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賛歌  作者: ヒデヨシ
3/7

第二話

    第二章 道叡


     1


「頼もう」

 少しざらっとした、野太い声が響いた。狭い小屋の中に、もう一人、三十半ば過ぎの男が入ってきた。小屋は、五人の人間で、ますます窮屈になった。その男は、奇妙な身なりをしていた。白い襦袢に、墨染めの衣を着、頭は見事に剃髪している。左の手と顔に醜い火傷の痕があったが、不思議とそれを恐ろしいと思わせない奥行きのある表情をしている。体は大きい。その大きな体が、また迫力を生んでいる。

「拙僧は、道叡と申す、禅の修行者でござる。スーフィーの高名な行者(ダルヴィーシュ)、ニザームッディーン・チシュティー殿とお見受けいたす。そちらは、ヨーガ行者のチャイタニヤ・デーヴァ殿かな。誠に身勝手ながら、同じ宗教の道を探るものとして、しばらく逗留させていただきたく、お願い申し上げる」

 聞き取りにくい、訛りの強いペルシャ語であったが、どうにか意味は通じた。

「ドウエイ。また変わった名前じゃな。身なりもよほど変わっておるし、第一肌の色がわしらのようなインド人にしては白すぎるし、トルコ人ほど白くもない。どこから、きたのかな?」

 チャイタニヤが、ニコニコと快活に笑いながら問いかけた。

「拙僧は、チーン(中国)の東の海に浮かぶ島、日本という国から参った。肌の色は、中国人と同様である。そこもとらは、中国人は見たことがないのでござろうか」

「中国人なら、話には聞くが見たことはないなあ。それにしても、日本というのは初めて聞く国じゃ」

 チャイタニヤが言うと、ニザームッディーンもうなずいた。

「それで、さっきゼン、と言ったのは、何教かのう。見たところ、ムスリムでもヒンドゥー教徒でもなさそうに見えるがのう」

 ニザームッディーンが、穏やかな声で訊ねた。

「禅宗というのは、仏教、つまり釈迦牟尼仏陀の起こした教えの一派でござるよ」

 こう言いながら、道叡は茶目っ気のある顔をしてチャイタニヤのほうを見た。

「仏陀というと、あのヴィシュヌのアヴァターラ(化身)とされている仏陀のことかな。ならばアスラ(阿修羅)たちに偽の宗教を与え、ヴェーダの聖典から引き離すために仏教を説いたアヴァターラ(化身)じゃな。つまり、仏教は、偽の宗教ということにインドではなっておるのじゃが」

 ここで、チャイタニヤも悪戯っぽく言葉を切った。

「しかし、お主、相当にできておるな。お主のようなものが信奉する宗教なら、必ずしも偽の宗教ではないのじゃろうな」

 できておる、というのはどういうことだろう。ムムターズにはその辺の機微が分からなかった。土台、ヒンドゥー教にあまり理解のないムムターズには、ヒンドゥー教と仏教の違いなど、皆目見当がつかなかった。ただ、ムムターズが直感したのは、この道叡なる男も、聖者の一人なのではないか、ということだった。ムムターズは、単刀直入に尋ねた。

「道叡様のことは、なんとお呼びすればいいのでしょうか。聖者様でよろしいのでしょうか」

「いやいや、聖者なんぞという大層なものではない。ただの坊主じゃ。坊さんと呼んでくれ」

 道叡が、照れたように頭をかいた。

「では、お坊様。お坊様は、空中浮遊がおできになりますか。こちらのチャイタニヤ・デーヴァ様はおできになるのです。今私(わたくし)は、見せていただいたばかりなのです」

「空中浮遊」

 耳慣れない単語を聞いて、道叡は顔をしかめた。しばし小首を捻ってから、

「おお、宙に浮くことか。こうかな」

 道叡は、結跏趺坐に足を組み、印を整えた。なんの前触れもなく、道叡は、さっきのチャイタニヤと同様に宙に浮かんでいた。そのあまりの呆気なさに、ムムターズは口を手で覆い、大きく目を見開いた。

「ニザームッディーン様は、ニザームッディーン様も空中浮遊がおできになるのですか?」

 ムムターズが、ニザームッディーンのほうににじり寄った。やはりイスラム教徒の誇りがあるのだろう。ニザームッディーンにも空中浮遊をして欲しいという願いがありありと表れていた。

 ニザームッディーンは、困ったように顔をしかめたが、「まあ、みんな見せているのだからいいじゃろう」と言って、しばし瞑目してから、おもむろに宙に浮いて見せた。

 ムムターズは、腰が抜けたように、くたくたとへたり込んでしまった。

「ま、まさか、ナーラーヤナ様、ナーラーヤナ様も空中浮遊が?」

 ムムターズが震える声で聞いた。

「はっは。ムムターズ様、ご心配なく。(わたくし)には、もちろんまだ空中浮遊などという通力は使えません」

「ああ、ほっといたしました。それにしても、空中浮遊のできる、本当の奇跡を起こせる聖者様に、一度に三人もお会いできるなんて。今日はなんという日でしょう」

「娘さん、勘違いしないことだな。宙に浮くなどということは、修行の一段階に過ぎない。しかも、かなり低い段階で身に付く通力だ。第一、わしらが浮いたぐらいの高さまでなら、娘さんも足でぴょんと跳べば到達できるだろう。そんな、手足を使えば簡単にできることは、奇跡でもなんでもない」

 道叡が、少し厳しい顔をしていった。ニザームッディーンもチャイタニヤも、同意だ、という風にうなずいた。道叡と、ニザームッディーンが、しずしずと降りてきた。

「でも、でも、空中浮遊をしたり、イーサー(イエス)のように水の上を歩いたりするということは、(わたくし)には奇跡としか思えません」

イーサー(イエス)というのは、聞いたことがあるな。死して後、三日後に復活したとかいう御仁かな」

「はい、ムハンマド様――彼にアッラーの祝福と平安あれ――に次ぐ、偉大な予言者でございます」

「死んで埋められた後に、生き返ったなら、確かに奇跡かも知れんな。しかし、それなら、わしも奇跡を起こしたことになるぞ」

 道叡は、醜い火傷の印象を感じさせない、爽やかな顔をして笑った。

「え、どういうことでございましょう?」

 ムムターズが、道叡のほうに詰め寄るように膝を進めた。ニザームッディーンもチャイタニヤも、そしてナーラーヤナも興味ありげな顔をして、道叡のほうを見つめた。

「話すと長いことになるが、それでもよろしいかな」

「うむ、是非」

 ニザームッディーンが、その場を代表して言った。

「わしは、さっきも言ったように、仏の道である仏教の修行者だ。仏教は、釈尊、仏陀が説かれた教えだ。その仏教には、いくつかの宗派が存在する。中で、わしが修行したのは、禅宗という宗派だ。禅宗というのは、不立文字、教外別伝を基本とする教えでな、典拠とする教典を持たぬ。そういう宗派だ」

「不立文字とは、どういうことかな。アッラーの教えはクルアーン(コーラン)に書いてあるし、ヒンドゥー教徒の教えもヴェーダやウパニシャッド(奥義書)に書いてあるものだがのう」

 ニザームッディーンが、少し不思議そうに尋ねた。

「うむ、釈尊、仏陀は相手の能力に応じて、様々な機会に方便としてたくさんの経典を残された。しかし、ある時、霊鷲山(りょうじゅせん)で、釈尊は説法をなさりながら、傍らの花を(ひね)られて、会衆にお示しになった。その時一座の誰もが、なんの意味か分からずに黙然としておった。なのに、摩訶迦葉(マハーカーシャパ)尊者のみが微笑なさった。その時に、釈尊はそれまで経典でお示しになってきた教えよりも、もっと深い教えを以心伝心で摩訶迦葉(マハーカーシャパ)尊者に付属なされたのだ。つまり、一人の仏から、その弟子のもう一人の仏へと代々伝えられる、師資相承の教えじゃ。拈華微笑(ねんげみしょう)という」

「なるほど、師から一人の弟子へ奥義を継承するということじゃな。それなら、ウパニシャッド(奥義書)時代の我がバラモン教も似たようなことをしておった」

 チャイタニヤが、膝を叩いて言った。ムムターズは、途方に暮れたような顔をしている。

「その、禅の教えは、インドで代々継承され、チーン(中国)へと伝わったのは、初租菩提達磨(ボーディダルマ)尊者の時と伝えられておる。菩提達磨尊者は、釈尊から数えて二十八代目だ。菩提達磨尊者は、崇山(すうざん)において、壁に向かって禅定しながら九年間一歩も動かなかった。一言も口をきかなかった。そのため、両足が腐って落ちてしまった。ほれ、こんな風にな」

 そう言って、道叡は、懐の中から何かを取り出して転がした。それは、ころころと土の上を転がり、ムムターズの足下まで転がった。小さな人形だった。

「まあ、可愛い」

 分かりにくい話ばかりで、少し退屈していたムムターズが、その人形を取り上げて破顔した。それは、赤く塗られた達磨人形だった。稚拙な土造りだが、造ったものの信仰心が籠もっていて、人目を引く。

「わしが造ったものだ。チーンで似たような人形を見てな」

「その、お主が言う禅定とはディヤーナのことじゃな。それなら、我々ヨーガ行者も行う修行じゃ」

「うむ、その通りだ。禅定とは、梵語のディヤーナの音である禅と、意味の定とを組み合わせた言葉だそうだ。わしもインドに来てから知ったが、同じような行をヒンドゥー教徒も行うのだな。だが、禅宗の言う禅は、ヨーガ行者の行うディヤーナとは少し違う意味を持つ」

「どういうことじゃ?」

「仏教には、色々な行がある。座禅を組む他にも、念仏を唱えたり、おおそうだ、念仏と、スーフィーの行うズィクル(称名)とはよく似ておるな。だが、禅宗では、念仏は用いん。ただ座禅を組むことによって、釈尊が達したのと同じ悟りを開き得ると、そう教えるのじゃ。特に、わしの師匠である道元は、只管打坐、つまりただひたすらに座禅を組んでさえおれば、釈尊と同じ悟りを手に入れられると、まあ、そう教えているのだ。何しろ、釈尊が悟りを得た時の姿は、座禅を組んでいた姿であったからなあ」

「ただひたすら座って瞑想していれば、解脱を手に入れられると言うのか。なんだか少し、与し易い道に走っているような気もするが」

 チャイタニヤが、からかうように言った。

「ふふん、まあそう言うな。日本にも、とんでもない修行をするものもおるぞ。特に修験道の山伏などは、山に籠もって千日とか、二千日とかの荒行をするものもおる。だが、そんな荒行に耐えなければ解脱できないとあれば、凡夫ばかりの衆生は救えんぞ。だからこそ、釈尊自身が、六年間に及ぶ苦行を無駄なこととして退け、菩提樹の下で座禅を組んで涅槃(ニルヴァーナ)の境地に到達されたのだ。我が師道元も――もっとも師と言ってもわしより若いがのう――チーン(中国)の地で如浄古仏(にょじょうこぶつ)の下、座禅を組み、親しく面受されて大悟徹底した。それで日本に帰り座禅の道を広めたのだ」

 すっと、ナーラーヤナがチャイ(ミルクティー)を道叡の目の前に差し出した。

「おお、これはすまんのう。わしの大好物じゃ」

 こう言って、道叡はチャイの器を手に取った。その間に、ナーラーヤナはみんなにチャイを勧めた。

「だがのう」

 道叡が、言葉を継いだ。

「わしは、根が鈍骨なのか、道元の下で座禅を組んでも、いっこうに大悟徹底できん。小悟は、なんどもあった。空中浮遊などという、下らん神通力も得た。だが、到底釈尊と同じ高さの悟り、という境地には至らなんだ。そしてなあ、思ったのだ。不遜な言い方かも知れんが、師道元自身も、本当の意味では大悟徹底しておらんのではないかと。いや、確かに道元は、わしよりもずっと高い境地にいるのだろうとは思う。だが、それが釈尊の至った境地と同じとは、どうしても思えなんだ。それでもなあ、ある日、師道元から、わしは大悟徹底したと認可をいただいたのだ。正直、そのときは嬉しかった。だがなあ、やはりわしは納得できなかったのだ。つらつら考えると、わしが悟ったものと、本当の悟りとは何か違うとしか思えなかった。それでなあ、わしは思ったのだ。釈尊と同じ姿で座り続ければ悟りを得られるというのなら、もしかすると釈尊が悟られた、その地、その場所で座れば真に釈尊と同じ境地に至れるのではないか、とな」

「なるほど、それは一つの道理じゃのう」

 それまで黙って聞いていたニザームッディーンが、重々しく言った。

「それで、わしは、ここ天竺の地を踏もうと決心した。だが、陸路はどうも危険だ。蒙古が、勢力を広げ始めてから、かの地は戦乱ばかりが続いているそうだ。それで、わしは海路をとろうと思った。幸い、義浄三蔵の先例もある。そこで、まずチーン(中国)に渡った。とは言っても、日本からチーンまでも相当危険な船旅だ。まず、今生の命はないものと思い定めた。チーンからは、この天竺に向かって、商船がたくさん出ておるのだなあ。その商船を乗り継いでもう少しでコルカタ(カルカッタ)に着こうという時だ。嵐にあって船が難破した。わしは、板子に掴まり、嵐の中を何日も漂流した。その時ばかりは、南無八幡大菩薩、我を天竺の地まで導き給え、と本気で祈った。嵐が治まると、今度は照りつける太陽と渇きに悩まされた。腹は減るしのお」

 道叡は、からからと笑った。その腹が、本当にグーと鳴った。一同も、ほっと緊張が解けて笑い合った。

「さて、そうして、海岸に流れ着いた時はほとんど意識を失っていたそうだ。浜の者に助けられたらしいが、その時の記憶はとんとない。意識の戻らぬまま、三日三晩昏睡しておったらしい。土地の者が、懸命に看病してくれたそうだが、そのまま息が止まってしまった。心の臓も動いておらん。これは、いよいよ死んだな、ということで荼毘に付されることになった。で、こう薪を組み上げてだな、わしをその上に乗せ火を点けた」

 道叡は、ちょっとおどけた顔をしてみんなを見回した。ムムターズは、息を詰めて話に聞き入っている。

「なにやら地獄の業火に焼かれているような気がしたのを覚えている。だが、辺りは真っ暗闇で何も見えん、熱いだけで、地獄も極楽もなかった。熱い、と本気で思って目を開けてみると、薪の上にいて火がごうごうと燃えさかっておった。慌てて飛び起きて、組み上げられた薪から飛び降りた。この、顔と腕の火傷はその時ついたものよ。実は、衣を脱げば背中にもべっとりと火傷の痕が残っておる」

 道叡は、ほっと一息ため息をついた。

「してみると、わしはあの時一度死んでおったのかも知れん。死んではおったが、地獄にいるでなし、極楽にいるでなし、中有(ちゅうう)の青にいるでなし、畢竟、人は死んだら無に帰るのではないかと思った」

「一度死んで蘇るとしたら、まさにイーサー(イエス)の奇跡」

 ムムターズが、絶え入るような囁き声を出した。

「まあ、そのイーサーとやらは、本当に突き殺されたらしいからなあ。わしは、別に医者が看取ったわけでもないから、同じには語れんがなあ」

「ふむ、不思議なこともあるものじゃが、まあヨガの行には、仮死状態になる行もあるでな、お主もその時は仮死状態にあったのかも知れぬなあ」

 チャイタニヤが、顎を撫でながら言った。


     2


「さあ、みなさん、お腹がすいたでしょう。道叡様のお話に、興は尽きませんが、ここは一つ腹ごしらえにいたしましょう」

 ナーラーヤナが言った。言われて、ムムターズもすぐに立ち上がり、ナーラーヤナを手伝った。挽き割り豆のスープに、薄く切った玉葱と唐辛子を浮かべたもの。それにチャパティ、チャイだけの質素な昼食である。ムムターズを除いた四人は質素な食事に慣れていたし、ムムターズも、なんと言ってもお腹がぺこぺこだった。みんなひとしきりチャパティを食べ、スープを啜り、チャイを飲んだ。

 食べ終わった道叡は、静かに合掌して頭を下げた。他の者も次々に食べ終わって同様にした。

「さてと、その薪から降りたとき、わしはなにやら帷子のようなものを着せられておった。わしの衣服や、路銀は村のもので分けていたようだ。ところが、わしは生き返った。これは奇跡を起こす聖者なのではないのか、と村人は考えたらしい。それで、わしの僧服も、路銀もみんな戻された。ただなあ、どうにも言葉が通じん。すると、その村のバラモンの祭司というのが前に進み出た。その者の話す言葉、サンスクリット語は、わしらが日本で学んだ梵語に多少似ておった。それで、身振り手振りも交えてどうにか意志を通じ、食事にもありついた。丁度今のような食べ物であった。それから、なにやら祝福して欲しいと村人が言っておる、と言うので般若心経を詠んでおいた。その話を伝えるバラモンは、少し不服そうだったがなあ」

「すると、お主はサンスクリットが話せるのか」

 チャイタニヤが、サンスクリット語で聞いた。

「うむ、大乗仏教の経典は、梵語、つまりはサンスクリット語で書かれておる。梵語の学習は、僧たるもの、なさねばならぬことでな。とは言っても、わしが学んだ梵語と、サンスクリット語とは、実際にはだいぶ違った。だから、その村で、バラモンから初手から習った。まあ、わしはことのほかそういう異国の言葉を習うのが好きでなあ。チーンの言葉も、なかなか流暢に話せるぞ」

 道叡が、チャイタニヤに梵語訛りの強いサンスクリット語で答えた。サンスクリットはちんぷんかんぷんのムムターズが、キョトンとした顔をした。その顔を見て、事情を察した道叡は、すぐにペルシャ語に戻した。

「さて、その村にわしはしばらく滞在した。近くに港があって、遠くペルシャなどからも商人が来ておるのだなあ。その商人に混じって、スーフィーの修行者たちもやって来ておった。わしは、その村で、サンスクリット語の他に、村人からはベンガル語を、スーフィーたちからはペルシャ語を学んだ。わしが目指す北インドでは、トルコ人のイスラム教徒が支配者になっておるから、彼らの話すペルシャ語を学んだ方がいいと聞いたからなあ」

「その村には、どのぐらい滞在されたのかな」

 ニザームッディーンが、興味深げに聞いた。

「そうよなあ。ざっと三ヶ月ほどはいただろうか。何せ日本と季節が違うからなあ。一日一日数えておらんと、月の移り変わりがよう分からん」

「なんと、三ヶ月で、ペルシャ語を、そこまで覚えられたのか。それは、確かに聖者じゃな」

 ニザームッディーンが、呆れたような声を出した。ニザームッディーン自身は、ペルシャ語、アラビア語、ヒンディー語、サンスクリット語を操ることができる。しかし、それは、母語であるペルシャ語を除いて、何年もかけて習得したものだ。してみると、どうやら道叡は、希に見る語学の天才らしい。

「さて、その村から、西北に進んだ。いやあ、天竺は広いなあ。しばらく行くと、今度はせっかく学んだベンガル語が通じん。仕方がないから、どの村でもバラモンに出てきてもらって、もっぱらサンスクリット語で会話をしてきた。スーフィーの行者も、けっこうあちこちにいたなあ。それで、ペルシャ語も忘れずにすんだ。ヒンドゥー教徒にしろ、スーフィーにしろ、何人も自称聖者に出くわした。だが、聖者という割には、みんな俗物だったなあ」

 道叡が、懐かしそうに天井を振り仰いだ。その目に優しそうな光が宿る。

「天竺は、仏教が生まれた土地なのに、仏教はもう絶滅しておるのだなあ。どこに行っても、仏教徒には出会わなんだ。なんだか、無性に寂しかった。だから、釈尊成道の地、仏陀伽邪(ブッダガヤ)などと言っても、誰にも分からん。取りあえず、釈尊が成道なされたのは天竺でも北のほうだったはず。とにかく北に行って、近くまで行けば消息も分かるだろう、ぐらいの気持ちで歩いた。玄奘三蔵の『大唐西域記』と、義浄三蔵の『南海帰寄内法伝』だけが頼りだった」

 道叡の表情が少し曇った。だが、一転すぐに笑い飛ばした。

「そしてなあ、何しろ日本に比べると天竺は暑い。と言うより蒸し暑い。この湿気はたまらんなあ。わしも、体は頑丈なほうだが、さすがに途中でへばってな、ダーンバードの近くで、しばらく養生しなければならなくなった。その時だ、土地の古老でイスラム教徒に仏教が殲滅される前の言い伝えを知っておる者がおったのだ。その者の話によると、仏陀伽邪(ブッダガヤ)はダーンバードから西北に行ったところにある。しかもダーンバードのほとりを流れているのが尼蓮禅(ネーランジャヤー)河だと言うではないか。ならば尼蓮禅(ネーランジャヤー)河に沿って歩けばよい。なにせ尼蓮禅(ネーランジャヤー)河は、仏陀伽邪(ブッダガヤ)のほとりを流れておる。釈尊が菩提樹の下で、涅槃の境地にいたられる直前に沐浴をなされ、スジャータという娘に乳粥を馳走になったところでもある。やれ嬉しやと思ったなあ」

 道叡が、また懐かしそうに天井を仰ぐ。

「そして、とうとう憧れの仏陀伽邪に到達した。そこでは、さすがにまだ細々と言い伝えが残っておってなあ、釈尊成道の菩提樹も分かった。わしは、そこに逗留し、しばらく養生してから今日座ろう、と思い定めた。そして、釈尊に倣って乳粥をいただき、その菩提樹の下で座禅を組んだ。ここで悟れねば、三国のどこに行っても悟れぬ。ここが一生の大事と思い定めた。悟らなければ、飢えて死ぬまでよ。とにかく悟るまで座禅をほどくまいと不退転の決意で臨んだ」

「で、どうだった。解脱できたのか」

 チャイタニヤが、ぐっと身を乗り出して尋ねた。その目に、何かを渇望するような強い光があった。いつもは落ち着いているニザームッディーンでさえもが、身を乗り出した。

「悟った」

「悟ったのか!」

 チャイタニヤと、ニザームッディーンが同時に叫んだ。

「悟った、とその時は思ったのだ。なんというか、静かな覚醒があってなあ、この世界が、山川草悉有仏性(さんせんそうもくしつうぶっしょう)と言われるように、光り輝く仏国土と思えた。そして思った。この身も、このままで無位の真人。仏国土の一部なのだとな。それで、気持ちも晴れ晴れとして、逗留していた村に戻った」

「うむ、ブラフマンと一致したか」

「うむ、アッラーのお顔を見たか」

 同様な神秘体験を持つ二人の聖者が、それぞれの宗教に合わせて道叡の体験を解釈した。

「だがなあ、やはり違う。これは、釈尊御自らが悟られた境地とは、同じ境地ではないのではないかとだんだん思えてきた」

「なんだと、違うだと」

「それだけ、まざまざとアッラーのお顔を見てか」

 チャイタニヤとニザームッディーンが、不審げに尋ねた。

「うむ、禅では、魔境ということを言う。魔境というのはな、座禅を組みながらの瞑想で、自分は宇宙と一体になったと思いこんだり、阿弥陀如来をまざまざと見たりすることだ。そして、これこそが悟りだと自惚れてしまう。しかし、それは魔の見せる偽りの悟りなのだ。釈尊御自身、成道の前には、この魔に苦しめられておる。この境地を乗り越えてこそ、本当の悟りに至るのではないか。どうもそういう気がしてならんのだ。ただなあ、ただの自惚れかも知れんが、わしはその菩提樹の下で悟った時、確かに師道元よりも高い境地に至った、という自覚は持ったのだ。それは今も変わらん。だが、それでも、やはり真の悟りへは道半ばだな」

「ううむ、しかし、お主の話している顔を見ていると、(まこと)にブラフマンと一体となって解脱したようにしか思えんがなあ」

「わしも同感じゃ。お前様の言う、光り輝く仏国土とは、まさしくアッラーのお顔としか思えんがのう」

「違うな」

「でも、その悟りによって、道叡様は先ほどのような神通力を得られたのでしょう?」

 ムムターズが、無邪気に言った。道叡が苦笑した。

「娘さん、さっきから言っておるがな、空中浮遊などという通力は、たいしたものではない。通力を得ることと悟りとは、なんの関係もない。むしろ通力は、魔境と深い関係がある。そうだな、こんな話が伝わっておる。あるところに兄弟がおった。兄は禅寺に入り、弟は漁師となって、結婚もした。十数年ほどして、兄弟が再会した。そこで、弟は兄に、この間の修行で兄さんは何を身につけられましたか、と問うたのだ。そこで兄は弟を外に連れ出し、得意げに水上を歩行して川を渡って向こう岸まで行った。そこで弟はどうしたと思う」

 道叡は、悪戯っぽい顔をしてムムターズに訊いた。

「はい、畏れてお兄様を拝んだのではないでしょうか」

「うむ、ところがなあ、弟は、すいすいと船を漕いで兄のところまで行ったのだな。そして兄に、船を使えば誰にでも簡単にできることをするのが修行の成果か、と問うたのだ」

「ええ! そ、そんな。水上歩行と言えばイーサー(イエス)も行った奇跡。それを、船を使えば誰にでもできるなどと」

 ムムターズはそこまで言って絶句した。

「だがなあ、お嬢ちゃんや。道叡が言っていることは本当じゃぞ。さっきの空中浮遊といい、今の水上歩行といい、わしら修行を積んだ行者には簡単にできる。じゃが、そんなものは奇跡でもなんでもないし、解脱とも関係がない。人間が手足や道具を使っても絶対にできないこと。例えば、好きなときに雨を降らせることや、そう、お嬢ちゃんたちの預言者ムハンマドが行おうとした山を動かす、などというものこそ、真の奇跡というべきじゃろう。しかし、そうした奇跡さえも、我らの修行の目的ではないのじゃ」

 チャイタニヤが、おもしろそうに笑いながら言った。

「その通りじゃのう。わしらスーフィーやヨーガ行者(ヨーギン)の修行の目的は、神の真理と一体化することにある。奇跡だの、神通力などというのは、その過程で生み出される余技に過ぎん」

 ニザームッディーンが、白い髭をしごきながら言った。

「そして、その余技に慢心してしまうことが、魔境を生み出す。そんな神通力など、汚物のように投げ捨てることが大切だ。そうでないと、真の悟り、という大切な果実を失ってしまうことになる」

 道叡が重々しく言うと、チャイタニヤもニザームッディーンもうなずいた。

「私には、難しくて分かりません」

 ムムターズが、途方にくれたように言った。

「だからのう、娘子よ。今日、ここで見たことは誰にも言わんことじゃ。王宮に出入りし、スルターンに縁を結ぼうなどという邪な心を持った行者(ダルヴィーシュ)は、スーフィーであろうと、ヨーガ行者であろうと、修行の余技として身に付く空中浮遊程度のこともできんものでのう。そういう者たちには、わしらの話は通じん。妙に嫉妬されたり、逆恨みされるのが落ちじゃ。そういう輩の奇跡願望とは、わしらは付き合いたくないでのう。しかも、雨を降らせるとか、逆に降りすぎる雨を晴れさせるとか、本当に民衆の役に立つ奇跡などは、わしら程度の修行者には到底無理なことじゃからのう」

「はい、かしこまりました。決して他言はいたしません」

 ムムターズが、目に真剣な光を浮かべて答えた。

「さて、みなさん。一つ音楽でもお聴きになりませんか。少し難しい話が続きましたから」

「おお、それはいいな。わしがここに来たのはなあ、一つには、新しいスルターン、ラズィーヤ様が異教徒にも寛大だという噂を聞いたこと。二つには、ニザームッディーン殿と、チャイタニヤ殿とが修行者として、すばらしい境地にいるとの噂を聞いたこと。三つ目が、実はナーラーヤナ殿が、音楽と神秘主義の修行者として、神童と言ってもいいほどの境地にあるという話を聞いたからなのだ。だから、その神童ナーラーヤナ殿のヴィーナを聴くのを、わしも楽しみにしておったのだ」

「ならば、ナーラーヤナ様、一つ踊りの音楽を弾いてくださいませ。こう見えても、(わたくし)、お転婆なだけではなくて、踊りも得意ですのよ」

「ほほう、それはそれは。ますます楽しみだな」

 道叡が、洒脱に笑った。チャイタニヤもニザームッディーンも、朗らかに笑っている。

 ナーラーヤナが、調弦を始めた。ムムターズは、ターバンを解いて、長い栗色の髪をなびかせた。ナーラーヤナが、ヴィーナを弾き始めた。最初ゆったりとスタイ(主題)を提示する。そして、テンポが速くなったところで、ムムターズが小屋の真ん中に躍り出た。

 最初、ムムターズは、妖艶に腰を振った。トルコ特有の舞踏である。とてもまだ十六歳とは思えないほどの色気である。そして、ナーラーヤナが、情熱的にテンポを上げると、ムムターズは旋回を始めた。これまたトルコ特有の旋舞である。

「ほう、これが胡旋舞(こせんぶ)か」

 道叡が、感嘆の声を上げた。ニザームッディーンもチャイタニヤも、顔をほころばせている。狭い小屋の狭い空間で、ムムターズは器用にステップを踏んでいる。

 ナーラーヤナの弾くヴィーナのテンポがますます速くなる。それに連れて、ムムターズの廻る速度も速くなる。ナーラーヤナのヴィーナとムムターズの舞踏は、とてもこれが初めて合わせたとは思えないほどぴったりと息が合っている。ナーラーヤナが、最後に勢いよくヴィーナを弾ききると、ムムターズがタンターンと足を鳴らして踊り終わった。

「はっはっは、これはたいしたもんじゃ。わしらの空中浮遊なんぞより、よっぽど神もお喜びになるじゃろうて」

 チャイタニヤが手を打つ。

「まったくだのう。アッラーも御照覧あれ。見事な音楽と踊りじゃ」

「わしが読んだ、チーンの詩になあ、胡旋舞というものがある。

 胡旋の女 

 胡旋の女 

 心は絃に応じ

 手は鼓に応ず

 絃鼓一声して双袖(そうしゅう)挙がり

 廻雪飄飄(ようよう)として転蓬舞う

 左に旋し右に転じて疲れを知らず

 千匝(せんそう)万周して己む時無し……

という詩でなあ。白楽天という詩人が詠んだものだ。この胡旋舞を見るために、と言うよりは、その舞を舞う女子(おなご)の足が見たさに、チーンの貴族階級の男どもが酒楼に通ったという話だ。その胡旋舞を、目の当たりにしようとはなあ」

 道叡は、感慨深げである。

「さて、ムムターズ様、そろそろお帰りになりませんと暗くなってしまいます。あまり遅いと、デリーの城門も閉まってしまいましょう」

 ナーラーヤナが言うと、ムムターズは「そうですわね」と応えてまた栗色の髪をターバンで巻いて収めた。

「では道叡様、今度は、(わたくし)ドーマン(スカート)を穿いてきて、本当の胡旋舞をお見せしますわ」

 ムムターズは、茶目っ気たっぷりに言った。

「おお、それはいいなあ。今度が楽しみだ」

 道叡が破顔した。


     3


「もうし、ニザームッディーン様、お頼みもうしますだ」

 声と共に、老婆が小屋に入ってきた。窮屈になったので、ナーラーヤナとムムターズは外に出た。ムムターズがふと見ると、老婆は、大事そうに生まれたばかりの赤ん坊を抱えていた。

「まあ、可愛い!」

 ムムターズの目に、いきなり女の子らしい光が宿った。

「ニザームッディーン様、チャイタニヤ様、無事に男の子が生まれましただ」

「おお、カンチャン婆さん。無事生まれたか。良かったのう。しかも男の子か。めでたい。で、母親は無事かな」

「へえ、お陰様で、まんず母親も息災でございます。つきましては、聖者様がた、この子にどうか祝福を」

「おお、そうだのう。どれ、こちらに」

 老婆は、赤ん坊を腕に抱いたままニザームッディーンの方ににじり寄り、抱いた赤ん坊を差し出した。ニザームッディーンは、タスビーフ(数珠)を取り出し、それを繰りながら『アッラーフ・アクバル』と三回唱えて、赤ん坊の額に右手の中指と人差し指で触った。

 ニザームッディーンの祝福が終わると、老婆は今度は額にヒンドゥー教徒の印であるビンディを付けた。民衆にとっては、加護を授けてくれる聖者の宗教が何でもかまわない。イスラム教が、アラビア商人たちによってインドに伝えられてから数世紀経つ。まして、今の支配者、トルコ人たちの宗教がイスラム教であってみれば、自然と支配される側にも浸透していく。すでにイスラム教とヒンドゥー教は、いわば神仏習合に似た状態にあるのだ。ビンディを付け終わった老婆は、チャイタニヤのほうににじり寄った。

 チャイタニヤは、『オーム』の聖音を何度も唱えながら、聖水をかけ、赤ん坊を祝福した。そしてチャイタニヤは、「そこにいる若いお坊様にも祝福してもらいなされ。若いが、大変な修行者じゃぞ」と言った。

 老婆は、ビンディを付けたまま、道叡のほうに向き直った。道叡は、老婆の話しているヒンディー語は分からなかったが、だいたいの状況は飲み込んでいた。そこで、数珠をくりながら、般若心経を唱えた。道叡の祝福が長かったせいか、老婆は、何度も道叡に額ずいた。

 その様子を、ムムターズは入り口の布を跳ね上げて見ている。どうしても、皺苦茶の赤ん坊が気になるらしい。

「どれ、ではわしらもデリーに行こうかのう。道叡殿を、スルターンに紹介しておいたほうが良いじゃろうて」

 ニザームッディーンが、腰を上げた。チャイタニヤも道叡も、それに倣った。一同が小屋を出て、ナーラーヤナとムムターズに合流すると、赤ん坊を抱いた老婆も一同を見送った。村のそちこちで午後の仕事をしていた村人たちも、一様に一行に挨拶をする。

 年もだいぶいったニザームッディーンは、驢馬に乗った。他の四人は歩きである。陽が、オレンジ色の輝きを青い空に投げかけながら、傾き始めていた。村の周りに植えてある栴檀の木が、その陽に映えている。燕が、鳴き交わしている。道は、少し埃っぽい。その中を、五人と一匹は悠々と歩いていく。

 村はずれの道をしばらく行って、デリーに向かう街道に入ると、二つの大きなキャラバンに挟まれた。ラズィーヤの統治以来、デリー周辺の治安は急速に回復してはいるが、やはり護衛を伴った大キャラバンと一緒だと心強い。

「時にナーラーヤナ殿、ナーラーヤナ殿がお持ちのサラスヴァティー・ヴィーナは、確か南の楽器のはず。わしもコルカタ(カルカッタ)で見たことがある。こんな北にその楽器があるとは思わなんだが、何か子細がおありかな」

「はい、このサラスヴァティー・ヴィーナは、元は我が父ラクシュマナ・ダッタの持ち物でございました。(わたくし)の家は、代々クシャトリヤで父も武人でございましたが、こんなものを弾くような趣味も持ち合わせておりました」

 ラクシュマナ・ダッタ、という名前を聞いて、ムムターズはどきりとした。叔父であるアリー・マルダーンの(かたき)である。ムムターズには憎しみの心は全くないのだが、母のオズダマルは、相当拘(こだわ)っているようだ。

(わたくし)は、五歳になるまで全く声が出なかったのですが、五歳になったとたんにシヴァの賛歌を歌い出したのだそうでございます。それで、この子は神の賛歌を歌うために生まれてきたのだろう、ということになり、父が、このサラスヴァティー・ヴィーナを(わたくし)に譲ってくれたのです。そして、私が八歳になりましたときに、近くの音楽に長けたバラモンに預けられたのでございます」

「ほう、武人でサラスヴァティー・ヴィーナを弾くとな。なかなか風流な御仁だな。日本の武士にも、そういう風流をたしなむものが大勢おる」

(わたくし)の父はグジャラートのチャウルキヤ王国に仕えておりました。一隊の隊長でございました。先代のスルターン、イルトゥトゥミシュ様が、ヒンドゥー陣営のメーワール王国を攻められましたとき、父の仕える、やはりヒンドゥー陣営のチャウルキヤ王ビーマデーヴァ二世陛下はメーワール王国を助けに赴かれました。我が父もその進軍に従いました。その折に、我が母ループマティは、(わたくし)と、(わたくし)の姉と弟を伴って父について行きましたのでございます。その戦いに、チャウルキヤ王国、メーワール王国の連合軍は勝ったのでございますが、我が父は武運つたなく捕虜となり、イルトゥトゥミシュ様の奴隷となりました」

「はあ、そうか。戦争の捕虜は、シュードラでなくとも奴隷になるのか」

「はい、そうでございます。父が、捕虜になってしまいましたので、母ループマティは途方に暮れました。もちろんグジャラートに帰れば親戚がいるのですが、父の消息も知りたい。そこで、当時十二歳だった長男の(わたくし)をデリー近くに置いて、父の消息を探らせようとしたのでございます。あわよくば、私に父を助け出して欲しい。そういう気持ちもあったようでございます。そこで、私はニザームッディーン様の親友である、音楽家のバラモン、ムケルジー様に預けられました。そして、母ループマティ一行はグジャラートに帰りました。その後、ムケルジー様が二年前にお亡くなりになり、スーフィーの音楽にも興味を持っていた(わたくし)は、ニザームッディーン様の弟子になったのでございます」

「もっとも、年もいってしまったわしは、右手が少し不自由になり、近頃楽器はとんと触らんのだがのう」

 ニザームッディーンが、少し寂しそうに言った。

「なるほどなあ。して、そのお主の父親ラクシュマナ・ダッタ殿のその後は?」

「はい。父は、イルトゥトゥミシュ様から、その子ルクヌッディーン様に譲られました。そして、ラズィーヤ様がルクヌッディーン様を捕らえられたときに、ルクヌッディーン様を解放していただこうと、ラズィーヤ様に十人抜きを申し出、六人まで抜きましたが、アリー・マルダーン様とおっしゃる武人との死闘で力絶え、マルダーン様は倒したのでございますが、最後はヤークート・ハーン様にとどめを刺されましてございます。事の次第は、グジャラートに手紙で伝えました」

「そうか、それは残念なことをしたな」

 道叡が、痛ましそうに言った。

「ナーラーヤナ様、実は、そのアリー・マルダーンは、(わたくし)の叔父なのでございます」

「え、それは」

 ものに動じないナーラーヤナも、さすがにこれには虚をつかれたようだ。絶句して、二の句が継げないでいる。

「それで、私の母オズダマルは、ナーラーヤナ様を弟の(かたき)と狙っているようでございます。くれぐれもご注意を……。でも、ナーラーヤナ様から見れば、我が叔父アリー・マルダーンはナーラーヤナ様のお父様の仇なのですね」

 言いながら、ムムターズは下を向いた。その顔に向けて、ナーラーヤナはにっこりと微笑んだ。

「いえ、親の仇などと、そういうことは一切思っておりません。なんと言っても、戦闘で、しかも一騎打ちで死ぬのは武人の誉れ。クシャトリヤの誰もが、本望とする死に方でございます。実は、私は父とアリー・マルダーン様の一騎打ちを群衆の中で見守っておりました。我が父も、マルダーン様も、どちらも一歩も引けをとらぬ勇者ぶり。まさにクリシュナ神もお喜びになるような見事な戦い様でございました。あのような戦いをした我が父を誇りに思いますし、ムムターズ様も叔父上様を誇りにお思いになさりませ」

 ムムターズの顔が、ぱっと輝いた。そして、少し涙ぐみながら、何度も何度もうなずいた。

 夕陽が、真っ赤に空を染めて沈んでいった。前後のキャラバンが、何十本もの松明を点けた。ナーラーヤナも、一本の松明を点けた。砂漠を越えてきたのだろう。二つのキャラバンには、たくさんの荷物を付けた駱駝が、それぞれ数十頭ずつおり、赤茶けた大地を、悠々と歩んでいく。その荷物の中には、遠くチーン(中国)から運ばれた絹もあるのだろうか。ペルシャの、絨毯や硝子製品もあるのだろうか。駱駝の中には、数頭、輿を付けているものがいる。多分、身分の高い女性が乗っているのだろう。その輿が、砂漠に立つ蜃気楼が揺れるようにゆらゆらと揺らめいた。


     4


「ニザームッディーン様、先ほど、ニザームッディーン様は、神はカーバ神殿にも、天上にもおわさないとおっしゃいました。では、神はどこにおわすのでございますか?」

 ムムターズが、真剣な口調で訊いた。

「おお、そうだったのう。その話が途中じゃった。ふむ、それは、イスラム教の話だけでは、理解は難しかろうのう。ここは一つ、チャイタニヤ殿に、ヒンドゥー教の話をして貰うのが良かろう」

「では、チャイタニヤ様、迷える子羊に、道をお示しくださいませ」

 ムムターズの様子には、ある種の必死さがうかがえる。やはり、本物の奇跡を目の当たりにして、思うところがあるのだろう。

「おお、それはいいなあ。旅の間、あちこちでバラモンに出会うたが、みんな婚礼の呪文や、葬式の呪文には長けていても、教義や、まして奥義などを教えてくれるものは一人もおらなんだ。わしも是非聞きたい」

「さて、困ったなあ」

 チャイタニヤは、にこにこ笑いながら、まんざらでもない風である。

「ヒンドゥー教徒というのはなあ、四つのヴァルナ()から構成されておる。祭司であるバラモン、戦士であるクシャトリヤ、商人や農民など、諸々の仕事をする庶民であるヴァイシャ、そして奴隷であるシュードラじゃ。で、宗教に関しては、元来はもっぱらバラモンが司ることになっておったんじゃ。それで、昔のヒンドゥー教を、バラモン教とも言う。バラモン教の聖典としては、サンヒター(本集)と呼ばれる、四ヴェーダが根本としてある。リグ・ヴェーダ、サーマ・ヴェーダ、ヤジュル・ヴェーダ、アタルヴァ・ヴェーダの四つじゃ。これら四ヴェーダは、基本的にはインドラ、ウシャスなどの古い神々に対する賛歌じゃ。こういう賛歌を歌いながら、バラモンは婚礼や葬式、王の即位など、様々な場合における祭式を司っておったのじゃ。場合によっては」

 チャイタニヤは、茶目っ気のある顔で笑った。

「呪いの呪文を唱えることもある」

 呪い、という凶々しい言葉を聞いて、ムムターズが息を飲んだ。

「インドラというのは、仏教でいう帝釈天だな。神々の王だったそうだ」

「そうか、仏教にもそんな風にしてバラモン教の神が取り入れられておるのか。仏陀が、ヴィシュヌのアヴァターラ(化身)になってしまうのと同じじゃな」

 チャイタニヤは、さも愉快そうにからからと笑った。

「さて、大昔のバラモンは、そうやってもっぱら祭式の時に賛歌を歌って満足しておったらしい。じゃがなあ、お嬢ちゃん、人間というものは、それだけで満足できるかな。神とは何か。この世界は、どういう風にして成り立っておるのか。知りたいとは思わんかな。どうじゃ?」

 チャイタニヤにこう問われて、ムムターズはきっぱりと答えた。

「はい、知りたいと思います」

 ニザームッディーンの小屋を訪れる前のムムターズなら、決してこんな答えはしなかっただろう。やはり、本物の聖者たちを目の当たりにして、宗教的な情緒が芽生えつつあるのだ。

「そうじゃろう。昔のバラモンたちも同じじゃった。そこで、神々や、宇宙について考察する者たちが出てくる。その考察したことを記し、祭祀との関係を考えたブラーフマナ(祭儀書)アーラニヤカ(森林書)などの教典が生まれてくる。これらも、広義のヴェーダに含まれておる。さらに、ブラフマンとアートマンの関係を考察する、ウパニシャッド(奥義書)の萌芽も現れてくる。丁度その頃じゃ。バラモンの宗教独占と、当時のバラモン教の形骸化に抗議して、新しい宗教が起こってきた。道叡殿が信奉する仏教と、今でもインドに若干残っておるジャイナ教じゃ。これらは、バラモンではなく、クシャトリヤとヴァイシャを中心にして起こった」

「うむ、釈尊もシャカ族の王子としてお生まれになられた。クシャトリヤだな」

 道叡が、うなずきながら言った。チャイタニヤが続ける。

「じゃが、仏教も、ジャイナ教も、イスラム教にはないバラモン教の特徴を受け継いでおった。それが、サンサーラ(輪廻)、という概念と、そのサンサーラ(輪廻)からの解脱という概念じゃ」

「サンサーラについては聞いたことがございます。でも、それでは、ヒンドゥー教徒は、死後に天国には行かないのでございますか?」

「そうじゃな、死後に天界に生まれることもある。じゃがなあ、イスラム教の天国とは違って天に生まれた者もやはり老いるし、死にもする。死んだら、またサンサーラの流れに身をゆだねるのじゃ。じゃから、天での行いによっては、天からそのまま地獄に堕ちることもあるのじゃ」

「まあ、恐ろしい」

 ムムターズの目が恐怖におののいた。

「ああ、それなら、天人五衰といってなあ、仏教でもそう説く教典がある。その五衰が起こると、天人でもやがて死ぬというのだ」

「そうじゃ。じゃから、この永遠のサンサーラからの解脱こそ、我らバーラタ(インド)の民が生んだ宗教の最終目的なのじゃ。そのために、仏教とジャイナ教は出家主義をとった。出家して、俗世間との縁を切り、修行に励む沙門(シュラマナ)が中心となる。そういう宗教となった。それに対して、バラモン教は、昔から在家主義じゃ。祭司であるバラモンも、妻帯するし、子も作る。もっとも、バラモン教も出家を否定しておるわけではない。バラモン教には、四住期(アーシュラマ)という教えがある。人生を四つの時期に分けるのじゃ。第一が学生(がくしょう)期、師の元でヴェーダを学ぶ時期じゃ。第二が家住期、家庭をなし、子孫を作る時期じゃ。第三が林棲(りんせい)期、林に住んで修行を積む時期じゃ。第四が遊行(ゆぎょう)期、定まった居場所を持たず、俗世間を捨てて放浪し、修行を積む時期じゃ。この、四住期(アーシュラマ)の第三期と第四期は、出家していると言っても良い訳じゃ」

「その出家と申しますのは、なんだか荒野で修行するスーフィーの行者(ダルヴィーシュ)と似ております」

「そうじゃ、そうじゃ。仏教と、ジャイナ教の沙門も、苦行するスーフィーと似ておる。ところでニザームッディーン殿、スーフィーも、イスラム教の正統法学者、ウラマーの現世主義に対抗する哲学体系を持っておるのじゃろう」

「うむ、最近のイブン・アル・アラビーなどが、ずいぶんと精緻な哲学体系を作っておるそうじゃのう。わしも、そのアラビーの写本を一巻持っておる」

「それと同じことでなあ、出家のみで構成された仏教とジャイナ教は、非常に精緻な哲学体系を創り上げた。形骸化しておったバラモン教も、それに対抗できるだけの哲学を生み出す必要があった。そこで、発展したのがウパニシャッド哲学じゃ。この頃のバラモン教には、仏教、ジャイナ教、同様の出家がおったのじゃ。さっきも言ったように、古いウパニシャッドは、仏教やジャイナ教よりも古いと言われておる。じゃが、ウパニシャッド哲学が発展したのは、仏教やジャイナ教との論争を通じてじゃな。そして、このウパニシャッド(奥義書)も広義のヴェーダに含まれ、ヴェーダの最後ということで、ヴェーダンタと呼ばれておる」

 チャイタニヤは、悪戯っぽい目つきでムムターズを見た。

「そしてなあ、お嬢ちゃん、よく聴きなされよ。その奥義ともいうべき二大文章(マハーヴァキャー)が、アハム ブラフマースミ(我は ブラフマンである)、我はブラフマンである、とタット トゥヴァーム アシ(それ    汝は    である)、汝はそれ=ブラフマンである、という二つの文言なのじゃ」

「ふむ、梵我一如というやつだな」

 道叡がうなずいた。

「そうじゃ、我々個人個人の本質、アートマンは、宇宙原理であるブラフマンの本質と同一だ、という思想じゃ」

「え、神と、被造物である人間が一緒なのでございますか? それはとんでもなく恐ろしい、アッラーへの冒涜と思えますが」

 ムムターズが、松明の仄明かりの中でもはっきり分かるように蒼ざめた。

「そうじゃ。ブラフマンは、大海じゃ。そして我々人間という者は、塩でできた人形じゃ。塩でできた人形が大海に入れば溶け込んでしまうように、我々の自我、アートマンも解脱すればブラフマンの中に融け込んでしまう。そのことを、修行によって知ることが、ウパニシャッド哲学の目的なのじゃ」

「でも、でも、それはヴィシュヌやシヴァを信じるヒンドゥー教とは、全く違うものに思えます。(わたくし)には、ヴィシュヌやシヴァを信じる人々のほうが近しく思えます」

 ムムターズは、泣きそうである。イスラム教徒にとっては、アッラーは唯一絶対の人格神である。それに対して、大天使ジブリール(ガブリエル)も人間も、悪魔シャイターン(サタン)でさえもがアッラーの被造物である。造物主と、被造物の間には、絶対的に深い谷がある。被造物である人間と、神の本質とが同一である、などというのはとんでもない異端の冒涜でしかない。

「ふむ、お嬢ちゃんには、なかなか難しいことじゃろうて。じゃがなあ、これは、神秘の道を歩み、瞑想によって神を見ようとするものが、等しく体験することじゃぞ。ニザームッディーン殿は、やはりイスラム教徒じゃから、決して自らの神秘体験の極みに、神と合一した、とは言わん。神の顔を明らかに見たという。じゃが、わしがブラフマンとの合一体験をしておるとき同様、ニザームッディーン殿もアッラーとの合一体験をしておるはずじゃ。じゃから、カーバにもおわさず、天上にもおわさない神はどこにおわすかと言えば……。お嬢ちゃん、もう分かるじゃろう」

(わたくし)の心の中に、……でございますか。しかし、それはあまりにも不遜な考えというもの」

「まあ、イスラム教徒のお嬢ちゃんには、なかなか簡単には腑に落ちんことじゃろう。じゃがのう、お嬢ちゃんや、この階梯(かいてい)は、神秘の道を志すものが、必ず通り抜けねばならぬ地点じゃぞ」

「ええ、はい、でも、でも、あの、そう、そうです。ナーラーヤナ様は、ナーラーヤナ様も神との合一体験をしたことがおありなのですか」

「はい。数度、ああ、これがアハム ブラフマースミ(我は ブラフマンである)ということなのか、と思ったことはあります」

「まあ!」

 ムムターズは、両頬を押さえ、絶句した。

「はっは、娘さんには少し難しいだろう。座禅でも組むとか、少し修行せんとなあ」

 道叡は、闊達に笑っている。

「時にチャイタニヤ殿、今娘さんが言ったヴィシュヌとシヴァのことだが、この両神とバラモン教にはどういう繋がりがあるのかな? 田舎の村のバラモンたちは、なかなか明快に答えてくれなんだ」

「ふむ、そのことじゃがな」

 チャイタニヤは、にやりと笑いながら道叡の顔を見た。

「ウパニシャッド哲学は、精緻な哲学体系じゃ。宇宙と自我が、どうやって一体化できるか、というな。しかし、そんなものが、さっきの赤ん坊を祝福してもらいに来た婆さんのような一般民衆の願望に答えられるかね」

「答えられんな。一般の民衆が求めるのは、修行の結果である悟りではなくて、もっと現世的な利益(りやく)と、極楽浄土のような天界だろう。さっきの老婆は、赤ん坊の無病息災を願っただろうし。だからこそ、仏教でも衆生を済度する大乗仏教の菩薩思想というものが生まれた」

 道叡が、つるりと頭を撫でた。

「その通りじゃな。ウパニシャッド哲学は、発展を続け、ヴェーダンタ学派を初めとする六派哲学として開花する。じゃがなあ、それはごく普通に生活している民衆の救いとは関係のない発展というべきものかもしれんのじゃ。なんと言っても、わしらが崇めるブラフマンとは、男性でも女性でもない、中性の宇宙原理じゃ。そんなものには、なかなか民衆は馴染めないじゃろう。そこで生まれてきたのが、創造の神ブラフマー、維持の神ヴィシュヌ、破壊の神シヴァの三神を崇めるヒンドゥー教じゃ。創造の神ブラフマーは、わしらが崇めるブラフマンが男性となった人格神じゃ。ヴィシュヌも、シヴァも人格神じゃ。この方が、現世利益と救いを求める民衆には慕いやすかったのじゃな」

「なるほど。ブラフマーというのは、仏教で言う、梵天だろう。しかし、天竺に来てからも、あまり聞かぬ神だったなあ」

「ブラフマーは、宇宙創造の神じゃが、由来が古い。なにせ、元はブラフマンじゃからなあ。それで、ヒンドゥー教が盛行し始めた時代には、人気が無くなっておったのじゃ。じゃから、維持の神ヴィシュヌも、破壊の神シヴァも、その信者にとっては、絶対の創造主になる」

「そうか、だからシヴァもヴィシュヌも創造神として崇められているのか」

 道叡が、やっと合点がいったという風にうなずいた。

「このシヴァとヴィシュヌ、中でもヴィシュヌに絶対的に帰依して、その恩寵で天国に生まれようという運動が起こった。それがバクティ(帰依)運動じゃ。このバクティ(帰依)という思想が生まれてから、ヒンドゥー教は民衆に親しまれるものになったのじゃ。何しろ、大変な苦行や、難しい瞑想などせんでも、ただひたすら神を信愛しさえすれば救われるというのじゃからな。民衆にはわかりやすい教えじゃ」

「バクティというと、あの鉦や太鼓を叩きながら踊り狂う宗教か」

 道叡が、ちょっと顔を顰めて言った。どうやら、道叡はバクティの宗教家たちに、あまりいい印象を持っていないらしい。

 不意に風が吹いてきた。砂塵が舞い上がり、乾いた砂が目に入った。街道を少し外れると、一面の砂漠なのだ。ちょっと目をこすってからチャイタニヤが続けた。

「バクティにも、二派あってな。一つが猿派、今一つが猫派と呼ばれておる」

「え、猿に猫でございますか。なんかだ可愛らしい。とても宗教のお話とは思えません」

 ムムターズが、微笑みながら言った。

「うむ、猿派というのはな、猿の子供が母親に自分でしがみつくように、信者も一生懸命に神に救われるように品行方正な生活をせにゃあならん、という教えを奉ずる一派じゃ。それに対して猫派というのは、猫の母親が子供を咥えて運ぶように、神が信者を絶対的な恩寵で救ってくれるのじゃから、信者は神を信愛する以外には何もしなくてもいいという一派じゃ」

「ははあ、仏教の阿弥陀信仰に似ているな。仏教でも、特に修行しなくても、ただ南無阿弥陀仏と唱えてさえいれば、阿弥陀仏が絶対の慈悲で極楽浄土に連れて行ってくださる、という宗派がある」

「ほう、どこの宗教にも神秘主義があるのと同じように、どこの民衆も似たような願望を持つものじゃな」

 チャイタニヤが、からからと笑った。

「お嬢ちゃん、お嬢ちゃんの考えるアッラーというものは、今言ったヴィシュヌや、そのアヴァターラとしてのクリシュナ、ラーマ、そしてシヴァや、その妃としてのカーリー、ドゥルガー、そして道叡が言った阿弥陀仏などと同様に、恩寵を与えてくれる神なのじゃろう」

「はい、そうです、慈愛あまねきアッラーは、神を信仰するものに天国という褒美をくださいます」

「じゃがのう、お嬢ちゃん。そういう神は、(まこと)の神は、お嬢ちゃんの心の外にはおらんのじゃぞ」

 チャイタニヤが、厳しい顔をして言った。ムムターズは、考え込んでしまった。黙ったままのムムターズを、ニザームッディーンも、チャイタニヤも、道叡も、ナーラーヤナまでもが静かに見詰めた。

 一行は、そのまま、砂漠の中を黙々と歩き続けた。


     5


 こうして、途中盗賊にも出会わずに、十ゲリーほど歩いてデリーの城門に着いた。辺りは既に暗くなっていたが、城門が閉まるまでには、まだ余裕があった。闇の中に、城門は巨大で威圧的な姿を浮かび上がらせていた。キャラバンに続いて城門を入ると、二人の衛兵が誰何してきた。しかし、衛兵たちはニザームッディーンの姿を認めると、すぐに額ずき、「聖者様、祝福を」と言った。ニザームッディーンがおもむろに祝福を与えると、祝福された衛兵たちは、急いで持ち場に帰った。一行は、そのまま城内に入った。

 篝火が焚かれている城門とは異なり、城内の貧民街は闇に沈んでいた。時折、犬の遠吠えが聞こえるだけである。貧民たちは、灯明代にも事欠き、夜が早い。しばらく行くと、宮殿の周りを取り囲む富裕層の邸宅街に入った。こちらは、さすがにそちこちに明かりが灯っているが、明るいというほどではない。せっかくの赤砂岩と大理石のコントラストも、薄闇にぼやけている。

 一軒の豪邸の前で、ニザームッディーンは立ち止まった。

「ここにはわしの信者がおるでなあ、今日はここに泊めてもらおう。そして、明日宮殿に赴き、ラズィーヤ様に拝謁して道叡殿を紹介しよう」

「分かりました。スルターンには、(わたくし)のほうからも道叡様のことをお知らせしておきます。では、私はここでおいとまいたします」

 ムムターズが頭を下げると、ナーラーヤナと道叡が、「宮殿まで一緒に行こう」と言った。ムムターズは、固辞したが、ナーラーヤナと道叡は一向に気にせずに、ムムターズが歩く方について行った。

 宮殿に近づいた頃には、さすがに辺りはもう、綾目も分かたぬ闇に沈んでいた。分厚い雲が出て、月の光さえ遮ってしまった。一軒の邸宅が、夜が早いのだろうか、全く明かりを点けていなかった。一寸先も見えない闇の中である。と、その闇の中に怪しい気配が立ちこめた。いきなり松明が二本焚かれ、暗闇に慣れた目を直撃した。見ると、六人の黒装束の男が辺りを取り囲んでいた。手に手に短剣を持っている。

「ナーラーヤナだな、死んでもらう」

 六人のリーダー格らしい男が言った。そしてすぐに、六人が一斉に襲ってきた。ねらいは、ナーラーヤナ一人らしい。しかし、その動きはあまり統率が取れているとは言い難い。

 ナーラーヤナも、短剣を抜いて切り込んでくる相手の剣を受け止めた。ムムターズが、腰に佩いていた短剣を抜き、ナーラーヤナを守ろうとその前に回り込んだ。ナーラーヤナが、慌ててその前に出る。相手が、統率の取れていない動きをしているから助かるものの、二人は互いをかばい合い過ぎている。おまけに多勢に無勢である。ナーラーヤナとムムターズの二人は、宮殿の壁際に追い込まれそうになった。

 と、道叡の手から、二つの小粒のものが飛んだ。それが松明を持っていた男たちの手に当たり、二人は松明を取り落とした。男たちが、一瞬うろたえた。

「ナーラーヤナ、松明を消せ」

 言うなり、道叡は自分の近くに落ちた松明を踏みつけて消した。手早く飲み水の袋を取り出し、まだ()きの残っている松明に水をかける。ナーラーヤナも、言われたとおりにもう一本の松明を消した。辺りは、松明が点く以前にも増して、より一層濃い闇に沈んだ。なまじ明かりに目が慣れた分、目には何も見えない。敵も戸惑っているようだが、ナーラーヤナとムムターズも困惑した。

「フン! ハッ!」

 道叡のかけ声が聞こえた。一人の男が、あっという間に地面に倒れる音がした。しかし、道叡の動きは、ナーラーヤナにもムムターズにも見えない。助太刀をすることもできずに、手をこまねいている。ただ、道叡が音もなく動いて、敵を倒している気配だけが伝わってくる。二人、三人まで敵の倒れる音がした。

 道叡の鬼神のような働きに恐れをなしたのだろう。残り三人は、バラバラに逃げ出した。そのうちの最後尾の一人を、道叡はしっかりと捕まえた。

「ナーラーヤナ、松明に火を」

 言われて、ナーラーヤナは、自分が踏みつけていた松明の濡れた部分を短剣で切り落とし、燧石で火を灯した。道叡は、その松明を、捕らえた男の顔に近づけるようにナーラーヤナに告げた。男は、明らかにトルコ人の顔立ちをしていた。道叡が、冷徹な声で言った。

「さて、お前たちは誰に雇われた。聞けば、ナーラーヤナ一人を狙っていたようだが、ナーラーヤナに恨みでもあるか」

 男が、松明から顔を背けて黙っていると、道叡が、顔に薄ら笑いを浮かべながら、凄みのある声で脅した。

「言わぬか。ならば、まずこの腕を一本貰おうかのう」

 関節技を決め、後ろ手に捻り上げた男の左腕に、道叡が少し力を籠めた。何ほども力を入れたとは見えないのに、男の顔は苦痛に歪み、その口から、悲鳴が洩れた。

「両手、両足を貰ったら、その指を一本ずつへし折るぞ。それでも吐かぬなら、ほれ、この松明でわしの顔にあるような火傷を作ってやろう。わしの火傷の、五倍ぐらいの大きさの火傷ができるぞ。折れる腕、折れる足、折れる指の一本一本の痛みが、お前を正道に導く御仏の慈悲じゃ」

 こう道叡が優しい声で諭しながら、関節を決めている腕に力を込めた。男の顔には脂汗がねっとりと浮き、顔面は蒼白になった。

「わ、分かった、言う、言うから手を緩めてくれ」

 男が哀願した。

「よし、少し緩めてやるが、逃げようとしたら容赦なくへし折るぞ」

 もう、声も出ないらしい男は、必死の面持ちで何度もうなずいた。道叡が、力を少し緩めた。

「俺たちは、ナーラーヤナを(かたき)と狙うオズダマル様に雇われた」

 ムムターズが、はっと息を呑んだ。

「城門に仲間を置いておいて、ナーラーヤナが通ったら後を()けることになっていた。そいつは、ナーラーヤナが宮殿で歌ったときに、給仕をしていたので、ナーラーヤナの顔を見知っていた。そいつは、もう逃げた」

「なるほどなあ。よし分かった。もう行け」

 男が慌てて逃げだそうとするのを、道叡は「待て」と呼び止めた。

「そこに転がっている男たち、もうそろそろ気がつく頃だろう。ちゃんと連れて行ってやるのが、友達甲斐というものではないか」

 道叡が、にっこりと笑った。

 言われて、男は、慌てて転がっている三人の介抱を始めた。三人はすぐに気がついたが、戦意は完全に喪失していた。四人の男は、こけつまろびつ逃げ去った。

 道叡が、さっき投げたものを拾った。見ると、二つの赤い達磨人形だった。どちらも、今の乱暴な扱いで少し欠けていた。

「道叡様、お見事でございました。あの技は?」

 ナーラーヤナが話しかけた。

「うむ少林拳と言ってのう、達磨大師が編み出したと言われておる拳法だ」

(わたくし)も、カラリパヤット(インド拳法)を、少しいたしますが、さっきのような真っ暗闇の中では、身動きすらかないませんでした」

(わたくし)もでございます。幼いときから、スルターンから様々な武芸を手ほどきしていただきましたが、さっきのような神技はとても……」

「ふむ」

 道叡が、松明の明かりの中で、苦み走った笑いを浮かべた。

「わしが今使った技は、確かに少林拳だが、それだけではない。武術の修行だけでは、なかなか到達が難しい境地があるのだ。そこに、円が出てくるのだがな」

「円、でございますか?」

 ナーラーヤナが、不審げに訊いた。

 だが、道叡はそれには応えずに「今ここで立ち話をしている余裕はなかろう。ムムターズ殿は、早く宮殿の中に戻らねばならぬのではないか」と言った。

「はい、では、お名残惜しゅうございますが、この次には是非その極意をお教えくださいませ。では、道叡様、ナーラーヤナ様、失礼いたします」

 ムムターズは、頭を下げると、懐から鉤付きのロープを取り出し、出てくるときと同じ要領で壁を乗り越えて消えていった。

「しかし、何とも身の軽いことだなあ」

 道叡が、感嘆したようにため息をついた。


     6


「そなたが、聖者ニザームッディーン・チシュティーか」

 ラズィーヤが、爽やかな声で訊いた。ラズィーヤの玉座の間である。ラズィーヤの傍らには、お気に入りのムムターズが侍っている。その反対側には、例の虎が眠っている。ニザームッディーン、チャイタニヤ、道叡、そして末座にナーラーヤナが座っている。いずれも寛いだ様子で、スルターンの前に居るという緊張感は微塵もない。

「ああ、いや、娘子(むすめご)よ、わしは確かにニザームッディーンじゃが、聖者ではない。ただのダルビーシュ(スーフィー行者)じゃ」

 ニザームッディーンが、スルターンを娘子呼ばわりしたので、満座の貴族たちがざわめいた。中には、色をなす者もいたが、ラズィーヤは笑って受け流した。

「で、そちらがヨーガ行者(ヨーギン)のチャイタニヤ・デーヴァか。そちもヒンドゥー教徒の間では聖者として名高いと聞くが」

「いやいや、ニザームッディーン殿同様、聖者などという大層なものではない。ただの、裸の乞食行者じゃよ」

 チャイタニヤも、軽く受け流して笑っている。確かに、チャイタニヤは、スルターンの御前にも拘わらず、いつもの下帯一つで、あとは素っ裸である。

 スルターンの宮殿には、自称聖者がそれこそ何人もやってきて、奇跡が行えると称し、寄進を掠め取っていく。ラズィーヤは、彼らに胡散臭いものを感じるのだが、あまり邪険にもできない。なのに、この二人は、たくさんの者から聖者と呼ばれているのに、自分たちは平気でそれを否定している。

「で、そなたが、なにやら異国から来た修行者ということだが」

「いかにも。拙僧は、チーン(中国)の東の海に浮かぶ、日本という小さな国から参った。禅宗の坊主、道叡でござる」

 道叡は、日本から、ここインドへ、そしてデリーへとやって来た経緯を簡単に話した。

「なるほど。そのような遠い国から、なぜこのインドへ?」

(ダルマ)を求めてでござる」

「ほう、己の信じる宗教の(ダルマ)を求めて、命をかけたか。何とも天晴れなものよのう。よかろう、ナーラーヤナの願いに応えて、チャイタニヤ・デーヴァと、道叡も、余の庇護下におこう。我が治世の続く限り、アルバリー朝の支配の及ぶ限りの地で、お前たち四人は安全である」

 そうラズィーヤが宣言したときに、いきなり居並ぶトルコ貴族たちの間から、一人の女が飛び出した。歳は四十がらみだろうか。ヴェールで顔を覆っているので、細かい表情は窺えない。インド人の着る、サリーに影響を受けた、色取り豊かな衣服を着ている。ムムターズの母、オズダマルであった。

「お慈悲でございます、スルターン! そこにいるナーラーヤナ・ダッタは、我が弟アリー・マルダーンを殺したラクシュマナ・ダッタの息子にございます。アリーの(かたき)を、おめおめと生かしておいては、マルダーン家の名折れ。お願いでございます、スルターン。なにとぞ、なにとぞナーラーヤナの庇護をお解きになって、(あだ)討ちのお許しを」

 こう言って、オズダマルは泣き伏した。

「余を愚弄する気か、オズダマル!」

 ラズィーヤは激怒した。

「余の庇護下にあると宣言したナーラーヤナを仇討ちの対象にしようなど、余が許すと思ってか!」

「お慈悲でございます、スルターン。仇討ちさえかなうなら、(わたくし)めの、この首をお召しなされてもかまいませぬ。なにとぞ、なにとぞ、我が弟の仇討ちを」

「ならぬ!」

 ラズィーヤが憤然として玉座を立とうとしたときに、「お待ちください」とナーラーヤナが声をかけた。

(わたくし)は、確かにオズダマル様から見れば、弟様の(かたき)の息子。今は楽士に身をやつしておりますが、(わたくし)もクシャトリヤの息子でございます。仇討ちと言うことならば是非もございません。オズダマル様、果たし合いは、どのような条件で」

「我が方から、一人戦士を出す。その戦士との一騎打ちを」

 オズダマルが言うと、ナーラーヤナは、「その条件なら、果たし合いお受けいたします」とラズィーヤの目を真っ直ぐに見て言った。

 ラズィーヤは、また玉座に座り直し、「その方が、そうまで言うなら仕方があるまい」と諦めたように言った。

「で、その戦士とは誰じゃ」

「フサイン、ここへ」

 オズダマルが呼ぶと、一人の若者が出てきた、トルコ貴族が着る白一色の絹の衣装に、白いターバンを巻いている。顎髭を黒々と生やし、体格は、ナーラーヤナより二回り大きい。その男に、オズダマルが剣を渡した。

「オズダマル殿、宮中に剣をお持ちになったか」

 ヤークート・ハーンが、非難する口調で言った。

「よい、ヤークート」

「フサイン・マルダーン、アリーの弟か」

 ラズィーヤが、呟くように言った。宮中に剣を持ち込んだオズダマルの非礼は、不問に付す気のようだ。

「よし、両名の一騎打ち、余がしっかりと見届けようぞ。ヤークート」

「スルターン」

 呼ばれて、ヤークート・ハーンが畏まった。

「そなたの剣を、ナーラーヤナに」

「かしこまりました」

 ヤークート・ハーンが、ナーラーヤナに近寄り、腰の剣を渡した。ナーラーヤナは、その剣の重さを確かめ、にっこりと白い歯を見せて微笑んだ。

 フサイン・マルダーン、ナーラーヤナの二人は、剣を構えながら向かい合った。先にフサインが仕掛けた。気合いをかけざま、上背を生かしてナーラーヤナの頭めがけて斬撃を放ったのだ。受けきれないと見て、ナーラーヤナは逆にフサインの懐深く踏み込み、突きを繰り出した。フサインは、その突きを体を開いてかろうじてかわした。態勢の崩れたフサインの頭をめがけて、ナーラーヤナが剣を打ち下ろした。フサインの剣が、ナーラーヤナの剣を受け止めた。そのまま鍔迫り合いになった。

 鍔迫り合いとなると、上背もあり、力でも勝っているフサインのほうが有利である。ナーラーヤナは、徐々に押し込まれていった。

 と、思いもかけない角度から、ナーラーヤナの回し蹴りがフサインの頭目がけて飛んだ。フサインは、飛び退って、その回し蹴りを()けた。

 お互いに、容易ならぬ相手と見たのだろう。少し距離を置いて、右に回り込みながら様子を窺う。フサインの髭面は、興奮して赤黒くなっている。対して、ナーラーヤナは、緊張はしているようだが、顔色は変わっていない。互いに防具は着けていないので、少しの油断が命取りになる。

 右に回り込みながら、不意にナーラーヤナが跳躍した。鷲のように舞い上がり、フサインの肩をめがけて剣を打ち下ろす。フサインは、咄嗟に剣を上げて受け止めたが、さすがにナーラーヤナの全体重のかかった一撃は受け止めきれなかった。態勢を崩し、よろめいたところに、着地したナーラーヤナが前蹴りを放った。カラリパヤット(インド拳法)特有の蹴りは、見事にフサインの胸に命中した。倒れかけるフサインの右手に、ナーラーヤナの放った小手が入った。フサインは、右手から大量の血を流して剣を取り落とし、そのまま倒れた。ナーラーヤナは、フサインの喉に剣を突きつけた。

「それまで!」

 ラズィーヤが叫んだ。

「この勝負、ナーラーヤナの勝ちである」

 息を詰めてこの一騎打ちの成り行きを見守っていたトルコ貴族たちも、ほっとため息をついた。しかし、ほとんどの者は、この結果に不満そうである。

 ナーラーヤナが、剣を引いた。そしてラズィーヤに一礼し、フサインに背を向けて自分の席に帰ろうとした。と、フサインが、左手で自分の剣を拾い、ナーラーヤナの背後から襲いかかった。

 ムムターズが悲鳴を上げた。

 ナーラーヤナは振り向きざま、フサインのほうに一歩踏み込んで突きを繰り出した。ナーラーヤナの剣は、フサインの左胸に、深々と突き刺さった。フサインは、どうとばかりに後ろ向きに倒れ込んだ。ナーラーヤナの顔が蒼白になっている。

「ヒイッ!」

 オズダマルが甲高い悲鳴を上げると、フサインに駆け寄った。

「フサイン、フサイン」

 取り縋って声をかけるが、フサインはすでに息をしていない。ナーラーヤナの剣が、心臓を一突きに貫いていたのだ。

 オズダマルは、鬼のような形相でナーラーヤナを睨んだ。

「おのれー、よくもよくも、可愛い弟たちを。ムムターズ、ムムターズ」

 ラズィーヤの傍らに侍っていたムムターズは、母に呼ばれて、玉座の側から降りていった。オズダマルは、フサインの剣を取り上げると、それをムムターズに渡して言った。

「お前、この剣で見事、あの憎い(かたき)の首を取っておしまい」

「え! (わたくし)が、ナーラーヤナ様と?」

 ムムターズは、いきなりの母の言いように驚愕した。

「そんな、お母様、(わたくし)はいやでございます」

 ムムターズが、憤然として言った。

 ラズィーヤが、言った。

「ならぬ。一騎打ちは終わったのじゃ。これ以上争いを続けることは許さぬ」

 しかし、怒りに狂ったオズダマルにはラズィーヤの声が聞こえていないようだ。

「お前は、母の言いつけに背くというのかえ。お前は、幼少の頃からスルターンにお気に入られ、武芸百般を伝授された身。楽士風情に遅れを取るとは言わせぬぞ」

 オズダマルの気迫に押されて、ムムターズは言い返せずにいる。

「さ、さっさとこの剣を受け取って、一刻も早くこの憎い男の素っ首を母に見せるのじゃ」

 オズダマルは、鬼の形相になっている。ムムターズは、蒼白になりながら、立ち竦んでいたが、やがて意を決したように剣を受け取った。その顔からは色が失われ、足下は定まらない。

「ならぬ。ならぬぞ、オズダマル。このままスルターンの命に背くなら、マルダーン家は取り潰すぞ」

 ラズィーヤが、威厳のある声で言った。

 ナーラーヤナが、すーっと一歩前に出た。無防備に、剣を下げている。

「ムムターズ様、どうぞこの胸をお突きください。ムムターズ様に取られるなら、この命、惜しくはございません」

 ムムターズが、にっこりと、寂しげに微笑んだ。

「ナーラーヤナ様、そのお言葉、嬉しゅうございます。ムムターズも、ナーラーヤナ様のためなら、この命惜しくはございません。でも、所詮仇(かたき)同士の家の身。この世で、(わたくし)たちの望みが叶うとも思えませぬ。ナーラーヤナ様、お先にあの世とやらでお待ちいたしております。ああ、異教徒同士の私たちが、なにとぞ同じ天国に生まれますように」

 ここまで言って、ムムターズはじっとナーラーヤナの目を愛しげに見詰めた。

「ナーラーヤナ様、お慕い申し上げております」

 頬を朱に染めながら、ムムターズはきっぱりと言った。

 言うなり、ムムターズはその剣を自分の喉に突き立てた。赤い鮮血が迸り、ムムターズの喉に剣が突き立った。

 かに見えた。

 とその時、道叡の右手から、赤いものが走った。その赤い達磨人形は、見事にムムターズの手から剣を叩き落とした。

「あ!」

 ムムターズが、小さな悲鳴を上げた。その喉からは、かなりの量の血が滴っている。

「ムムターズ様!」

 ナーラーヤナが走り寄り、くずおれるムムターズを抱き留めた。

「医者を!」

 ラズィーヤが叫んだ。

「オズダマル、これでもこの二人を争わせようと言うか」

 ラズィーヤが、厳しい声で問いかけた。オズダマルは、鬼の形相になり、目から血の涙を流していた。

「ええい、この親不孝者めが!」

 軋んだ声で、オズダマルが叫んだ。

「お前なぞ、勘当じゃ! もうこれ限り、親とも、子とも思わぬ」

 こう叫んで、オズダマルは玉座の間から走り出ていった。この母親の叫びを、気がついたムムターズは聞いていた。ラズィーヤが、玉座から降りてきて、ムムターズを抱いた。その、栗色の髪を撫でながら言った。

「よい子じゃ。今日から、お前は我が娘じゃ。この帝国内、どこでもスルターンの娘として振る舞うがよい。マルダーン家は、取り潰さずにおこう。その方が、そなたにも良いだろう」

「スルターン」

 ムムターズは、ラズィーヤに取り縋って泣き崩れた。


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