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後編

(な、何がどうしてこうなったんだ……!?)


 雇用主であるユスト男爵の昼食の席に招かれ、一労働者としての振る舞いがすっかり染みついたヒースクリフはただ縮こまるばかりだった。

 豪華な食堂に用意された美味しそうな温かい料理。こんな贅沢な食卓は、本国で暮らしていた時でもめったに体験したことがなかった。


「君のことはこの農園の監督者から聞いたよ。真面目で勤勉で、医学の心得まであるそうだね」

「か、かじっただけです。本国で医学者の道に進もうと考えていましたが、大学までは行けずに学校を中退しましたし」


 微笑む男爵の右隣には、優しそうな男爵夫人。次女と三女も行儀よく席に着いている。

 ヒースクリフの隣に座るのは、青海の髪の少女……男爵家の長女、アリシア・ユスト。仕立屋の従業員だったはずの彼女が何故この場にいるのか、ヒースクリフはまだ把握しきれていない。


「そのことなんだけど、君さえよければもう一度その道を目指してみないかい?」

「えっ……」

「医学に詳しい者は何人いてもいい。俺は労働者にこそ学が必要だと思っていてね。勤労奨学生ということで、我が社に籍を置きながら本国の学校に通って、そこで身につけた知識を我が社に還元してほしいんだ」


 自信にあふれる微笑をたたえた男爵からは感情がうかがい知れない。願ってもない誘いだが、どうして自分に声がかかったのだろう。


「我がラドリエ商会は、紡績業、製糸業、そして織物業を中心に営んでいる。だけど数年前から、医療業界にも進出しているんだ。だから、医療の専門家を育てたいんだよ」

「……俺を選んだのは、アリシアお嬢様が俺に目をかけてくれたからですか」


 ぎゅっと拳を握りしめて尋ねる。アリシアはばつの悪そうな顔をしたが、男爵は静かに頷いた。


「それも理由の一つだね」

「なら……とてもありがたいお誘いですが、受けることはできません……」


 震える声で、ヒースクリフは新大陸に来ることになった経緯を語った。


 婚約者の家の金で勉強させてもらえていて、実家も没落せずに済んだこと。婚約破棄を突きつけられ、その結果勘当されてここに流れ着いたこと。もう二度とあんなみじめな思いはしたくなかった。


「うん、言いたいことはわかった。でも、君を誘った理由はそれだけじゃない」

「え?」

「言っただろう、医学に詳しい者は何人いてもいいと。……君、エイダー校の出身だろ? 実は俺は、そこの卒業生でね」


 たった半年前なのに、通っていた寄宿学校の名前はやけに懐かしく感じられた。


「医学生を早いうちから囲い込もうと思って、各地の名門校の教授達に色々と話を聞いていたんだ。その時に、君の話を聞かされた。きっと大学に進んで優秀な結果を残す、将来有望な医学者の卵だと言っていたよ」


 だからそのうち声をかけようと思ったのに、中退したと聞いて残念に思っていたんだ──ユスト男爵は愉快そうに笑う。逃がした魚がいつの間にか水槽にいた、と。


「アリシアのことは気にしなくていいよ。どうせわがまま娘の気まぐれだろうから」

「パパ!」

「俺は商売人として、君の将来性を買いたい。どうかな?」


 静かに問いかけられる。一度は諦めた夢への扉が、ヒースクリフの前にあった。


*


「お店で貴方が取り置きを断ったって聞いて、悔しかったから貴方にあげるつもりだった服は全部わたくしが買い上げたの。国に戻ったら、就職祝い? 進学祝い? どっちでもいいからあげるわね。前より筋肉がついてるから、ちょっと仕立て直しが必要だけど」


 昼食会の後、ヒースクリフはアリシアの着せ替え人形にさせられていた。アリシアいわく、ヒースクリフは服の着せ甲斐しかない生粋のモデル体質らしい。


「まさか君が、こんなお金持ちのお嬢様だったなんて」

「ママが静かなところが好きだから、普段は田舎で暮らしてるのよ? 田舎暮らしは退屈だから、王都に行くっていうパパの仕事についていって、社会勉強を兼ねて商会と付き合いのある仕立屋さんでお手伝いをしていただけ」


 確かに嘘はついていない。嘘は。


「貴方がうちに来てくれて嬉しい! 実はラドリエ商会は、最先端の医療品を扱ってるんだから! きっと貴方もすぐにこの選択が正しかったとわかるはずよ!」

「繊維とかの会社なんだろ? なんで医療業界に……」

「ふふーん。ねえ、ママの顔、見たでしょう? どう思った?」


 ユスト男爵によく似た、自信に溢れた笑みで問われ、男爵夫人の姿を脳裏に思い描く。さすがアリシアの母、美しい女性だった。アリシアの仕草や表情は父親似だが、顔立ちと青い髪は母親譲りのものらしい。


「綺麗な人だと思ったけど。……君と似ていて」

「でしょ! でもね、実はママって、顔に大きな火傷の跡があるの。身体中にも」

「えっ、そうなのか? そんな風にはぜんぜん見えなかったぞ」

「ママのためにパパが発明した、人工的な皮膚のおかげよ!」


 アリシアは胸を張る。特殊な繊維と染料によって実現したその不思議な薄いガーゼは、傷痕をしっかり覆い隠してしまうのだ、と。


「すごい……! そんなものがあるのか!」

「一人ひとりの肌の色と体質に合わせたオーダーメイドだから量産はできない高価なものなんだけど、効能はママが実証済み。だから、傷痕や生まれつきのあざを自然に隠したいお金持ちから注文が殺到してるのよ」

「なるほど。それで医療業界にも進出したのか」


 ドキドキしてきた。まったく新しい医療品を扱う商会に、専門家の卵として声をかけてもらえたという事実が、ヒースクリフの自尊心をくすぐる。親からも元婚約者からも見捨てられた彼に、その誘いはとても甘美なものだった。


「わたくし、こうして貴方と再会したことは、やっぱり運命だと思うの。貴方に何があったかは聞いたけど、つまりわたくしにもチャンスがあるということよね?」

「……悪いけど、俺は……」


 忘れたい傷がじくじくと痛む。アリシアに非はないし、気持ちは嬉しかったが、まだ気持ちの切り替えがつかなかった。我ながら女々しいと、ヒースクリフは眉根を寄せる。


「貴方と元婚約者さんに悪いところがあったとすれば、取り合わせとか巡り合わせとか、そういうものでしょうね。わたくしは貴方の元婚約者さんを直接知っているわけではないから、あまり踏み込んだことは言えないけれど」


 アリシアはトルソーからぴかぴかのジャケットを脱がせ、ヒースクリフに羽織らせる。


「別に、安価なプレゼントを喜ばなかった彼女が悪いわけではないと思うし、それしか用意できなかった貴方が悪いわけでもないと思うわ。貴方からの・・・・・プレゼントをもらって嬉しいと思えなかったことが、その元婚約者さんにとってすべてだったんじゃないかしら」

「……」


 姿見に映るのは、凛と佇む精悍な顔つきの少年だ。なんだか自分ではないように見えた。


「ちなみにわたくし、お金持ちのわがまま娘だから、大きな宝石のアクセサリーも豪奢なドレスももらい慣れて飽きてるの。だから、値段なんてどうでもいいから、わたくしのことを考えて選んだプレゼントをかっこいい人に贈ってもらいたいなぁ」

「……お嬢様の気まぐれに振り回されて捨てられるのは困るんだけど」

「あら、わたくしとの仲がどうなったって、パパは気にしないわよ。パパは言ってたでしょ、最初から貴方に目をつけてたって。貴方が優秀な研究者なら、わたくしが何を言おうがパパはその働きにふさわしい評価をしてくれるわ」


 ヒースクリフに被せるハットを選びながら、アリシアは楽しげに言う。


「外見というのは大きなアドバンテージよ。顔、服装、姿勢、歩き方……目に映る情報で印象は大きく決まるし、時には生き方や思考さえも表れていく。わたくし、貴方の見た目がだぁいすき。しかも、パパに目をかけられるくらい頭もいいんでしょ?」


 戯れに男物のハットを被るアリシアの、蠱惑的な眼差しがヒースクリフに向けられた。


「貴方が元婚約者さんのことをまだ忘れられないなら、それでも構わないわ。今は着せ替え人形ごっこで我慢してあげる。でも、必ず振り向かせてみせるわよ?」

「俺達はまだお互いのことをよく知らないのに?」


 迷う。差し出されたハットを手に取っていいのか。


「だから、これから知っていくんでしょう?」


 アリシアは勝ち気そうに言い切った。覚悟を決めて、ヒースクリフはハットを被る。姿見の向こうで、自信に満ちた貴公子が微笑んでいた。


* * *

 

 フローレンスは物憂げにため息をついた。


 針仕事のせいで目はしょぼしょぼするし、肩も凝る。夫であるアンソニーはフローレンスが内職することを快く思っていないから、「刺繍の腕を貴婦人達に見込まれて頼まれたの」と言うことでなんとか彼の目をごまかしているが、それもいつまでもつのやら。確かに嘘は言っていないし、小遣い稼ぎにはなるが、家計の足しとまではいかなかった。


「どうしてわたくしがこのような目に……」


 フローレンスはもう、裕福な貴族の奥方などではなかった。ルビア家の財産は、八年間の結婚生活ですべて消えてしまったからだ。


 ルビア子爵夫妻は、借金まみれの貧乏伯爵家の長男ヒースクリフとの婚約を破棄して、大貴族の次男アンソニーとの婚約を結び直すことに賛成した。


 だってもう、フローレンスのお腹には二人の愛の結晶が宿っていたのだから。


 元からルビア家側にうまみのない婚約だったから、むしろ婿が変わることは喜ばしいことのはずだった。


 大貴族らしい品格を保つ──それは、アンソニーと義両親、そしてその親族にとって何より大切なことだった。莫大な財産と地方に広大な領地を持つ、今もなお裕福な侯爵家だからこそ、変わりゆく時代の中にあってもその精神は健在だった。


 当然、高貴なる者としての品格を維持するためには、相応の出費を伴うことになる。

 次男のアンソニーはルビア家に婿入りしたが、その主張は変わらなかった。ルビア子爵夫妻も、フローレンスも、問題ないと思っていた。


 フローレンスはアンソニーとの間に長男をもうけ、幸せに暮らしていた。

 アンソニーはフローレンスと息子を溺愛していた。侯爵家の精神、そのままに。

 

 歯車が密かに狂いだしたのは、息子が生まれてほどなくしてルビア子爵が不慮の事故で亡くなってからだ。


 当主の早すぎる死。長男が成人するまで、入婿のアンソニーが代理で子爵位を継ぐことになった。事業もすべてアンソニーが引き継いだ。

 しかしアンソニーは商売にとんと興味がなく、寝転がっていればお金が入るのが投資だと思っている。そんなうまい話はないと気づいて侯爵家に金の無心に行けば、可愛い次男坊の頼みだからと望むだけの金が手に入るものだから、なおのこと金儲けに関心を持たなかった。


「フローラ、あそこの工場を欲しいという人がいるから、売ることにしたよ。よくわからないけど、相場より高値で買ってくれるそうだ」

「ええ、構わないわ」


 そしてフローレンスもまた、与えられることにしか興味を持っていなかった。

 彼女は、継続して自分が利益を生み出すのではなく、生まれた利益から自分が何かを享受することしか知らない。そんな世間知らずな彼女にとって、夫の言うことを聞いていれば間違いはなかった。だって、自分で責任を負わなくていいのだから。


 豪勢な食事、こまめに贈られる高価なプレゼント、きらびやかなドレス、美しい宝石、社交場への優雅な外出。

 金は湯水のように使われる。いっとき大きな収入があっても追いつかないほどに。


 生まれたときから裕福で、生粋の貴族であるという矜持を持ち、贅沢を享受してきたフローレンスとアンソニーにとって、財産は増やすものではなく使うものだった。


 ルビア家の財政が傾いていると最初に気づいたのは、フローレンスの母だった。

 赤字続きの台帳。安く買い叩かれた数々の事業。切り売りされる土地とカントリーハウス。夫が生きていたころとはすっかり変わり果てた財政状況を見て、彼女は悲鳴を上げた。


 だが、それで何かが変わることはなかった。


 何故なら現ルビア子爵は、骨の髄まで放蕩貴族だったのだから。


 フローレンスがヒースクリフと付き合っていたころは、彼と違って気前のいいアンソニーが素敵に見えていた。

 婚約者から贈られたプレゼントは安物ばかりで、到底人に見せられないという事実がたまらなくみじめだった。

 ヒースクリフの自慢できるところなんてその端正な顔立ちしかなくて、けれどそれだとますます自分がヒモ男にたかられているだけのように思えたのだ。 

 アンソニーはそんなフローレンスの苦しみを理解し、寄り添ってくれた。


 ルビア家に寄生するだけの、甲斐性なしの婚約者とはさっさと別れたほうがいい。君にはもっと相応ふさわしい運命の男性ひとがいる──


 彼のその囁きは、確かにあの瞬間のフローレンスにとっては真実だったのだ。


 ヒースクリフにあてた手紙の返事を書くより、アンソニーと本の感想を言い合うほうが楽しかった。

 アンソニーと特等席でオペラを鑑賞し、ヒースクリフでは絶対に買ってくれないようなドレスやアクセサリーを贈られて、アンソニーいきつけの高級レストランで食事をする。

 陰ながらデートを重ねるたびに、自分の隣にはこういう男性こそ相応しいという思いがどんどん強くなっていった。


 たまにヒースクリフが帰ってきたときは、彼に付き合っていたが、彼の用意するデートプランの安っぽさと子供っぽさには愕然としたものだ。アンソニーが選ぶ店のほうがよほど一流で、洗練されていた。比べるのもおこがましいほどに。

 いくらフローレンスが子供のころに好きだと言ったからといって、手作りのクッキーを平気で渡してくるのも恥ずかしい。貧乏くさいし、男らしさの欠片も感じられなかった。


 ルビア家の援助のおかげで贅沢ができているのだから、そのお金を少しぐらいわたくしのために使ってくれたっていいのに──


 幼いころは確かに遊んでいて楽しかった記憶もあるけれど、こんな冷たくてみっともない婚約者、とても友人達には紹介できない。


 フローレンスの心が純朴なヒースクリフから離れ、裕福で頼りがいのある年上の貴公子になびくのは至極当然の流れだった。


 アンソニーの態度は、結婚する前となんら変わらない。変わらないことが問題だった。彼はただ気前がいいだけで、収入と支出のバランスを何も考えていなかったのだ。


 そのうちに、フローレンスは生活のために高価な私物を泣く泣く売ることにした。

 けれどアンソニーはそのことで不満をあらわにし、ムキになって高価なものを贈り続ける。

 フローレンスだって、デザインが気に入らないから手放しているわけではないのに。


 第一、アンソニーがフローレンスに贈り物を買う資金のほとんどは、ルビア家の財布から出た金なのだ。

 ジュノー家の援助をしていたときとは事情が違う。今はもう、ルビア家の財布もほぼ空っぽだというのに。


 プレゼントはもういらないと何度伝えても、それをアンソニーが聞き入れてくれることはなかった。

 ルビア家の金はアンソニーの金で、それを使うことの何が悪いのかをアンソニーは理解していなかった。


 ルビア家にはもう、散財を許容できるほどの余裕はない。

 最初は甘かった侯爵家も、婿入りしたのにいつまでも頼ってくる次男に痺れを切らしているようだ。援助額はだんだん減っていっている。もしかすると、侯爵家の財政もかんばしくないのかもしれない。


 夫婦どちらも倹約という概念を最初から持ち合わせていなかったにもかかわらず、フローレンスがアンソニーより先に現実に気づいたのは、積極的に浪費されているのが自分の家の金だったからだ。


 まだ二十代前半だというのに、フローレンスの漆黒の髪には白いものが混ざるようになっていた。

 自分達の生活費、息子のための養育費、増える借金取りの足音、消えていく財産目録、取引を続々と打ち切る銀行家達や商人達に、次々といとまを願い出る使用人。先の見えない不安がフローレンスをさいなみ、気を紛らわせるためにさらなる浪費に走らせるという負の連鎖に陥っていた。

 

 アンソニーは真面目に話を聞いてくれない。金の心配をするのは卑しい下民のすることで、貴族らしくないからだ。


 今はまだ、親から継いだルビア家の屋敷がある。けれどもしかすると、いつかはこの住み慣れた家も手放さないといけないのかもしれない。そうなったとき、一体どこで暮らしていけばいいのだろうか。


 メイドが夕食の支度ができたと告げに来る。フローレンスは凝り固まった首と肩を回しながら、重い足取りで晩餐室に向かった。


 息子とアンソニーは一足先に席についていた。アンソニーは夕刊を読んでいる。一面を飾る白黒写真と見出しに何気なく目を引かれた。


『医学界期待の若手研究者、ヒースクリフ・ユスト氏が発見した──』


(ヒース……!?)


 苗字は違うし、記憶の中の彼よりいくぶんか逞しくなっているが、写真に映った凛々しく理知的な美青年にはヒースクリフの面影があった。彼は絶縁されたというから、ジュノー姓を名乗れずに何か適当な姓を使っているのだろう。


 あれは、間違いなくヒースクリフだ。

 だって三年ほど前に一度、ヒースクリフ・ユストの名でルビア家に大金が支払われたと顧問弁護士が言っていた。

 すべて使い果たしたので、もう何も残っていないが。

 

 紙面の中のフローレンスの元婚約者に、アンソニーは気づいていないようだ。八年前に一度会ったきりだから、忘れてしまっているに違いない。


 ルビア家からの援助を打ち切られたジュノー家は、爵位を売った金で婚約破棄の慰謝料を完済すると同時に王都から姿を消した。

 若いながらにしっかりしていたヒースクリフの異母弟が先頭に立ち、さっさと破産の手続きを済ませたらしい。元伯爵夫妻と次男のその後は、フローレンスの耳までは届かなかった。


(あのころヒースを援助していたのはわたくしの家なのだから、ヒースに会えば助けてもらえるかもしれませんわ……!)


 ヒースクリフはきっと、八年経った今でも自分のことが好きなはずだ。

 だって自分達は幼馴染みで、すれ違ってしまったとはいえ五年も婚約していたのだから。あの時はアンソニーの手前無視してしまったけれど、いきなり大金を送ってきたのもよりを戻したいからに違いなかった。

 仮にもう自分のことをなんとも思っていなかったとしても、ヒースクリフが寄宿学校に通えていたのは前ルビア子爵のはからいだ。今こそその恩を返してもらうのは当然と言えた。


 ──彼女は理解していない。

 かつてヒースクリフから支払われた大金が、彼の入学金と二年間の学費、そしてルビア家が肩代わりしたジュノー家の借金額に、一般的な相場の利子を合計した金額が一致していることと、その意味を。


 アンソニーに気づかれないように、フローレンスは新聞の一面を盗み見る。ヒースクリフは何かの代表団の一人として、王都で開かれる世界的な学会に出席する、というようなことが書いてあった。


「どうかしたかい、フローラ」

「い、いいえ、なんでもございませんわ」


 学会の日時と会場を頭の中に素早くメモし、フローレンスは曖昧に微笑む。


(息子のことは可愛いけれど……ヒースが望むなら、いっそ駆け落ちも……)


 もう少しでこの鬱屈した生活を終わらせられる──はずだった。


*


 学会が開かれるという大講堂は、とある名門大学の内部にあった。

 大講堂の前でヒースクリフが出てくるのを所在なさげに待つフローレンスに、学生達や巡回の警備員が怪訝な目を向けているが、これから生活が上を向くことを思えば気にならなかった。


 学会が終わったらしく、中から人がぞろぞろと出てくる。

 フローレンスは目を皿のようにして、元婚約者の姿を探した。


「ヒース──」


 ヒースクリフは見つかった。


「今日も最高にかっこよかったわよ、ヒース! さすがわたくしの旦那様ね!」


 けれど、フローレンスは動きを止めた。

 ヒースクリフの隣には、彼の腕に抱きつくようにして寄り添い歩く、青い髪の綺麗な女性がいたからだ。


「貴方が選んでくれたスーツのおかげで堂々とできたよ。それでも緊張したけどな」


 ヒースクリフは、ぱりっとした上質なスーツを着ている。パートナーである女性も、華やかで品のいいドレスを纏っていた。

 二人とも、立ち振る舞いが洗練されているし、頭のてっぺんから爪先まで丁寧に金をかけて手入れをしていることがよくわかる。


「貴方の晴れ舞台だもの、お義母かあ様もきっと喜んでいらっしゃるわ」


 女性は身につけていたブローチに視線を落とす。彼女の正装は、そのブローチをコーディネートの中心に持ってきたものだった。彼女にとてもよく似合っていて、その姿は同性でも見惚れてしまうほど美しい。


「だといいんだけど。お義父とうさんとお義母かあさんにもいい報告ができそうでよかった」


 対する自分はどうだろう。フローレンスは愕然としながら視線を下に向ける。地味で、少しほつれのある、野暮ったいドレスだった。

 爪も髪も満足に手入れができておらず、心労のせいですでに小じわも目立っているから、麗しの貴婦人という言葉とはほど遠い。


「パパとママは、いつものレストランで坊やと一足先に待ってるみたい。わたくし達も早く行きましょう? お腹空いたでしょ?」

「ああ、すっかりぺこぺこだ」


 女性と幸せそうに微笑みを交わして彼女にキスをするヒースクリフは、フローレンスには気づかなかった。


 群衆の中の一人。その程度の存在感でしかない。一瞥もくれないまま、彼は人混みの中に消えていった。


「ま……待って! 待ってくださいな、ヒース!」


 都合のいい妄想はがらがらと音を立てて崩れていく。現実に打ちのめされたフローレンスは、慌てて人混みに飛び込んで元婚約者の背中を追いかけた。


 けれどもう、彼を見つけることはできなかった。


* * *

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