02/名前のチカラ
与えられた服に袖を通し、髪を整えた。
ちなみに、この度の入っていない眼鏡は魔女の趣味らしい。
「そこに掛けなさい」
「はい。マスター」
魔女に指定されたテーブルの向かいに腰を下ろす。
魔女は片手で頬杖をつきながら、もう片手で向かいの僕を指した。
「今からここで暮らす内での制限をいくつか出すから、それに従いなさいジルバール」
「はい。マスター」
「まず、家からは出ない事。仕事部屋以外なら自由にして良いわ」
一見、不自由そうな制限だけど、何百年も小さな小箱の中でふたを開けられる日を永遠待ち続けていた時を思えば、何て良い条件なんだろう。
僕はにこやかに頷いた。
「はい。マスター」
「…それと、面倒でもその人形みたいな返事の仕方はやめなさい。そうね、敬語を無しって事にするわ」
そういえば、はい。マスターとしか言ってない気がする。
「うん。判ったよマスター」
「それから、私の事をマスターとかご主人様とは呼ばないで」
「じゃあ、何て?」
「クリスでいいわ。もちろん様は無しよ」
僕は目を丸くする。魔女が自ら名前を出すなんて思いもしなかった。
《名前》はたとえ嘘でもその存在を指すものであり、僕の居た世界ではもっとも力を持つ。
このクリス(まあ、偽名だろうけど)の名を使い、反撃だって出来るのに。
僕が驚いているのを見て、魔女は皮肉げに唇を引き上げた。
「安心なさい。偽名程度の《力ある言葉》なら、私の魔力で十分に防げるもの」
「なるほど。自信があるんだね。理解した」
「最後の約束ごとよ。食事は決まった日に私の血を与えるから、そういう行為はしない事。ジルバール、これは絶対に守りなさい」
「そういう行為?」
僕はちょっとからかうように聞き返した。
「H禁止」
彼女は恥じらいもなくキッパリはっきり言い切った。さすが魔女だ。
「判ったよ」
まぁ、契約するための呼び出し(行為をして契りを交わすと、悪魔の力を魔女に与える事が出来る。
契約した魔女は今までとは比にならないほどの力を得るが、死んだ後の魂は悪魔に喰われる。
悪魔にとって魔女の魂は不老長寿の秘薬だ)ではないし。
一番腹が膨れるんだけど、魔女の血を飲めるならさして変わりはない(健康薬だね)。
「以上よ」
「僕は家事をしてれば良いのか?」
「何もしなくて良いわよ」
「ただ居るだけ?」
「そうよ」
「ぼーっと座ってるだけ?」
「退屈なら、ボードゲーム…チェスでもやっていると良いわ」
「遊んでて良いの?」
「ご自由に」
正直、クリス(そう呼べとの御命令だ)の考えている事は理解に苦しむ。
悪魔の僕を呼んだのに、ただ何もせずにそこに居ろって、どういうつもりかな。
かえって不気味でならない。
「えっと…掃除したり、ご飯を作るのは自由にしていい?」
「仕事部屋以外なら、自由にして良いと言ったはずよ」
仕事部屋…ねぇ。いかにも何かがありそうだ。
「判ったよ」
ま、いろんな意味でね。
「話しはこれでおしまい。私は外に出るから、大人しく待っているのよ」
「うん」
僕が頷いたのを見て、クリスは席を立った。
虚空に手をかざすと、そこにキラキラした光の粉が舞い落ちて、やがてホウキの形に変化する。
クリスはホウキを掴むと扉には向かわずに、窓辺に足を向けた。
開け放たれた窓からは外が見えた。
薄暗い黄昏の赤に似た空が永遠と広がり、黒い影の鳥が羽ばたいて、三日月がナイフで切りつけたような細長い穴を作っている。
――魔界と物質界の狭間、そんな感じだ。
「行ってらっしゃい、クリス」
「ん」
クリスはこくりと頷くと窓辺を飛び立っていった。