誘拐
気がつくと、周りは暗かった。身体を動かそうとすると、両手が鎖で上から吊るされている。お腹は鉄の板で壁に固定されていた。足首にも枷がはめられて動かせない。
少し時が経つと、目が暗闇に慣れてきて少し様子がわかってきた。壁も床も天井もゴツゴツした石でてきている。湿気もあるので洞窟のようなところらしい。
気を失う前の記憶を辿る。王宮の中庭で花柑子と名乗る女と出会った。禍乱に仕えているという彼女は、自分に用件があると言っていた。
「僕に用件…」
思いつくのは、人質にとってファーグスを誘い出す、というくらいだ。しかし、森で対峙したとき、禍乱の能力は圧倒的だった。今さら人質を取ることに何の意味があるだろう。
「……!」
遠くから足音が聞こえてきた。灯りが近づいてくる。
「……あ、目が開いてる」
予想どおりそれは禍乱だった。灯りを空中に浮かべて花柑子が従っている。その花柑子が灯りを向けてきた。まぶしさに一瞬目がくらむ。
「こんにちは、恋人くん。ボクのことは知っているよね?」
禍乱が目の前に立った。背は低い。しかし禍々しい気が巨大なオーラとなって自分より遥かに大きな身体に見えた。
禍乱にいきなり頬を平手で叩かれた。痛みに耐えていると、もう一度叩かれた。口の中を切ったらしく、口元から血が流れる。
「ボクが訊いているんだよ? 黙ってないで返事しなよ。ボクのことは知っているよね?」
禍乱の顔にツバを吐きかけた。
「……舐めているね」
禍乱は乱暴に顔を掴んだ。
「恋人くん。キミを殺すのは簡単だ。でも殺さないよ。生かしたまま、キミの顔を壊してやるんだ。それでもフィールはキミを好きなままでいられるかな?」
「……フィールにつきまとうな」
「あッ、声を出した。やっとボクと話してくれる気になったのかな」
「……」
「花柑子はね、ボクがフィールのことを好きだ、って言うんだよ」
「……!」
「おッ? 驚いた顔をしたね。面白ぉーいッ」
禍乱は手を叩いて喜んだ。
「だから、フィールに恋人がいることがわかって、嫉妬してるんだって。五指仙たるこのボクが、人間を好きになった上に嫉妬までしてる、っていうんだよ。失礼だと思わない?」
「……」
「あらら。また黙っちゃった」
禍乱は背中の双剣を抜いた。無造作に一閃する。
「……!」
服の胸元だけを斬られ、小ぶりだが張りのある二つの膨らみが露わになった。悔しさや恥ずかしさで顔を背けた。
「あれぇー? この前ボクがつけた傷がもうこんなに薄くなってるぅ。見てよ、花柑子。血がドバッと吹き上がったんだよ。そりゃ、踏み込みは浅かったけどさぁ、傷跡くらい残したいよね」
「しかし、禍乱さま。ここで傷跡が残るほどの怪我をさせると出血多量で死にますが、よろしいのですか」
花柑子は感情のこもっていない視線をこちらに向けてきた。無表情で何を考えているのかまったくわからなかった。
花柑子は見た目は人間にしか見えない。人間にも内面は魔獣のような者はいる。花柑子もその類で、魔獣の禍乱に従っている人間なのだろうか。
「えぇー? 死んじゃうの? それは困るな。わざわざ連れてきた意味がなくなっちゃうよ。しょうがない。身体は諦めて、顔に専念するか」
禍乱はニッと笑った。二本の牙が覗く。
「じゃあさ、恋人くん。キミは自分の顔の中でどれが一番好き? そこから壊すことにするよ。憎たらしい目? 挑戦的な鼻? フィールを言葉巧みに騙す口?」
「……死ね、クソヤロウ」
「……!」
禍乱に、拳で顔を殴りつけられた。何度も何度も。鼻からも口からも血が飛び散る。口のなかに固いものを感じたので吐き出すと、折れた歯が出てきた。
「次に生意気な口をきいたら、喉を潰すよ」
禍乱は喉を締め付けてきた。息ができず目の前が真っ暗になった。
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リビングの暖炉に執事が火をいれてくれた。昼過ぎだというのに、朝より気温が下がってきたからだ。ブルンフェルシアのこの時期は、時々こういう日がある。
ランチをご馳走になったリリアムたちは身体も心も暖まりながら、暖炉の前で話に花を咲かせていた。
「……すると、そのフィールとレギーの間に何かのっぴきならぬ事態が生じている、とリリーは言うのだな」
「フィールは話してくれないけど、絶対何かあったのよ」
「話を聞く限りでは、積極的に迫っておるのはレギーのほうだが、フィールもまんざらではなさそうだの」
「わたしもそう思う。きっとフィールもレギーのこと好きなのよ」
そのファーグスがリリアムのことも好きだということにはまったく気がついていない。人のことはよく見えても自分のこととなると、途端に曇るものらしい。
「では、単なる痴話喧嘩ではないのか。そうリリーが心配することでもあるまい」
「フィールって、豪快そうにみえて実は生真面目なところがあるから心配です」
ハーデンベルギアは物思わしげに長いまつ毛を伏せた。
「生真面目さが悪いほうに転がらなきゃいいんですけど」
「ハーディも結構、人のことよく観てるね。偉いわ」
リリアムはハーデンベルギアの頭を撫でた。食後の紅茶を飲みながら、アーケルはジロリと横目で見る。
「……リリーは、ハーディのこととなると何でも肯定してしまうな」
「なあに、ヨーマ。ヤキモチ? なんなら、あなたの頭も撫でてあげようか?」
「ふざけるな。誰が子どものお前に頭を撫でられたいものか」
「わたしだって、もうすぐ成人なんだから。年下のあなたに子ども呼ばわりされたくない」
「そう言えば、リリーの誕生日は来週じゃったの」
「えっ!? 来週、リリーのお誕生日なの!?」
ハーデンベルギアが驚きの声を上げる。
「―お祖父さま。それは言わないでよ」
「なぜじゃ。晴れて18歳。大人の仲間入りじゃぞ。めでたい話ではないか」
「たいへん。お誕生日のお祝いしなくちゃ。いろいろ準備しないといけないし。ヨーマ、手伝ってね。一週間なんてあっという間だよ」
「ちょっと、ハーディ。そんな張り切らなくていいから」
「ダメ。あたしのときにもお祝いしてくれたのだもの。リリーにだってお祝いしてあげたい」
「―こうなるとわかってたから、黙ってたのに。お祖父さまったら」
「余計なことを言ってしまったかの」
「そんなことありません、陛下」
「じじいで良いよ、ハーディ」
優しく微笑むサピンダスに、ハーデンベルギアは、はにかんだ。
「―リリーのお誕生日を教えてくださって、ありがとうございます、お祖父さま」
「でも、ハーディ。わかってる? わたしたちの目的は偏屈王に養子縁組を認めさせることなのよ。その目的が果たせないうちは、お祝い気分になれないよ」
「それはそれ。これはこれよ」
「―その養子縁組のことなんだがな」
おもむろにアーケルが口を挟む。
「オレに考えがある」
「えっ!? そうなの?」
「要するに、ハーディを養子にすると得をすると国王が納得すればいいんだろう?」
「そうなんだけど、その得ってやつが思いつかなくて困ってるんじゃないの」
「こういう理由なら、どうだ」
アーケルが説明を始めた。
「……これなら、至極簡単だと思うが」
「―イケる。イケるよ、ヨーマ」
リリアムの蒼い瞳が輝いた。
「でも、そうと決まったわけじゃないし……」
ハーデンベルギアは真っ赤になって俯いた。
「何言ってるの、ハーディ。決まったも同然でしょーよ。すごい、すごいよ、アーケル。とっても頭いい!」
リリアムは興奮してアーケルの首に抱きついた。
「バ、バカ。よせ! みんなが見てるだろうが」
アーケルは真っ赤になりながら抗議するが、リリアムはお構い無しである。
「天才よ、アーケル! ありがとう、これなら偏屈王も認めないわけないよ」
「……まったく、近頃の若者は恋人同士でもあるまいに、簡単に身体をくっつけおって。わしの若い頃には―」
サピンダスは呆れたように言いかけて、あることに気がつく。
「―む? 恋人同士だと? お前たち、まさか…」
「お祖父さま。リリーとヨーマはね」
ハーデンベルギアは、我が事のように幸せそうな表情を浮かべて言った。
「婚約してるんです」
「なんと!」
サピンダスはひっくり返りそうになる。
「なんと、なんと。あのわしの可愛いリリーが、婿殿を連れてくる歳になったか。なんということだ」
リリアムは照れくさそうにアーケルから身体を離した。
「これは二重にめでたい。でかした、リリー。早くわしにひ孫の顔を見せてくれ」
「お、お祖父さま!? なんて気の早いこと言うの!? わたしたち、まだそんな…」
リリアムは、そっとアーケルの表情を盗み見た。普段はポーカーフェイスのアーケルが、耳まで真っ赤にしている。
「これはうかうかしていられんのう。ひ孫を見るまでは死ねん―」
「―だんなさま、ご歓談中申し訳ありません」
サピンダスが言いかけたそのとき、執事が顔を覗かせた。
「王宮から至急の用件だと使いの者が来ております」
「なんじゃと? ―よい、通せ」
「王宮から、何の用件かな」
顔を見合わせていると、衛兵が部屋に入ってきた。衛兵は入ってくるなり不思議な仕草をした。胸の前で十字を切ったのだ。
「えっ!? あなた諜報員さん!?」
ハーデンベルギアがバッと立ち上がった。ハーデンベルギアにはわかる合図だったらしい。
「セネシオの?」
リリアムもハーデンベルギアに続いて衛兵に近寄った。
「セネシオの諜報員さんが何の急用?」
「リリアムさまに申し上げます」
リリアムの前にひざまずいた諜報員から出た言葉は、衝撃をもたらすものだった。
「ブレティラさまが何者かに誘拐された由にございます!」




