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 窓は切り絵のように、桜の影を写している。いや、本当の影は私たちなのだ。午後二時の眩しさは、惜しみなく白い花弁を反射させた。風が吹く度に身震いする白樺は、その輝く欠片を音もなく舞い上がらせ、散らせる。

 光が溢れる無音を、ガラスで隔てた室内は暗くて、眩しさに慣れてしまった目は、昼間なのにお互いの顔も認識できなかった。

 もし私が猫ならば、こんな役立たずの虹彩を持っていなかったのに。

 悔しい訳ではないけれど、私は漠然と劣等感を抱えた。猫になりたいと、前にエダが言ったせいだった。そうじゃなければ、空想の猫に負けただなんて、そんな狂ったこと、考える訳がない。

 二人きりの教室で、私はエダの髪を撫でながら、自分に言い訳をしていた。正確には、明るい茶色い髪が緩やかにくねるのを、私は指先で辿っていた。

 私の足に広がる、その甘い香りのする髪は、エダが息を吐く度に私の膝を擽っていた。私の太ももに顔を埋めて、エダの顔は見えなかった。ただ吐息の浅さから寝てはいないことはわかった。何も言わずに私に身を預けている。

 彼女はもうすでに猫のようだと私は思った。私は休まず、その毛並みを、彼女が嫌がるまで撫で続けた。エダの柔かな、軽い肌触りの髪を押さえつけて、乱してしまうことを、私は何より恐れていた。

 名前が嫌だ。会って二日目にエダは言った。おばあちゃんみたいじゃん、おエダさんでしょ。エダはふてくされて、グロスで濡れた唇をすぼめた。その肉の歪曲を目にした瞬間に、私は彼女をエダと呼びたい衝動を、永遠に箱にしまうことに決めた。

 私は高校の三年間において、そう多くない彼女の名前を呼ぶ機会に、いつも唾を飲み込むことにしていた。そうやって一度息を止めなければ、私の唇は冷静に彼女の名字を呼んで、淡い親愛の笑みを浮かべることができなかった。

 彼女を見かける度に、彼女を呼び止める度に、私の内側は狂い、泣きながら彼女の名前を叫びたくて、震えるのだった。


 エダ。時代錯誤なその名前は、私にはひたすらに美しかった。


 目の大きな南国風の顔立ちも、柔らかな肉を纏う大人びた体つきも、校則破りの明るい髪も、何もかもが眩しくて仕方がなかった。彼女の纏う、何処か型外れな自由な空気は、レトロなその名前に、異国情緒を持たせていた。他の誰かがその名前を呼ぶ度に、彼女の髪を大陸の熱風が撫でているようだった。

 エダは何にも従わない。彼女にとって教師とはつまらないことを気にする男で、校則とは高校生を説明しただけのパンフレットだった。授業は子守唄であり、読書の際のBGMであり、時折面白いことを言い出す番組の一つであった。

 彼女は酷く不真面目であったが、理性に満ちた態度と瞳が、大人たちに彼女を劣等生と認識させるのを思い止まらせた。けして成績が優れてはいないのに、質問者の心情を先読みするために、馬鹿ではないと思わせるのだ。私は、彼女が教師をやり込める度に自分のことのように笑みを浮かべた。

 いいえ、先生。貴方は正しい。エダは馬鹿です。でも貴方の方が、エダよりもっと、馬鹿なのです。

 そう思うことは、教師と目が合っただけで思わず息を飲んでしまう私にとって、最高に気持ちのよい悪行であった。

 エダはしばらく、私の膝に甘えて横たわっていた。誰もいない空き教室の、机の波の中、丸く空いた床に、へたり込むように沈んで、私は桜を眺めながらエダの頭を、幼子をあやすように撫で続けていた。春休みの学校は、静かで、いつもは部活生の声が遠く聞こえるのに、それすらも今は途絶えて、卒業式の今日は流石に皆部活どころじゃないのかしら、などと他人行儀に考えていた。

 今日を過ぎれば、この昭和からデザインの変わらない制服を着ることもないし、校舎をぶらつくのさえ、教師に許可を求めなければならなくなる。それは自由であり、待ち望んでいた解放であるのに、何故だか、もう知らないよと放り出されたような、寂しさと不安と、大人の身勝手さを感じさせるのだった。

 もう知らないよ、勝手にしなさい。私たちは今日を限りで他人になるのだから、明日以降貴方のことなんか忘れることにするよ。これから先、貴方が何処で何をしようと私が心を動かすことはないし、私がどうしようと、貴方が望まぬ限り、きっと知ることはないでしょう。

 あんなにもざわめいていたはずの世界は静かで、二人きりになったようだった。エダの髪の匂いを指に映しながら、床に座ったお尻が冷えていくのを、私はゆっくりと感じていた。


 日が傾き、私の身体がすっかり冷えてしまってから、エダは起き上がった。スカートの皺のついた頬を擦って、擦ってからチークが落ちてしまったことに不機嫌そうに眉をしかめる。エダはありがとう、と小さく礼を言って私を睨み、爪先を蹴るように教室を出ていった。

 彼女が出ていくのを私は見送っていた。遠ざかる足音が、耳で捕まえられなくなるまで私は座り込んでいた。もう戻ってこないのを確信してから、スカートを払って立ち上がり、痺れた足を引きずるように、遅れて部屋を出た。

 部屋を一歩出ると、夕暮れが、廃墟のような校舎を赤く塗り潰していた。昼間はあんなに温かかったのに、傾きかけた太陽は熱を忘れて、セーラー服の内側を鳥肌立たせた。緩く吹いた風が悪寒と甘い匂いを呼ぶ。エダの残り香だ。鮮やかな髪のシャンプーの匂い。私は溜め息を落とし、自分の指を咥えた。

 靴箱に向かいながら、私は浅はかな期待を抱えてエダの気配を探したが、既に彼女の靴箱は空になっていた。私は靴箱の上に置いていた鞄を取り、ローファーを履いて、上履きを綺麗にしまって、代わりに携帯を取り出した。着信が一件と、メールが一通。いずれも差出人は同じだ。メールは、自分の所在地と一言の命令のみが、無愛想に書かれたのみだった。

 いつものファミレス。来い。

 私は指をしゃぶりながら携帯を閉じて鞄にしまい直した。




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