは、道叡の胸で泣きに泣いた。涙が涸れ果てるまで泣いた。道叡は、その背中を優しくさすった。