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中編

 そんなヒースクリフの疑問は、思わぬ形で解決した。最悪の形で、という意味でだが。 


「ヒースクリフさんとフローレンス嬢の婚約は、破棄させていただきます」


 ルビア子爵の委任状を手にしたその青年がフローレンスを伴ってジュノー家に来たのは、春期休暇も折り返しを迎えたヒースクリフがそろそろ寄宿学校に戻る支度をしていたころだった。 


 ヒースクリフは面識がなかったが、その青年はさる侯爵家の令息だという。応接室に通されて伯爵夫妻とヒースクリフに顔を合わせるなり行われた自信満々の宣告に、ジュノー家側は呆然とした。 


「フローレンス嬢に対するご子息の冷遇ぶりは目に余る。このまま婚約を続けていてもフローレンス嬢は幸せになれないというのが、ルビア子爵のお考えです」

「冷遇? 俺が? 待ってくれ、一体何の話をしてるんだ?」


 慌てて声を上げたヒースクリフに、侯爵令息アンソニーは虫を見るような目を向けた。 


「手紙もめったによこさず、思い出したように贈るプレゼントは安物ばかり」

「返事が来ないのに一方的に手紙を送るのは迷惑だと思ったんだ。確かにプレゼントは安価なものしか用意できなかったけど、フローラのことを考えて選んで……」

「その自己満足に付き合わされるフローレンス嬢の気持ちは考えましたか?」

「……っ」


 強い語調で言い返され、ヒースクリフは言葉に詰まった。

 これなら喜んでもらえるに違いない、と思いながら選びはしたが、実際に返事が来たときにお礼の言葉が書いてあったためしなど一度もなかったことを思い出したのだ。アクセサリーも、それを身に着けてくれているところを見たことだって一度もなかった。 


(全部、俺の独りよがりだったのか?)


 信じていたものが消え去り、足元が崩れていく。ヒースクリフは愕然としてフローレンスを見たが、フローレンスはアンソニーの服の裾をきゅっと握ってうつむいた。それはヒースクリフへの明確な拒絶だった。 


「次に、ヒースクリフさんの学費の大半は、ルビア家が出しています」


 えっ、とヒースクリフは父伯爵を見た。伯爵は気まずげに押し黙っている。 


「入学金と学費だけは出してやるからそれ以上面倒をかけるなって言ったのは父上じゃないか! ほとんどがルビア子爵の金って……俺を騙してたのか!?」

「金を出したのは本当だろう! 誰の金かは重要ではない!」

「重要に決まってる!」


 寄宿学校に通うための諸々の費用を、ヒースクリフは親からの手切れ金だと認識していた。邪魔な息子に対する最初で最後の親らしい行いなのだ、と。それがまさか、婚約者の親からの出資だったなんて。  


「親子喧嘩は私達のいないところでやっていただけますか」


 冷徹な声音で吐き捨てられ、ジュノー家側は何も言えなくなってしまう。 


「学費を出したのは、将来の婿殿のための出費だからと子爵が許可したからです。ですが、この厚意にあぐらをかいた君は、大学に進もうとしているそうですね」

「しょ、奨学金のあてがあったんだ! 子爵がお金を出してくれていたなんて知らなくて……!」


 ヒースクリフは真っ青になって反論する。 


「貴族はいつまでも今の特権を保っていられない。それに俺はルビア家に婿入りするだけで、実権はフローラにあるだろう? だから俺は自分で身を立てるために医学の道に進もうと思ったんだよ!」


 医学の研究者になるというのはヒースクリフの夢だった。そのために莫大な金がかかることは知っていたし、実家が頼れないことも理解していた。

 だから積極的に教授に気に入られ、勉強に励んで主席を維持し、二年後の進学に備えた推薦と奨学金を確保しようとしていたのだ。 


「ルビア家がいずれ没落するとでも言いたいのですか! さんざん世話になっておきながら、なんと恥知らずな!」


 アンソニーはローテーブルに手のひらを叩きつけた。

 ヒースクリフは知らなかったが、アンソニーはふるい血統を何より誇りに思う昔気質かたぎの貴族の家の次男で、時代の流れに逆行してでも貴族の永遠の栄華を信じている青年だった。


 たとえ今は落ち目であっても魂の高潔さを失ってはならず、高貴な血を持つ者に相応ふさわしい振る舞いをして下民を導いていればすぐに返り咲ける……そんな教えを説く家だからこそ、ヒースクリフの主張をルビア家、ひいては貴族らしい格を保ち続ける自分の家に対する侮辱と捉えてしまったのだ。 


 アンソニーにとって、ヒースクリフのように諦観を持って時代に迎合していくのは愚かな負け犬の振る舞いに見えていた。


「ルビア家の財産目当てで婚約したくせに、フローレンス嬢をないがしろにし続けるその行い、あまりにも目に余る!」

「財産目当て、って……」


 ヒースクリフはわななく。また伯爵夫妻の欺瞞が暴かれたのだ。フローレンスが自分に一目惚れしたというのも嘘だったのかもしれないと、この時になってヒースクリフは初めて気づいた。


 子爵が借金を肩代わりし、伯爵家に多少の援助をしてくれるようになってくれたとはいえ、それでジュノー家の財政が回復するということはなかった。援助金を元手にして資産を増やすだけの能力が伯爵夫妻にはなかったし、それどころか借金がなくなったと安心した夫妻がその分だけ新しく散財するからだ。実際は余裕なんてないにもかかわらず。

 伯爵夫妻が楽しむ贅沢の恩恵に、愛されなかったヒースクリフがあずかれたことはない。だから彼は、自分の婚約以降生活がほんの少し豊かになったことを認識していなかった。


 伯爵夫妻は見栄のために、長男が借金のカタになっていることなど子供達には伝えなかった。

 息子達が成人するころには財政も立て直せているだろう、という無責任で楽観的な思い込みも手伝って、十三歳で寄宿学校に預けられたヒースクリフはもちろん、将来家を継ぐ異母弟にすら、その事実が教えられることはなかったのだ。


「ヒースクリフ・ジュノー! 愚かな君はフローレンス嬢の婚約者にふさわしくない! 婚約破棄に関するルビア子爵からの委任状はここにある。今すぐフローレンス嬢に謝罪し、彼女を解放したまえ!」


 アンソニーに人さし指を突きつけられたヒースクリフの顔はすっかり真っ青だった。これではまるで物語の中の悪役のようではないか。


 視線をあてどなく彷徨さまよわせるが、少年は孤独だった。誰も彼を庇い立てることはなく、それどころか敵意に満ちた目で睨んでいる。

 この場で唯一、ヒースクリフを愛していてくれたはずの少女すら、アンソニーをうっとりと見つめるだけでヒースクリフには一瞥もくれない。


「フローラ……俺の考えが至らなかったせいで、貴方を苦しめていたのか?」

「馴れ馴れしく呼ぶな! お前はもうフローラの婚約者ではないんだ!」


 フローレンスを抱き寄せた青年がヒースクリフをなじった。

 その呼び方と、フローレンスの嬉しそうな笑みで理解する。自分はもはや邪魔者であるということを。


「……すまなかった。知らなかったというのは、言い訳にはならない。……幸せに……幸せになってくれ……、フローレンス嬢……」


 泣いて喚き散らさなかっただけ上出来だろう。ヒースクリフの初めての恋は、こうして砕け散った。


*


「お前はなんということをしてくれたんだ! せっかく私が良縁を結んでやったというのに! この愚か者! 二度とうちの敷居をまたぐな!」


 父から罵声を浴びせられ、絶縁状を突きつけられる。

 学費のあてもなくなり、学校は中退になることが決まった。

 多分、学校に直接掛け合えば、特待生としてまだ在学の希望はあったかもしれないが、その手続きすら伯爵夫妻は却下した。ジュノー家側に責任があるということでなされた婚約破棄の慰謝料のことで、彼らの頭は一杯だったからだ。


「可哀想だから、新大陸行きの船のチケットを手配してあげる。今後は一切、我が家に迷惑をかけないで」


 かつては父の愛人、今は後妻として堂々と振る舞う伯爵夫人はきっぱりと宣言した。

 この国の植民地として開発が進む新大陸の国家は、金脈が次々と見つかったおかげで好景気に沸いている。けれどそんな幸運にあずかれるのは一部の成功者だけで、かの土地には夢破れた多くの開拓者の血と汗と涙が染み込んでいた。

 そもそも、新天地に辿り着く前に荒波に飲み込まれて海の藻屑となるのも珍しい事故ではない。伯爵夫人の言葉は、ヒースクリフに野垂れ死ねと言っているのと大して変わらなかった。


 海を越えてなんの伝手もない国に赴くのに、ヒースクリフの荷物はトランク一つだけだった。

 着替えと乾パン、義母に奪われずに唯一守り通した母の遺品のブローチに、愛読している数冊の医学書。それから、あの海色の髪の少女に見繕ってもらった一張羅。開拓地ではもう着る機会はないかもしれないけれど、せっかく大枚をはたいたのだから一度着ただけで手放してしまうのは惜しかった。


(あの女の子には悪いことしたな。服、せっかく取り置いてもらったのに)


 出発の前にあの仕立屋に寄ったが、青い髪の少女は休みなのか店にはいなかった。店の主人に事情を話して取り置きを断ってきたものの、あの少女を落胆させてしまったかもしれない。


(俺の人生、これからどうなるんだろう……)


 移住希望の開拓者達を乗せた大型船にすし詰めになり、ヒースクリフは物憂げに頭を抱える。

 ヒースクリフとの婚約を破棄してすぐに、フローレンスとアンソニーは婚約したらしい。出港日にわざわざ見送りに来た異母弟が教えてくれた。伯爵夫妻がいい顔をしないので異母弟と会話したことはあまりなかったが、彼なりにこの騒動には思うところがあったようだ。



 三か月の航海を経て、なんとかヒースクリフは新大陸の土を踏むことができた。

 長く海の上にいたせいで、地面までもが揺れている錯覚を覚える。狭い船室から解放されたヒースクリフは、寄る辺もないままとりあえず今日の宿を探した。


*


「ヒース〜! 足がいてぇよぉ!」

「大丈夫、ただのねんざだよ。冷やしてしばらく安静にしておけばよくなるから」


 医務室にやってきた労働者に、ヒースクリフはてきぱきと応急手当を施す。

 師事している老医師は休日をもらっていたので、今日の医務室の担当はヒースクリフだった。


 新大陸に来てから半年が経った。

 ヒースクリフは住み込みの求人を募集していた綿花の農園を見つけ、そこでなんとか働いている。鉱山やら農園やら、人手不足の職場を短期間でいくつか転々としたものの、労働条件やら人間関係やらが合わず、やっと腰を落ち着けられたのがこの農園だったのだ。


 この綿花の農園は、本国で暮らすとある富豪の成金男爵が経営している農場の一つらしい。

 本国でも十本の指に入るとまで言われる大富豪が経営しているおかげか、福利厚生はしっかりしているし、労働環境も悪くない。仕事は楽ではないが、ヒースクリフは真面目にこつこつ働いていた。


 ヒースクリフは最初、農場の労働者として雇われたが、医学の心得があることを監督者に告げると、医務室で老医師の助手としても勤めるよう言われたのだ。おかげで給料は少し上がった。


 農作業も熱心にこなしているので、半年前に比べればだいぶ筋肉がついたし、日にも焼けた。

 忙しく働いていれば、あの失恋の苦い記憶を忘れられるような気がした。


「そういえば明日、この農園の持ち主の男爵様が本国から視察に来るらしいぜ。しばらくこっちにいるって話だ。他の農園も見て回るだろうから、この場所には長居しねぇだろうが」

「へえ、そうなんだ」


 世間話に相槌を打つ。

 もう戻ることのないであろうあの国で、立派な貴族として富も名誉も持つ男爵。爵位を買った元平民の資産家は、今のヒースクリフにとっては顔も知らない雇い主の天上人に過ぎなかった。


 ……そのはず、だったのだが。



 翌朝、農場主の一家が来るということで、労働者達はいったん仕事の手を止めて出迎えのために整列した。ヒースクリフも並んでいる。


 立派な身なりの若い男爵とその夫人、それから三人の娘達がやってくる。ヒースクリフも他の労働者同様頭を下げたが、ふと視界にちらつく澄んだ青が気になった。


「嘘でしょう!? 新大陸に行ったって聞いたけど、まさかうちの農園にいるなんて!」


 その声は、ヒースクリフの目の前から聞こえた。


「これってもう運命じゃない? ねえ、間違いなく運命よ!」

 

 思わず顔を上げる。一目で良質な仕立てだとわかるきらびやかなドレスに身を包んだ青い髪の美しい少女が、嬉しそうにヒースクリフを見つめていた。 

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