第6章 : 月影の森の涙
月光が差し込み、森の中心を照らした。
――そして、俺たちはそいつを見た。
木々の陰から――金髪の少年が顔を覗かせていた。
その肌は蝋のように白く、怯えたようにこちらを見ている。
「大丈夫? 迷子なの? どこか怪我してない?」
アカリが駆け寄り、声をかけた。
少年は答えなかった。
涙を浮かべたまま、彼女の手を掴み、西の方へ引っ張った。
「……助けを求めてる?」
アカリの声が震える。
恐怖ではなく――揺るがぬ決意に満ちていた。
ケンジが小さく息を吐く。
「おかしい……。まるで半分だけこの世界にいるみてぇだ。この森、何かが歪んでる。けど放っておくわけにもいかねぇ。もう誰も、この森の犠牲にしちゃいけねぇ。いいか、全員――距離を保て。目を離すな」
少年は森を迷いなく進んでいく。
裸足なのに、一切の足音を立てなかった。
アカリがその背を追い、俺が続く。
霧が、ゆっくりと降りてきた。
まるで潮が満ちるように――木々の間を埋めていく。
「……なあ、誰かに見られてる気しねぇか?」
ケンジが低く呟く。
全員、感じていた。
だが、誰もそれを口にしなかった。
少年の歩みが鈍る。
左に折れた瞬間――姿が掻き消えた。
「……え?」
気づけば、俺たちは森の奥に取り残されていた。
意識が霞み、体が重くなる。
そして、どこからともなく――
子どもの笑い声が聞こえてきた。
だが、姿は見えない。
「なんだこれ……!? ただの霧じゃねぇ!」
ケンジが叫ぶ。
「これは精技だ! 感覚を狂わせてる!」
霧がゆっくりと晴れていく。
俺たちは散り散りになり、構えも解けていた。
――その時。
木々の根元から、六人の子どもが這い出してきた。
まるで花が咲くように、土を押し分けて。
全員、白い寝間着をまとい、瞳には虹彩がなかった。
表情は無。
そのまま手を取り合い、円を作る。
そして――声を揃えて唱え始めた。
「死聖の意志は我らのもの。
世界は穢れ、種は蒔かれた。
塵は深く、色は褪せ、
聖者は命ず、恐れを棄てよ。
灰より清く、新たな世界が芽吹く。
選ばれし父の子として――永遠に」
ケンジが青ざめた顔で呟く。
「最高だな……。一生眠れそうにねぇ、呪われたガキどもだ……」
アカリが唇を噛み締める。
「待って……さっきの子は? 金髪の子がまだ……!」
「アカリ! 今は集中しろ!」
俺は叫んだ。
「完全に術中にいる!」
子どもたちは跳ねるように輪を回り続け――
やがて動きを止めた。
抱き合うように見えたその瞬間――
肌が溶けるように混ざり合い始めた。
骨が軋み、顔が歪み、腕と脚が沈み込み、
六つの身体が、一つの塊に融合していく。
「……っ!」
地面が揺れ、根が伸び、花が咲く。
花弁の間から血が流れ、森が呻き声を上げた。
「な、なんだよこれ……!」
花が弾け、赤い粉が舞う。
視界が霞み、息が詰まる。
――そして霧が晴れた。
そこに立っていたのは――
木でできた巨大な化け物。
腕は軋む枝のように長く、
幹には無数の人の顔が埋め込まれていた。
それぞれが歪み、声にならぬ悲鳴を上げている。
「な、なんなのよ……あれ……!」
アカリが叫んだ。
――右目が焼けるように痛んだ。
あの時と同じ痛みだ。
村が燃え落ちた夜。
脳裏に、あの光景が鮮明に蘇る。
「うっ……!」
視界が歪み、地面が揺らぐ。
あのもの――間違いない。
俺たちがかつて遭遇した、屍魔だ。
だが、何かが違う。
その身体の奥底から、怨嗟と苦痛が漏れ出している。
「ハヤト!」
アカリとケンジの声が響く。
痛みに膝をついた俺を、そいつが見下ろして笑った。
声にならない笑い。
だが、確かに嘲りだった。
一歩、こちらへ踏み出す。
「――呪木の術・鉄木牢!!」
地面が裂け、根が無数に走る。
黒い蔓が蛇のようにうねり、俺たちを飲み込もうとした。
ケンジとアカリが前に出て、攻撃を防ぐ。
「ハヤトは下がってろ! ここは俺たちが持つ!」
何度根を砕いても、すぐに再生する。
屍魔の精力は尽きることを知らない。
アカリが俺の刀を掴み、前へ躍り出た。
その瞳に宿るのは――怒りと、決意。
「――水の精技・波断ッ!!」
刃が水流を纏い、うねりを上げる。
迫る根を弾き、屍魔の腕を切り払う。
彼女は滑るように前へ出て、体重を乗せて斬り込んだ。
金属のような音。
手応え――浅い。
屍魔は軽く身を翻し、腕を裂かれながらも笑った。
低い笑いが次第に歪み、狂気の嗤いへと変わる。
「哀れな生き物だ。弱く、醜く、太陽を指で隠そうとする愚か者め。死してなお、我を傷つけられると思うな。貴様らの目に映る最後の景色――それが、この私だ」
裂かれた腕が瞬く間に再生する。
アカリは歯を食いしばり、再び踏み込んだ。
その斬撃は速く、正確。
だが、屍魔はさらに速い。
アカリの焦りが増すたび、奴の笑いは深くなる。
「感じるか? その無力さを。背骨を這い上がる絶望を!」
「黙れッ!!」
アカリが叫び、ケンジが横から援護に入る。
俺の中の痛みは徐々に引いていった。
完全ではない。だが、立ち上がれる。
屍魔が呻くように呟く。
「六つの心臓……六つの炎……。力の源、すべてを今宵、燃やし尽くそう」
腕を地に叩きつけた。
大地が裂け、衝撃が走る。
木々がざわめき――まるで森全体が、笑っているようだった。
「――人間ってやつは、ほんっとに見てて飽きないな」
化け物が嗤った。
その声は低く、そして歪んでいた。
「感情なんて弱者の証。哀れな生き物だ。助けて……お家に帰りたい……――ククッ!」
その声が、子どもの声に変わった。
アカリの顔が歪む。胸の奥が軋むように痛んだ。
――同情が、逆手に取られている。
「ほんと、お前らは騙されやすい。愚かで、可哀想で、予想通りだ。子どもを助けるだと? フフ……教えてやるよ、ガキ。ここに子どもなんてもういねぇ。さっき見たあいつら? みんな――今は俺の一部だ」
アカリの呼吸が乱れ、目の焦点が揺れる。
剣を握る手が震えていた。
「アカリ! しっかりしろ!」
だが彼女の足が、勝手に前へ進み出す。
まるで見えない糸で引かれるように。
「そうだ、それでいい。痛みはすぐに終わる。来い――仲間たちがお前を待っている」
奴の胸が裂けた。
そこにあったのは、無残に歪んだ人間の残骸。
血に濡れた顔、捻じれた腕。
笑っている。泣きながら、笑っている。
顎が外れ、真紅の血を垂らしながら嗤った。
「アハハハ……ようこそ、死聖の世界へ――」
「……っ、ケンジ! アカリを!」
俺が叫ぶと、ケンジは即座に動いた。
彼女の身体を抱え、剣を拾い上げて後退する。
「逃げろ、逃げろ! 走るんだ!」
「逃げても無駄だ、人間。聖人の意志はすでに動き出している。逃げ場など、ない」
森全体が呻く。
枝が揺れ、木々が軋む。
夜が押し寄せるように濃くなり、息が詰まるほどの闇に包まれた。
ケンジの呼吸が荒い。
腕には無数の裂傷が走り、血が滴っている。
沈黙だけが続き、森は息を潜めていた。
「……なあ、ハヤト」
ケンジが低い声で言う。
「まさかとは思うけど――策、あるよな? あれ、どう見ても戦う相手じゃねぇぞ」
俺は答えなかった。
ただ、黙って前を見据えた。
少し進んだところで、木陰に身を隠す。
ケンジはアカリを膝に乗せ、呼吸を確かめる。
「安定してる」俺は呟く。
「でも、しばらくは目を覚まさないだろう」
ケンジが拳を握る。
「……このまま逃げても、いずれ追いつかれる。どうする?」
答えが出ない。
頭の中が渦巻く。
疑念、恐怖、焦り。
――なぜ、俺たち三人だけがここに?
なぜ上位の光刃が同行しなかった?
最初から、この森に何かがあると分かっていたのか?
拳を握り締め、アカリの顔を見つめた。
そのとき、脳裏に浮かんだ――リノの言葉。
すべての光刃チームにはユネコが一体ずつ配属されている。
……そうだ。
彼なら、この異様な森の構造や、死聖の気配を感じ取れるかもしれない。
俺は息を吸い込み、右手を胸に当てた。
月猫の印。
「結――」
精神の波動が右掌から放たれ、夜の空気が揺らいだ。
ケンジが眉をひそめた。
「……おいおい、マジかよ」
「――リノ。今だ」
空気がきらめき、瞬きの間に彼は姿を現した。
しなやかな尾を揺らし、耳をピクリと動かす。
森全体が気に入らないとでも言いたげだった。
「何? もう任務終わったの?」
皮肉たっぷりの声。
ケンジの顔が一瞬で不機嫌に歪む。
「だったらあの呪樹に殺された方がマシかもな……」
俺は無視して、まっすぐリノを見た。
「リノ……頼む。あの呪樹は今までの奴らとは違う。アカリは倒れた。戦い方も、癖もわからない。何か――手がかりはないか?」
リノは鼻を鳴らし、金色の片目を細めた。
「パターン? ほんと、人間って大げさね。……まあいいわ。あんたたちの子守りじゃないけど、ちょっとだけ特別講義してあげる」
「特別講義……?」
俺が眉を寄せると、リノは一歩跳ねて近づいた。
「お前たちは理解したつもりで戦ってる。でも本当の理解ってのは、見ることでも、聞くことでもない」
そう言うと、リノは前足を俺の額にそっと当てた。
一瞬で――世界が静まった。
音が消え、呼吸の鼓動だけが響く。
温かな波が頭の中に流れ込み、鋭く、しかし柔らかい感覚が脳を貫いた。
「感じる?」
今度のリノの声は、不思議と優しかった。
「これは、あんたの精神を読む感覚。思考も、恐怖も、記憶も。私は、あんたたち光刃の内側を視ることができる。迷い、嘘、後悔――全部、精神を通して滲み出てるの。私はそれを感じ取り、解析して、生き残るための真実を伝えるのよ」
息を呑む。
侵入されるような感覚ではなかった。
むしろ、内側を静かに照らされるような――親密さ。
彼は恐怖そのものを見ているのではなく、
その理由を理解していた。
ケンジが腕を組み、足で苔を踏み鳴らした。
「最高だな……。今度は読心猫かよ」
リノが片耳をピクリと動かし、尾を軽く叩く。
「うるさい、ケンジ。お前の番もすぐ来る。でもまずは、集中して」
リノは前足を離し、ひらりと後ろへ跳んだ。
爪が地面を軽く叩く音が響く。
「これがユネコの本質。私たちは戦わない――理解するの。敵の目的、味方の弱点、そして……時には勝機までも」
俺は拳を握った。
「頼む、教えてくれ。どうすれば……」
リノの金色の瞳が月光を受けて光る。
軽く笑みを浮かべたが、尾の動きには隠せない緊張があった。
「――あれは恐怖を喰っている。ただの精神じゃない。迷い、疑念、罪悪感……そういう負の感情そのものを糧にしてる。そして、賢い。獣なんかじゃない。どの心を壊せば全体が崩れるか――それを理解してる」
リノの声が、低く鋭く変わる。
「お前たちが迷えば迷うほど、あれは強くなる。一瞬でも怯んだら――終わりよ」
ケンジが眉をひそめた。
「……つまりどういう意味だよ、この毛玉」
リノが小さく唸り、アカリのそばへ歩み寄った。
彼女はケンジの膝の上で静かに横たわっている。
「よく見なさい。……彼女を」
リノは低く言った。
「ほとんど傷はない。体力も尽きていなかったはずだ」
柔らかな前足が、アカリの額に触れる。
「彼女の心は――嵐だ。お前たち三人の中で、最も才能に恵まれている。だが、その感情は常に渦巻いている。とりわけ……お前の祖父の死への罪悪感。そして、お前たちへの憧れ。それが、彼女を限界まで追い詰めている」
ケンジの肩がびくりと震えた。
「俺たちを……憧れてる? そんなわけねぇだろ。アカリの方がずっと強くて、勇敢で……何を尊敬するっていうんだ」
リノはゆっくりと目を細めた。
「戦いの中で、彼女は恐怖と罪悪感に飲まれていた。それを、呪樹は喰った。攻撃すればするほど、精神が吸い取られ――そして、倒れた」
「……回復するのか?」
俺の声は掠れていた。
「ええ。ただ……誰も治癒精技は使えないのね?」
「使えない」
俺とケンジが同時に答える。
リノはため息をついた。
「残念ね。私が治すわ。ただし――深い眠りに入ることになる。四十八時間は呼び出せなくなるけど、構わない?」
「そんなこと、頼んでないぞ!」
ケンジが反射的に言うと、リノは微笑んだ。
「わかってる。けど、これは義務よ。必要とあらば、命だって懸ける。――あんたたちも、同じ気持ちでしょう?」
その言葉に、俺は拳を握りしめた。
リノは続けた。
「まずは理解すること。呪樹の目的を――そして、迷いを捨てる。感情を制御できなければ、光刃は必ず死ぬ。アカリも、あと少しでそうなってた」
そう言って、リノは両の前足をアカリの胸に当てた。
温かな光が広がり、森の闇を照らす。
リノの輪郭が次第に薄れ、霧のように消えていく。
「もうすぐ目を覚ますわ。……私はしばらく眠る。――いい? これからは、自分たちで生き残りなさい」
「……ありがとう、リノ」
俺はそう呟いた。
リノは最後に尾を一度だけ揺らし、光の粒となって消えた。
静寂。
虫の声すら聞こえない。
俺はアカリの顔を見つめた。
彼女の呼吸は穏やかで――まだ、生きている。
大きく息を吐く。
リノの言葉が頭に残った。
恐怖を制し、迷いを断つ。
――それが、俺たちに課せられた試練なんだ。
焔の光刃としての、
本当の戦いは――これからだ。




