第一章
第一章 出会い
1
ナーラーヤナ・ダッタは、スルターンの王宮に座していた。細面の白い顔に黒い髪、そして秀でた額に黒い瞳が印象的である。トルコ人は着ない、鮮やかなピーラー色の上着に、白いスーフのサルワールを穿いている。手には、愛用のサラスヴァティー・ヴィーナを大事そうに抱えている。ナーラーヤナの前方、少し離れた玉座に、女性スルターンとして名高いラズィーヤ・ベグムが座っている。その傍らには、ラズィーヤが愛玩している大きな雌の虎が寝そべっている。ラズィーヤに撫でられて、虎は甘えるように大きなあくびをした。並んでいる、見事な白い牙が凶悪だった。
ラズィーヤは、顔をヴェールで覆わずにそのまま見せている。しかも、男装である。白い更紗と絹の男服を身に纏い、顔を堂々とさらしている。トルコ人の女性らしく目鼻立ちがくっきりした顔に、男装の衣服が見事に調和し、凄絶、と言っていいような美しさを醸し出している。
四方の壁や天井は白い大理石で造られ、床には、複雑なアラベスク文様に織られた豪奢なペルシャ絨毯が敷かれている。庭園に植えられた、たくさんの花々の芳香がナーラーヤナの鼻をくすぐる。
「そなたが、神童の誉れ高いナーラーヤナ・ダッタか」
そう問われて、ナーラーヤナは少し困ったように小首をかしげた。
「さて、神童かどうかは存じませんが。私めがナーラーヤナ・ダッタでございます」
ナーラーヤナの様子に、臆している風情は見られない。
ラズィーヤ・ベグムは、父スルターン、シャムスッディーン・イルトゥトゥミシュから後継者として指名された。男の兄弟がいるにもかかわらずである。どの男子より有能と見られたのだ。しかし、インドは男尊女卑社会である。しかも、その支配者となったトルコ人たちも、負けず劣らずの男尊女卑の習俗を持っていた。女性がヴェールをかぶらずに顔を出しているだけで後ろ指を指される。それなのに、女性が兄たちを差し置いてスルターンになったのである。当然諍いがあった。貴族たちを初め敵は多い。その中で生き抜いているラズィーヤには、人を圧する威厳がある。なのに、そのラズィーヤの視線を真っ向から受け止めて、ナーラーヤナは平然としている。
両脇に居並ぶ貴族たちも、兵士たちも、その胆力には驚いている様子である。
「苦しゅうない。近う寄れ」
「御意」
そう言って、ナーラーヤナはすっくと立ち上がり、すたすたとラズィーヤの前まで歩いていった。
「ナーラーヤナ、そちの導師ニザームッディーン・チシュティーは、隠れた聖者と聞いておる」
「御意」
「ならば問おう。神とは何か」
ラズィーヤの顔には、悪戯っぽい笑顔が浮かんでいる。
「さて、聖者でもない、私には過ぎた問いでございます。神とは存在そのものであると説くものもおりますし、神などいないと説くものもおります。私に分かりますことは、自分にできることはただ歌うことだけだということでございます」
「ならば、誰のために歌う? 神のためではないのか」
ナーラーヤナは、また小鳥のように首をかしげた。
「さて、私には分かりかねます。私は、ただ心の赴くがままに歌うだけでございます」
「そうか」
ラズィーヤは、からからと笑った。
「ならば、歌って見よ」
「御意」
ナーラーヤナは、恭しく頭を下げ、ヴィーナを膝の上に据えた。ナーラーヤナの愛用するサラスヴァティー・ヴィーナは一本の木をくりぬいて琵琶の形にしたものに、共鳴体の瓢を取り付けたものである。それに七本の弦が張ってあり、さらに幾本もの共鳴弦がある。撥で七本の弦を弾き、それが共鳴弦に複雑に共鳴して幽幻な響きを醸し出す。本来は南インドの楽器であるが、ナーラーヤナの父ラクシュマナ・ダッタが南インドから移り住んだときに持ってきたものであった。
「ラーガ(旋法)は何にいたしましょうか」
「ほう、今は昼だが、昼のラーガでなくとも良いのか」
「ご自由に」
「ではそうだな。爽やかなものが聞きたい。朝のラーガ、トリーにしよう」
「かしこまりました」
そう言うなり、ナーラーヤナはヴィーナの調弦を始めた。
インドの音楽は、全てラーガと呼ばれる旋法でできている。そして、それぞれのラーガは対応する季節、一日の中の時間が決められている。雨期には雨期のラーガ、乾期には乾期のラーガがあり、朝には朝の、昼には昼のラーガがある。また、各ラーガには、劇的だったり、浪漫的だったりする、固有の情緒がある。だが、ナーラーヤナはそういう約束事を一切気にしない。自由に、魂の赴くままに好きなときに好きなラーガで演奏をする。
第一、ヴィーナの伴奏で歌を歌うときには、ヴィーナを弾くもの、タブラなどの太鼓でリズムを整えるもの、そして歌を歌うもの、この三人が一組になっているのが普通の姿である。なのに、ナーラーヤナは、自分でヴィーナを弾きながら歌を歌う。それも太鼓の伴奏なしにである。その辺も、自由自在である。
調弦を終えるとすぐに弾き始めた。低い音から、少し高い音階に移る旋律が、朝焼けを思わせる。ヴィーナ特有の渋い音色が、人々の心にじんわりと沁み入る。ゆったりとしたスタイ の提示が終わると、少しテンポが上がって第一の変奏に入った。そして、ナーラーヤナが高い声で歌い出した。早朝の空気のように澄んでいて、清冽な声だ。その声が、小鳥の囀りのように早く、細かいパッセージを歌う。インド音楽を特徴づける、微分音の節回しが繊細な陰影をつける。その響きが、
明るい。
この少年は、明らかに何かを信じ、その正しさを確信している。聞くものにそう思わせる澄明さを、ヴィーナの響きも、ナーラーヤナの声も持っている。
ラズィーヤの傍らで、ペットの虎が頭をもたげた。ラーガ・トリーが宇宙の原理に則って正しく演奏されると、動物が慕い寄ってくるという。虎がのっそりと立ち上がり、ナーラーヤナのほうに歩み寄っていく。そして、演奏に没入しているナーラーヤナの隣に寝そべった。この虎は、ラズィーヤ以外には懐かないのに、である。
ラズィーヤは、「ほう」という顔をした。並み居る貴族たちは、我を忘れてナーラーヤナの歌に聴き入っている。
ナーラーヤナは、目を閉じて演奏に没入している。歌詞を聴いていると、歌っているのはシヴァの賛歌である。しかし、途中でヴィシュヌの名前も出てきた。さらに聴いていると、アッラーの名前まで出てきた。その全てを、平等に讃えているのである。
聴いているものたちの中には、目に涙を浮かべているものもいる。ラズィーヤも、思わず目頭が熱くなるのを覚えた。讃えられている神の名前がなんであろうと、どうでも良くなってしまう。そんな歌声だった。高く、細かく顫える声が朗々と伸びる。ナーラーヤナは、すでに宗教的法悦の境地にいた。声が一段と高く駆け上がり、絶頂に達した後に、急速に下降し、静かに歌が終わり、神秘的なヴィーナの響きも絶え入るように消えていった。
歌が終わって、人々は我に返った。すでに二ゲリーほどが経過していることが、影の長さで分かった。人々は、意外に長い時間が経っていたことに驚いた。
ナーラーヤナが目を開いた。目の前には、ラズィーヤの強い光を帯びた目があった。しかし、ナーラーヤナは、もう一対の瞳に目を奪われた。
いつの間にか、ラズィーヤの傍らには、一人の少女が座っていた。栗色の長い髪。エメラルドのような碧色の瞳。透き通るように白い肌。頬が上気して、うっすらと紅に染まっているのが見える。ラズィーヤに倣って、ヴェールを被っていないのだ。目は、アーモンドの形に見開かれている。顔に表れる凛々しい雰囲気は、ラズィーヤに通じるものがある。しかし、その顔にはラズィーヤより優しい陰影があった。瞳の色とよく似合う、薄緑色の更紗と絹のゆったりした衣服に身を包んでいる。襟元と袖に、トルコブルーの絹で、アラベスク文様が刺繍されている。衣服と調和した碧色の瞳が、真っ直ぐにナーラーヤナの瞳を見つめている。ナーラーヤナも、その碧色の瞳に魂を吸い取られたように目を離せないでいる。
つい今しがたまで神の領域の歌を歌っていたナーラーヤナが、ただの十八の少年に戻っていた。
私は、灯火に魅入られた虫だ。
少年と少女の精神に、一瞬の交感があった。
二人の頬に、一層の赤みが差した。
「見事である」
ラズィーヤが、満面に笑みを浮かべて言った。その声に、はっと我に返って、ナーラーヤナはラズィーヤの顔に視線を戻した。
「それほどの技倆、その若さでどのようにして身につけたのだ? さぞや、幼い頃から見事に歌ったのであろうなあ」
「私は、クシャトリヤの家に生まれましたが、生まれた直後は全く声が出なかったのだそうでございます。おぎゃあとも泣かなかったそうでございます」
「ほう」
ラズィーヤが、驚いたように声を出した。
「それで、母が毎日クリシュナ神に願掛けをいたしたのだそうでございます。私の名前、ナーラーヤナは、クリシュナ神の異名でございますれば。そして五年がたち、五歳の誕生日の時に、いきなり歌を歌い出したのだそうでございます。それがクリシュナ神ではなく、シヴァ神への賛歌でございました。それからは、私は毎日、日がな一日歌を歌って過ごしました。様々な神への賛歌でございました。それで母は考えたのだそうでございます。クリシュナというも、シヴァというも、はたまたヴィシュヌというもラーマというもカーリーというもドゥルガーというも、みな同じ神で、ただ名前が違うだけなのではないかと。そして、クシャトリヤの子ではあっても、この子は神に捧げようと思ったのだそうでございます。私の生まれました南インドでは、神に捧げる賛歌の名人がたくさんおりました。それで、八歳になりますと、私は、そうした名人の一人である歌の師匠の家に預けられました。それ以来、歌とヴィーナを友にして生きております」
「なるほど、不思議なこともあるものよのう。何か褒美を取らせよう。何なりと、思うものを言うがよい」
「さて、私には、特に欲しいものはございません。師ニザームッディーンの下での暮らしに満ち足りておりますれば」
ナーラーヤナが、恭しく頭を下げて答えた。
虎が、のっそりと立ち上がってラズィーヤの元に帰っていった。
「さて、欲のないことよのう」
ラズィーヤが、苦笑した。
「ならば、そなたとそなたの師、ニザームッディーン・チシュティーを余の庇護の下に置こう。そなたたち二人は、以後余の治世が続く限り、デリーの地、いや我がアルバリー朝の支配が及ぶ限りの地で安全である」
「有り難き幸せにございます」
ナーラーヤナが、また頭を下げた。そして、ちらりとラズィーヤの傍らの少女を盗み見た。少女は、真っ直ぐにナーラーヤナを見つめていた。動悸が高鳴り、胸が苦しくなった。
「下がって良いぞ」
「御意」
ナーラーヤナは立ち上がり、サラスヴァティー・ヴィーナを抱えて玉座の間から退出した。部屋を出るとき、思わず振り返った。また少女の目と、ナーラーヤナの目が交錯した。心臓が、どくんと跳ね上がった。
2
「ああ、インディラ、あのナーラーヤナ・ダッタという方は、いったいどういうお方なのかしら」
玉座の間から自分の部屋に戻るとすぐに、ムムターズ・ベグムは乳母のインディラに聞いた。インディラは、ムムターズの栗色の髪を整えながら答えた。
「おやおや、お嬢様。確かにさっきの若者は見目はようございましたがねえ。でも、河原乞食でございますよ。スルターンの縁戚に連なるお嬢様が、お気にかけるようなものではございません」
ベグムというのは、トルコ人の高貴な女性に与えられるファミリーネームである。ムムターズは、ラズィーヤの従姉妹オズダマルの娘で、親戚に敵の多いラズィーヤの、ただ一人のお気に入りである。
「まあ、インディラったら、意地悪ね。さっきの、あのすばらしい歌声を聞いて、河原乞食だなんて」
ムムターズが、インディラを軽く打った。頬をぷっとふくらませたその表情が愛くるしい。
「おやおや、お嬢様、あの若者を気に入っておしまいになられたのでございますか? お珍しい。今まで男などには見向きもせずに、ラズィーヤ様だけを見つめていらしたのに。やっぱり、十六にもおなりになると違いますわねえ。大人になられましたわ。でもいけませんよ。身分違いの恋は、破滅の元でございます」
「恋だなんて。そんなつもりはないわ。ただ、あの方の歌をもう一度聴きたいだけよ」
「はいはい。しょうがございませんねえ。では、インディラが、ちょっと調べて参りましょうかねえ」
インディラは、もう四十になるが、ムムターズの乳母を務め、その後も、十六年間ずっとお守り役として側についてきた。ふくよかで、ふんわりした豊満な肉体に、何とも愛嬌のある顔の持ち主で、ムムターズを、自分の実の子供よりも可愛がっている。
インディラが、台所に話を聞きに行っている間、ムムターズは、ベランダに出て、噴水を見下ろした。ムムターズの部屋は、二階にあるのである。一月の庭園には、胡蝶蘭や水仙、ヒヤシンスなど、紫、赤、黄色と色とりどりの花が咲き、小鳥が鳴き交わしていた。冬の暖かい陽光がさんさんと降り注ぐ、インドで最も過ごしやすい季節である。ムムターズは、ベランダの手摺りに両肘を置き、頬杖をついた。
――恋だなんて、そんなつもりはないわ。
もう一度、胸の中でつぶやく。ふと、頬が上気している自分に気がついた。そんな自分の気持ちが捉えきれなくて、ムムターズは困惑した。
どのぐらいそうしていただろうか。ムムターズは、庭園に、この辺りには入ってこないはずのヒンドゥー教徒らしい、鮮やかなピーラー色の上着を見た。はっとしてみると、それはナーラーヤナ・ダッタだった。辺りを見回しながら、何かを探している様子だ。
「ナーラーヤナ様」
ラズィーヤと同じく、真っ直ぐな気性のムムターズは、迷わずに声をかけた。ナーラーヤナが、ムムターズのほうを見た。その頬が、紅に染まるのが見えた。同時に、ムムターズの頬もカッと熱くなった。
戸惑いながら、二人は見つめ合った。何か深い、精神的な交流があった。ナーラーヤナは躊躇いがちな表情で、しかし大胆にベランダの下まで真っ直ぐに歩いてきた。
「ナーラーヤナ様、どうしてこんな処まで? 衛兵に見つかったりしたら、危のうございますわ」
「はい、お嬢様の姿を求めて参りました」
「え、私の」
ムムターズの動悸が、いやが上にも早まった。
ムムターズは、少し甘えを含んだ声を発した。
「ナーラーヤナ様、何か一曲、私のために歌ってくださいませ」
ムムターズがそう言うと、ナーラーヤナはにっこりと白い歯を出して笑った。
手早く調弦を終えると、ナーラーヤナは美と愛の女神、ラクシュミーへの賛歌を歌い始めた。さっきの張り詰めた朗々たる声とは違い、どこか甘やかな声である。その曲の選び方だけで、ムムターズは頬が火照るのを感じた。
演奏は、半ゲリーほどで終わった。
「ナーラーヤナ様、あまり長くいらっしゃいますと、衛兵に見つかってしまいます。いくらスルターンの庇護をお受けとはいえ、衛兵などというものはとかく乱暴なもの。そろそろお立ち去りくださいませ」
こう言われて、ナーラーヤナは去りがたい風情を見せたが、結局素直に従った。ナーラーヤナが歩みかけると、
「ナーラーヤナ様は、どちらにお住まいですの」
とムムターズが訊いた。
「師ニザームッディーン・チシュティー様のお住まいで、師のお世話をしております」
「ニザームッディーン様なら、お名前は存じております。近いうちにお伺いしてよろしいですか」
ナーラーヤナの顔に、ぱっと明るい笑みが広がった。
「よろこんで、お嬢様」
「お嬢様なんて言わないでくださいませ。私はムムターズ・ベグムと申します」
「ではムムターズ様、近いうちにお会いできるよう、神に祈っております」
「私も、近いうちにお会いしたい」
ナーラーヤナは去っていった。鮮やかな、ピーラー色と笑顔の残像を残して。
ムムターズは、また手摺りに両肘を突いて、物思いに耽り始めた。だんだん日が沈んでいった。ムムターズは、日が陰るのにも気がつかないでいる。
「お嬢様、お嬢様、大変でございます」
大慌てで叫びながら、インディラが帰ってきた。はっと我に返ったムムターズは、自分が四ゲーリー(一時間半)以上もぼんやりとしていたことを知った。
「どうしたの、インディラ。あの方のお住まいなんかは分かったの?」
心配そうに、ムムターズが訊くのに、インディラは、「少しお待ちください」と言って、水差しの水を飲んだ。そして、ムムターズの肩に手を置いた。
「大変なんでございますよ、お嬢様。あのナーラーヤナ・ダッタという若者は、アリー叔父様の仇でございます」
「え!」
ムムターズは、両手で口を覆った。
「それは、どういうことなの、インディラ」
「お嬢様も、ラズィーヤ様が御父君イルトゥトゥミシュ様から後継スルターンに指名された後、すんなりと玉座にお着きになれなかったことはご存知でございましょう」
「ええ、もちろん」
ムムターズはうなずいた。
ラズィーヤの父、イルトゥトゥミシュは有能なスルターンであった。アルバリー朝は、北インドに侵入してきたトルコ人、クトゥブッディーン・アイバクがデリーに首都を置いて建てた王朝である。アイバクを始め、代々のスルターンに、解放奴隷が多かったことから奴隷王朝と後世呼ばれるようになる。もっとも、奴隷とは言っても、マムルークと呼ばれる戦士としての奴隷である。手柄を立てて奴隷の身分から解放された後は、貴族に列せられることも多い。そのため、スルターンの位を極める解放奴隷も多かったのである。イルトゥトゥミシュも、そうした解放奴隷の一人であった。
当時、さしも隆盛を誇ったイスラム帝国、アッバース朝も、セルジューク・トルコの侵攻を受け、その命運は尽きかけていた。「千夜一夜物語」の舞台、バグダッドの都を持つアッバース朝。名君、ハールーン・アッラシードの活躍したアッバース朝。それが、巨人が頽れるように、倒れかけていた。このアッバース朝の衰退こそが、たくさんのスーフィー(イスラム神秘主義者)たちがインドに脱出してくる原因ともなっていた。そして、そのことがインドへのイスラム教の浸透を助けてもいたのである。
おりしも、チンギス・ハーンと、その子孫に率いられたモンゴル帝国がユーラシア大陸中に覇権を広げつつあるときでもあった。この危機の時代に、イルトゥトゥミシュは、モンゴル軍に滅ぼされた、同じイスラム教国であるホラズム帝国の皇太子の亡命を断るという英断を下した。イスラム教徒としての名声を考えれば、苦渋の決断であった。しかし、このことが、まだひ弱なアルバリー朝が中央アジアの政争に巻き込まれることを防ぎ、ひいてはモンゴルの侵入を未然に回避することを可能にしたのである。いわば、インドがモンゴル軍に蹂躙されるのを防いだのは、イルトゥトゥミシュだったと言っても過言ではない。モンゴル軍に狙われる危険を防いだイルトゥトゥミシュは、北インドに遠征を繰り返し、その権力基盤を固めた。
このように英明な君主であったにも拘わらず、イルトゥトゥミシュには、一つの大きな悩みがあった。後継者のことである。男児には恵まれていたのだ。しかし、いかんせん質に問題があった。正妻シャー・トゥルカーンには二人の男児があった。だが、長男のナスィールッディーンは若死にしてしまった。次男のルクヌッディーン・フィローズ・シャーは、怠惰で放蕩に耽ってばかりいたので、スルターンの資格はないものと思われた。もう一人、生母が違う三男のクトゥブッディーンは、あまりにも幼すぎた。
しかし、一つだけ救いがあった。また別の女から生まれた娘のラズィーヤである。
ラズィーヤは、幼いときから、特別な王女だった。彼女は、絹や更紗で着飾ることや、ヘナの染料で腕を装飾することが嫌いだった。女らしいベストも着なかったし、ヴェールも被らなかった。代わりに、彼女は男物のコートを着、頭にはターバンを巻き、そして腰には剣を佩いた。彼女は、馬や象の巧みな乗り手だった。その上、彼女は読み書きにも秀でていた。当時のトルコ宮廷の公用語、ペルシャ語の読み書きだけでなく、クルアーン(コーラン)をアラビア語で読むことさえできたのである。
ラズィーヤの父イルトゥトゥミシュは、彼女に、スルターンに必要な全ての資質と才能を見出していた。イルトゥトゥミシュが各地に遠征するときは、ラズィーヤにデリーの統治を代行させていたほどである。こうして、一二三六年四月にイルトゥトゥミシュが天に召されるときに、彼は、ラズィーヤを後継者として指名したのであった。
しかし、イスラム教徒として北インドを支配しているトルコ人の間では、男尊女卑の気風が強かった。中でもチャハルガーニーと呼ばれるトルコ人貴族たちは、女であるラズィーヤの支配下に置かれることを潔しとしなかった。また、イルトゥトゥミシュの正妻で、後宮に隠然たる勢力を持つシャー・トゥルカーンもラズィーヤを陥れるべく、様々な陰謀を巡らせた。
こうした情勢を、ラズィーヤは賢く見て取った。自分が、このままスルターンになってしまうのは危険だと判断したのである。そこで、父スルターン、イルトゥトゥミシュに後継者と指名されてから四日後、ラズィーヤはスルターンの宝冠をシャー・トゥルカーンの放蕩息子、ルクヌッディーン・フィローズ・シャーに譲り渡し、自分はそのまま、後宮に引っ込んだのである。
ルクヌッディーンは、父スルターンが心配したとおりの無能な君主だった。いや、それだけではない。むしろ有害な君主だった。彼の興味は、歌と踊りと道化の笑いと酒、そして何よりも女に集中していた。スルターンとしての施政には、なんの興味も示さなかった。街の中で好みの女を見つけると、強引に掠ってこさせることまでした。
まだ帝国としての基盤が整っていなかったアルバリー朝は、たちまち箍がゆるみ、大混乱に陥った。それぞれ、我と思わん太守たちが反乱を起こした。スルターンに納めるべく徴収されたはずの穀物も、途中で役人たちの懐に入り、デリーには届かなかった。デリーの街の法と秩序は紊乱し、民衆の間には怨嗟の声が上がった。
しかも、ルクヌッディーンとその母シャー・トゥルカーンは将来の不安材料を取り除くべく、まだ幼い異母弟クトゥブッディーンを盲目にさせた上に、謀殺してしまったのである。これには、さすがのラズィーヤも怒った。怒っただけでなく、クトゥブッディーンの運命に、己の未来を見たのである。ラズィーヤは熟慮した。
おりしも、ある土候の反乱を平定するためにルクヌッディーンが遠征して不在となった。その間に、シャー・トゥルカーンとラズィーヤとの間に決定的な不和が生じた。そこでラズィーヤは考えた。シャー・トゥルカーンとルクヌッディーンを除こうと。
イルトゥトゥミシュの時代、庶民は直接スルターンに訴えたいことがあるときには、赤い着物を着て宮廷に来るのが習わしになっていた。ラズィーヤは、その先代からの習わしを利用しようと考えた。
一二三六年十一月の金曜日、クワットゥル・イスラーム・モスクにたくさんの群衆が祈りを捧げようと集まってきた。その群衆たちは、奇妙なものを見た。王宮から、赤い着物を着た女性が歩いてくるのだ。おかしなことだった。赤い着物を着てスルターンに直訴するものは、王宮に向かっていくはずである。どうして赤い着物を着たものが王宮から出てくるのだろう。人々の注目が、その女性に集まった。
その者は、モスクの階段の上に昇り、顔を覆っていたヴェールをさっと脱いだ。
ラズィーヤであった。
「おお、祈りを捧げようとモスクに集まった敬虔なイスラームの民たちよ。私は誰か」
「ラズィーヤ! イルトゥトゥミシュの娘!」
群衆が叫んだ。
「イスラームの民たち。そしてヒンドゥー教徒の民たち、我が兄弟たちよ。聞いて欲しい」
人々は、しんと静まりかえり、ラズィーヤの言葉に耳を傾けた。
「私は、父シャムスッディーン・イルトゥトゥミシュからスルターンの位を継ぐようにとの遺言を受けた。しかし、思うところあって異母兄ルクヌッディーンにスルターンの位を譲った。しかし、その結果はどうだっただろうか」
ラズィーヤの問いかけに、人々は沈黙を持って答えた。ルクヌッディーンの治世が酷いものであることはみなが知っていた。しかし、それを公言することはさすがにはばかられたのである。
ラズィーヤが、続けた。
「ルクヌッディーンと、その母シャー・トゥルカーンは、先日我が弟、クトゥブッディーンを盲にし、それだけでは飽きたらずその命まで奪ってしまった」
群衆はどよめいた。まだ幼いクトゥブッディーンが、そんな残酷な運命を甘受しなければならなかったことが、信じられなかったのである。
「ルクヌッディーンとシャー・トゥルカーンは、次はこのラズィーヤの命を狙っている」
「おー!」
群衆のどよめきはさらに大きくなった。
「我が兄弟たちよ。スルターン、イルトゥトゥミシュの御代を思い起こして欲しい。もしその治世が正しかったと思うなら、どうか私に力を貸して欲しい。正しく、アッラーの前ではみな平等な兄弟となるために、私を助けて欲しい」
群衆は皆、イルトゥトゥミシュの時代のデリーがいかに住みやすかったかを憶えていた。ラズィーヤが父のお気に入りであり、父が遠征していたときにその代行をしていたことも。そして、その時のラズィーヤの見事な施政ぶりも、みな憶えていた。そのラズィーヤを殺そうというルクヌッディーンとシャー・トゥルカーンの企みに、群衆は怒った。その怒りが群衆を一つにした。群衆は、一つの生き物のように、みなでラズィーヤを助けようと決心した。
「私に、父スルターンが望んだほどの、統治の技倆があるのかどうか。それを試す機会を、一度だけ与えて欲しい。そして、もし私がそれに失敗したならば、この私の素っ首を」
こう言いながら、ラズィーヤは、真紅の袖を翻して自分の首に手刀を当てた。
「潔く切り落として欲しい。私は誓う。私が、イスラム教徒、ヒンドゥー教徒、全ての兄弟たちのためのスルターンとなることを」
「おー!」
「スルターン、ラズィーヤ万歳!」
人々は熱狂した。その雄叫びは、クワットゥル・イスラーム・モスクを揺り動かした。
こうして、群衆と共に、ラズィーヤは宮廷に向かって行軍した。そして、シャー・トゥルカーンを捕らえ、幽閉したのである。この時には、さしものチャハルガーニーもラズィーヤの味方をせざるを得なかった。チャハルガーニーも、ルクヌッディーンの施政には、それほど失望していたのである。
ラズィーヤの反乱を聞き、ルクヌッディーンは直ちにデリーにとって返した。こうして、ラズィーヤとルクヌッディーンとの間に、スルターンの位を賭けた争いが勃発することになる。
3
ナーラーヤナとムムターズの出会いからほぼ一年余り前、一二三六年の十一月である。ラズィーヤとデリーの民衆が反乱を起こしたとの報に接したルクヌッディーンは、急いでデリーに向けてとって返した。反乱軍は、ほぼ平定し終わっていた。与し易い相手との戦いにしか、ルクヌッディーンは総大将として出陣しなかったのである。
こうして、ラズィーヤの軍とルクヌッディーンの軍とが、デリーの城門の外で相まみえることになった。
チャハルガーニーを初めとする、ルクヌッディーンをスルターンに推したトルコ人貴族たちも、今はラズィーヤの側についていた。双方共に、数十頭の戦象軍を配し、騎兵、歩兵からなる数万の軍勢が相対した。ラズィーヤは白い馬に、ルクヌッディーンは象に乗り、互いに戦闘を指揮した。
戦象の突進。騎馬武者の突撃。飛び交う矢。槍で、刀で、突き合い、切り結びながら雄叫びを上げる歩兵の群れ。肉が裂け、血が飛び散り、象に踏みつぶされて骨が砕けた。
しかし、勝敗はあっけなくついた。ルクヌッディーンは無能な指揮官だった。対して、ラズィーヤはイルトゥトゥミシュに鍛え上げられた歴戦の女戦士であり、指揮官だった。しかも、チャハルガーニー(四十人)たちの裏切りにより、数でもルクヌッディーンは劣勢だった。暴虐な兄に勝機はなかった。
こうして、ルクヌッディーンは捕らえられ、後ろ手に縛り上げられてラズィーヤの馬の前を歩かせられた。デリーの群衆は、歓呼の声を上げて勝利者ラズィーヤを迎えた。
白馬に跨って、真紅の戦闘服に包まれたラズィーヤは、堂々と素顔をさらして凱旋した。その顔は、勝利の歓びに酔いしれ、輝いていた。両側を埋め尽くした群衆からスルターン万歳の声がかかる。その中を、誇らかにラズィーヤは進んでいった。
と、ラズィーヤの馬前にいきなり一人の男が飛び出した。ラズィーヤの近衛兵たちが進み出て男に槍を突きつけた。しかし、男は、その槍衾を恐れもせずに堂々と立っている。
ラズィーヤは、その男に興味を持った。つかつかと白馬を男の前まで進ませた。
「お主は、誰じゃ」
「はい、スルターン。私はルクヌッディーン様の解放奴隷ラクシュマナ・ダッタと申します。恐れながらスルターン、我が主ルクヌッディーン様は、そのように囚われの身となり、恐らく命はありますまい。そこで慈愛深きスルターン、ラズィーヤ様にお願いがございます」
そう言って、ラクシュマナ・ダッタは片膝を付いた。
「なにとぞ、スルターンの戦士十名と、私とを戦わせてくださいますように。そして、万が一私が全員に勝ちました折には、我が主ルクヌッディーン様を縄から解き放ち、何処にでも追放してくださいますように。伏してお願い申し上げます」
「ほう」
ラズィーヤが、感に堪えたような声を出した。
「そなた、我が兄ルクヌッディーンの命乞いをすると申すか。しかし、このような愚昧な主君に仕えても甲斐はあるまい。どうじゃ、そなたほどの気骨があるなら、余に仕えぬか。思いのままの禄を食ませようぞ」
ラクシュマナ・ダッタは、にっこりと白い歯を見せて笑った。
「暗愚なお方とはいえ、主は主。私が奴隷の身から解放されたのは、ほんの一月前のことでございます。ルクヌッディーン様の気まぐれで、酒席の余興として賭け事が行われました。私ともう一人の奴隷が戦い、勝った方が解放されるという賭でございます。その戦いで、何とか勝ちを得、奴隷の身から自由の身となりました。たとえ酒席の気まぐれとはいえ、恩は恩。このダッタ、一命に代えてルクヌッディーン様をお守りいたす所存にございます」
「見事な覚悟じゃ。よし、誰ぞこの男と剣を交えるものはおらぬか。勝った者には、褒美を取らせようぞ」
「では、私が」
若いトルコ人の貴族が名乗りを上げた。馬から下りて、剣を抜く。一合、二合、あっという間に、逸る若者の剣ははじき飛ばされ、倒れた若者の喉元にラクシュマナ・ダッタの剣の切っ先が突きつけられた。若者の顔面が蒼白になった。ダッタが、剣を引いた。
「見事じゃ」
ラズィーヤが、感嘆したように囁いた。ラズィーヤ軍からも、群衆からもどよめきが起こった。
こうして、ラクシュマナ・ダッタは、六人まで抜いた。七人目に、ついにトルコ人の貴族の中から、歴戦の勇士が名乗りを上げ、馬から下りた。トルコ人貴族たちの間から、希望の嘆息が漏れた。
「我が名は、アリー・マルダーン。今までの雑魚のようなわけにはいかぬぞ」
言うなり、アリー・マルダーンはダッタに斬りかかった。一合、二合。自信ありげに言ったとおりに、アリー・マルダーンは強かった。ダッタとマルダーンは互角に斬り結んだ。
ダッタが振り下ろした剣を、マルダーンが丸い盾で受け止める。すかさずマルダーンが、ダッタの足をなぎ払う。ダッタは回転しながら飛び上がって、マルダーンの剣を避ける。
ダッタは、鷲のごとく舞い上がり、マルダーンの頭に剣を振り下ろす。まるで、剣が風を呼ぶような勢いだった。マルダーンは、かろうじてその切っ先を剣で受け止めた。着地したダッタの足が、思いがけない方向から回し蹴りの要領でマルダーンの頭部を狙った。マルダーンは、飛び退ってそれを避けた。
ダッタのほうが攻勢を仕掛け、マルダーンが何とかそれを避け、受け止める攻防が続いた。しかし、さすがにダッタには、六人を抜いてきた疲れが見えてきた。ダッタの足がよろめいた。すかさず、マルダーンはダッタの懐深く飛び込み、斬りかかった。ダッタが、それを剣で受ける。
至近距離での鍔迫り合いが続いた。双方の双眸から火花が散った。取り巻く群衆も、息をひそめてその攻防を見守っている。互いにかすり傷を負うが、致命傷はない。鍔迫り合いの際に、マルダーンの剣がダッタの目の上をかすめた。流血で、ダッタの視界が曇った。
その血を拭いながら、ダッタが飛び退った。そして、間髪を入れずに逆にマルダーンの懐深く飛び込み、剣を振り下ろした。鋭い音が響いた。マルダーンの盾で受け止められたダッタの剣が、真っ二つに折れていた。
ダッタは、剣を捨て、また飛び退った。そして、ぐっと腰を落とし、右手と右足を後ろに引き、左手と左足を前に出した。カラリパヤットの獅子の構えである。素手になっても戦おうというのだ。
マルダーンが、立ったまま剣を捨て、盾を放り投げた。マルダーンも、素手での組み討ちを受けて立とうというのである。
ダッタが、裂帛の気合いと共に、足を踏み換え、右手の掌底を突きだした。動きがあまりにトルコの組み討ちの技と違っていたので、マルダーンはその掌底突きをまともに左胸に受けてしまった。鎧で守られているとはいえ、心臓の真上である。マルダーンは後ろ向きにどうと倒れた。
ダッタは、立ったまま相手が立ち上がるのを待った。マルダーンが、用心深く後方に退りながら立ち上がる。ダッタは、踏み込みざま足を高く振り上げ、その踵をそのままマルダーンの脳天に振り下ろした。咄嗟に、マルダーンは逆にダッタの懐深く踏み込むんでその蹴りをかわした。そのまま、マルダーンは、ダッタの軸足に蹴りを入れた。今度は、ダッタがどうと倒れた。
マルダーンは、その上に襲いかかった。ダッタに馬乗りになって、顔に拳を入れようとするが、ダッタも上手く回転して馬乗りになられるのを避ける。
お互いが立ち上がろうとする瞬間、ダッタの放った前蹴りが、先ほど掌底突きが入ったマルダーンの胸にまともに当たった。マルダーンが、血を吐いて倒れた。それを見て、ダッタも、ゆっくりと倒れるように跪いた。
近衛兵が、急いでマルダーンの下に駆け寄った。そして、マルダーンの脈を取り、ラズィーヤに向かってゆっくりと首を横に振った。ラズィーヤも息を呑んだ。
「仕方がなかった。殺さなければ、こちらが殺されていた。恐ろしい相手だった」
ダッタの囁きは、静まりかえった群衆の耳にも届いた。ダッタには、もう立ち上がる気力も体力も残されてはいない。それは誰の目にも明らかに思えた。
ところが、ダッタは立った。さっきマルダーンの剣で切られた目の上の傷から、絶え間なく血が流れた。拭いても拭いても、血が溢れ、ダッタは、半ば盲になったも同然だった。それでも、ダッタは気力だけで立っていた。
ラズィーヤの白馬の傍らに、側近のヤークート・ハーンの馬が寄り添ってきた。
「お慈悲でございます。スルターン。このままでは、どんな雑兵でも、あの勇者を倒すことができるでしょう。なにとぞ私にあの勇者を倒させてくださいますよう」
ヤークート・ハーンは、ラズィーヤの武芸の師匠である。黒人であるアビシニア人奴隷であったが、イルトゥトゥミシュにより解放され、貴族に列せられた。ラズィーヤの腹心中の腹心である。
「うむ。頼む。あのまま、あの勇者をなぶり殺しにするのは忍びない。一息でとどめを」
「御意」
「この剣を」
ラズィーヤが、腰の剣を抜いてヤークートに渡した。ヤークートは、その剣を捧げ持ち、馬から下りた。
「勇者ラクシュマナ・ダッタよ。我は、ヤークート・ハーン。ラズィーヤ様の下僕である。我と戦え」
「おお」
ダッタの顔に、歓喜の表情が浮かんだ。そして、ダッタは完爾として笑った。
「さすが、慈悲深いスルターン。このダッタに、最高の死に場所を与えてくださるとは。相手にとって不足はない。いざ」
ヤークートは、つかつかとダッタに近寄ると、ラズィーヤの剣を差し出した。
「スルターンの剣である。これを用いて、存分に」
「ありがたい」
剣を受け取ると、ダッタはそれを構えた。ヤークートも、盾を捨て、剣のみで構えた。
ヤークートが踏み込み、必殺の一撃を加えた。誰の目にも、それを受け止める力は、もうダッタには残っていないと思えた。ところが、ダッタはそれを受け止めた。
一合、二合、三合。ヤークートの顔に驚きの色が走った。ダッタの疲れ切った体の、どこにこれほどの力が残っていたのだろう。
ヤークートは、鍔迫り合いから一歩下がった。そして、鋭く踏み込みざま、必殺の突きを放った。ヤークートの剣が、ダッタの左胸を貫いた。
「ぐ」
呻きながら、ダッタは誇らかに叫んだ。
「クリシュナ神も御照覧あれ。このラクシュマナ・ダッタ、クシャトリヤとしての義務を果たしましたぞ」
こう言うやいなや、ダッタはどうと後ろに倒れた。
「見事! 見事じゃ」
ラズィーヤの目に涙が浮かんでいた。群衆から、思わずため息が漏れた。
「あの者の死体を、丁重に葬れ。最後まで主君に忠実だった勇者中の勇者じゃ」
近衛兵が出て、ラクシュマナ・ダッタの死体を、まるで王者の死体を運ぶかのように運んだ。
こうして、数日後、シャー・トゥルカーンとルクヌッディーン・フィローズ・シャーに死を賜った後、ラズィーヤは玉座に着き、王冠を戴いたのである。
4
「こんな訳でございますよ。そのラクシュマナ・ダッタという男こそが、あのナーラーヤナ・ダッタという少年の父親なのでございます。お嬢様もご存知の通り、アリー・マルダーン様は、お母様、オズダマル様の弟君。ナーラーヤナ・ダッタという少年は、アリー様の仇の子なのでございます」
「でも、それはおかしいわ、インディラ。その話なら、お母様にも聞かされたことがあるけど、ラクシュマナ・ダッタ様とアリー叔父様は、正々堂々の一騎打ちで勝負を決められたのでしょう。御武運あらず、アリー叔父様はお敗れになったけど、どちらも卑怯なことはしていない。私は、アリー叔父様を誇りに思うわ。でも、ラクシュマナ・ダッタ様もご立派な御最期だと思うわ。どちらも、真の勇者よ」
「ああ、お嬢様、ムムターズ様。お気持ちは、このインディラよーく分かりますよ。でも、そのことは、お母様にはお話ししてはいけませんよ。お母様は、今スルターンにナーラーヤナ少年の庇護を解いてくださるように懇願中ですもの。なんと言っても、お母様はアリー様をお可愛がっていらっしゃいましたから」
こう言いながら、インディラは、ムムターズの髪を撫でた。ムムターズの母親のオズダマルは、寡婦である。ムムターズの父は、とうに流行り病で亡くなって、もういない。それで、オズダマルは、今は嫁ぎ先からマルダーン家に戻っている。子供は娘のムムターズのみである。男子を産めなかったオズダマルは、その分弟たちを非常に可愛がっていたのだ。
ムムターズは、インディラの豊満な胸に顔を埋めて、言った。
「分かったわ、インディラ。その代わり、インディラも私とナーラーヤナ様のことはお母様には内緒にしてね」
「もう、しょうがないお嬢様ですこと」
「それでね、インディラ、ナーラーヤナ様のお住まいはどこなの。ニザームッディーン様とご一緒に住まわれていることは分かるけど」
「それがですよ、お嬢様。デリーの中ではないんでございますよ。デリーの城壁の外に、ナーガプル村という小さな村がございまして、そこにお住まいだとか」
「ナーガプル村にはどう行けばいいの」
「インディラにぬかりはございませんよ。丁度、調理場の若い者がナーガプル村の出身だったんでございますよ。ですから、ほら、ちゃんと地図も」
インディラは、何かの茶色い手紙らしいものの裏に書かれた、簡単な地図を、得意げにムムターズに手渡した。ムムターズは、少し眉をひそめながらその地図を見た。
「うん、これなら、だいたい分かるわ。ありがとうインディラ」
こう言って、ムムターズはインディラの額にキスをした。
「でも、お嬢様、いつ、どうやってお出かけになるおつもりです? お母様には、なかなかお許しいただけないと思いますよ」
ムムターズは、にっこりと微笑んで、インディラにウィンクを送った。そして、地図を胸に抱いて、くるりと旋回した。インディラは、そんなムムターズを、心配そうに見つめた。
*
次の日の朝早く、ムムターズはインディラに起こされる前に起き出した。夜着を脱いで、黒いシャルヴァールを穿く。白い更紗のシャツを着て、その上に茶色の革のベストを羽織る。みんな、幼い頃から男装を好んだラズィーヤのお下がりである。栗色の長い髪を上げ、仕上げに白いターバンを巻く。その姿を、姿見に映して、ムムターズは満足したようにうなずいた。そこに立っているのは、どこから見ても凛々しい美少年だった。
手早く、インディラ宛てに、ナーラーヤナのところに行くが夜には戻るから心配しないように、という手紙を書いてテーブルに置いた。
その後、ラズィーヤからもらったたくさんの武具の中から、鉤付きのロープと短剣を持ち出した。短剣を腰に佩く。そして、鉤をベランダの手摺りに掛けロープを垂らした。ベランダを跨ぎ越えると、するするとロープを伝って下に降りる。二、三回ロープを振ると、鉤が外れ、ムムターズの手に収まった。幼い頃から、ラズィーヤに可愛がられ、鍛えられた手練の技である。
そのまま、庭園を外壁に向かって走った。途中、何度か物陰に隠れて見回りの兵士をやり過ごす。外壁にたどり着くと、鉤付きのロープを頭の上でくるくると廻し、外壁の向こうに投げた。鉤は見事に外壁の屋根に引っ掛かった。ムムターズは、猿の子のようにするするとロープを昇り、外壁を跨ぎ越えて外に降り立った。
外壁を乗り越えた、と言っても、それは宮殿を囲む壁を乗り越えたに過ぎない。ここはまだ城塞都市デリーの大城壁の中である。ムムターズは、デリーの市街地を、ゆっくりと歩いた。宮廷近くには、赤い砂岩と白い大理石で造られた貴族たちの豪邸が建ち並んでいる。朝焼けの仄明るい光の下で、赤と白の対照が目映い。左右にその豪邸を見ながら、ムムターズは歩く。まだ夜が明け切ってもいないのに、もう朝食を用意している香辛料や、チャパティを焼く匂いが、ぷんと漂ってくる。早起きの鳥たちが囀っている。
デリーの外れまで来ると、豪邸の姿は消え、泥でできた、草葺き屋根の貧民街が姿を現す。ラズィーヤは、こうした貧民街をも訪れて、住民たちの訴えを直接聞く。ムムターズも、しばしばそのお供をするので、街の様子は良く分かっている。すでに、朝の早い商人たちなどがそちこちに姿を見せている。数十頭の駱駝に、香辛料や更紗、宝石などたくさんの荷物を負わせた大キャラバンも、朝立ちの支度をしている。
デリーの大城壁が見えてきた。大きな城門がある。商人たちに混じってその城門を潜る。幸い、衛兵には誰何されなかった。
城門を出て、ムムターズは、まずデリーの南に聳え立つクトゥブ・ミナールを目指した。辺りはまだ夜が明けたばかりで薄暗い。その中を、一人で恐れげもなく歩いていく。ラズィーヤの治世になってから一年近い。秩序と治安は急速に回復している。とはいえ、やはり女の一人旅は危険である。それなのに、ムムターズは颯爽と進んでいく。
こうして、八ゲリーばかり歩いただろうか。陽もようやく地平線高く昇ってきた。その暖かい冬の日差しの中に、赤砂岩でできたクトゥブ・ミナールの姿が見えてきた。ここまで来れば、目指すナーガプル村まであと二ゲリーほどだろう。
ムムターズは、縁起を担いで、クトゥブ・ミナールの前に立っている鉄柱に赴いた。その鉄柱に背を向けて、手を後ろに思い切り伸ばす。そのまま手を組もうとする。なかなか両手の指先と指先が合わない。もっと力を込めて、ぐっと手を伸ばすとようやく上手く組めた。ムムターズは、思わず快哉を叫んだ。これができたものには幸運が訪れるとされるまじないなのだ。この鉄柱は古いものなのに、不思議なことに錆びない。それが、何か神秘的なものを感じさせて、こうした幸運の言い伝えが生まれたのだろう。
折しも、クトゥブ・ミナールから祈りの時を告げるアザーンの声が聞こえてきた。クトゥブ・ミナールは、東に開口部を持っているので、それを見れば、メッカの方向である西が分かるようになっている。そのキブラを元にして、ムムターズは跪き、礼拝を捧げた。
礼拝も終わり、クトゥブ・ミナールでのおまじないも成功し、ムムターズは意気揚々とナーガプル村めがけて出発した。陽もだいぶ高くなってきたので汗ばんでくる。皮袋の水筒に詰めた冷たい水を飲む。持ってきた干し肉を囓り、水で流し込む。そうして、二ゲリーほど歩いて、ようやくナーガプル村に着いた。
5
ナーガプル村は貧しい村だった。どの家も、泥で壁を塗り、草で屋根を葺いていた。要所要所に、わずかに木材が使ってあるだけである。泥の壁には開口部があり、そこに布を掛けて出入り口にしている。
ニザームッディーンの住まいは、村人に聞いてすぐに分かった。好奇の目にさらされるかと思ったが、ニザームッディーンは、隠れた聖者として一部の人々の間では有名らしい。それで、高貴な身分の者も時折訪れるらしく、村人はムムターズにさほど興味を示さなかった。
その住まいは、いかにも小さく、粗末な小屋だった。
一度深呼吸をしてから、ニザームッディーンの小屋の入り口にかかっている布を跳ね上げた。
「お頼み申します」
言いながら中に入って、ぎょっとした。下帯以外は素っ裸のヨーガ行者が、入り口の正面で逆立ちをしながら瞑想していたのである。両腕の肘から先を交差させ、まるで腕で胡座をかいているような格好をしている。その手の上に頭を乗せ、足は結跏趺坐の形に組んでいる。目をつむって、完全にサマディーの境地にいるようだ。
右手のほうでは、白い髭の老スーフィーが、タスビーフをくりながら、アッラーの名を連続して称えるズィクルを行っている。では、これがニザームッディーン・チシュティーなのだろう。その奥で、甲斐甲斐しく昼餉を用意をしていた少年が振り向いた。
「あ、ムムターズ様、どうしてここへ」
「はい、高名な聖者、ニザームッディーン・チシュティー様に、色々とイスラームの神秘についてお教えを請いたくてやってまいりました」
「お一人で?」
「はい、お転婆なものですから。でも、ナーラーヤナ様、よく私が女子だとお分かりになりましたわね」
「はっは、相手がムムターズ様なら、お顔を全部覆われていらっしゃっても分かります」
若者たちが、他愛もない会話をしているうちに、ニザームッディーンがズィクル(称名)をやめ、ヨーガ行者も目を開けた。ただし、ヨーガ行者はまだ奇妙な逆立ちをしたままである。狭い小屋である。ムムターズが入って四人で、もういっぱいである。
「娘子よ。わしに何を尋ねようというのかな」
ニザームッディーンが白い顎髭をしごきながら言った。少し嗄れ気味の、しかし厳かな感じのする声である。背が高いが、痩身である。
「はい」
ムムターズはすました声を出し、いそいそとニザームッディーンの前に跪いた。
「聖者様、聞くところによりますと、聖者様たちは、様々な奇跡をお起こしになるということでございます。奇跡とは、どのようなものなのでしょう。またニザームッディーン様は、どのような奇跡をお起こしになれるのでしょう」
「はっは、奇跡か。奇跡について話すのは、少し難しいのう」
ニザームッディーンが、声を出して笑った。
「お嬢ちゃんが、奇跡というのは、こういうことかな」
ヨーガ行者が、聞き取りにくいペルシャ語で言った。さっきは、彼から発しているオーラのせいで大きく見えたが、こうして見ると小柄で痩せた男である。声は少し甲高いが、良く通るいい声である。ムムターズが注目したのを見ると、くるりと逆立ちから、普通の結跏趺坐の形になった。
ムムターズは、はっとした。そのヨーガ行者が、地面から半ガズほど浮いていたのである。さすがに剛毅なムムターズも、肝を奪われ、畏怖の念に目を一杯に見開いた。思わず、ムムターズはそのヨーガ行者の前にひれ伏し、額ずいていた。
「せ、聖者様には、なにとぞご機嫌麗しゅう」
声が震えている。
「はっは、そう緊張せぬことじゃ。お嬢ちゃん。肩から力を抜いてな」
そう言いながら、ヨーギンはしずしずと地面に敷いてある粗布に着地した。そうは言われても、目の当たりに空中浮遊という奇跡を見たムムターズは、畏れのあまりに体の震えが止まらないでいる。すると、ニザームッディーンも空中浮遊を実際に行える聖者なのだろうか。
実のところ、ムムターズがここまで歩いてきたのは、ナーラーヤナに会うためである。ニザームッディーンにスーフィーの奥義を教えてもらうため、などというのは口実に過ぎない。それが、今の奇跡を見て、そんな自分の罰当たりな考えが全て見透かされているのではないか、という恐怖感が湧いてきた。ムムターズは、身の置き所がなく、がくがくと震えた。
「気になさることはありませんよ。ムムターズ様」
ナーラーヤナが、優しい声で言った。
「ニザームッディーン様にもチャイタニヤ様にも、この程度の奇跡は奇跡でもなんでもありません。日常茶飯事です。修行の途中に身に付く、ごく当たり前の力なのだそうですから」
「に、日常茶飯事って、そんな」
ムムターズは絶句している。
「ムムターズは、スルターンの宮殿に来るたくさんの聖者様たちとお会いしました。でも、どの聖者様も、口では空中浮遊ができるとおっしゃっても、現実にそれを見せてくださったかたは一人もいらっしゃいませんでした」
「それは、そうであろうのう」
悠然と、ニザームッディーンが答えた。
「元来、我々修行者の目的は神にお会いすることじゃ。決してカリフやスルターンにお会いすることが目的ではないのでのう」
ニザームッディーンは髭をしごいた。見事な白髭である。
「なのに、現世の名利を求め、カリフやスルターンに阿るものは、真のスーフィーではない。まして、聖者などではないことは確かじゃからのう」
「はい」
「時にムムターズとやら、神にお会いしたことはあるかな」
「め、滅相もございません。アッラーのお顔など、拝見したことはございません」
「わしはなあ、ハッジじゃ」
イスラーム教徒には、メッカ巡礼が義務づけられている。しかし、この時代のようにイスラム世界が広がってしまうと、メッカ巡礼は容易なことではない。それで、メッカに巡礼したものはハッジと呼ばれ、尊敬される。
「じゃがのう、カーバ神殿に赴き、黒い石に口づけしても、そこに神はおわさなんだ」
「はい」
カーバ神殿の古い壁の隅に、黒い石が嵌め込まれている。巡礼者は、それに口づけをして、七回神殿の周りを回るのである。
ムムターズも、今は真剣に瞳を見開いてニザームッディーンをひたと見ている。しかし、ニザームッディーンは何を言いたいのだろう。神は天国にいらっしゃるに決まっているではないか。
「ならば、神は天におわすのか。いやいやそうではない」
「え、アッラーは、天上におわすのではないのですか」
「違う」
ニザームッディーンは、はっきりと、にべもなくムムターズの幼い感想を否定した。
「ならば、アッラーはどこにおわすのでしょうか?」
「それを知ることこそが、スーフィーの修行じゃ。そして、そこのヨーギン(ヨーガ行者)、チャイタニヤ・デーヴァは、同じ修行をヒンドゥー教徒のやり方で行っておる」
「え、私たちムスリムの修行と、ヒンドゥー教徒の修行が同じなのですか?」
ムムターズは、いかにも解せない、という表情をした。圧倒的に多数のヒンドゥー教徒を支配する、選ばれたトルコ種族の矜持がかいま見えた。その顔を見て、ナーラーヤナが笑った。
「ムムターズ様、私もヒンドゥー教徒でございますが、シャイフ、ニザームッディーン・チシュティー様の弟子でございますよ」
話の展開が、ムムターズの理解の範囲を超えた。ムムターズは、途方に暮れた顔をして座っていた。