第2章
獣の掌に集まっていた炎は、ついにその標的へ届くことはなかった。
代わりに、空を裂くように水の奔流が走り抜け、火花を散らしながらその腕を切り裂いた。
耳をつんざく蒸気の音。
目の前で、怪物の両腕が肘のあたりからきれいに断ち落とされた。
俺の視界に、白と青の衣をまとった影が立っていた。
茶色の髪を風に揺らし、動きは鋭く、まるで時間そのものを断ち切るようだった。
怪物と俺のあいだに立つその人物――あまりに静かで、あまりに落ち着き払っていた。
まるで、化け物を一刀のもとに斬り伏せたことなど、取るに足らぬことのように。
「まだ生きてるか、坊主?」
振り返りもせずに、その声が響いた。
「じいちゃん……アカリ……」
怪物が咆哮を上げた。
その身体がひび割れ、失った腕が再び燃えながら再生していく。
そして、狂ったような笑い声。
俺の無力さを楽しむように、炎の中でその口角を歪めた。
「愚かな人間ども。命にしがみつき、まるで自分たちが選ばれし存在であるかのように錯覚する。
だが現実を教えてやろう。神に許されたのは我らだけだ。
欲しいものは手に入れた。残りは……すぐに従うだろう。」
次の瞬間、息を吸い込もうとした空気が――消えた。
炎が消え、怪物の身体は灰となって崩れ落ち、風にさらわれていった。
何が起きたのか理解できぬまま、体の力が抜けていく。
傷の痛みと、消えかけた興奮。
もう、立っていることすらできなかった。
――意識が遠のく。
気づけば、俺は緑の野原にいた。
あたり一面、白い桜が咲き誇り、遠くには大きな山が見える。
静かで、穏やかで、どこか懐かしい。
もしかして、もう死んだのか――そう思った。
だが、新鮮な空気を吸い込んだ瞬間、背後から声がした。
「……ありがとう」
柔らかな手が肩に触れた。
振り向こうとした瞬間――視界が白く弾けた。
目を開けると、さっきの男が俺の脈を確かめていた。
「おい、大丈夫か?」
「……」
「無理するな。あれだけのことのあとだ。疲れて当然だ。」
頭の中がぐるぐると回っていた。
ようやく、あの地獄のような夜を思い返す余裕ができた。
「今のは……何だったんだ?」
「アレか? この世にあってはならんものだ。だが今は心配するな。
まずは妹を探そう、いいな?」
誰なのかはわからなかった。
だが、命を救ってくれた。そしてアカリを探してくれるという――それだけで、十分だった。
数分後、瓦礫のあいだからアカリを見つけた。
彼女は、あのとき助けてくれた少年の膝の上で気を失っていた。
額に手を当てる。冷たいが、かすかな温もりがある。
「……よかった。生きてる。」
その瞬間、アカリがわずかに身じろぎし、目を開けた。
俺の顔を見るなり、涙を浮かべて飛びついてきた。
「よかった……! 本当に、よかった……!」
「大丈夫だ。もう平気だよ。少し気を失ってただけだ。助かってよかった。」
アカリは涙を拭い、俺を見つめて言った。
「ねえ、ハヤト……じいちゃんは?」
胸の奥が、ぎゅっと締めつけられた。
言葉が出ない。
炎の中で消えていったあの光景が、頭の中で何度も蘇る。
顔から血の気が引いた。
アカリは不安げに辺りを見回し始める。
じいちゃん……どこにいるの……!?」
喉が詰まり、涙がこぼれ落ちた。
どうにか声を絞り出す。
「……もう、いないんだ。ごめん……。」
アカリは呆然としたまま俺を見つめ、それから顔を歪めた。
「そんなはずない! 嘘だ……!」
アカリは叫び、立ち上がった。
あたりを見回しながら、かすれた声で言葉を重ねる。
「じいちゃんは強いんだよ! どこかにいる! そんなわけ――!」
足元の瓦礫に躓き、倒れかけた彼女を慌てて抱きとめた。
アカリの拳が俺の胸を何度も叩く。
嗚咽と叫びが交じり、言葉にならない悲鳴が夜に響いた。
何も言えなかった。
俺も同じ痛みの中にいた。
それでも、誰かが強くいなければ――そう思った。
「絶対に許さない……」
アカリは泣きじゃくりながらも、震える声でそう呟いた。
その声は刃のように鋭く、胸に突き刺さる。
顔を上げた彼女の瞳に、あの優しい光はもうなかった。
残っていたのは、冷たく、まっすぐに燃える決意。
その気持ちは痛いほど理解できた。
俺も同じだったから。
――あの夜、すべてが奪われた。
村も、家も、そしてじいちゃんも。
その夜、俺たちは変わった。もう、二度と戻れなかった。
静寂を破るように、あの男が近づいてきた。
「……ご愁傷さまです。」
その表情には深い悲しみと悔しさが滲んでいた。
「もし私がもう少し早く来ていれば、こんなことには……。」
「あなたは……誰?」
アカリがかすれた声で尋ねる。
男は膝をつき、アカリの火傷を確かめた。
その肌の下に、淡い青い光がちらりと瞬いたのが見えた。
「身体が弱っている。治療が必要だ。」
アカリはうめき声を漏らし、息がどんどん浅くなっていく。
俺は慌てて耳を胸に当て、かすかな鼓動を聞いた。
焦りが喉を締めつける。
「頼む……! この子は、俺のすべてなんだ!
もし治せるなら、どこへでも行く! お願いだ、助けてくれ……!」
涙が止まらなかった。
もう、これ以上、大切な人を失いたくなかった。
男の鋭い目が細まり、しかし声は静かだった。
その時、少年がそっと俺の肩に手を置いた。
振り向くと、彼は優しく微笑んでいた。
「大丈夫だよ。きっと助かる。」
その声は不思議と温かく、まるで不安を溶かすようだった。
男は一歩前に出て言った。
「心配はいらん。彼女は私に任せろ。」
そう言って、アカリの身体を軽々と肩に担ぎ上げた。
表情ひとつ変えず、まるでこれまで幾度も人を救い上げてきたかのような自然な動きだった。
その腕力と落ち着きに、ただ圧倒された。
「俺も行く! この子は俺のすべてなんだ。
良い時も悪い時も、ずっとそばにいる。お願いだ、連れて行ってくれ!」
男は静かに息をつき、俺を見た。
「ハヤト……お前の気持ちは痛いほどわかる。
だが、今のお前には背負いきれない痛みだ。
それでも――覚悟はあるか?
これから向かう場所は、お前の想像を超える世界だ。
さっきの“あれ”など、取るに足らんほどにな。」
危険だとわかっていた。
それでも、アカリを放っておけるわけがない。
ただ、それだけだった。
「俺は彼女のそばを離れない。
どんなことがあっても。」
声は震えていなかった。
もう、迷いはなかった。
「僕も行く!」
あの少年が一歩前に出た。
「僕にもできることがあるはずだ!」
男は小さくため息をつき、それからわずかに微笑んだ。
「……最初から、そのつもりだった。」
「最初から? どういう意味だ……?」
「水術・蒼夢」
男が静かに指を鳴らす。
ぽつり――と、雨が降り始めた。
やがてそれは柔らかい幕のように辺りを包み込み、肌に触れるたび、意識が遠のいていく。
まぶたが重い。呼吸が浅くなる。
視界が滲み、世界が溶けていった。
アカリの顔が見えた。
安らかな表情で眠っている。
あの少年もゆっくりと倒れ込み、まるで最高の眠りに落ちたように静かだった。
俺も――もう、耐えられなかった。
意識をつなぎとめようとするが、指先から力が抜けていく。
最後に見たのは、ぼんやりとした人影。
俺たちの周りに、いくつもの足音が集まっていた。
何も考える間もなく、闇に沈む。
「……休むがいい。
目覚めた時、お前たちの道は新たに始まる。」




