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春、あなたに出会う。

数ある作品の中からこの話を選んでいただきありがとうございます!

「ねえねえいいじゃんか〜。ちょっとお茶飲みに行くだけだって〜。」

「人を待っていると何度言ったらわかりますか?とにかく無理です。」

「そのお友達が来るまででいいからさ〜!あ、なんならその子も一緒にどう?」

 四月の中旬、よく晴れた気持ちのいい日に、私はしつこくナンパをされていた。

 今日は大学時代からの友達である紗奈と遊びに行くことになっていたのだが、紗奈が寝坊してしまったらしく、私は一人待ち合わせ場所で待っていたのだけれど。

 ここまでしつこいナンパは初めてかもしれない。

 いつもは人を待っていると数回即答で答えれば相手が諦めてどこかへ行ってしまうのに、今日はもうその言葉を十回は言った気がする。それなのに男たちは一向に立ち去る気配がない。

 さすがに困っていると、頭の上から声が降ってきた。

「その子、俺の彼女なんだけど。ナンパとかしないでくれる?」

 彼氏?恋人を作った覚えはないのだけれど。ああ、私を助けてくれたのか。彼の言葉にナンパ野郎の表情が一気に引きつる。

「チッ。なんだ彼氏持ちかよ。それならさっさと言えよな!」

 そういって男たちはあっという間に見えないところまで走っていった。

 助けてもらったお礼を言おうと顔を上げた途端、私の心臓がどくん、どくん、と早鐘を打ち始めた。なんとも言えない高揚感のようなものが体の中で広がっていく。

 少女漫画だったらここで恋に落ちるのだろうが、今はそんな場合ではない。

 やっと見つけた。あの子の仇!十年近くも探し求めた、私が世界で最も憎んでいる人物。今までは全然見つからなかったのに、まさかこんな形で見つけられるとは。

 私のそんな燃え上がるような思いも、相手は当然知るはずもなく、「大丈夫でしたか?すみません、勝手に恋人を名乗ってしまって。」と爽やかな笑顔を向けてくる。

 あの子を奪っておいてのうのうと生きていることに心底腹が立ったが、ここで会えたことはチャンスだ。このまま距離を縮めていけば、復讐を果たすことができる。

 憎らしいという感情を必死に抑えながら、なんとか笑顔でお礼を言う。

「いえいえそんな、助けていただきありがとうございます。今日はこの後友達との予定があるので無理なのですが、今度きちんとお礼をしたくて…。あなたが嫌でなければ、お茶でもいかがですか?って、ごめんなさい。私の方がナンパみたいになってしまいましたね。」

 もちろんお礼と言うのはこの男と繋がりを作るための建前だ。そして、最後に少しの自虐を入れることでそんなものはナンパに入らないと言わせ、相手を断りにくくさせることができる。

「そんなのナンパに入りませんよ。ぜひ、お茶させていただきたいです。あ、それなら連絡先を交換しなければいけませんね。ライン…でいいですか?」

 ほら、やっぱり。多少の話術で相手は思い通りに動いてくれる。

 連絡先を知ることができれば、会えたことだけでも進展なのに、それはさらに大きなものになる。ラインなんてアイコンや背景で個人情報がわかりやすいものなら尚更だ。断るわけがない。

「構いませんよ。では予定は、また後で決めましょうか。」

「そうですね。では、僕もこの後予定があるので、また。」

 ラインを交換した後、彼が軽く手を挙げたので私もそれに倣った。

 ついに、見つけたんだ。それに繋がりまでできた。そのことに私はとても興奮していた。数年の出来事で、一番嬉しいかもしれない。

 あの子を失ってから、私の心は復讐一色に染まっていた。でも、問題は復讐相手がどこにいるのか分からなかったことだ。

 名前や顔は知っていた。だけど、どこにいるのかがずっと分からなかった。ことが起きたのは3月の末で、あの男はすぐに高校へ進学してしまったため、どこの高校を受験したかも知らなかった私は彼の行方を知る術などなかった。

 顔と名前を脳裏に焼き付け、どこにいく時もその姿を探していた。そして今日、彼は私の前に突然姿を現した。

 この世に神様がいるならば、これは神の導きということになるのだろう。復讐相手と巡り合わせてあげるから、思う存分復讐してみなさいと、背中を押してくれているのだ。そんな馬鹿な考えが浮かんでくるほど、私は浮かれていた。

「お〜い翠〜!ごめん、結構遅れちゃった。」

 軽く舌を出しながら駆けてきた紗奈の声で私は我に帰った。そこで左手にはめられた二つのブレスレットを強く握りしめていたことに気づく。左手首にはブレスレットの細い跡がついていた。心が不安定になったとき、このブレスレットを無意識に握りしめることが癖のようになっていた。

 復讐のことで頭がいっぱいいっぱいになっていた私は、なんとかそれを頭の隅に追いやる。今日はせっかく紗奈と出かけられる日なのだ。社会人になってからというものの、なかなか予定が合わなくて二ヶ月に一度くらいしか会うことができない。

 紗奈は私の唯一の親友だ。あの日から心を閉ざした私に、根気よく話しかけてくれたのは紗奈だけだった。紗奈といる時間がなによりも楽しい。

 今だけは復讐のことを忘れて、ただ楽しもうと思う。

「いいよいいよ。誰かさんはしょっちゅう寝坊するから、待つのは慣れてるしね。」

「うぅ…。それはほんとごめんって。それにしても翠、なんかいいことでもあった?」

「え、なんで?」

「だって、翠が私に気づく前から頬が緩んでたからさ。一人のときに翠が笑ってるなんて珍しいんだもん。だからなんかいいことでもあったのかなーと思って。」

「いいことというか、紗奈を待っている間にしつこくナンパされちゃってさ、困ってたらある男の人が助けてくれたの。」

「え!何その漫画展開!ついに翠にも春が…!お母さん感動だわ。」

「紗奈に育てれた覚えはないんだけど。まあでも、ほんと漫画みたいな展開だった。」

「それからそれから?」

「ちゃんとお礼したかったしお茶行きませんかっていって連絡先交換した。」

「翠が、男の人と連絡先を交換!?やるじゃん!そのまま付き合っちゃったりして!」

「ないない。向こうはモテそうな雰囲気出まくってたし、私のことはただ困ってたから優しさで助けただけで、私のことなんて眼中にないと思うよ。」

 これは本心だった。憎たらしいことにあの男は顔も悪くないし、皆に平等に接するため、かなりモテているようだった。

 しかし私は彼の最低な本性を知っている。今回私を助けたことも、どうせ周りの評価をあげるため、つまり点数稼ぎに過ぎないのだ。

「でもお誘い乗ってくれたんでしょ?それに翠ってめちゃくちゃかわいいからもしかしたらお相手さんにも気があったりして…!」

「私がかわいい?紗奈がかわいいならわかるけど私がかわいいなんて初めて言われたかも。」

「そんな私がかわいいだなんて照れちゃう…じゃなくて!ほんとにないの!?一度も?」

「ないない。今日紗奈に言われたのが初めてよ。」

「まじ!?翠ってほんと顔綺麗で整ってるな〜ってずっと思ってたんだけど。とにかく翠のことはなんでも応援するからね!」

「応援って。まだ何もなってないってば。」

「そんなのわかんないじゃん!やっと翠に春が来るかもしれないのにさ。」

「まったく。そろそろ予約時間になっちゃうから早く行くよ。」

「あぁ!話逸らした、ってちょっと待ってってば〜。」

 紗奈がいつまで経ってもからかってくるので、私は紗奈を置いてすたすたと歩き出した。

 予約していたカフェに入り、名前を告げて席まで案内してもらう。

 席について注文し終えたあと、私たちはまた話し始めた。

「私のこと散々言ってたけど、紗奈はどうなの?前にちょっと気になってる先輩がいるって言ってたじゃない。」

「じ・つ・は〜、今度一緒にディナー食べに行くんだ!」

 紗奈はうれしそうに笑っている。こういう屈託のない笑顔が紗奈が人に好かれる理由なのだろう。かくいう私も紗奈のいいところと言われて真っ先に思いつくのはこの笑顔だ。

「え!よかったじゃない!いつの間に進展したの?ちょっと前までは声もかけられなかったって言ってたのに。」

「前に先輩と一緒に作業する時があってね、その時にわからないところとか教えてもらって距離縮まったんだ〜!」

「付き合ったりはしてないの?」

「まだ勇気が出なくてさ〜。でもでも、今度の食事は先輩から誘ってくれたから、もしかしたらって期待してるんだ!」

「それはたしかに脈ありかも。おめでとうだね、紗奈!」

「まあまだ決まったわけじゃないんだけど、でもやっぱそうだよね!脈あるよね!ほんと食事に行く日が翠と会う日と同じくらい楽しみだよ〜。」

「そこは何よりも楽しみ、とかでしょ。」

「だってだって、翠と会うのも超楽しみなんだもん!」

「はいはいありがとね。私も紗奈と会うのが毎回楽しみよ。」

「さてはからかってるな〜?」

「本心だって。」

「ほんとに〜?まあでも私たち親友だもんね!」

「ふふ、そうね。」

「あー!翠が笑ってるし照れてる!激レアなんだけど!写真撮っちゃお。」

 紗奈が一瞬でスマホを取り出し、次の瞬間、カシャカシャとシャッターボタンを押す音がなった。

「もう、やめてよ。」

「えへへ。だって翠がこんな顔するのほんとにレアなんだよ?一枚に絞るから、ね?」

「……一枚だけだからね。」

「いいの!?やったー!」

 私は紗奈のこの純粋な目に弱い。餌を欲しがる犬のような、まっすぐで曇りのない純粋な目で見られるとついなんでもかんでも許してしまう。

 私の笑顔の写真を手に入れられたのがよっぽどうれしかったのか、紗奈はスマホを眺めてニコニコしている。その姿がなんだかかわいくて、また笑ってしまった。

「翠がまた笑ってる!シャッターチャンスだ‼︎」

「一枚だけって言ったでしょ。もうだめよ。」

「うぅ、はーい。それにしても翠がこんなに笑うなんて珍しいね。あ、もしかして明日隕石とか降ったりするのかな!?」

「失礼ね。私も笑うくらいするわよ。」

「ほんとに〜?まあいいや。それよりそれより、話したいことがいっぱいあるんだ!なかなか予定が合わなくて今回は結構時間空いちゃったでしょ。だから話したい欲求が止まらなさすぎて大変だったよ〜。」

「そんなに話したいなら、週に一回ぐらいは連絡は取り合ってるんだから、その時に話せばいいじゃない。」

「それはそれ!これはこれ!だよ!やっぱほんとに話したいことは会って話したいじゃん?ってことで今日は語り明かしちゃお〜!」

 まるで子供のように目をきらきらと輝かせながら紗奈が宣言した。

「今日は長くなりそうね。お店にも迷惑がかかるし、ある程度時間が経ったら久しぶりに私の家でいいなら来る?」

「え、いいの!?いくいく!よーし、そうと決まれば夜までたくさん話そうね!」

「ええ、そうね。今日はたくさん話そっか。」

 その後、私たちは朝方近くまで様々なことを語った。

 お互いの近況、趣味の話、元同級生の噂話など、その話題は尽きることがなかった。

「ふぅ〜、つっかれた〜!って、もうこんな時間!?もっと話したかったのに今日午後から予定ある!もう翠と喋りたいから行くのやめようかな…。」

「そこはちゃんと行ってね。私は今からちょっと寝ようかな。紗奈もちゃんと仮眠とりなよ。」

「わかってるって。ふわぁ。名残惜しいけど、眠たすぎるからそろそろ帰るね。」

「うん、それじゃあね。ばいばい。」

「ばいばあい!また予定合ったらご飯行こうね!」

 そういって紗奈は去っていった。つい盛り上がって徹夜をしてしまったため、体がだるい。

 私も寝ようとベッドに入ると、スマホがピコン、という音を鳴らし、ラインの通知が来たことを知らせた。

 誰かと思いすっかり睡眠モードに入っていた私は重い体を起こし、目をこすりながら画面を確認した。

 その瞬間、私の眠気はどこかへ消え去ってしまった。

 紗奈と過ごす時間が楽しくて忘れてしまっていた。あの男と連絡先を交換したことを。震える指を押さえながら、内容を確認する。

『昨日はあの後大丈夫でしたか?今更ですが自己紹介をするのを忘れていましたね。私の名前は鳴島恭也といいます。そちらの名前を伺ってもよろしいでしょうか。』

 自己紹介、か。私は向こうの名前を知っていたから何とも思わなかったが、たしかに昨日名前を名乗った記憶はないし、名乗られた覚えもない。

『その節は助けていただき本当にありがとうございました。たしかに自己紹介を忘れていましたね。私の名前は、藤咲翠といいます。』

『藤咲翠さん…。いい名前ですね。この前会ったばかりですが、あなたにぴったりな名前だと思いますよ。』

 はっ、いい名前?苗字を聞いても何も思わないってことは、やっぱりあの子のことなんてもう覚えてもいないのね。散々あの子を絆して裏切ったくせに、覚えてもいないなんて。

 最低な性格は変わっていないようで安心した。これで心置きなく復讐を進められる。

『そう言われると少し照れてしまいますね。でもお世辞はいらないですよ。そういうあなたのお名前もかっこいいと思います。』

 こんな奴にたとえお世辞だとしてもかっこいいだなんて言葉を使いたくはなかったが、これも全て復讐のためだと思えば容易に耐えられる。

『そんなかっこいいだなんて。そちらこそお世辞はいりませんよ。早速ではあるのですが、お茶の件はいつ頃にしますか?私の方は今月は休みの日も仕事の予定が入っていて無理なのですが、来月ならまだどこでも空いています。』

 お世辞はいらないといいながらどうせ悦に浸っているのだろう。それに休みの日にも仕事が入るなんてずいぶん出世できたものだ。

 しかし、外面がいいこの男なら上司に取り入るのは朝飯前のようなものだったのだろう。

『来月なら一番早くて十日の日曜日が空いているのですが、そこで大丈夫ですか?』

『大丈夫ですよ。店はどこがいいでしょうか?お恥ずかしいことに、カフェなどにはあまり詳しくなくて。できれば藤咲さんのおすすめの店を教えてくれると嬉しいのですが。』

 カフェに詳しくないというのは意外だった。彼なら色々な人にそういったところに誘われ、それに全て乗っているイメージがあったから。

 でもよく考えてみれば、それはあくまで誘われたからついて行っているだけであって、自ら出向いているわけではないのだ。仕事も忙しいらしいので、さほど興味もなく、自分で調べて行くほど暇がないのだとすれば、カフェに詳しくないということも納得できる。

『そうなんですね。それなら、喫茶「Aria」という店はどうでしょうか。周辺の地図や簡単な店の情報ををお送りしますね。』

 そう言った後、ネットから地図と店の情報を拾ってきて送信する。喫茶「Aria」は、私の行きつけの店だ。あの男と初めて会う場としては丁度良い。

 おそらく場所を確認した後にどんな店なのかを軽く見ていたのだろう。次の返信が来たときにはすでに五分近くが経っていた。

『いいお店ですね。時間帯はいつにしましょうか。』

『そうですね。十一時頃がいつも空いていますよ。よければ予約もお取りしましょうか?』

 空いている、というのは正確に言うと少し違う。喫茶「Aria」は一年間の中で五月十日のみ、いつもは十一時半に開店するところを十時に店を開け、その代わりに早めに店を閉めるのだ。

 しかしこの法則を知っているものはほとんどおらず、十一時ならば店内には誰もいないことがほとんどなのだ。

『いいんですか?ありがとうございます。店も予約も任せてしまって。』

『いえいえ、そもそもは私が誘ったのですから当然です。それじゃあ、五月十日の日曜日、十一時で予約しておきますね。集合場所はカフェの前で大丈夫でしょうか。』

『大丈夫です。ほんとうに何から何までありがとうございます。ではまた、十日の日曜日にお会いしましょう。今日はこの辺で失礼します。』

『ええ、ではまた。私も失礼します。』

 鳴島恭也とのやりとりが終わり、私はふぅー、と長めに息を吐く。また、ブレスレットを握りしめていたことに気づいた。徹夜の眠さも相まって、とても疲れていた。

 復讐相手とやり取りをしているだけあって、常に気を張っていてしんどい。

 あの男の言うことは全て信用してはいけない。どうせほとんどが嘘なのだ。心にもないことを平気で言うような人間だ。

 それにしても、ラインのやり取りだけでこんなに疲れていて食事は大丈夫だろうか。

 もちろん今日は徹夜の疲れも混じっているのだろうが、それでも疲れてしまったことに変わりはない。

 人を憎み続けることがどれだけ疲れるのかということは、これまでで嫌というほど思い知らされた。何もできないのだから尚更だ。

 いつ終わるかもわからないこの復讐を、何度か辞めてしまおうかとも思った。全て捨てて、あの子と同じ場所に行ってしまおうかと。

 でも、そんなことは許されない。私はあの子の死を止められなかった。

 憎み続けて復讐するということが、私が自分自身に課した罰だった。現実から逃げず、忘れたい記憶に向き合い続けることが一番辛いことだと思った。

 そしてそれは当たっていた。今でもあの出来事は、呪いのように私の体の中にどろどろと渦を巻いている。

 生きるのがしんどくても、復讐のためと耐えて生き抜いた。それを何度も繰り返しているうちに、いつしか復讐を遂げることが生きる理由になっていた。

 私は復讐のためなら手段を問わない。たとえ私が死ぬことになろうとも、復讐だけは必ずやり遂げる。

 時計を見るともう朝の七時になりかけていた。今度こそ寝ることにする。私の眠気は限界に達していた。

 ベッドに入り、目を閉じると十秒もたたないうちに私は眠りについた。


 翌朝、今日は月曜日なので、会社に行く準備をする。

 昨日はあの後五時間ほどがっつり寝てしまったため夜にあまり眠れず、まだ少し眠い。これは生活リズムが戻るまでに時間がかかりそうだ。

 服を着替え、朝ごはんを食べて歯を磨き、身なりを整えて家を出る。

 私は今有名なIT企業の会社で受付嬢をしている。どうして私がそんな大手に勤めているのかというと、私が入社したときには実はそこまで会社自体大きくなかったからだ。私が入社してから一年近く経った頃に大きなプロジェクトが成功し、一躍有名になったのだった。

 会社に就職したのが有名になる前で本当に良かったと思う。倍率が低かったのもあるけれど、入ってきた子たちはあまりの仕事の多さに驚愕し、慣れない仕事をなんとかこなしている。その点私はもともとある程度の業務は頭に入っていたので、忙しくはあったがそこまで大変ではなかった。

 満員電車に揺られながら会社へ向かう。大きな自動ドアを潜って更衣室へ行き、制服に着替える。

 私は大抵、受付嬢の中では朝一番に出勤するようにしている。なんとなく、この誰もいない空間が好きなのだ。

 今日の大まかなスケジュールを確認し、表へ出る。

 今日は三件の訪問が入っているので、会議室の予約が重なっていないかなどの最終確認を行う。今日はまだ仕事量は少ない方で、来月の中旬あたりから今度は他社と共同で行う大掛かりなプロジェクトが始まるらしいので、その時期になれば今とは比べ物にならないほど忙しくなる。

 プロジェクトが始まるのが来月で良かったと思う。まだ少し落ち着いている今の時期に、新人の教育をしておくことができる。前の時は年が明けてからプロジェクトが始まり、成功に至ったのは四月になってすぐのことだった。そのため新入社員の教育期間と重なり、会社全体が激務に追われていた。

 そんな前回の失敗も踏まえたのかはわからないが、とにかく今の時期に新人の子達には早急に仕事を覚えてもらわなくてはならない。プロジェクトが始まるまで一ヶ月を切っている。時間は意外ともうあまり残されていないのだ。

 簡単な事務作業を行なっているうちに、何人かの社員が出勤してきた。その中には私が教育係を任されている瀬野さんもいた。

 瀬野さんが「おはようございます!」と元気よく挨拶をしてくれたので、わたしもそれに「おはよう。」と笑顔で返す。

 瀬野さんはやる気があるとてもいい子で私は正直すごく助かっている。去年担当した子は無愛想で中々いうことを聞いてくれず、苦労したものだ。その子は結局辞めてしまったのだけれど。

 その点瀬野さんは愛想も良く、仕事もバリバリやってくれているので教育はほとんど完了していた。

「翠先輩、いつも朝早いですよね!何時くらいにきてるんですか?」

「そうだねえ、八時過ぎくらいには会社についてると思う。」

「八時過ぎ!?早すぎないですか!そんなに早くきて何をしているんですか?」

「うーん、簡単な事務作業とかかな。時間がある時とかにやるものなんだけど、あの誰もいない空間がなんとなく好きでね、朝が一番捗るの。」

「その気持ちちょっとわかります!!なんか誰もいない時って妙に集中できますよね!それにしても、なるほど事務作業かあ。いつもやってる業務とは、また違ったりするんですか?」

「似てるのは似てるんだけど、また少し違うのよね。説明するのは難しいんだけど。」

「そうなんですね。私もそれ、やってみたいです!」

「そう?じゃあ今日はそこまで忙しくないし、時間ある時やってみようか。」

「ほんとですか!?やったー、楽しみです!そうと決まれば頑張って他の仕事手早く終わらせちゃいますよ〜!」

「それは頼もしいわ。でも無理はしないでね。」

「わかってますよ〜!早速取り掛かります!」

 そう言って瀬野さんは真剣な表情でデスクに向き合い始めた。瀬野さんのこの無邪気さがなんとなく紗奈に似ていて、つい可愛がってしまう。私はもしかしたらこういうタイプの子に弱いのかもしれない。

 そんなことを思いながら、私も通常の業務に取り掛かることにする。

 しばらくすると、一つ目の訪問の予定が入っている会社の人物だと思われる三十代後半らしき男と、五十手前らしき男が入って来た。そして三十代後半らしき男のほうが受付の方へと足を向け、私の席の前で足を止めた。

「株式会社コンフィットの細田です。」

「株式会社コンフィットの方ですね。お待ちしておりました。今から担当のものが向かいますので、第一会議室にて少々お待ちください。第一会議室には、そちらにあるエレベーターで三階に上がった正面にございます。」

 男は了解の返事をした後もう一人と合流し、第一会議室へ向かって行った。私は電話で担当の部署に来客がきたことを伝える。この会社では最初に来客に対応したものがその後のお茶出しなども行う決まりになっている。そのため一つのデスクには常に二人着くようにしている。その方が教育もしやすいという利点もあるからだ。

 私もお茶の準備をしてから第一会議室へ向かう。ドアをノックして「失礼いたします。お茶をお持ちしました。」と言い、ドアを開けて中に入る。机にお茶を並べ、「失礼いたしました。担当のものが来るまでもうしばらくお待ちください。」と言ってから部屋を出る。ちょうどエレベーターで社員の人にあったので会釈をしておいた。

 デスクに戻り、業務を再開する。少ししたらお茶を入れ替えにまた会議室へいかなければならないので、作業をしながらも腕時計をチラチラと確認する。

 十五分ほど経ってから、新しくお茶を入れて会議室へと足を向ける。

 話が少し途切れたところで、部屋の外から声をかける。

「お話中失礼いたします。新しいお茶をお持ちしました。今、入ってもよろしいでしょうか。」

 そう言いながら、ドアノブに手とかけておく。

「ええ、構いませんよ。」

 と言われたので中に入って冷めたお茶を新しいものに変えてから「失礼いたしました。」と言ってデスクに戻る。そのまま少し作業をしていると、また来客が私のところへやってきた。さすがに二つの来客を対応するのは大変なので、ここは瀬野さんに任せて私は後ろに下がる。

 ハキハキと愛想良く接しているのをみて、やっぱりこの子は受付嬢に向いているなと思った。底なしの明るさを持ちながら、丁寧に仕事をこなしてくれている。

 しかし、今日はどちらにも来客の相手が回ってきてしまったので、朝に言っていた事務作業を教えるのはまた今度になりそうだ。

 そして私の予感はあたり、今日はなかなか時間を作ることができなかった。仕事が終わってからそのことを謝ると、「全然気にしてないですよ〜!むしろ忙しいのに時間作ろうてしてくれてめちゃくちゃ嬉しかったです!」と言われ、本当にいい子だなと思った。

 明日は必ず時間を作って教えてあげようと心に決め、私は帰路についた。


 昨日そんな決意をしたものの、どちらかの手が空いている時はどちらかが立て込んでいるなどしてなかなか時間がなく、結局教えるのは一週間と少しが経った今日になってしまった。

「ごめんね、瀬野さん。教えるって言ってたのにずいぶん遅くなっちゃって。」

「いえいえ全然!教えてくれるだけでめちゃくちゃ嬉しいです!ほんとにありがとうございます!」

 そう言ってはくれているけれど、やはり申し訳ない気持ちは強い。それに、教えると約束をしたのだから教えるのは当然で、お礼を言われるようなことではないと思う。

「先輩としてやって当たり前のことをやっているだけだからお礼を言われるようなことはしてないわよ。まあ、早速やってみよっか。」

「はい!」

 すぐに教えてあげられなかった分、丁寧に心を込めて作業内容を説明していく。瀬野さんはときどきメモなども取りながら、真剣に話を聞いてくれた。仕事をする時と休憩時間のメリハリがキッチリしているところが瀬野さんの良いところだと思う。

 三十分ほどかけて説明し終え、瀬野さんはそのまま作業を続けるということだったので、私は通常業務に戻る。

 その後、特に来客が私のデスクに来ることもなく、私も結局は瀬野さんの作業を手伝うほどに時間を持て余した。最近忙しかったせいかその日の業務を早めに終わらせる癖がついてしまったので、余計に暇だったのだ。

 久しぶりに定時に帰ることができたので、家にある余り物の食材で自炊をすることをする。残業をしていたり、定時に帰れてもいつも以上に疲れていると、健康にも良くないとわかっていても、つい出前をとってしまう。最近はそんな日ばかりだったので、今日は出来る限り健康に良さそうなメニューを作ることをする。

 米を炊いた後、野菜や肉を切って熱したフライパンの中に放り込んでいく。じゅうじゅうと食材が焼ける音と、良い匂いが漂ってくる。軽く味付けをし、皿に移すと洗い物が増えて面倒なのでフライパンを皿代わりにして食べることにする。こういう時に、小さめのフライパンにしておいてよかったなと思う。

 丁度炊飯器からご飯が炊けたことを知らせるアラームが鳴ったのでご飯もお茶碗によそい、手を合わせて食べ始める。

 食べている途中に今更ながら汁物を忘れていることに気がついた。今から作るのも面倒だったので、レトルトの味噌汁で済ませることにした。

 お腹いっぱい食べ終わり、少し休憩してから洗い物をする。といっても、フライパンとまな板、お茶碗と味噌汁の椀と箸くらいだったのですぐに終わった。

 風呂を沸かしてからソファに寝っ転がってだらだらする。こんなにゆっくりできたのは本当に久しぶりだ。今日は早く寝ることにしよう。

 それにしても、あと数日で四月が終わると思うと、やはり時の流れは早いなと思う。来月からは忙しくなることが目に見えているので、今みたいにゆっくりする暇はなくなるだろう。

 そうこう考えているうちに風呂が沸いたので、シャワーを浴びて身体を洗ってから長めに湯船に浸かる。湯船に浸かるとあらゆる疲れが吹き飛んでいく。

 散々堪能した後風呂から上がり、さっさと寝る準備をしてベッドに入る。すぐには寝付けなかったが、気づいたら眠りに落ちていた。


 夢を見た。昔の夢だ。私はまだ高校生で、友達と遊んできた帰りだった。家に帰ると、あの子に屋上に行こうと誘われた。屋上は私たちのお気に入りスポットで、二人でよくそこで遊んだ。だからその日は特に気にしていなかった。だけど今の私は知っている。その後どんな悲劇が起こるかを。行かせてはならない、行ってはならないとわかっていながらも体が言うことを聞いてくれない。

 見えない力に引っ張られていくように、気づいたら屋上に着いてしまっていた。そして記憶通りに、あの子は私に手紙とブレスレットが入った封筒を渡し、「ずっとずっと味方でいてくれてありがとう!ずっとお姉ちゃんのことだけが心残りで、やっぱり寂しくて、勇気が出なかったけど。でもね、もう限界になっちゃったの。ほんとにごめんね。ずっと大好きだった。ほんとにありがとう!これからもずっとずっと大好きだよ。私はお姉ちゃんのこと、絶対に忘れないよ。私が消えたとしても、ずっと感謝してるし、大好きだから!だから、私がいなくても幸せになってね。私はずっとお姉ちゃんの幸せを願ってるから!絶対幸せになってね!そして、ばいばい。」と、泣き笑いの表情で一思いに言った後、屋上の低いフェンスを越え、地上という奈落の底に落ちていった。

 私は必死で食い止めようと慌ててフェンスから身を乗り出し手を伸ばした。しかし、その手は後一歩のところで届かず、私は絶望のどん底に突き落とされた。

 ああ、守れなかった。あの子のことを、一番近くで見ていたのに。あの子の悩みも、知っていたのに。いや、知らなかったんだ。ここまで追い詰められているだなんて知らなかった。私はただ自惚れていただけだった。あの子の全てを知っていると。私は泣き続けた。

 警察に保護されたらしいが、どうやって署までいったのか全く覚えていない。事情を説明しろと言われても、私自身整理がついていなく、どうしてそうなったのか理解できていなかったため、答えようがなかった。

 刑事の男があの子死に際にくれた封筒を出してきた時に、死に物狂いで取り返そうとしたことは覚えている。それだけは触らないでと喚き、なんとか返してもらえた。

 一旦帰宅した後、やっと心が落ち着いてきた。それと同時に広がる深い絶望。あの子がいなくなったことで、私の世界は色を無くした。私もあの子と同じところへ行こうかとも思った。あの子の死を止められなかった自分に腹が立った。

 刑事から取り返した封筒の中身を確認してみる。ブレスレットは私とお揃いで買ったものだった。それ以来、私は自分のものとあの子のもの、二つとものブレスレットを身につけていた。

 手紙の方には、あの子が自殺した理由や、私への感謝や自殺することへの謝罪が綴られていた。それを読んで思ったのだ。あの子をこんな目に合わせたものどもに復讐してやろうと。あの子は何も悪くないのに、苦しんで、追い詰められた。明るく純粋だったあの子の心を翳らせ、自殺にまで追い込んだ奴らを、この手で復讐してやろうと思った。

 復讐すると言うことは、私にとっても罰になると思った。楽しみを全て忘れ、復讐に人生を捧げ、そのまま朽ちていく。あの子を守れなかった私にはそんな人生がお似合いだ。あの子は私に幸せになってほしいと言ったが、私に幸せになる資格があるとは思えない。復讐はエゴだとわかっていても、意味がないとわかっていても、この気持ちは止められなかった。

 そこまでいったところで目が覚めた。パジャマは汗でぐっしょり濡れていた。言うまでもなく、今日の目覚めは最悪だった。ここしばらくはこんな夢を見ていなかったのにどうしてだろうか。仕事の忙しさがひと段落し、脳の関心が無意識に鳴島恭也のことへ向いたのか。

 時間を確認すると、まだ五時前だった。正直そのままベッドで横になっていたかったが、もう一度寝られる気もしなかったので仕方なく重い体を起こす。汗でベタベタして気持ち悪かったので、軽くシャワーを浴びることにした。

 熱湯に打たれながら今朝の夢について考える。あの子、葵は天真爛漫でいつも明るい私の妹だった。葵は私によく懐いてくれていて、そんな葵を私も可愛がっていた。

 全てが狂い出したのは葵があの男、鳴島恭也と出会ってからだ。葵は鳴島のことを好きになったようで、私ももちろんその恋を応援していた。少しすると、二人は付き合い始めた。葵にとっての初めての恋人だった。私もまるで自分のことかのように喜んだ。

 葵と鳴島が付き合い始めて二、三ヶ月ほど経った頃、歯車は狂い始めた。二人はいつも一緒に帰っていたのに、鳴島に今日は一緒に帰れないと言われたらしいのだ。葵は鳴島が所属しているサッカー部のマネージャーをしていたので、部活が終わる時間がズレたわけでもない。急に言われたことだったらしく、葵は鳴島のことを怒らせてしまったのかもしれないと落ち込んでいた。

 そしてその日から、葵はずっと鳴島に避けられるようになった。葵が話しかけようとしても、無視されどこかへ去って行き、その時は必ずと言っていいほど一人の女子の元へ行っていたようだ。

 その女の名は、荒木梨々香。彼女は家が少し金持ちだと言うことを鼻にかけ、スクールカーストのトップに君臨していた。

 そんな彼女は鳴島のことが好きだったらしく、度々葵に嫌がらせのようなことをしていた。しかしそれは幼稚なものばかりだったので、葵も耐えていた。だけど、あの女は一線を超えた。鳴島に無視され始めてから二週間ほど経った頃、私達は見てしまった。鳴島と荒木が一緒に帰っているところを。荒木は私の隣に葵もいることを確認すると、これ見よがしに鳴島の腕に抱きついた。

 その場では我慢していたようだが、家に帰ると葵は涙をこぼし始め、自室にこもってしまった。

 葵から恋人を奪った荒木も最低だが、それに乗っかる鳴島の方も私は許せなかった。しかし、葵はあのようなことをされても鳴島のことを想っていたらしく、当事者である葵が何もしないと決めたため、私はそれに賛同するしかなかった。

 葵が自殺したのは、その数週間後のことだった。人前では何でもないように笑っていても、一人部屋で声を殺して静かに泣いていたのを知っている。時には慰めたりもした。何も聞かず、ただ背中をさすってそばにいたりして。でも、それでは足りなかった。私自身も大学受験を控えていて、自分のことで精一杯な部分もあった。葵の心をケアしきれなかった。

 許せなかった。葵を追い込んだ奴らも、自分自身も、全部。この世の全てが憎く感じた。

 荒木にはもう復讐した。慈悲をあげる必要もないと思ったから。荒木には美菜という姉がいた。そいつがたまたま同じ大学にいたため、近づいて仲良くなった。もし家族がとてもいい人で、復讐するにはかわいそうだったらどうしようかと思ったが、そんな必要はなさそうで安心した。やはり血は争えないのだろう、美菜もあの醜い性格がそっくりだった。荒木にどう復讐してやろうか随分悩んだが、美菜の話を聞いていると、どうやら親がやっている事業が怪しいことに気づいた。本人は何も気づかずに自慢げに話していたようだが、所々に犯罪になりかねないような内容が含まれていた。

 うまく誘って荒木の家に行き、トイレに行くふりをして書斎らしき場所に入った。家だから安心だとでも思っているのか、馬鹿なことにセキュリティはガバガバだった。今日は親がいないということを美菜から聞いていたので、遠慮なく机の引き出しなどを漁っていく。流石に重要な書類はパソコンの中かもなと思いながら三つ目の引き出しを開けた時、不正や犯罪の証拠となる書類が大量に出てきた。まさか本当にあるとは、と思いながら全ての書類を写真に収め、書類を元の位置に戻してから書斎を後にした。

 家に帰ってから、情報を全てネットに流した。あの時の私の行為も、決して良いものとは言えない。むしろほとんど犯罪だ。でもこの世はそんなことは気にしない。みんな噂話が大好きで、面白い話題があればすぐに食いついてくる。情報源がどうかなんて誰も気にしない。警察でさえも、その情報が本当であれば公開した人物を捕まえたりはしない。なんなら身元が判明していたなら感謝状を送るかもしれない。

 今まで散々金持ちだと威張ってきたくせに、親が実は犯罪者で捕まったとなれば、その末路は言わずとも察しがつく。美菜も笑い物にされ居心地が悪くなったらしく、大学を辞めていった。

 荒木の問題が解決したら、今度は鳴島だ。鳴島の件は死ぬほど悩んだ。葵は鳴島のことを最後まで愛していたため、荒木のように苦しませるのも気が引けた。散々悩んだ末、殺してしまえばいいじゃないか、という結論に至った。どうしてすぐに思いつかなかったのだろうか、と自分が馬鹿に思えた。殺せば鳴島は葵と同じところに行く。罰はそこで葵に決めて貰えばいい。殺すときは痛みを感じる暇もないほどにはやく、楽に逝かせてあげよう。苦しませたら、葵が悲しむかもしれない。いや、そもそもこの復讐という行為自体、葵は望んでないんだろうな。わかっていても、この気持ちは止められない。もう後戻りはできない。ごめんね、葵。幸せになってねって言ってくれたのに、約束を守れなくて。復讐という意味のないことしかできない私を許してほしいというのは、流石に自分勝手だろうか。

 シャワーを止め、脱衣所で体を拭いてから服を着る。

 その日はなんだか一日中上の空で、仕事中も瀬野さんや上司に心配されてしまった。


 家を出て、気持ちよく晴れた空を見上げる。もう五月に入って二週間も経っているのが驚きだ。地球温暖化のせいなのだろうか、長袖だと少し暑く感じる。

 最近は鳴島と会うことで頭がいっぱいだった。そして今日が、約束の日。ついに、あいつと一対一で話す時が来た。

 最初は警戒されないよう、ゆっくりじわじわと距離を詰めていくつもりだ。向こうが忘れているのならそのまま進めた方がいい。下手に気付かれたら鳴島は私の行動を不審に思うだろう。元恋人の姉が、自分のことを知っているはずの人間が、特に何も言うことなく自分に近づいてきているのだから、当たり前だ。

 だから、こうなった以上は決して勘付かせてはいけない。葵のことを、一瞬たりとも思い出させてはいけないのだ。

 私の顔が父に似て、葵の顔が母に似たせいもあってか、あまり容姿が似ていると言われたことはない。だが、ふとしたところで思い出す可能性は十分にある。身につけているもの、何気ない仕草。藤咲という少し珍しい苗字を聞いても思い出さないぐらいだから大丈夫だとは思うが、用心しないに越したことはない。だから今日は、手首まできっちり隠れる長さの服を選んだ。葵と私の、二つのブレスレットを隠すために。

 外して行こうかとも考えたが、やはり大事な場面だからこそ、これは身につけていたい。それに、この時期ならば喫茶「Aria」では扇風機くらいは既に付いているはず。今日はお茶をするだけの予定のため、少し厚めの長袖でもなんとかなるだろうと思い、ブレスレットをつけていくことに決めた。

 店の前に着いたところで時間を確認すると、約束の十一時までまだ十分余りあった。思ったよりも早く着いてしまった。前回は急な出来事だったし、お互い急いでいたためすぐに別れてしまった。そのため、ちゃんと会うのは今日が初めてなのだ。そんなことをぐるぐる考えて緊張しすぎていたのかもしれない。

 頬をパチンと叩き、気を引き締めたところで、鳴島が小走りでこっちに向かってきた。

「すみません、待たせてしまいましたね。」

 息を整えながら、鳴島が話しかけてくる。

「いえいえ全然。私が思ったより早く着いてしまったんです。それに、待ったと言っても二、三分ですし。」

「それでもやはり外は少し暑かったでしょう。今日はとてもいい天気ですからね。長袖だと余計にです。ほんとにすみません。」

「全然気にしてませんから、大丈夫ですよ。それより、早く中へ入りましょう。」

 そういって私は少し強引に鳴島の手を引きながら店のドアを開ける。カランコロン、と音が鳴った。正直言って、私は暑くてたまらなかった。いくら袖の長い服が少し厚めのものしかなかったとはいえ、五月の太陽の光が燦々と降り注いでいる今日に、この服を着てきたのは間違いだったかもしれない。

 店内に入ると、私の期待通りに扇風機が回っていた。レトロな雰囲気の中で、真新しい白い扇風機だけがぽっかりと浮いているようだ。それに、室内だと太陽の光が遮られていてそれだけで外より随分涼しい。鳴島は急に手を掴まれたことに少し戸惑いながらも、そのまま着いてきてくれた。

「マスター、久しぶり。最近来れてなくてごめんね。」

 カウンターに立っていたマスターに話しかけると、彼は顔ををこちらに向けた。顔つきこそは怖いが、意外と面倒見が良く優しい一面もある。

「ああ、翠ちゃんか。いらっしゃい。今日は珍しく予約だったから何事かと思ったら、なんだそういうことなら早く言っておくれよ。」

 どうやらマスターは私たちを恋仲だと勘違いしたらしい。まあ、久しぶりに店に来たかと思えば男を連れてるんじゃ誤解されても仕方ない。

「ちょっとマスター、私たちそんな関係じゃないから。」

「おや、そうなのかい。そりゃあ残念だ。まあだがそっちの若い兄ちゃんも、ゆっくりしていくといいさ。好きな席に座りな。」

「じゃあ鳴島さん、テーブル席の方へ行きましょうか。」

「ええ、わかりました。」

 いつもならカウンター席に行くところだが、今日は訳が違う。マスターとは仲がいいからこそ、近くで見られているというのはやりづらい気がしたのだ。

「改めて、先日はありがとうございました。」

「いえいえ、たまたま通りかかったときに困っていそうだったので声を掛けてみただけです。絶対にうまく行くとは限りませんでしたし、礼には及びません。」

 そう言いながらも、どうせ困っている人を助けたという自分に酔いしれているのでしょう、という言葉は心の中で押さえつけ、顔にはいつもの笑みを貼り付ける。

「困っている人を助けるだなんてそうそうできることではありませんよ。ところで、休日もお仕事が入ることがあるということでしたが、何をされているんですか?」

「仕事はIT企業でエンジニアをしています。株式会社トライトインという会社なのですが…。」

「エンジニアですか。すごいですね。株式会社トライトイン…どこかで聞いた気がするんですが…。あ、今度私が勤めている会社と共同プロジェクトをすると言っていた会社!超大手企業じゃないですか。」

「勤めている会社…ということは株式会社アルドルの方だったのですか。」

「そうです。といっても、私は受付嬢の身なんですけどね。それに、入社したのも会社が大きくなら前ですから、たいしたことはないんですけど。」

「そんなことないですよ。あの会社は受付嬢の仕事量が多く、激務に疲れて辞める人も多いというようなことをよく聞きます。そこでやっていけてるんですから十分すごいと思いますよ。」

 そんな適当な褒め言葉で相手が堕ちるとでも思っているのだろうか。まあ、ここでは距離を詰めるために騙されたふりをするのだが。

「そんな、お世辞は結構ですよ。でも、この仕事をやっていてすごいと言われたのは初めてかもしれません。なんだか照れてしまいますね。」

「お世辞だなんてそんな、本心ですよ。」

「ところで、鳴島さんは今度の共同プロジェクトには参加されるのですか?私はあくまで受付嬢なので、内容に関してはあまり詳しくはないのですが。」

「実は、そのプロジェクトの副リーダーに任命されまして。大きな仕事になる分、やはり不安が多いですね。」

 へえ、休日にも仕事してるって聞いた時から思ってはいたけれど、やはり仕事は結構出来るみたいね。それに、副リーダーを任されるということは、上司からも評価されているということ。私の想像よりもずっとうまくやっているのかも。

「副リーダーですか!?鳴島さん、まだかなり若い方ですよね?それでそんな大きな役割を任されるなんてすごいじゃないですか。頑張ってくださいね、応援してます。」

「ありがとうございます。そろそろアルドルの方にも出向くことが増えそうですから、もしかしたら会社でお会いすることがあるかもしれませんね。」

 そうか、この男が副リーダーになったということはこれから頻繁に会社に訪れるということ。これは鳴島に一気に近づくチャンスかもしれない。

「たしかにそうですね。会社へお越しになさるのをお待ちしていますよ。」

 少し微笑みかけると、一瞬、鳴島の顔が驚きに染まった気がした。しかし、瞬きひとつした直後にはいつものヘラヘラとした笑みが浮かんでいた。動揺したように見えたのは、私の気のせいだろうか。

「あの、藤咲さん。嫌でなければ、翠さん、と下の名前でお呼びしてもいいですか?」

「構いませんよ。むしろ大歓迎です。私も下の名前でお呼びしても?」

「ええ、お互い下の名前で呼び合いましょう。ふじ、あ、いえ、翠さん。」

「ふふっ、まだ慣れませんね。鳴島さ、あ、恭也さん。」

「お互い様ですね。」

 そう言って私たちは笑い合った。

 その後一時間ほど話した後、鳴島と別れることになった。

「今日は本当にありがとうございました。とても楽しい時間を過ごせました。よければ、またこうしてお茶しませんか?」

 次会う約束をどう取り付けようか迷っていたら、まさか向こうから誘ってくるなんて。もちろん、断る理由はない。

「奇遇ですね。丁度私も同じことを考えていたところでした。予定などはまた、連絡しますね。」

「ええ、そうしましょう。今日は送っていかなくて大丈夫ですか?」

「平気です。家も近いので。それでは、また。」

「はい、また。」

 お互いに軽く手を挙げ、それぞれ逆方向に歩き出す。私は少し行ったところでUターンし、喫茶「Aria」へと戻る。ドアを開けたときに鳴る聞き慣れたベルの音が、私の心を落ち着かせてくれる。

「マスター、ちょっと付き合ってくれない?」

「おや翠ちゃん、戻ってきたのか。いつも来てくれてるからな。コーヒーぐらいなら、サービスするぜ。」

「ありがと。今日はお客さんいないみたいだったし、最近は全然行けてなかったからね。」

「そんなことはないさ。翠ちゃんがこの店一番の常連だよ。で、わざわざ戻ってまで来たってことは、なんか悩みでもあるんだろう?」

 どうやらマスターには色々と勘付かれているらしい。流石にあの男が鳴島だってことまでは気づいてないだろうけど。

「マスターにはほんと、敵わないよねえ。今日連れてきた男、いるでしょ。あの人なの、葵の元彼のクズ野郎。」

「あの若い兄ちゃんがか?そうかそうか、お前さん、ずっと探してたんだろう?」

「そうよ、見つけるのに相当苦労しちゃった。この前街中でしつこくナンパされてね。そのときたまたま通りかかったみたいで恋人のフリして助けてくれたのよ。一目見て、すぐわかったわ。あいつが葵と付き合ってた頃は、何回か顔を見たこともあったから。もちろん、私が遠巻きに見たことがあるだけで向こうは顔なんて知らないと思うけど。まあそんなこんなで、慌てて連絡先交換してなんとか繋がりを持ったのよ。今日はその助けてくれたお礼ってことでお茶に来たの。あの日は焦りすぎて、今度は私の方がナンパしてるみたいになっちゃったけど。」

「そうだったのか。いやあ翠ちゃんにもついに春がきたかと思ったんだがなあ。」

「ちょっとやめてよマスター。鳴島はただの復讐相手。それ以上でも以下でもないんだから。そもそも、私があんなヘラヘラしててすぐに他の女に乗り換えるようなクズ男に惚れる訳ないでしょう?」

「翠ちゃんも結構ズバズバものを言うよねえ。まあ事情を知ってみりゃ当たり前のことなんだろうがな。それで、やっぱり復讐をやめるっていう選択肢はないのかい?」

 そう、マスターは唯一私の復讐について知っている人物。この店は元々葵が気に入っていて、私は付き添いでくることが多かった。しかし、葵が死んでからは私が望んでここに通っている。葵を失った深い悲しみ、後悔、鳴島に対する醜い気持ち。色んな感情がぐちゃぐちゃになって心が壊れかけていたとき、マスターはそっと私を受け入れてくれた。路地裏で膝を抱えて泣いていた私を店に連れて行き、ただ、静かに話を聞いてくれた。それがあの頃の私にとっては大きな心の支えになった。だからこそ、復讐を決意した時もマスターにだけは打ち明けたのだ。

 マスターの前では私は本当の自分に戻ることができる。復讐に染まった醜い私ではなく、ぶっきらぼうな部分がありながらも明るく純粋だった、あの頃の私に。だからマスターにだけは、包み隠さず全て話している。復讐をやめる選択肢?そんなもの、答えは決まっている。

「ないわ。私は復讐するためだけにあの日から必死で生きてきたんだから。復讐をやめようって気持ちがあるのならとっくに自殺してるわよ、私。」

 そう、私は復讐のためだけに生きてきたのだ。復讐さえなければ私はとっくの昔に葵のもとへ行っていただろう。

「ま、俺は翠ちゃんのやることに反対するつもりはねえ。こんな老いぼれに出来ることなんて限られてるしな。だが、これだけは覚えておけ。お前が死ねば、俺を含め悲しむ人間が少なからずいる。それを分かった上で翠ちゃんがその道を選ぶのなら俺は止めねえ。お前さんの周りがどう動くかは知らんがな。俺はただ、翠ちゃんのことを見守るだけだ。今までも、これからも。」

「ほんとマスターって変わってるよね。こんな計画を聞いても止めるつもりはない、なんて。」

「まあな。だが、複雑な感情を抱えてるお前さんにとって、全てを受け入れる人間というのは一人ぐらいは必要だろう?」

「そうね。私もマスターのそういうところが好きな訳だし。マスターにだけよ、こんな話ができるのは。他の人に話したらなんて言われるかわからないもの。」

「俺も最初聞いた時は驚いたぜ。何も思わなかった訳じゃない。だが、あんな思い詰められた顔見ちまったらな。止めるのもなんだか違う気がしたってだけだ。」

「そっか。」

「それにしても、あの兄ちゃんもそんな悪い奴には見えなかったんだがな。人当たりの良さそうな顔してたじゃねえか。話してるとこを遠巻きに見させてもらってたが思ってた雰囲気と随分違って見えたしな。」

「それがあの男の一番タチの悪いところなのよ。ヘラヘラして周りによく接してるのだってどうせ周りの評価をあげるためなのよ。そんな態度で人を騙しておきながら、平気で裏切る。葵だって…!」

 そこまで言って我に帰る。少し感情的になりすぎたかもしれない。

「そうだったな、すまん。またあの兄ちゃんとお茶でもするとしたらここに来い。少しぐらいは協力してやるよ。せいぜい場の雰囲気を作るぐらいだがな。頼みだって、俺ができる範囲でなら聞いてやる。」

 マスターはそう言いながら胸の辺りを叩いた。マスターはいつも頼もしい。

「ふふ、ありがと。マスターってたまに顔に似合わないこと言うよねえ。」

「揶揄うんじゃねえよ。優しさくらい素直に受け取っとけ。」

「ごめんごめん、じゃあ、ほんとに困ったときは助けてもらおうかな。」

「そうしてくれ。」

「そういえばマスター、そろそろ店閉めて出かけなくてもいいの?五月十日はいつも早く閉めてるじゃん。」

「おっと、もうこんな時間か。たしかにそうだ。今日はもう店を閉めるとしよう。さあ、翠ちゃんも帰んな。」

「いや、私も行くよ。」

「ん?今なんて。」

 驚きに染まったマスターの顔が面白くて思わず笑ってしまいそうになったが、なんとか堪えてもう一度さっきの言葉を繰り返す。

「だから、私も行くって言ってるの、お墓参り。今日、娘さんの命日なんでしょ。」

「…お前さんにそのことを話した覚えはないんだが。」

「そうだろうね。マスター、あの時相当酔ってたもの。記憶がなくて当然よ。毎年五月十日だけ店を早く閉めるから何があるんだろうって、ずっと気になってたけど全然教えてくれないし。どうしても気になって酔ってる今ならいけるかなって思って聞いたらほんとに教えたくれてびっくりしちゃった。まあ、口を滑らせたと思ったのか私が指摘したらすぐに手で口を塞いでたけどね。」

「ったく、そういうことは早く言ってくれ。」

「ごめんって。あのときは普通に好奇心で知りたかっただけだったから言わない方がいいかなと思って。でもなんだか、急に会ってみたくなっちゃってさ。あの時のマスター、性格が私にそっくりで面影が重なるから私のことを第二の娘みたいなもんだと思ってるとか言うんだもん。そのときは流したけどなんか今日は挨拶ぐらいはしたい気分なの。」

 娘さんは十年ほど前に病気で亡くなったらしい。年に何回かはお墓参りに行き、命日である五月十日だけは何があっても必ず行っているらしい。家族思いのいい父親なんだなと思った。

「はあ、仕方ねえなあ。そこまで言うんだったら連れてってやるよ。あと、そのお前さんが第二の娘とかなんとかいうのは忘れてくれ。」

「顔赤くしちゃって。もしかしてマスター、照れてる?」

「馬鹿言うな。照れてなんてねえよ。」

「そんな真っ赤な顔で言われてもねえ。まあいいや、早く行こう。」

「全く、ほんとにどうしようもない奴だ。車で一時間はかかるぞ。」

「じゃあ到着するまで寝てようかな。」

「いい加減な奴だな。さあ、乗った乗った。早く行くんだろう?」

「はいはーい。乗りますよっと。着いたら起こして。」

「わかったよ。ちょっと飛ばすからな。」

「事故は起こさないでよ〜。」

「起こすか。何年乗ってると思ってんだ。」

 車が動き出したので早速窓に寄りかかって寝ることにする。昨日緊張であまり寝れなかったからだろうか、瞼は思ったよりも素直に、すとんと落ちた。

 しかし完全に寝落ちしたわけではなく、道中ずっと目は閉じながらも意識は残っているという感じだった。

「ほら、着いたぞ。」

 マスターの一言で、目を開ける。一時間と言っていたが、そんなに長いこと車に乗っていた感じはしなかった。

「あれ、もう?」

「寝ぼけてないでさっさと降りろ。ついてきたからには雑用もしてもらうからな。」

 車から降りて、大きく伸びをする。山中だったらしく、辺り一面に自然が広がっていて気持ちが良かった。

「雑用って言い方ひどいなあ。まあやるけどさ。」

「じゃ、俺は花立とってくるから先に手桶に水汲んどいて待っててくれ。水道はすぐそこにあるから。」

「了解〜。」

 水道の蛇口を捻って手桶に水を満たしていく。柄杓もとってから少し待つと、マスターがこっちへ戻ってきた。

「翠ちゃん、そこのたわしも持っていってくれ。墓石掃除するから。」

「墓石の掃除とかもちゃんとやるんだ。二個でいい?」

「ああ、それでいい、ってちゃんとやるんだってなんだ失礼だぞ。」

「まあまあ。一応は褒めてるんだから。」

「はあ。ほら、行くぞ。」

 花立に水を入れ終わったマスターがスタスタと歩き出したので、私も慌ててついていく。マスターの娘さんの墓石は入口から少し離れたところに立っていた。

 花を挿した花立を置き、二人で墓石をたわしや水で綺麗にしてから手を合わせる。私は心の中で娘さんに話しかけてみることにした。"こんにちは、マスターの娘さん?でいいのかな。マスター、あなたのお父さんにはいつもお世話になってます。彼によると私たち、性格が似てるんだって。本当なのかな?もしそうなら、一度会ってみたかったな。これからもマスターのこと、見守ってあげててね。それじゃあ。"そう言い終わると、目を開けて合わせていた手を解く。

「長いこと手え合わせて何言ってたんだ?」

「何って、挨拶よ、挨拶。あとは性格が似てるらしいから一度会ってみたかったなって。」

「あいつが生きてたら翠ちゃんと同じくらいの歳か。ま、もしかしたら意気投合して仲良くなってたかもしれんな。」

 いつの間にか空は赤く染まり始めていた。マスターはそんな空を見ているようで、どこか遠いところに目を向けている。

「そうかもね。」

 私もマスターに倣って上を見上げてみる。山からみる夕焼けは絶景で、しばし私はその景色に見惚れていた。

「さて、そろそろ帰るぞ。駅ぐらいまでだったら送ってってやるから、さっさと乗れ。」

「いいの?じゃあマスターのありがたいお言葉に甘えて駅まで送ってもらおうかな。」

「はいよ。ほら、もう車出すぞ。」

「はいはーい。」

 マスターが車のエンジンをかけてアクセルを踏み込む。帰り道は、少しだけちゃんと眠った。


 鳴島とお茶をし、マスターの娘さんのお墓に行ってから一週間と少しが経った。今日は新プロジェクトが始まってから初めての株式会社トライトインの訪問日、つまり鳴島がここに来る日ということだ。

 そのため今日はいつもよりさらに早く会社へ行き、準備やシュミレーションを念入りに行なった。

 時計を見ると、時間はもう十時になりかかっていた。予定通りだと、もうすぐ鳴島がやってくるはずだ。

 正面の自動ドアが開くのを目の片隅で捉えた瞬間、目線を完全にそちらへと向ける。予想通り、鳴島たちがやってきたようだ。鳴島が受付に来るのかと思ったが、どうやら違うようで別の社員がこちらへ向かって歩いてきて、私の隣のデスクの前で足を止めて受付を行なっていた。

 鳴島を接客しなくていいという事実に内心ほっとしながらも、彼の仕事の様子を探れないことにがっかりしている自分もいる。まったく、我ながら感情が矛盾しているなと思う。

 鳴島は私を見つけると軽く会釈をしてきたので、私もそれに倣った。

 今日は特に他の会社が訪問してくる予定もないので、接客をする必要はない。そのかわり、新プロジェクトが始まってほかの部署では追いついていない事務作業が大量にこちらへ流れてきているので、それを捌くので忙しくなるだろう。

 これからはこんな生活が続きそうだ。ひたすら机に向かって事務作業をするというのもなかなか疲れるものだ。これなら、接客の方がましかもしれないなんてことを考えてしまう。合間合間に仕事はこなさなければならないと言っても、ちょくちょくここから会議室まで往復するとなれば、少しは運動になる。座りっぱなしよりかはよっぽどましだ。さっき受付を担当していた子も、あの社員が去ってから内心嬉しそうな顔をしていた。

 少し余計なことを考えてしまった。今は目の前にある大量の仕事に集中しなければ。そこから黙々と仕事を片付けていたら、気づいた頃にはかなり時間が経っていた。軽く伸びをすると、ちょうど鳴島たちがエレベーターから降りてくるところだった。仕事を続けるフリをしながら、鳴島のことを目の隅で観察する。

 打ち合わせ等は終わったようだったのでそのまま帰るのかと思いきや、鳴島は他の社員に何かを言うと私の方へ向かって歩いてきた。

 僅かな緊張を隠し、笑顔で鳴島を迎える。

「ろくに挨拶もできずにすみません。今から帰るところなんですが、一言ぐらいは言わないとと思いまして。お仕事頑張ってくださいね。」

「いえいえそんな、お仕事で来てるんですから気にしないでください。恭也さんこそ、お仕事頑張ってくださいね。ではまた。」

「ええ、また。」

 そう言って他の社員の人たちと合流し、鳴島は帰っていった。一度、大きく深呼吸をする。受付が私に回って来なかった時点でもう今日は鳴島と話すことはないだろうと思っていたので、さっきの不意打ちには正直かなり驚いた。

 知り合いにはきちんと挨拶をする。周りの評価を上げる行動だと考えればおかしくはないのかもしれないが、急にやってくるのはやめてほしい。

 気持ちを切り替えて椅子に座り直すと、瀬野さんがキラキラした目で見つめてきていることに気がついた。

「さっきのイケメン、翠先輩と知り合いなんですか!?まさか彼氏…」

「違う違う、そんなんじゃないから。少し前にちょっと、ね。」

「なんですかそれ!気になります〜。仕事終わりに、詳しく聞かせてください!」

「そんなに面白い話ではないんだけど…。まあいいわ、仕事終わりにね。今はこの大量の仕事を片付けなきゃ。」

「そういうことなら、頑張って早く終わらせます!」

「無理はしないようにね。」

 横で瀬野さんがより気合を入れて仕事を再開していたので、私も業務に戻る。瀬野さんが早く仕事を終わらせても私がまだだったら意味がないので、少し急ぎ目で片付けていく。

 なんとか今日の分が終わったところで大きく伸びをし、時計で時間を確認すると定時を少しすぎていた。にも関わらず、帰っている社員はほとんどいない。瀬野さんもまだ仕事が残っているみたいで、真剣な顔でパソコンに向かっていた。

「瀬野さん、よければ残りの業務少し手伝おうか?」

「いいんですか!?ぜひお願いしたいです…。あと少しなんですけど。」

 横から瀬野さんのパソコンの画面を覗き込み、残っている業務を確認する。

「ほんとうね。入社してまだ一ヶ月ちょっとなのにこの量を捌けるなんてすごいじゃない。少しもらっていくわね。」

「ありがとうございます…!助かります〜。」

「いいのよ。さ、早く終わらせちゃいましょ。」

「はい!」

 残っていた業務は本当に少ししかなく、二人とも十分ほどで作業を終えることができた。

 二人で更衣室に向かい、制服から私服へと着替える。

「やっと終わりましたね〜。先輩、約束通りあのイケメンとの関係を教えてください!」

「そうね。でもここじゃ場所が悪いからどこかのお店にでも行きましょう。」

「あ、それなら私いいところ知ってます!居酒屋なんですけど、お酒とか大丈夫ですか?」

「お酒は強い方だから全然大丈夫よ。なら、瀬野さんのおすすめの居酒屋に行こうか。案内してもらえる?私、この辺の土地はあまり知らないのよ。」

「もちろんです!ここから結構近いですよ。歩いて五分くらいなので!」

 瀬野さんの言う通り、その居酒屋は会社から少し歩いたところにあった。穴場的な店なのか人気のない路地にあり、客が満杯という感じではなさそうだった。

 店に入って席に案内してもらい、おすすめメニューだというおつまみセットと瀬野さんはビールを、私はハイボールを注文した。

「それで、結局あのイケメンとはどうなんですか?」

 瀬野さんがもう待ちきれないといったような顔でこちらを見つめてきた。

「話すと長くなるんだけどね。四月ぐらいに友達と遊びに行く予定があってその友達を待ってるときにしつこくナンパされちゃって。困ってたらあの人、鳴島さんっていうんだけどが恋人のフリをして助けてくれたのよ。あのときはあまり時間もなかったから今度ちゃんとお礼させてくださいって言ってついこの間に私の行きつけの喫茶店でお茶したの。」

 話している間に注文したものがきたので、受け取って机の上に並べる。意味もなく、ハイボールが入ったジョッキを持ち上げ、少し揺らす。瀬野さんはビールを一口飲んだあと口を開いた。

「なにそれすごいですね!私も男の人とそんな出会い方をしてみたい…。それで、先輩はイケメンさん、ええと、あ、そうそう、鳴島さんのことはどう思ってるんですか?」

 いきなりどう思っているかなんて聞かれると思っていなかったので、危うくハイボールを吹いてしまうところだった。なんとか飲み込み、どう答えようか考える。

「どうって言ってもねえ。そりゃあ素敵な人だとは思うけれど、好きかどうかって言われると微妙かな。まだ助けてもらった時を合わせても二回しか会ってないからね。」

「そうなんですか!?助けてくれた姿に一目惚れ!とかありそうなのに。」

「うーん、私一目惚れってしたことないのよね。そもそも恋愛自体、ここ十年近く全くしてないからさ。どういう感じかよくわからなくて。」

 これは本当だ。復讐のために全てを費やして生きてきたため、恋などしている余裕はなかった。恋をしたことはあるものの、それもかなり前のことなので、よく覚えていない。

「じゃあこれを機に恋愛しましょうよ!恋は楽しいですよ。たとえ叶わないとしても、恋をしてるっていう生活が楽しいんです!」

「恋をしている生活かあ。確かに楽しそう。なんだか私も恋愛したくなってきちゃった。鳴島さん、また誘ってみようかな。」

「いいじゃないですか!私は応援しますよ!」

「ありがとう。そういう瀬野さんは彼氏とかいないの?勝手にモテそうだと思っているのだけれど。」

「実は、ちょっと前に半年付き合ってた彼氏に振られたばっかりなんですよお。なんか性格が合わないとか言われて。向こうから付き合おうって言ってきて私も好きだったのに急に振るとか酷くないですか!?」

 そう言い終わるや否や、瀬野さんはぐいっと残っていたビールを一気に飲み干した。さらに、少し前に追加で注文していた2杯目も、半分ほどごくごくと飲み、ジョッキをテーブルに叩きつけるようにして置いた。酒に弱いのだろうか、頬が少し赤くなっている。

 その後は私の話から瀬野さんの別れ話へと完全に切り替わり、その話題は一時間半ほど続いた。

 瀬野さんが完全に酔い潰れてしまったので、会計を済ませ、瀬野さんを送ることにする。前に一度家を聞いたことがあったので、迷わず着くことができた。聞いていた通り会社からも近く、いい物件だなと思った。

 カバンから鍵を拝借してマンションのオートロックを解除し、三階まで上がって瀬野さんの部屋のドアを開ける。瀬野さんをベッドまで運び、早めに退散することにする。私も久しぶりの激務に加え、少しは酔ってしまったので疲れていた。幸い瀬野さんの部屋はオートロックだったため、鍵の心配をすることなく部屋から出ることができた。

 家に帰り、ベッドにダイブする。今日はもうなにもする気が起きなかったので、風呂も朝入ることにした。ふとスマホを見ると、通知が何件か入っていたので、それだけ確認することにする。

 いくつかの公式アカウントからの通知と、紗奈からも連絡が来ていた。そろそろ次の予定を決めたいとのことだった。確かに、前回から既に一ヶ月ほど経ってしまっていた。早速返信を送る。

『そうだね、そろそろ決めよっか。私は来月までの予定は特になにも入ってないからいつでも大丈夫だよ。』

 送って一息つくと、すぐに返信が返ってきた。紗奈はいつも返信が早くてすごいなと思う。

『じゃあ再来週の日曜日とかどう?今週と来週は予定入っちゃってるのお。』

 文章の後に、泣いているかわいいスタンプまでついている。

『再来週の日曜日ね、わかったわ。お店とかはどうする?』

『それがね、この前すごくいいお店見つけたの!よければそこ行かない?お店のURL送るね!』

『わかった。見てみるね。』

 紗奈から送られてきたURLからお店のホームページへ飛び、店内の雰囲気やメニューなどを一通り見ていく。確かに、すごく良さそうな店だ。

『一通り見てみたけど、確かにいい感じのところね。じゃあ次はここにしようか。』

『うん!そうしよ!再来週の日曜日の十二時からでいい?予約取っとくね。集合はお店の前で!』

『ありがとう。それで大丈夫よ。再来週、また会いましょう。楽しみにしてる。あ、今度は寝坊しないでね。』

『うう、頑張る…。私も楽しみ!またね!』

 紗奈とのやりとりが終わり、ラインのトーク画面を閉じる。ブルーライトのせいか目が冴えてしまったので、湯船には浸からずともシャワーくらいは浴びることにした。

 恋愛、か。

 シャワーを浴びながら今日の瀬野さんとの会話について考える。最後に恋をしたのはいつだろうか。中学生の頃?それとも高校生?少なくとも、復讐を決意した日から恋などしていない。する必要も、時間も、私にはなかった。誰かを好きになるだなんて感覚はとうの昔に忘れてしまった。

 初恋は小学校の頃だったように思える。と言っても、小学生の恋愛など一時の気の迷いのようなもので、本気で好きだったのかどうかまでは覚えていない。いや、おそらく本気で好きではなかっただろう。なんとなく、気になるだけ、そんな存在。

 ナンパされているところを助けてもらった人に一目惚れをする。少女漫画ではよくありそうな話だ。実際、私が復讐など微塵も考えておらず、鳴島が全く知らない人だったのであれば私もあのときに恋に落ちていたかもしれない。でも、そうじゃない。私は復讐心に燃えていて、その相手は鳴島なのだ。そんな彼に恋に落ちるなどあるわけがない。それも一目惚れだなんて。

 まあでも、私は復讐を遂げる為に鳴島のことを表面上は好きにならなければいけない。恋人になることが、相手に近づく上で一番手っ取り早いと思うから。

 偶然ではあるものの、私たちは運命的な出会い方をしたのだから、それを利用しない手はない。もちろん演技だとしても、鳴島のことを好きになって向こうを振り向かせようと頑張る、なんてことはしたくない。

 でも、復讐の為ならどんなことだってしてみせる。復讐をする上で、やりたくない、自分が嫌なことをやらなければいけない、なんてことは当たり前だ。人生を、私の全てを賭けた復讐は、そんなに甘いものじゃない。そしてこの復讐は間違いなく私の勝手なエゴで、葵は復讐なんて望んでいないだろう。だけど、それでいい。それが、私が、私自身に課した罰なのだから。

最後までご覧いただきありがとうございました!また少し間が空いてしまうかとは思いますが次回更新も楽しみに待っていただけると幸いです

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