氷の仮面
「ここです。リリアムさま」
スピラエが指差す先には、低い山があった。山というよりちょっと高い丘といったほうがいいかもしれない。独立峰で周りに他の山らしい山はない。
「この山中にランタナさまは庵を立てて住んでいらっしゃいますよ」
ランタナ。父ブラシカの冒険者パーティーメンバーで、父の仇である渾沌を知る人物。
「庵までは一本道ですので迷わず行けると思います」
「何から何まで、本当にありがとうございました」
リリアムは深々と頭を下げた。
「とんでもありませんよ。こちらこそ、リリアムさまに知己を得られて幸運でした。ランタナさまは、その…少々クセのある方ですが、リリアムさまなら大丈夫でしょう。ではお気をつけて」
スピラエの乗った馬車が遠く去るまでじっと見送ると、リリアムは山に向かって歩き出した。
ランタナを紹介してもらう代わりに王都までの護衛を引き受けたが、護衛というより山まで同行しただけである。スピラエがここまででいいと強く主張したのだ。
「……いい人だったなあ、スピラエさん」
山に入ると木々が鬱蒼と繁り、まるで樹のトンネルのようになった獣道がずっと続いていた。
リリアムは小さいころから森が大好きだった。木に囲まれていると不思議と心が安らぐ。リリアムが育った町にも森がすぐそばにあった。よくそこへ一日中遊びに行っては帰りが遅くなり、父に叱られたものだ。
「……リリー」
ふいにアーケルがリリアムの前に出て足を止める。
「どうしたの?」
「人間の殺気を感じる」
「まさかランタナさん…?」
「―おい、お前らどこへ行く?」
頭上の樹から声が降ってきた。姿は見えない。
「ここは聖域だ。一般人が入ってくるんじゃねえ」
「あなたは、もしかしてランタナさん?」
「なんだと?」
樹から声の主が地上に降ってきた。見事な身のこなしで着地する。
「お前ら何者だ? なんでその名前を知っている?」
若い男だった。精悍な顔つきをしており、アーケルとはタイプの違うイケメンだった。白銀の髪で薄花色の瞳にはリリアムにもわかるほど強い殺気が宿っている。手には大剣を握りしめ、いつでも斬り掛かってきそうだ。
「わたしたちスピラエさんの紹介でランタナさんに会いに来ました。あなたはランタナさん…ではないですよね」
「ったりめえだろ。俺は弟子だ。スピラエのおっさんの紹介だと?」
男はリリアムたちをじろじろ無遠慮に眺め回す。まだ警戒は解いていないが殺気は消えていた。
「ここは女やガキが物見遊山で来るところじゃねえ。さっさと帰りな」
男に睨まれてハーデンベルギアはリリアムの後ろに隠れた。しかし顔に怯えの色はない。
「物見遊山ではありません。ランタナさんにお会いしたいのです。お話しを…どうしてもお話ししたいことが―」
「ダメだね」
「……どうしてですか」
「理由は二つ。…一つ。師匠は誰とも会わねえ。人が嫌いなんだ。…二つ。俺がお前らを気に食わねえからだ」
「そんな…そんなの、理由になっていません」
「そこの男」
男がアーケルに鋭い視線を送る。
「お前、強いだろ。俺と立ち会え。お前が勝ったらここを通してやるよ」
「どうしてそうなるのよ…ヨーマ、ダメっ。絶対闘っちゃダメだからね」
「ここを通りたきゃ闘うしかねえぞ」
男は再び殺気を放ち始める。
「ダメよっ! ヤメて!」
どれほど剣の腕がたつのか知らないがアーケルが勝つだろう。しかしランタナの弟子をここで殺したところで何の意味もない。むしろランタナを怒らせて会えなくなる可能性のほうが高い。
男は大剣の柄に手をかけた。アーケルは静かに佇んでいるだけだ。
「ダメぇぇっ!」
リリアムの必死の制止も虚しく一触即発と思われたその時。
山を揺るがす重い音が響いた。木々の葉が触れ合う激しい音が続く。鳥が一斉に飛び立った。
「―やべっ。師匠が怒ってる」
男は瞬時に手を引いた。
「師匠がお前らと会うってよ。ついてきな」
急展開にリリアムは戸惑いの表情を浮かべながら、先導する男の後を追った。
間もなく開けた平地に出た。奥に小さな小屋が建っている。その建物の入口前、階段に一人の人物が寝そべっている。
「ファーグス。ギャーギャー騒ぐんじゃねえ。騒々しいったらありゃしない」
「そうは言っても師匠。こいつらがスピラエの紹介とか抜かすから、一発脅かしてやろうと―!」
何かが光った。と思ったときにはファーグスと呼ばれた男がナイフを指で挟んでいた。
「へっへー。師匠、この程度じゃ俺にはもう通用しねえぜ」
「クソ生意気な小僧だ」
どうやら、寝そべっていた人物がファーグスに向かってナイフを飛ばしたらしい。リリアムには見えなかったがファーグスがそれを指で受け止めたのだ。
「……あの! わたし、リリアムと申します」
リリアムが声を張り上げた。寝そべっていた人物がゆらりと立ち上がる。
大柄な女性だった。背丈は長身のアーケルと同じくらいだろうか。金色の髪を短く刈り揃え、筋骨隆々で巨大な胸が張り出している。
「ランタナさん…でしょうか」
「だとしたらどうする?」
「お話ししたいことがあります。『渾沌』のことで」
「渾沌? 知らないね」
「え…でもスピラエさんがランタナさんは渾沌のことを知っているって…」
「スピラエのジジイが何を言ったか知らないが、あたいには関係ない。第一、あたいはツラのいい男としかしゃべらないことにしてるんだ。小娘は引っ込んでな」
「ではオレとは話せるな」
アーケルが口を挟む。
「あ? あたいの話聞いてたか? イケメンとしかしゃべらねえつってんだよ」
「オレは顔がいい。お前の条件に合う」
「自分で言うか? まあ確かによく見りゃ、お前のツラも悪くはねえ。だがな、渾沌なんてあたいは知らない。知らないもんは話せねえよな」
ランタナは氷のように冷たい視線をリリアムに投げかけた。そこには何の感情も見いだせなかった。
「そんな…」
リリアムは唇を噛み締めた。
「……わたし、ランタナさんに会うのをとても楽しみにしていました。父からよく話を聞かされてきましたから、ブラシカパーティーの冒険譚を」
「とっくの昔、大昔の話だ」
「召喚士ブラシカ、剣士ランタナ、魔導士カリカルパ。三人パーティーの冒険譚が大好きでした。父も…父ブラシカもいつも楽しそうに話していました」
「……」
「へえ、あんたあの大召喚士ブラシカの娘か」
そっぽを向いたまま無言のランタナに代わりファーグスが驚嘆の声を上げる。
「父からはランタナさんやカリカルパさんは亡くなったと聞かされていました。でも生きていらっしゃると聞いて、とても心が踊りました。父は亡くなりましたけど、また三人パーティーの話をランタナさんから聞ける、と思って…」
「今度は泣き落としか? そんなものであたいの心は動かんぞ」
「そんなつもりはありません。ただ、父を殺した渾沌を許せないだけです。仇を討つためにわたしも召喚士になって―」
「何度も言わせるな」
ランタナは言い募るリリアムを遮り、今度こそきっぱりと告げた。
「渾沌なんて知らん。他に用がないならさっさと帰れ」