第5章 : 月影の森の囁き
寺に来てから――ちょうど一年が過ぎた。
綾澤師匠の指導は、さらに厳しさを増していた。
彼女は武器術に関して誰よりも秀でており、俺の剣の稽古を直接監督するようになった。
それでも、彼女が最も重視していたのは体術だった。
幸い、じいちゃんに教わった剣術の基礎はまだ身体に染みついていた。
そのおかげで、修練は少しずつ形になり――そして、精神を技として投射する術も上達していった。
その夜。
遅くまで続けていた稽古の最中――寺の鐘が鳴り響いた。
俺たちは顔を見合わせる。
この鐘が鳴ったら、すぐに中庭へ集まるように言われていた。
慌てて駆けつけると、そこには光刃の戦士たち全員が集結していた。
見慣れぬ顔ぶれに、思わず息を呑む。
炎の灯る松明の下、一人の男が静かに歩み出た。
「今宵ここに集う我ら光刃は、一つの志で結ばれる。ツキカゲの森――ハルイシ村近郊で、子どもたちの失踪が報告された。些細な出来事かもしれぬ。だが、小さな波紋が嵐を呼ぶこともある。この任務を、最も新しい三人の初伝弟子に任せる。これが光刃としての第一歩だ。炎を絶やさぬ者となれ」
師匠は一呼吸おき、炎の揺らめきが夜気を照らす。
「初伝の者たちよ。お前たちは火種だ。精神の息吹を胸に宿した最初の存在。その炎を守り、不安の中で道を照らせ」
瑞原師匠が手を掲げると、中央の火鉢の炎が一瞬にして燃え上がった。
金色の光が全員の顔を照らす。
「今夜、我らは世界の危険から逃げぬ。今夜こそ――何のために戦うのかを、思い出すのだ」
再び鐘が鳴り響き、集会は終わりを告げた。
他の光刃たちは一斉に頭を下げ、霧の中へと消えていった。
俺たちは、ただその場に立ち尽くしていた。
「……本当に、私たちが行くの?」
アカリが小さく震える声で尋ねる。
「師匠が任せたんだ。なら、これは試験じゃなく信頼だ」
ケンジが腕を組み、強がるように言う。
だが、彼の顎がわずかに震えているのを俺は見逃さなかった。
「そうだな。俺たちはもう弟子じゃない。光刃だ。どんな任務でも、絶対にお前たちを守る。この剣にかけて、二度と誰も死なせはしない」
二人は静かに頷いた。
俺たちは中庭を後にし、自分たちの部屋へ向かった。
そこには――綾澤師匠が待っていた。
「師匠? どうしてここに?」
アカリが尋ねる。
「初任務の知らせを聞いてな。ようやくこの時が来たようだ」
師匠は淡々と言葉を続けた。
「もう私から教えることはほとんどない。だが、一つだけ渡しておきたいものがある」
師匠は三つの小箱を取り出し、それぞれ俺たちに手渡した。
蓋を開けると、そこには衣が入っていた。
「お前たちの戦い方に合わせて仕立てた。この布は高熱にも耐える。――まあ、溶岩の中にでも飛び込まない限りは無事だろう」
ケンジが思わず吹き出す。
「さすがにそこまでは行かねぇけどな……」
「軽くて動きやすいはずだ。存分に使え。……そして、必ず帰ってこい」
そう言い残し、師匠は背を向けて去っていった。
「……あの人、もうちょっと感情見せてもいいと思わねぇ?」
ケンジがぼそっと呟いた。
俺たちは笑った。
緊張と不安の中に、ほんの少しだけ温かさが灯った。
「――少なくとも、ファッションのセンスは悪くないな。これ、派手でカッコいいじゃん!」
ケンジの一言に、思わず笑ってしまった。
確かに、その衣装はどれも身体にぴたりと合い、まるで仕立てられたようだった。
装備を整え、短い休息を取った俺たちは――夜明け前、東門へ向かった。
「霧が晴れ始めてる。でも完全に消えるまで一時間はかかる。離れずに行こう」
アカリが先頭に立つ。
――その時。
「おい、新入り、ちょっと待ちな!」
誰かの声。
振り返ったが、誰もいない。
「下だ、間抜けども!」
声の主は――猫だった。
服を着た、不思議な猫が、空間の中からふっと現れた。
「……アカリ、猫が喋ったぞ……。しかも今、出てきた」
ケンジが固まる。
「当たり前でしょ!」
猫――いや、ユネコ《ユネコ》は胸を張って言った。
「お前らは水を操り、火を放ち、地を揺らせるくせに、喋る猫に驚くとはどういう了見だ! 子どもか!」
「え、えっと……任務でツキカゲの森に――」
アカリが恐る恐る答える。
「ツキカゲ、ね。……で、どうやって行くつもり?」
ユネコの目がきらりと光る。
「まさか、寺を囲む森を抜けるルートを知らないとか言わないよな?」
「……多分、スキップしたかも」
アカリが苦笑する。
「スキップ? まったく、信じられない。光刃チームには必ずユネコが同行するのが決まりなんだぞ!」
猫は尻尾をバシッと振り、続けた。
「俺たちは道案内をして、現地に着いたら霊体化する。戦闘には向かねぇが、導くのが役目だ」
「ユネコ……? 初耳なんだけど」
「今知ったんなら、それでいい! おい、チビども、ついてこい! 一人で行ってたら森で迷って一生出られなかったぞ!」
「……正直、その方がマシかも」
ケンジが小声で呟く。
「なんか言ったか、カボチャ頭!」
ユネコがケンジの足をパシンと叩いた。
「い、言ってねぇ! ところで、名前とかあるのか?」
「もちろんだ! 俺の名はリノ。お前らの名前なんざ、とっくに知ってる」
ケンジが深いため息をつく。
「……長い旅になりそうだな」
「確実にな」
アカリが苦笑する。
霧が濃くなり、背後の寺が完全に見えなくなった。
リノの尻尾がゆらりと揺れ、俺たちはその後を追った。
最初こそ、そのおしゃべりに辟易したが――
すぐに気づいた。彼の言う通り、リノから離れれば、たちまち方角がわからなくなる。
森を抜けると、空気が一変した。
一年ぶりの外の世界。
頬に当たる風が、こんなにも自由に感じたのは初めてだった。
「ほらほら、さっさと進め! 観光は任務が終わってからにしろ!」
先頭を歩くリノが、尻尾を揺らしながら声を張り上げた。
「おいリノ! お前はしょっちゅう外出してるだろ!」
ケンジがうんざりしたように叫ぶ。
「俺たちは一年も山籠もりだぞ! 少しくらい息抜きさせろっての!」
「知るか、カボチャ頭」
リノが鼻を鳴らした。
「任務を早く終わらせれば、帰る前に好きなだけ見物できるだろ」
「……あの二人、全然噛み合ってないよね」
アカリが小声で俺に囁く。
「だな……ははっ」
俺たちは半日ほど歩き続け、ようやくハルイシ村の近くまで来ていた。
太陽は容赦なく照りつけ、喉が焼けるように乾く。
やがて見えてきた村は、小ぢんまりとしていて、どこか懐かしい雰囲気を持っていた。
木造の家々の軒先には赤や白の提灯がぶら下がり、風に揺れている。
村の門をくぐると、人々はちらりともこちらを見ず、黙々と作業を続けていた。
その表情はどこか無感情で――生気が薄い。
数軒先から、ほのかに茶とラーメンの香りが漂ってきた。
「文明っ……ついに文明だぁ!」
ケンジが両手を広げ、叫ぶように喜んだ。
「歩きすぎて足が死ぬかと思った! この猫に振り回されるし、腹は減るし!」
アカリが叱るより早く、ケンジは店へ駆け出していた。
俺は苦笑いしながら後を追う。
木のカウンターに腰を下ろすと、店主が温かい緑茶を出してくれた。
湯気がほっとする香りを運んでくる。
「なあ、リノ」
俺は隣の小さな猫をちらりと見る。
「そんな格好した猫が喋ってたら、普通は驚かれると思うけど……大丈夫なのか?」
「ご心配なく、ハヤト殿」
リノが尻尾を揺らし、得意げに言った。
「我々ユネコ《ユネコ》族は、精神感知に長けた者にしか見えぬよう訓練されております。姿を隠す幻衣の術や、地形把握の写図法も習得済みですゆえ」
「なるほど……便利だな」
アカリが感心したように頷く。
「ユネコって全部で何匹いるの?」
「九匹です」
リノが即答する。
「本来は十一匹のはずでしたが――瑞原殿は犬派でしてね。まったく、理解できませんよ」
そう言って、ふてくされたように鼻を鳴らした。
「さて」
リノは前足で顎を整えながら続けた。
「森まではここから歩いて数分。道も単純です。私の役目はここまで。解除の際は月猫の印を結んでください」
その言葉を最後に、リノは尾をひと振りし、陽炎のように姿をかすませた。
「……え? ムーン……何?」
俺が首を傾げると、リノの耳がピクンと動いた。
「まさか――月猫の印も教わっていないと?」
リノが前足で額を押さえ、ため息をつく。
「まったく、最近の弟子はこれだから……。仕方ありませんね、教えましょう」
彼は真剣な口調に変わった。
「月猫の印は単なる召喚術ではありません。光刃とユネコを繋ぐ、意志の契約でもあります。右手で虎の印を結び、そのまま胸――心臓の上に当ててください。この形は、心と心が純粋に結ばれることを象徴しています。召喚の際はユネコの名、もしくは結の言葉を唱える。解除の際は逆の動作で解と唱えるのです」
俺は頷き、リノが足元をくるりと回るのを見ながら動作を確認した。
右手を胸に当て――
「解!」
リノの身体が柔らかな光となって溶けていく。
「うむ、上出来です」
リノの声がゆらめく光の中で響く。
「覚えておきなさい。精神を通じて我らが繋がる限り――いつでも、どこでも、私はお前の呼びかけに応える」
そう言い残し、光はふっと消えた。
「……やれやれ、やっと静かになったな」
ケンジがにやりと笑う。
「ちょっと、ケンジ! そんな言い方ないでしょ!」
「冗談だって、アカリ。冗談」
俺たちは笑い合い、束の間の穏やかな時間を過ごした。
任務のことも、緊張も、その瞬間だけは忘れられた。
――その時、耳に届いたのは小さな囁きだった。
隣の卓で、二人の村人がひそひそと話している。
声は低いが、断片的な言葉が耳に届く。
「……また、いなくなったらしい」
「今月で三人目だ」
アカリが湯呑を持つ手を止める。
目が一瞬で鋭くなった。
「……夜の森がざわめくんだと。まるで森そのものが息をしているみたいに」
背筋に冷たいものが走る。
「……子どもたちは、その音を追って――戻ってこない」
俺たちは目を合わせた。
それだけで、次に何をすべきかが分かった。
――光刃の存在を明かすことなく、原因を突き止める。
「散開しよう」
アカリが低い声で言う。
「日暮れまでに村の中心で合流。どんな些細な情報でもいい、必ず掴んで」
「了解」
俺とケンジは頷き、それぞれ別方向へ歩き出した。
だが――
どこへ行っても、村人たちは無言だった。
声をかけても、返ってくるのは空虚な視線ばかり。
まるで、この村から感情そのものが失われたかのようだった。
やがて夜が訪れ、俺たちは約束の場所――村の中心へ戻った。
風が冷たく、遠くで虫の声が響く。
「……で、どうだ? 何か掴めたか?」
ケンジが腕を組み、沈黙を破った。
「……駄目だ。誰も話そうとしない」
俺は首を振った。
「まるで、この村全体が恐れに囚われてるみたいだ」
「ここで立ち止まってても仕方ないわ」
アカリが前に出る。
「ツキカゲの森はすぐ近くよ。行こう」
森の奥には――何かがいる。
その気配を感じながらも、俺たちは足を踏み入れた。
アカリが先頭に立ち、森の入り口で立ち止まる。
彼女は膝をつき、掌を土に当て、目を閉じた。
「――水の精技・熱声ッ!!」
温かな蒸気が地面を這い、周囲に広がっていく。
微細な温度差を読み取り、生命の熱を可視化する術だ。
目を閉じたままでも、彼女には全ての輪郭が見えていた。
「……熱反応はない。でも、それが逆に……嫌な予感がする」
アカリが立ち上がる。
俺たちは互いに頷き合い、森の中へ進んだ。
風が流れるたび、木々の影がざわめく。
まるで森そのものが息をしているようだった。
空気が重くなり、胸が圧迫される。
眠気にも似た眩暈。頭の奥で、何かが囁いている気がした。
やがて――地面に赤い線を見つけた。
木の根を伝うように伸びる、細い血の跡。
ケンジが膝をつき、跡をなぞる。
「……子どもの足跡だな」
「何人分?」
「六……いや、七人か」
俺は巨大な杉の幹に掌を当て、目を閉じた。
その瞬間、背筋を冷たいものが走る。
「この木……生きてる!」
月光が翳り、地面を這う影が蠢き出す。
ミミズのように伸び、アカリの足元へと絡みついた。
「くっ……動けない!」
地面が裂け、無数の根が飛び出す。
「散開しろ!」
ケンジの声が響いた。
根が鞭のように唸り、アカリの脚を包み込む。
膝まで達し、動きを封じる。
俺は身を転がしてかわし、剣を抜いた。
影が足元に伸びてくる――その前に、飛び込む。
「――火の精技・炎鎌ッ!!」
刃が炎を纏い、軌跡を描く。
燃え盛る刃が根を断ち切り、黒煙が立ち上がった。
アカリの足は感覚を失っていた。
俺は彼女を抱き上げ、木の高枝へ跳び上がる。
「大丈夫か!? 影を媒介にして、根で捕らえてる!」
「平気……でも、立ち止まるのは危険よ!」
地上では、ケンジが拳を構えた。
「――地の精技・剛撃ッ!!」
衝撃波が走り、根を砕く。
だが反動でケンジの身体が押し戻され、膝をついた。
「くそっ……! 簡単な任務のはずだったろ!」
俺たちは枝の上を駆け、襲い来る影を切り払った。
影は息をつく暇も与えず、何度も這い寄ってくる。
「もううんざりよ、こいつら!」
アカリの怒声が森に響く。
「ずいぶん賑やかな森だな!」
ケンジの軽口にも、誰も返さなかった。
ケンジが両腕で太い根を掴み、渾身の力で引きちぎる。
精神の光が迸り、地面が震えた。
「おおおッ!!」
根を叩きつけ、粉砕する。
だが、すぐに別の根が腕に絡みついた。
「ケンジ!」
俺は剣を振り抜き、巻きついた蔓を断つ。
その瞬間――森の動きが止まった。
風も、音も、消える。
「……何だ? どういうことだ?」
ケンジが息を整えながら呟く。
「わからない……でも、警戒は解くな。引く理由がない……これは――おかしい」
霧の向こうで、影が形を取り始めた。
短い手足、細い体。首を傾げ、こちらを見ている。
やがて、その背後から――
いくつもの人影が現れた。
アカリの息が止まる。
「……人間、なの?」




