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真滅の光焔  作者: 黒羽 スイ
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第10章 : 静寂の朝

消毒液の匂いと、布の擦れる小さな音――

それが、意識を現実へと引き戻した。


まぶたが鉛のように重く、ようやくのことで持ち上げると、視界に映ったのは寺院の医療棟だった。

高い窓から差し込む朝の光が、静かに白布を照らしている。

あまりにも静かで、まるで時間が止まっているようだった。


その静寂を破るように、鋭くも落ち着いた声が響いた。


「ようやく目を覚ましたか、ハヤト。」


ゆっくりと首を向けると、そこに立っていたのは――師範綾澤。

両手を背に組み、いつもの無表情のまま俺を見下ろしていた。


「し、師範……どうして……俺たちはここに……?」

声が掠れて、喉が焼けるように痛む。それでも、どうにか言葉を絞り出した。


綾澤師範は一歩、音もなく近づく。

その歩みは穏やかだが、揺るがない。


「お前たちを探しに行った。幽猫――リノの精神反応が消えた時点で、何か異常が起きたと判断した。幽猫の精神が完全に消えるなど、本来あり得ん。」


「……どうして、危険だと分かったんですか?」

俺はまばたきを繰り返しながら、記憶をつなぎ合わせようとする。


綾澤師範は膝を折り、俺の視線と同じ高さに腰を落とした。

ベッドの端に畳まれた衣を指差しながら言う。


「覚えているか? あの時渡した戦闘衣を。あれには私の精神を少量、織り込んである。お前たちの生命反応を感知するための保険だ。」


息を呑んだ。

「俺たちは……ほとんど死にかけてました。」


師範は静かにうなずく。

「そうだ。到着した時には、三人とも意識を失っていた。生きていたのが奇跡だった。」


胸の奥が重くなる。

安堵と羞恥が入り混じり、目を閉じた。


「ハヤト。」

彼女の声が少しだけ柔らかくなった。だが、その響きにはまだ鋼のような芯がある。


「生き残るとは、力だけの話ではない。気づくこと。備えること。そして、どれほど強くあろうとも――誰かに救われる瞬間を受け入れることだ。すべてを一人で背負おうとすれば、いずれ潰れる。……私が保証する。」


ゆっくりと頷くしかなかった。

「……わかりました、師範。」


窓の外では、朝日が寺院の外壁を淡く照らしている。

その光の中に、ほんのわずかな希望を見た気がした。


「師範……アカリとケンジは?」


「光刃医療班が治療している。二人はお前よりもずっと重傷だった。肉体も精神も限界を超えていたが――命は助かった。」


「よかった……それだけで、十分です。」

胸の奥に温かいものが込み上げる。


しかし師範の視線は、まだ油断を許さなかった。


「お前の体についても報告を受けた。……異常だな。外傷も内傷もない。精神の流れも正常。それどころか――今は健康体そのものだ。なのに、昏睡して三日。理由は不明だ。」


胸の鼓動が速くなる。

あの男――死聖。

奴が触れた場所が、いまだにじんじんと熱を帯びていた。


「……それよりも聞かせろ。」

師範の声が鋭く戻る。

「森で何があった? アカリとケンジの証言は断片的だ。お前の視点が必要だ。」


喉が詰まりそうになりながらも、俺は深く息を吸った。


「任務は――子供たちの失踪調査。月影の森で異常を確認する、ただそれだけのはずでした。でも、森は……生きていたんです。まるで意志を持っているように。」


拳を握る。

あの不気味な囁きと、湿った土の感触が蘇る。


「最初に見たのは、子供たちでした。幽霊ではなく……何かに操られているような。彼らが俺たちを森の奥へと導きました。そして――聞こえたんです。あの詠唱。死聖という言葉を含む、意味のわからない祈りが。」


綾澤師範の目が、わずかに細まった。

「……続けろ。」


「正確には……分からないんです。でも、あれを見たんです。屍魔を。あれは――恐ろしかった。半ば崩れた人の顔が木の体にねじ込まれていて……迷いもなく襲ってきたんです。」


そのときの圧倒的な力を思い出して、声が少し震えた。

「自分の体の一部を引き裂いて……何かを放った。負のエネルギーのようなものを。あんなの、初めて感じました。純粋な精神なのに……歪んでいる。汚されている。まるで俺たちの中に入り込み、心を支配しようとしてくるみたいで……最悪の記憶を無理やり見せられているようでした。でも……負けなかった。恐怖や疑念を抑えて、自分の心を制御して……倒しました。」


綾澤師範はゆっくりとうなずいたが、その瞳は鋭さを増した。

「……それで、どうして気を失ったの?」


俺は一瞬ためらい、シーツを強く握りしめた。

「その後……体勢を立て直そうとした時です。白いローブに色の模様が入った男が現れました。顔は仮面で隠れていて……自分を死聖だと名乗ったんです。その存在感……今まで感じたこともないほど強烈でした。斬りかかろうとした瞬間、何か――見えない力に止められて……そして彼は脅したんです。『続ければ、お前の大切なものすべてが滅ぶ』と。それから……心臓を、軽く、でも正確に突かれて……気づいた時には、消えていました。」


「ハヤト。」

彼女の声は穏やかだが、刃のように鋭かった。

「あなたが対峙したのは……普通ではない存在よ。負の精神――それは極めて危険な力。使用が厳しく禁じられているのには理由がある。」


「それって……どう危険なんですか?」

俺は眉をひそめ、彼女の言葉を咀嚼しようとした。


師範は短く息を吐き、背もたれに体を預けた。

「負の精神は、本来の純粋な精神を歪めて生まれるもの。精神の清らかさを喰らい、破壊の力へと変質させる。過度に使えば、使い手自身だけでなく、周囲の環境まで侵食していく。長く曝されれば、精神を蝕まれ、やがては自分が穢れの器となるのよ。」


俺はゆっくり息を吐き、シーツの端を指でなぞった。

だが次の瞬間、頭の奥で別の疑問が浮かぶ。


「師範……教えてください。死聖とか、聖人って何なんですか? 子どもたちが唱えてたし、屍魔も言っていました。あの男……死聖を名乗っていた……」


綾澤師範は眉を寄せて沈黙した。

「その言葉は……どの公式記録にも、機密文書にも存在しない。あなたは未知の領域に踏み込んでいるわ。――気をつけなさい。」


「……分かりました。」

胸の奥で苛立ちが渦巻く。

「でも、答えが必要なんです。知っていそうな奴がいる。」


俺は静かに両手を組み、月猫印を結んだ。

微かな鼓動が腕を伝い、精神の流れと共に体内を駆け上がる。

空気が揺らぎ、青白い光が瞬いた――そして、リノがいつもの調子で姿を現した。


「おやおや、生きて帰ってきたとは驚きだね。」

彼は皮肉たっぷりに言い、尻尾を揺らした。「それに、ほら! 今回はちゃんと死なずに済んだじゃないか。感心感心。」


俺は疲れたように笑った。

「リノ……やったよ。屍魔を止めた。アカリもケンジも……生きてる。」


リノの耳がぴくりと動き、細めた瞳にわずかな誇りが宿る。

「ふん。まあ、手を貸したのはこの僕だからね、当然の結果さ。……でも勘違いするなよ? お前が少しは汗をかく姿、結構気に入ってるんだ。」


俺は姿勢を正し、深く息を吸い込んだ。

「また……力を貸してほしいんだ。森で聞いた死聖とか、聖人って言葉。あれは何なんだ? 何か知ってることはないか?」


リノの尻尾がひょいと動き、乾いた笑いが漏れた。

「シセイ? 悪いけど、ピカピカの毛玉さんはそういうの知らないね。ナーダ、ゼロ。戦いのこととか、あんたの命がけのドジ以外は俺の専門外だ。精神の流れなら嗅ぎ分けられるし、修復もできる。でも、政治とか階級とか聖人とか……そういう面倒くさいのは、俺の世界には存在しない。」


俺は息を吐き、安堵と苛立ちが入り混じった感情が胸を満たした。

「……そうか。まぁ、聞くだけ聞いてみたかったんだ。」


リノは軽く歩み寄り、片方の前足をそっと俺の肩に置いた。

その瞳は、一瞬だけ鋭い光を宿していた。

「そんな顔するなよ、毛玉。お前はよくやった。生き延びて、仲間を守って、学んだ。“死聖”や“聖人”なんて、今はまだ謎のままでいい。だがな――次に来るもののために、今のお前が経験したことは、全部必要になる。」


俺は頷き、彼の言葉を胸に沈めた。

「ありがとう、リノ。本当に……ありがとう。」


「ふん。」リノは鼻を鳴らし、尻尾を一度だけ振った。

「礼なんていらないさ、新米。覚えとけ――面白くなる前に死ぬなよ。じゃ、俺はこの辺で退散だ。あんまりお前の夢の中に顔出してると、誰かに怒られるからな。」


俺は小さく笑い、緊張の糸が少しだけほどけた。

「気をつけるよ。」


リノは尻尾をひらりと振ると、光の粒となって消えた。

静寂が残る。胸の奥には、わずかな安堵と、まだ見ぬ嵐の予感だけが残っていた。


そのとき――病室の扉が軋む音を立てて開いた。

何かが勢いよく飛び込んできて、俺の体にぶつかる。


「ハヤトーッ!!」


聞き慣れた声が重なった。アカリとケンジだ。

二人は勢いのままベッドに飛び込み、笑いながら俺に抱きついてきた。

全体重がのしかかり、思わずうめき声が漏れる。


「ちょ、ちょっと待てって! お前ら、まだ回復中だろ!」

俺が押し返そうとしても、二人はまるで聞いちゃいない。

しがみつく腕には、生きているという確かな熱があった。


アカリはまだリハビリ帰りで髪が濡れていたが、笑顔は太陽みたいに明るかった。

「痛いのなんてどうでもいいよ! またこうして会えたことが嬉しいんだから!」


ケンジはいつもの調子で笑いながら、俺の肩を軽く叩いた。

「言っただろ? 俺たちは死なねぇって! お前も簡単には倒れねぇじゃん、ハヤト!」


「分かった、分かったから! でもな、無茶すんなっての!」

俺は苦笑しながら言った。

安心と疲労が一気に押し寄せてきて、胸の奥がじんわりと温かくなる。


そのとき、扉のそばに立っていた綾澤師範が静かに腕を組んだ。

普段の厳しい眼差しの奥に、珍しく柔らかな光が宿っていた。

「三人とも……生きて戻ってきてくれて嬉しいわ。回復しているようで何より。」


彼女は少し視線を落とし、淡く微笑んだ。

「けれど、私には他に片づけねばならない用事があるの。長居はできない。」


アカリが首をかしげて、少し寂しそうに尋ねた。

「師範……また戻ってきますか?」


綾澤師範は静かにうなずいた。

「ええ。だが今は、あなたたちを信頼できる者に託すわ。――早く元気になりなさい。」


そう言って、彼女は一歩下がり、最後にもう一度、温かな眼差しで俺たちを見つめた。


「忘れないで。あなたたちは自分の命だけじゃなく――あなたたちを信じる者たちの想いも背負っているのよ。」

綾澤師範の声は静かに響いた。

「その重みを決して見失わないこと。……また会いましょう。」


そう言って彼女は背を向け、静かに部屋を後にした。

扉がそっと閉まる音が響き、病室には一瞬だけ、静寂が戻った。


俺たち三人は、互いに寄り添ったまま、荒い呼吸を整える。


ケンジが大きく息を吐き、呟いた。

「……なんか、今のすげぇシリアスだったな。」


俺たちは顔を見合わせ、痛みを抱えながらも、どこかで笑っていた。

森の嵐も、屍魔の恐怖も過ぎ去った――だが、これから始まる道のりはまだ終わっていない。

新たな決意が、静かに俺たちの胸をつないでいた。


綾澤師範の足音が、白く冷たい病棟の廊下に消えていく。

その残響には、不思議な静けさと決意の気配が混じっていた。


廊下の突き当たり、重厚な青銅の扉の前で、彼女は立ち止まる。

唇が小さく動いた。

「……準備は、できています。」

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