前編
貴族というのは、いまや斜陽の人種である。
もちろん貴き血統を誇り、広い領地をもつ地主として君臨する者もいる。けれど裕福で力のある市民の台頭により、そんな貴族は少数派になった。
この時代において、上流階級を構成する者の大半は、たとえ名ばかりであろうと代々受け継いだ「貴族」という特権の象徴になんとかしがみつく者と、富と名誉を得たから次は脈々と受け継がれたステータスとしての「貴族」の地位を欲しがった元平民の資産家だ。どちらの力関係のほうが上かなど、今さら論じるまでもない。
ヒースクリフが生まれたジュノー家も、すっかり形骸化した名ばかり貴族だった。
伯爵というぴかぴかの看板だけ掲げているが、その実態は火の車。ちょっと裕福な平民のほうがいい暮らしをしている、と思う。
それもこれも、金もないのに浪費に走る継母と、商才もないのに調子に乗って借金だけ膨らませてくる父親のせいだ。
しかも実の母親は早くに亡くなっていて、彼女の死後すぐに迎えられた継母と、一歳違いの異母弟が幅を利かせているとなれば、ヒースクリフが実家を厭うようになるのも無理はない。
十三歳になって早々に王都から遠く離れた寄宿学校に預けられたのは、親からすればただの厄介払いだったが、ヒースクリフからすれば幸運だった。肩身の狭い思いをし、家族の冷たい視線を浴びなくて済むからだ。
ただ、一つだけ残念なことがある。それは、幼馴染みの婚約者、子爵令嬢のフローレンス・ルビアと疎遠になってしまったことだ。
フローレンスとの婚約は五年前、二人が十歳の時に結ばれた。
この時代にしては珍しく、ルビア家は地方の所領を切り売りすることなく有していたし、貴族に斜陽の影が差すことをいち早く察したルビア子爵が精力的に資産を投資や商売に回していたおかげで財産もあった。そこに目を付けたのが、ヒースクリフの父であるジュノー伯爵だ。
もともと父親同士が友人だったこともあり、婚約は無事成立。こうしてジュノー家の長男はルビア家の一人娘の婿になることが決まった。
幼い息子を担保にして金づるを確保した伯爵家は、なんとか一線を越えることなく上流階級に踏みとどまれた。婿入りを条件に、借金の返済を子爵家に頼んだのだ。
子爵家側にはあまりうまみのない話ではあったが、長年自分にマウントを取ってきた上位の貴族に対して優位に立てるということでこれを承諾。
それだけルビア子爵には、いけ好かない自称友人に対して腹に据えかねていたものがあったのだ。将来の婿殿が子爵家でどんな扱いを受けるかなんてもはやわかりきっていた。
ヒースクリフはこの婚約を、「お前に一目惚れしたフローレンスがねだったのだ」と親から説明をされていた。
それは伯爵の見栄による嘘で、実際に縁談を持ちかけたのはジュノー家だ。
しかしヒースクリフは他人を見下す悪癖のある父親とは違い、フローレンスの惚れた弱みに付け込んで高圧的に接することはなかったので、その認識の相違が露呈することはなかった。
大人同士の生臭い取り決めなど、子供達には関係ない。何も知らない二人は無邪気に交友を深めていった。
「フローラ、この花、とても綺麗だと思って摘んできたんだ」
指と爪の間に泥を詰めた手で差し出す野花の花冠は、フローレンスが前に好きだと言っていたピンク色。金もなく、親からも愛されていない十歳の少年には、それが精いっぱいのプレゼントだった。
「ありがとう、ヒース」
少女は笑って受け取ってくれた。ぴかぴかのドレスを着た彼女は、きっともっと見栄えのするプレゼントを色々な人から毎日のようにもらっていたのだろうけど。
週末になると、二人はよく森や公園へピクニックに出かけた。
ルビア家がよこした使用人が、ルビア家から持ってきたパラソルやガーデンテーブルを設置してくれる。ヒースクリフも自分で中身を詰めたランチボックスを持っていき、フローレンスに振る舞った。
ヒースクリフの手料理はフローレンスに好評で、週末のピクニックはヒースクリフにとっても癒しのひと時だった。
「実は、秋から寄宿学校に行くことになったんだ。だからこれまでみたいには会えなくなる。けど、手紙をたくさん書くし、長期休みの時には必ず帰ってくるから」
「嬉しいですわ。約束ですことよ!」
ヒースクリフはフローレンスを愛していた。初恋だった。フローレンスもまた、ヒースクリフを愛してくれていると思っていた。
勉強に明け暮れながら親元を離れて過ごす、二年目の冬。ヒースクリフはいつものように、何気ない日常を便せんに綴った。
『拝啓、フローレンス様
お変わりはないでしょうか。こちらは一足早く、冬の兆しが見えてきました。冬期休暇のころには雪が積もるでしょう。貴方に会える日が待ち遠しくてたまりません──』
寄宿学校のある町で買った、雪の結晶を模した飾りがついたヘアピンを同封し、婚約者への手紙を寮内の郵便窓口に預ける。フローレンスの烏の濡れ羽色の髪に、この純白の髪飾りはきっとよく似合うだろう。
けれど、返事は来なかった。
やっと自分あてに手紙が届いたと郵便窓口の職員から聞いたヒースクリフは、差出人を見て肩を落とした。実家からだったからだ。
弟が体調を崩してその世話で手一杯なので冬は帰ってこなくていい、という内容だった。両親に愛される異母弟は、王都の学園に通っている。
ヒースクリフは落胆し、もう一度フローレンスに手紙を出した。冬期休暇は帰れなくなったことと、フローレンスの体調をおもんぱかり、忙しいなら無理はしないでほしいと書き記して。
最初の半年は二週間に一回のペースでやりとりできた文通は、一年後には一か月に一回になり、このころには三か月に一回の頻度に落ちた。フローレンスからの返事がめっきり届かなくなったからだ。
休暇を迎えてフローレンスと顔を合わせても、なんだかどうにもぎくしゃくしてぎこちない。
彼女が喜んでくれた手作りクッキー、花屋で買った綺麗な花束、小粒の宝石がついたアクセサリー……勉強の合間に代書や教授の手伝いといった雑用で生活費と小遣いを稼ぐ貧乏学生なりに、できる限りのプレゼントを用意した。
必死で観劇のチケットを取り、景色がよくてピクニックに最適な公園を調べ、街で流行りの店やレストランに行けるよう予算を積み立ててきた。愛しい恋人に会えるのだから当然だ。
彼女の喜ぶ顔が見たくて、帰省が待ち遠しくて仕方なかった。
けれどいざフローレンスに会ってみると、それまでのわくわくが一気にしぼんでしまう。
今年の春季休暇を迎えて王都に帰ってきたヒースクリフを待ち受けていたのも、その言いようのない沈鬱だった。
「フローラ、何か俺に不満があるのなら教えてくれないか。すぐに直すから」
「不満なんて、そのような……」
物憂げな表情で何度もため息をつかれても気にせずにいられるほど、ヒースクリフの神経は太くなかった。たまらず尋ねても、フローレンスは暗い顔でうつむくだけだ。
(俺といても、楽しくないのかな)
王都を行き交うきらびやかな通行人達が目に留まる。彼らに比べると、着慣れた一張羅はどこか古臭く、野暮ったく思えた。傍らのフローレンスは今日も上質なドレスを纏っているのに。
(俺のせいで恥ずかしい思いをさせていた……? だからフローラも言い出しづらかったのか!)
身だしなみには気を使っていたが、華の王都で注目を浴びるほどの洒落者である自信などない。思春期の少年は、たちまち自分の身なりが恥ずかしくなってしまう。その後のデートは何を食べてもなんの味もしなかった。
とにかく改善しなければ。なけなしの金で百貨店や仕立屋を巡る。
けれどろくに予算のない若造がまともに相手にされることはなく、手の届く範囲の既製服はこれまでと変わり映えのしないものばかりだった。
「ねえ、そこの貴方!」
ある高そうな仕立屋のショーウィンドウを眺めてため息をついていると、澄んだ海のような青い髪の美しい少女が声をかけてきた。同い年ぐらいだろうか。ちょうど店から出てきた彼女は、なにやら上機嫌のようだ。
「俺?」
「このお店の職人さんは素晴らしい人達ばかりよ。貴方も何か仕立ててもらいに来たのでしょう? きっと最高の一着が見つかるわ!」
「あいにくだけど、予算オーバーでね。ただ見てただけだよ」
「そうなの?」
少女はヒースクリフの頭の先から爪先までじろじろと見た。
「こんなに着せ替え甲斐がありそうなのに。そうだわ! 貴方さえよければ、わたくしに服を見繕わせてくれない?」
「えっ?」
突拍子のない申し出にヒースクリフは目を丸くした。詐欺か、それとも押し売りか。警戒心をあらわにするヒースクリフに、少女はクスクスと笑う。
「わたくし、最近田舎から出てきて王都に滞在しているのだけど、その間このお店のお手伝いをすることにしたの。そしたら貴方の姿が見えて。貴方みたいな極上の素材が、つんつるてんの服を着て往来を歩いているなんて我慢ならないわ。ねえ、わたくしに貴方を着飾らせて?」
「こ、この服、そんなにダメなのか。おしゃれな店で服を買うつもりだったから、自分なりにおしゃれをしてきたつもりなんだけど」
「最悪とまでは言わないけど、ムリね。耐えられない。美に対する冒涜だわ。貴方、ちゃんと鏡を見たほうがいいわよ」
言葉の矢にグサグサ貫かれて出血死しそうになっているうちに、少女は強引にヒースクリフの腕を引いて店内に戻った。
生気の抜けたヒースクリフに、少女はあれこれと紳士服を持ってきては勝手に身体に当てていく。
「君、お針子か何か?」
「違うわ。わたくし、被服の才能はないもの。だけどファッションが好きだから、色々な人のコーディネートを見たくて仕立屋さんでお手伝いをしているのよ」
「俺、お金ないんだけど……」
「気にしないで。わたくしのわがままだから」
服を選ぶ少女の眼差しは真剣だ。とても口を挟める空気ではなく、ヒースクリフはおとなしく着せ替え人形に徹した。
「これでよし、と。着回しできるものを中心に選んだから、これからはちゃんとまともな装いをしてちょうだいね。靴もぴかぴかに磨くこと! 本当は、オーダーメイドの服も仕立てたいところだけど……」
「さすがにそこまでは……」
少女によって選び抜かれたのは、服飾に疎いヒースクリフでも一目でしゃれた高級品だとわかるものだった。おいそれとは受け取れない。
「せっかく選んでくれた君には悪いけど、俺、本当にお金がないんだ」
「気にしなくていいのに。男物の服を選ぶ機会は中々ないから、楽しかったの。それで十分だわ」
そして少女は照れたように頬を染め、ヒースクリフの耳元で囁いた。
「人の服装に口を出すのって、失礼でしょう? わたくしだって、普段はこんなことしないのよ。でも、貴方は特別。だって貴方、すっごくかっこいいのに暗い顔をして、くたびれた服でぽつんと立っているんですもの。だから、いてもたってもいられなくなっちゃった」
「あ……ありがとう。でも、そういうことならなおさら受け取れないよ。俺には婚約者がいるんだ」
ヒースクリフは気まずげに目をそらし、商品の値札を確認する。全部はさすがに買えないが、ジャケットとパンツ、それからシャツを一着ずつならなんとか手が出る金額だ。
(どうせ寮暮らしだし……三か月ぐらい食費を切り詰めて、医学書を買うのを我慢すれば……)
少女が選んでくれた中から、服を一式手に取る。
「だ、だから、これは俺が自分で買うよ。どれも素敵な服だった。選んでくれてありがとう」
「そう。せっかく貴方に近づけるチャンスだと思ったのに、残念だわ」
少女は唇を尖らせたが、手早く会計を済ませてくれた。
「今日選んだ服は、貴方の名前で全部取り置いてあげる。本当に似合ってたんだから、いつか必ず買いに来てよね」
「わかったよ。いつになるかわからないけど、頑張ってみる。取り置きの名前は、ヒースクリフ・ジュノーで頼む」
(き、緊張した……)
店を出て、ヒースクリフは安堵のため息をつく。でも、これでまともなデート服が手に入った。これでフローレンスに恥ずかしい思いをさせなくて済むはずだ。
*
けれど、そううまくはいかなかった。
観劇デートのためにフローレンスの屋敷まで馬車で彼女を迎えに行ったヒースクリフに、フローレンスは咎めるような眼差しを向けた。
「自分の服は新調なさるのね」
「え?」
「誰のお金だと思っていらっしゃるのかしら」
フローレンスは不愉快そうにため息をついて馬車に乗る。
誰のお金も何も、自分のお金だ。確かに仕立屋の従業員の少女に選んでもらいはしたが、これまでこつこつ貯めた金で買った。
(もしかして……フローラは、ドレスをプレゼントしてほしかったのか……?)
だったら話は早い。フローレンスの好きな、ピンク色のドレスを贈ろう。でも、予算のことを考えると、いつも彼女が着ているようなオーダーメイドの豪奢なドレスはとても贈れそうにない。
「フローラ、申し訳ないけど、俺の懐だと立派なドレスを用意するのは難しくて」
「……」
「君も知ってるだろ? 俺と父は仲が悪いから、家の金は頼れないんだ」
「……」
「だから、既製品にはなってしまうけど……それでもいいなら、ドレスを贈らせてほしい」
誠意を込めて伝えたつもりだ。愛しい恋人の喜ぶ顔が見たくて、そのための出費なら惜しくない。
でも、フローレンスの眼差しは冷たいままだった。
「結構ですことよ」
「でも」
「いらないと言っていますの。あなたにとってわたくしって、それほど安い女でしたのね」
「え? 何を言ってるんだ、フローラ」
それきりフローレンスは口を開かなかった。仏頂面のフローレンスとおろおろするヒースクリフを乗せたまま、馬車は劇場にたどり着く。
フローレンスはヒースクリフからチケットをひったくると、すたすたと一人で席まで歩いて行ってしまった。
やっとフローレンスが口をきいてくれたのは、終演後にたった一言。
「わたくしはこれから用事がありますの。今日はここまでにいたしましょう」
「待ってくれよ! ちゃんと話をさせてくれ!」
フローレンスを守るように従者達が壁を作る。その隙にメイドが呼び止めた辻馬車に乗り、フローレンスは去ってしまった。
(一体何がいけなかったんだ……?)
昼食を予約していたレストランに泣く泣く断りを入れ、ヒースクリフはとぼとぼと家に戻った。