06/眠り姫
朝、クリスより先に起きた僕は、クリスの安らかな寝顔を堪能…もとい、朝食の用意をしていた。
昨日の約束でコーヒーを飲んでもらう事になってるからね。
王様の食卓みたいになったテーブルを前に、かいてない汗を拭う仕草をした。
ふと外を見て時間を確認する…それが無意味である事にすぐに気付いた。
外は相変わらず赤い夕暮れ色をしており、細い三日月はやはり満ち欠けなく同じ位置と同じ形を保っていた。
僕はため息とともにクリスから与えられた眼鏡をずり下げた。
するとどうだろう。辺りは何故か暗やみに包まれた。
広い床と、王様の食卓みたいなテーブルに椅子。それを残して壁が消えた。
一つ、瞬きをする。
すると、テーブルも椅子も消えて、上下がハッキリしないマーブル状にうねる空気と、長い絨毯を降り曲げた道と階段が幾つもの扉と繋がっている。
再び眼鏡を元に戻し、度のないレンズ越しに見ればさっきまでと同じように、広い食堂に大きな窓と相変わらずな外の風景がある。
「すごいねぇ」
思わず声がこぼれた。
ここが何処だと考えるのすら馬鹿馬鹿しいく思える。
…外も含めてこの一帯はクリスの魔力で作られた疑似世界なんだ。
よくあるだろう?
本の中に異世界があるとか、小箱の中に小さな町があったとか。
どれも魔女の魔法が作った物なんだ。
ここが木のウロの中なのか、豪勢なお城なのか。
本当の所はこっちの世界に呼び出された僕にも分からない。
あ、でも。
クリスの世界(魔法で作った疑似世界って事ね)を出た一般的に物質界と呼ばれる所は、もちろん普通に太陽が沈み月が昇って…また朝が来てを繰り返す。
魔女はたくさん居て、僕みたいに名前を知られてしまった悪魔が魔女の下僕として駆けずり回っている。
魔力の無い者はひっそりと魔女と関わらないように暮らしているらしい。見た事ないけど。
…どうこう言っても、僕はこっちの世界の住人じゃないから詳しい事は知らないけどね。
さて、仕方ないので僕は壁に掛かってる時計を見た。
7時ちょっと過ぎくらいかな。
…早いかなぁ。でもご飯冷めちゃうし。
いーや。
行っちゃえ。
寝てたら寝てたでクリスの可愛らしい寝顔をまた見に…もとい、起こそうかな。
と、食堂の扉から出たとこでクリスとはち合わせた。
起きて来たクリスは、眠たそうな目を擦りつつ、ネグリジェのまま廊下をふらふら歩いていた。
「お早うクリス」
「…だぁれ?」
舌足らずに、子供みたいな声を上げる。
「おーい。クリスぅ?」
パタパタ目の前で手を振ってみせると、クリスはくいっと首を右に傾げた。
クリスってば、寝ぼけた仕草もそうだけど、顔立がお人形さんみたいに可愛いから、ぎゅっとしたくなってしまう。
――今なら出来るかも。
ふと、そんな言葉が頭に浮かぶ。
浮かんでしまえばやらずには居られない。
僕は刺激を与えないように慎重に近づいて行って、そろりと腕を伸ばした。
夢か現か判断のつかない内に、ぎゅーっとやっちゃお!
抱きしめるまで…30センチ…20…13…。
ぱち!
後10センチを切った時になり唐突にクリスは両目を見開いた。
「げっ」
その形のまま固まってしまう。
ここまで来たら、やっちゃえば良かったのに、何故か酷く罪悪感を感じてしまい、動けなかった。
「…何してるのよ」
見開かれたはずのクリスの両目が、ナイフのように細められていく。
「分かってるでしょうね?」
「ひっ。それだけは勘弁して!」
「駄目よ。命令に背きし悪魔ジルバールに《罰》を与えん!!」
瞬間、僕の全身に電撃が走る。
指の先からつま先まで…いや、髪の毛の一本一本が痺れ、雷の蛇がのたくったように痛みだす。
「うぎゃぁぁあああ!!」
死に際のような断末魔を上げて、僕は床をのた打ち回った。
力ある魔女に名を呼ばれ、罰をくらうと、悪魔にとっては死に等しい苦痛を味わう事となる。
ましてや、クリスは普通の魔女の比じゃないほどの魔力の持ち主。
魂が四散してしまうんじゃないかと思うほど強烈だ。
そう、精神を直接捻り巻き、引き延ばして絞り上げられていく感じ…物質界の人間にはこの苦痛を理解できないように思う。
ぱん!
クリスが両手を打ち合わすと、雷撃はピタリとやんだ。
ようやく痛みから解放された僕は、力無くぐったりと床に転げた。
「これに懲りて、妙な事を考えるのはよしなさい」
「…はい。すみませんでした…」
今や、完全に目が覚めたクリスはパチンと指を弾いた。
するとネグリジェが一瞬で魔女の服に替わる。
黒一色に、上下が分かれたワンピース風の服に、裏地が赤い短いマント。
頭には三角帽子で、月をあしらったアクセサリーが添えてある。
服のブローチが星形だからそれに合わしたらしい。
小柄なクリスには子供っぽいくらいが欲に合ってる。
…でも。
――ちぇ。これじゃあ《あ、ごめーん☆覗くつもりなかったんだけどぉ〜》なんて事もできやしないや。
「…ジルバール。もう一度《罰》を受けたいの?」
しまった。心の声が顔に出てたらしい。
僕は引きつった顔をしてぶんぶん首を振る。あんな痛い思いは二度とごめんだ。
クリスはフンと鼻を鳴らすと、僕を押し退けて、食堂の窓に向かった。
「出掛けてくるわ」
僕は不思議そうにクリスを見つめた。
「あれ?昨日も出たじゃないか」
悪魔と契りを交わしていない限り、魔女は眠りによってのみ魔力を得る。
だから、この屋敷にもベットがいくつもあるし、魔女が500年間も眠り続けたなんて話もざらにある。
逆に言ってしまえば、寝なきゃ生きていられないんだ。
魔力が尽きる時、それは命の終わりを指す。
今まで会った魔女は、普段はふつうに寝起きするけど、昼寝は欠かさなかった。
クリスは昨日、朝からどこかに出かけて、ずいぶん暗くなってからゲッソリして帰ってきた。
少なくとも昼寝した様子はない。
…魔女として、明らかに睡眠不足のはずなんだ。
なのに、今日も朝から出かけようとしている。
悪魔の僕から見たってその行動は非常に不自然としか言いようがない。
「クリス、大丈夫?」
「あなたには関係ないわ」
突き放したような物言いをする。
冷ややかで、背筋が凍りついてしまうような声で。
…何よりも、クリスの可愛いらしい顔からは全てを拒絶するかのように表情が失われていく。
「クリス…一体何があったんだ?」
「あなたに関係ないと言ってるでしょう」
話はこれでおしまいとばかりに、クリスはきびすを返した。
窓辺へと、ほうき片手に向かっていく。
僕は慌ててクリスを呼び止めた。
「待ってよ、クリス!」
「しつこい!」
「昨日、コーヒー飲んでくれるって言ったじゃん!!」
短いマントの端っこを掴んで僕は泣きついた。
そのために早起きしたし、もしかしたら朝食を食べてくれるかも♪と淡い期待で、ご飯作ったのにぃ。
「いらな…」
僕が涙目になってクリスをじぃと見つめる。
クリスは拒絶を言い掛けた口を閉じて、仕方なさげにため息を吐いた。
「…コーヒーを飲むだけよ?」
「やったぁ!」
僕は飛び跳ねるくらい、満面の笑みを浮かべてみせた。