赤髪のアン
それからまた数日が過ぎた。
「気をつけてね。行ってらっしゃい」
アンゲルスは笑顔でリクニスに手を振った。森に出掛けるリクニスを、家の前まで出て見送るのがアンゲルスの毎朝の日課になっている。
「おや、アン、今日もお見送りかい」
そこへ、近所に住むフィカスが通りかかった。明るく社交的な性格のアンゲルスは、すぐに村の人たちと顔見知りになり、今ではすっかり溶け込んでいる。
「お早うございます、フィカスさん」
アンゲルスは笑顔で挨拶する。フィカスはリクニスと同じ木こりを生業としている。歳も近く仲が良かった。
「アンは、すっかり奥さんが板についてきたね」
「えっ!? ち、違いますよ。わたしとリックはそういうんじゃないから」
アンゲルスは髪と同じ色に頬を染めながら、チラッとリクニスを見た。
「フィカス、バカなこと言うんじゃねえよ。アンに失礼だろうが」
リクニスは真っ赤になりながら抗議する。
「まあまあ、そう照れるなって。アンはいつも明るくて元気があって、リクニスの奥さんにぴったりだと思うよ」
「……からかうんじゃねえ」
リクニスはフィカスを捕まえようとした。意外な身のこなしでフィカスは逃れる。
「先に行ってるよーっ」
フィカスは山へ向かって走っていった。
「……なんなんだ、あいつ」
リクニスは、いまいましそうに呟いた。
「……じゃあ、行ってくる」
「うん。お昼にまたね」
今度こそ、リクニスは山へ向かって歩き出した。後ろ姿が木々の間に消えるまで見送ると、アンゲルスは家の中へ入ろうとした。
「……痛っ」
急に頭痛に襲われた。一瞬目の前が真っ暗になる。しかし、すぐにそれは収まった。
「―後遺症かな」
一度、強く目を閉じる。
「よしっ!」
気合いを入れると、元気よく家の中へ入った。
「―さあ、グレンおばあさま、またお料理教えて」
「アンは精が出るのう。初めは包丁もロクに使えんかったが、今じゃなかなかサマになってきたし」
「それは言わないでよ。きっと前のわたし、お料理したことなかったんだよ」
「……リクニスのためか? 毎日ようまあ飽きもせず山へ入って行くが」
「木の切り出しって、体力使うじゃない? リックにはご飯を一杯食べて体力付けてもらわなくちゃ」
「だからと言うて、わざわざ持っていかんでも、朝持たせりゃいいに」
「だって…一緒に食べたいから」
アンゲルスは、ほんのり頬を染めながら照れたように言った。
「ふーん。そうかい」
「……なによ、おばあさま。何が言いたいの?」
「いや、なに、リクニスは口下手じゃ。待っておったら、すぐ年寄りになってしまうと思うただけじゃ」
「―わたしは別に…何も待ってないよ」
「そうかい、そうかい」
「おばあさま、意外と意地悪ね」
「ふぉっふぉ。アンは面白いのう」
「もう。知らない!」
アンゲルスが頬を膨らませてそっぼを向いたとき、ドアを叩く音がした。
「……ごめんください」
「……お客さんだ。誰だろ、こんな朝早く。―はあい、お待ちくださぁい」
アンゲルスがドアを開ける。見知らぬ若い男が立っていた。
「……どちらさまですか?」
「やっと見つけた。こんなところにいたのか、リリー」
「はい?」
「リリー、探したよっ!」
女の子が飛びついてくる。
「良かった…無事で。すごく心配したんだから」
「ち、ちょっとお待ちください。あなた方はどなたですか?」
「えっ!? あたしだよ、ハーディだよ」
女の子は目を見張った。黄色い虹彩に細長い瞳をした美少女だった。
「……ハーディ?」
「あたしのこと、わからないの? リリアムの妹のハーデンベルギアだよ」
「……あなたなんか、知りませんよ」
「うそでしょ…」
女の子は今にも泣きそうに神秘的な瞳を潤ませた。
「それにわたしはアンゲルスです。リリアムじゃありません」
「リリー、冗談も時と場合によるぞ」
若い男がぐいと前に出てきた。紫色の髪と紫色の瞳をした長身の美青年だった。
「どれだけ心配したことか。こっちもいろいろあって、見つけるのに思いの外、手間取ってしまった。レギーが大怪我をしたんだ。フィールが付き添ってる。それに、ブルンフェルシアからも―」
「……ちょっと待って!」
アンゲルスは激しく男を遮った。
「さっきから何を言ってるの! 何にもわからない。いきなり人の家にやってきて、わけのわからないこと言わないでっ。―お帰りください」
「リリー、話を聞いてくれ」
「帰ってくださいっ。―帰って!」
アンゲルスは男たちを外へ追い出した。そのまま耳を塞いでしゃがみ込んだ。ドアを激しく叩く音がする。
「……いやだ。聞きたくない。聞きたくないよ…」
アンゲルスの蒼い瞳から涙が溢れ出した。
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「そんなことがあったのか」
その日の夜。リクニスは、グレーニアから朝の出来事を聞かされていた。
「昼に姿を見せないからおかしいと思ってたんだ。道理で…」
心配そうにリクニスはベッドを見た。アンゲルスはベッドの中でしばらく泣いていたが、そのまま寝落ちしたようだ。
「……それで、その男はアンのことを『リリー』と呼んだんだな?」
「女の子は『リリアムの妹のハーデンベルギア』と名乗ったがの」
「じゃあ、アンの本当の名は『リリアム』というのか」
リクニスは考え込むように床に視線を落とした。
「わしらにとっては、アンじゃ」
「本当の名前がわかるまでの仮の名って話だったろ」
「別によかろうに。わしらにはアンでええ」
「……でも、良かったじゃないか。家族が迎えに来たんだ。これでアンも記憶を取り戻せるだろう」
「……お前はほんとにそれでええんか?」
「良いも何も無い。……女の子は妹なんだろ、男は何て名乗ってた?」
「何も。名乗る暇も与えずアンが外に追い出してしまったからの」
「そうか…明日も、きっと来るだろうな」
「―わたしは会わないよ!」
突然アンゲルスが叫ぶように言った。
「……なんだ、起きてたのか」
「わたし、ここに居たい。知らない人たちになんて連れていかれたくない」
「アンの家族が迎えに来たんだ。そんなこと言ったら彼らが悲しむ」
「わたしの気持ちはどうでもいいの? リックやグレンおばあさまと離れたくないのよ」
アンゲルスの蒼い瞳から大粒の涙がこぼれる。
「……そう言ってくれるのは嬉しい。だけど―」
「リックはいいの? わたしがいなくなっても平気なの?」
「俺は…アンの幸せが一番だと思ってる。前にも言ったろ。きみは天使だ。天界から迎えに来たんだ。天使は天界に帰るのが一番幸せなんだよ」
「……ヒドいっ。わたしのことなんてどうでもいいと思ってたのね。ヒドいよ、リック…」
アンゲルスは頭から布団を被ってしまった。嗚咽がもれてくる。リクニスは黙ったまま目を伏せた。その様子はとてもせつなそうで痛々しかった。
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「何を考えているんだ、リリーはっ」
アーケルは吐き捨てるように言った。
「オレたちのことを知らないふりなんかして、悪ふざけにもほどがある!」
「まあ抑えろって、ヨーマ。気持ちはわかるけどよ」
ファーグスがなだめる。
シンフィツム村から少し離れた町の宿屋である。この町を選んだのはほかでもない、ブレティラの治療のためだった。
聖属性魔法使いはいなかったが、幸い腕の良い医者がいて手術は成功した。出血の割には浅傷だったので、跡も残らずに済みそうだった。今は念のため入院して経過観察中である。
ファーグスは手術からずっとブレティラに付き添って看病していたが、快復に目処がたったのでアーケルたちに合流したのである。
「……ほんとにフリなのかな?」
さっきから黙り込んでいたハーデンベルギアがおもむろに言う。
「なんだと!?」
「記憶喪失…なんじゃないかな」
「記憶喪失…」
「だって、リリーのあたしたちを見る目、あれは知らない人を見る目だった。演技とは思えない。あたしたちのこと、ほんとに忘れちゃったんだよ。だとしたら、自分のことも忘れちゃってるよ、きっと」
「俺もハーディに賛成だ。話を聞く限りじゃ、その可能性が高いと思う。そうでなきゃ、リリーがあんたらを拒絶した理由が説明できねえ」
「記憶喪失だと…それはどうしたら治せる?」
「……わからない。お医者さまに聞くしかないよ」
「とにかく、リリーを連れ戻す。治療の話はその後だ」
「連れ戻すと言ったって、本人が話を聞いてくれないじゃない」
「力づくでも明日は連れ戻す」
「ヨーマ! ダメだよ、そんなことしたら。ますますあたしたちに心を閉ざすかもしれない」
「落ち着けよ、ヨーマ。まずは話し合いをするべきだ」
「だから、本人がその話し合いを拒否してるのだろうが!」
「俺も明日は一緒にいくよ。今まであんたらに任せきりにして悪かった。レギーも落ち着いたし、みんなで話し合おう」
「ふん。お前はレギーだけが心配なんだろう」
「なんだ、その言い方は。まるで俺はリリーのことを心配してないみたいに聞こえたが」
「そう聞こえなかったか? 女に目が眩んで脳がゴブリンにでもなったのだろう」
「……なんだと。例えヨーマでも許さんぞ」
「ち、ちょっと二人とも、ケンカはやめてよ」
頭に血が昇った二人の間にハーデンベルギアが割って入った。懸命になだめる。
「あなたたちがいがみ合ってどうするの。冷静になってよ。みんなリリーのこと心配なのは同じなんだから」
しばらく睨み合っていたが、アーケルが先に視線を外した。
「……オレは明日、何がなんでもリリーを連れて帰るからな」
アーケルはそう言い捨てると、乱暴に部屋を出ていった。
「ちっ…」
ファーグスは舌打ちすると、椅子に座って足を投げ出した。
「ヨーマのほうこそリリーしか見えてねえじゃねえか」
―やっぱりあたしじゃ、パーティーをまとめられない。
ハーデンベルギアは唇をきつく噛んだ。己の不甲斐なさに忸怩たる思いでいっぱいだった。
―あたしなんかじゃ、ダメだ。ああ、リリー。あたしはどうしたらいいの?
「……僕も明日は同行してもいいかな」
遠慮がちに声をかけてきたのは、アスクレピアスだった。アーケルたちの話に入ることはせず、今までずっと黙って座っていたのである。
「もちろんです。幼馴染のアスクレピアスさまが来てくだされば、もしかしたらリリーの記憶が戻るかもしれない」
「僕なんかリリーの中ではたいした存在ではないよ。あまり役には立てないだろうけど、昔の話なら僕にもできるから」
「心強いです」
笑顔を作りはしたが、ハーデンベルギアは暗澹たる思いで胸が潰れそうだった。
なぜなら、リリアムがこのまま遠くへ行ってしまうのではないかという不安に、さいなまれ続けていたからである。