第7章: 森が哭く
森は――静まり返っていた。
それは安らぎの静けさではない。
リノの光は、もう消えていた。
残滓だけがアカリの肌に留まり、
朝露に映る月光のように、淡く震えていた。
俺は息を殺し、耳を澄ませた。
アカリのかすかな呼吸が止まるたびに、胸の奥が締めつけられる。
ただ、彼女が目を覚ますのを――待っていた。
やがて、指がぴくりと動いた。
唇から、かすかな声が漏れる。
「……ハヤト?」
息が止まった。
ケンジの目が輝き、膝の上で眠っていたアカリを見下ろす。
彼の口元に、安堵の笑みが浮かんだ。
彼女の瞼が震え、ゆっくりと開いた。
弱々しいが、確かに意識が戻っている。
「やっと起きたか」
ケンジが小さく言った。
「このまま運び屋になるかと思ったぞ」
アカリは小さく笑う。
それは息混じりの、ほとんどため息のような笑いだった。
「ふふ……今回が初めてじゃないでしょ」
胸の奥に温かな痛みが広がった。
言葉が喉に詰まる。
何も言えなかったが――顔を見れば、伝わっていたと思う。
アカリはゆっくりと身を起こし、肩を押さえながら辺りを見回した。
声のトーンが落ちる。
「……ここ、どこ? 何があったの?」
「覚えてねぇのか?」
ケンジが首を傾げた。
「さっきまで、あの化け物と一人で戦ってたんだぞ。見事だったよ」
アカリは苦笑した。
「見事でもないわね。結局気絶して、どうして倒れたのかも覚えてないし」
「大丈夫だ。詳しいことは後で話す。……動けそうか?」
「うん、たぶん」
「よし。じゃあ行くぞ。ここに留まってたら――獲物にされるだけだ」
俺たちは歩きながら、アカリにこれまでの経緯を説明した。
彼女は静かに頷き、目を伏せる。
その瞳の奥に――後悔とも、郷愁ともつかない光が揺れていた。
しばらく沈黙が続いたあと、アカリが口を開いた。
「……小さい頃ね、じいちゃんが夜明け前に狩りへ連れて行ってくれたの」
声は小さく、どこか遠くを見ているようだった。
「ハヤトは信じないかもしれないけど……最初は、大嫌いだったの。寒くて、地面は凍ってて、空気も重くて――森が、全部怖かった。何かに追われる気がして、泣きそうになったこともある」
彼女の目が柔らかくなる。
「でもね、じいちゃんはいつも同じことを言ってたの。勇気っていうのは、恐れを感じないことじゃない。恐れながらも、前へ進むことなんだ。荒野は、恐れを越えて歩く者を敬う――って」
言葉が途切れたあと、アカリは深く息を吸った。
その瞳が再び鋭くなる。
「リノは命を懸けて、私を癒してくれた。二日間は戻れないって言ってたわ」
彼女は自分の手を見つめ、指を握ったり開いたりしながら呟く。
「……無駄にはしない。リノの想いも、じいちゃんの言葉も」
ケンジの顎が強張る。
けれど、その目には優しさが宿っていた。
「……あの人、きっと喜んでるさ」
声は小さかったが、確かな温度があった。
アカリは小さく笑った。
「そうだといいな。……まだ、死ぬつもりはないし」
思わず吹き出した。
乾いた笑いだったが、確かに生きてる音がした。
そうだ――これがアカリだ。
限界を越えても、笑って前を向く人間だ。
ケンジが俺の方を見た。
「で、ハヤト。どうする? 作戦は?」
森の奥には、まだ屍魔が潜んでいる。
その脈動が地面を通して伝わってくる。
まるで大地そのものが息をしているように。
俺たちは疲れきっていた。
正直、恐怖もあった。
だが――アカリの背中を見た瞬間、
ケンジの視線を感じた瞬間、
その恐怖は少しずつ薄れていった。
「リノの話じゃ、奴は恐れを嗅ぎ取ってる。攻撃のパターンも、疑念や罪悪感を辿って読むらしい」
アカリが拳を握る。
「じゃあ……感じるのをやめればいいってこと?」
俺は二人を見た。
「違う」と、静かに言った。
「恐れに支配されるんじゃない。――俺たちが支配する。奴に食わせるものを、別のものに変えるんだ。決意だ。互いへの信頼だ。もし奴が恐怖を嗅ぎ分けるなら、俺たちは勇気で喉を詰まらせてやる。それでダメなら、別の方法を見つけるだけだ」
アカリが微かに笑った。
「いつだって、そうしてきたわ」
風が変わり、屍魔の咆哮が近づいてきた。
大地がまた脈打ち、葉が火花のように散る。
「戻るぞ」と俺は続けた。
「賢く戦うんだ。無闇に振り回すな、慌てるな。アカリ、お前は目だ。距離を保って、防御の脈を探せ。ケンジ、側面を取れ。奴が片方に振り向いたら、もう一方が突く。最初に俺が誘い込む」
アカリの瞳に、静かな炎が宿る。
「もし奴が読もうとしてきたら?」
「そのときは――見せてやる」
俺は言った。
「恐れでも、罪悪感でもない。倒れることを拒む三つの魂だけだ」
しばし無言が続く。
その沈黙は不安ではなく、重く、電流のように張り詰めた集中だった。
ケンジが指を鳴らし、にやりと笑った。
「よし、なら思い知らせてやろうぜ」
俺は刀柄を固く握りしめた。
重さを確かめ、胸の奥で熱が盛り上がるのを感じる。
屍魔の咆哮が森を揺るがす――だが今回は威圧ではなかった。
土の奥で微かな震えが立ち、地割れが走る。
根が落ち葉を蛇のように締め付ける。
焦げた匂い、腐敗の臭いが先に鼻を突いた。
続いて、木々を引き裂くような低い嗤い声が響いた。
「また来たのか?」
声はどこからともなく、鋭く、喉を擦るように響いた。
闇が濃くなり、屍魔の巨大な影が姿を現す。
樹皮のような肌の下で、溶けたようなたぎる脈が脈打っていた。
俺はさらに刀を握り締める。
ケンジの呼吸が隣で荒くなる。
「人間どもよ」
と、それは唸るように言った。
一音一音が骨に擦れる金属のようだ。
「お前らは誇りの屍に群がる蠅のようにまた這い戻ってきた。」
俺は歯を食いしばった。
「お前が始めたことを、俺たちで終わらせる」
屍魔が嗤った。
パキ…パキンッ――枝が折れるような、ぞっとする音。
「生を語るつもりか、人間。お前たちはこの大地の呼吸すら知らぬ。なぜ震えるか教えてやろう。――お前たちの肉体は覚えている。獲物として生き延びてきた記憶をな」
ケンジが一歩踏み出す。
腕の周囲に精神が淡く揺らめいた。
「よく喋るな。根っこの塊のくせに」
屍魔の影が近づき、口元を歪める。
「冗談で恐怖を隠すとは……滑稽だな」
アカリの息が詰まる。
それでも退かない。
「逃げる気なんて、最初からないわ」
屍魔の口が裂けた。
頬から頬へ、縦に走る深い亀裂――まるで笑みの形をしていた。
「逃げなくていい」
低く、湿った声が夜気を震わせる。
「ここからでも分かる……お前たちの心臓の鼓動。恐怖。疑念。罪悪感。その匂い――私を満たす甘い糧だ」
深く息を吸い込み、恍惚の笑みを浮かべる。
俺は刀を構え直した。
「なら、その糧で窒息しろ」
屍魔が嗤う。
ガアアアッ――森が唸り、風が暴れ、葉が舞う。
「来い、光刃。
その勇気――骨の髄まで刻み込んでやる!」
俺は一歩踏み出し、全身に精神を巡らせた。
血が熱を帯び、筋肉の奥で炎が走る。
剣先が震え、周囲の空気が唸りを上げる。
――これまで積み重ねた全ての痛みと学びが、今ここに収束する。
夜が息を呑む。
そして、俺たちは駆け出した。
屍魔が一歩踏み出すたびに、大地が呻き、根が暴れた。
蛇のように蠢き、動くものすべてを絡め取ろうとする。
樹皮が軋み、幹に埋まった人の顔が歪んで嗤う。
「集中しろ!」
俺は叫び、迫る根を斬り払う。
ギィンッ――!
ケンジが身を沈め、根の下を転がり抜ける。
その勢いで根を弾き飛ばし、背後の木に叩きつけた。
アカリは倒木を蹴って跳び上がり、迫る蔓を蹴り返す。
「こっちも動いてるわ!」
まるで森そのものが敵になったようだ。
どれだけ斬っても、根は再生し、枝は鞭のように襲いかかる。
それでも俺たちは止まらない。
一瞬の迷いが命取りになる。
「ケンジ! 右側!」
「了解ッ!」
ケンジが地を蹴り、屍魔の背後へ回る。
複雑に絡む根の塊――そこが弱点だ。
拳に精神を集中させ、叩き込む。
ドゴォンッ!!
樹皮が裂け、ひびが走る。
傷は浅い。
だが――ほんの一瞬、動きが鈍った。
「愚か者どもめ! 動きが鈍い。頼りない肉体だ、命にしがみつきながら――むしろ死にたがっているな」
屍魔が嗤う。
アカリの両手が淡く光り、掌から制御された水の精神が噴き出した。
武器はないが、彼女の意思がそれを刃のような水流に成形する。
勢いよく屍魔の脚根へ打ち込み、土に染み込んだ水が根を滑らせ、動きを鈍らせた。
「いける!」と彼女が叫び、身を翻して着地する。
「行け、ハヤト!」
俺は突進した。刀を構え、刃がほのかに赤く揺らぐ。
精神が刃を流れ、俺の身体を貫く。
川の流れのように、体内を電流の如く巡る感覚――それが力だ。
根へ斬り込み、樹皮を紙のように裂いた。
一振りごとに、屍魔が僅かに後退する。
「いいぞ!」とケンジが笑みを零し、突進する。
彼は武器を持たないが、拳が正確で致命的な武器になる。
回転を利用して根を粉砕し、前腕を覆うように精神が迸り、木が割れて木片が散る。
アカリが側面から回り込む。
「ハヤト、左側が遅いわ! そこに集中して!」
俺は頷き、軸を切り替えて刀を深く突き立てた。
胴回りを取り囲む根の塊にめり込むように――。
屍魔が震え、崩れそうになったが倒れない。
その空洞の目が、驚きに見開かれたように見えた。
初めて――ためらいを見た。
そのためらいが、俺たちの合図だった。
「虫けらどもめ! 動きを止めろ、そうすりゃ踏み潰してやる! 骨だけにしてやる!」
屍魔が唸る。
その響きは森をこだまし、葉や細枝を震わせる。
続けざまに、巨大な肢を地に叩きつけた。
衝撃波が三人を吹き飛ばし、土砂と木片が舞う。
俺は木に肩をぶつけ、歯がカチリと鳴るのを感じた。
血の味が喉にこびりつくが、立ち止まらない。
「ハヤト! 姿勢を崩させないと、潰されるぞ!」
とケンジが叫ぶ。
計算する。
根の触手は太く強靱だが、俺たちは既に注意を分散させて隙を作らせている。
奴が同時に指揮を取るたびに、一瞬の綻びが生まれる――そこを突くのだ。
「アカリ、左側。ケンジ、俺の合図で下の根をぶっ壊せ!」
と俺は指示を飛ばす。
彼女は即座に頷き、集中を深める。
「――水の精技・蛇縛ッ!!」
月光を浴びて、水の弧が煌めいた。
それは蛇の形を取り、屍魔の根を這い、締め上げていく。
水圧に押され、根が軋み、動きが鈍る。
「――今だッ!!」
俺は叫び、ケンジと同時に突撃した。
ケンジは地を蹴り、回転を加えた横蹴りを放つ。
拳と脚を包む精神が眩く光り、
打撃の衝撃が根を粉砕した。
俺は上部の根を狙い、
生き物のように蠢く枝の群れを断ち斬る。
ズバァッ――!
屍魔が呻き、巨体がよろけた。
そのわずかな揺らぎが、勝機だった。
奴は一歩退き、根を狂ったように蠢かせる。
その空洞の眼窩が俺を見据え、
何かを嗅ぎ取ろうとしていた――恐怖だ。
だが、俺は呼吸を整える。
じいちゃんの声を思い出す。
リノの覚悟を思い出す。
そして――この使命を思い出す。
その瞬間、俺は悟った。
屍魔の攻撃が鈍い。
――防御に回っている。
俺たちは奴の読みを崩したのだ。
戦いの流れが、こちらに傾いていく。
根、樹皮、木の唸り。
そのすべてが、俺たちの決意に呼応するように響いていた。
恐怖を乗り越えられる。
守れる。
耐えられる。
俺たちはそれを証明しようとしていた。
ケンジが俺の隣に着地し、血混じりの笑みを浮かべる。
俺も僅かに笑い返す。
「調子に乗るな。一歩間違えれば終わりだ」
屍魔が激昂した。
「虫ケラァアアアッ!!!」
大地を叩きつけ、根が森全体を襲う。
ドオオオオオォン――!
俺たちは跳び退き、爆風を避けたが、
破片と圧で身体が軋む。
痛みを感じながらも、立ち止まらない。
一瞬、森が息を止めた。
静寂。
ただ、森そのものの呼吸が聞こえる。




