翼の折れた天使
リリアムを抱えて三日月が走る。見かけによらず、とても脚が早い。すぐに引き離される。
「……このままじゃ追いつけない。オレは飛ぶ」
「ヨーマ!?」
ハーデンベルギアを置いてアーケルは宙を飛んだ。生い茂る巨木を器用に避けていく。あっという間に三日月に追い付いた。
「斬!」
三日月の右脚が飛んだ。バランスを崩しどうっと地面に倒れる。山の際だったらしく、衝撃でパラパラと礫が崖下へ転がり落ちる。
「……こいつめ、離しやがれ」
リリアムが三日月の腕の中から逃げ出そうともがく。
「斬!」
三日月の右腕が吹っ飛ぶ。リリアムは素早くくびきから逃れた。
「リリー! しゃがめっ」
アーケルの叫びにリリアムはその場にうずくまった。
「壊!」
三日月の頭が爆発した。しかし、地面を這いずりながらまだリリアムを捉えようと左腕を伸ばした。そこへ、雷撃が走り左腕を破壊する。
ようやく追い付いたハーデンベルギアだった。
「……間に合った」
「いや、まだだ!」
アーケルのいうとおり、三日月はまだリリアムに近づこうとしている。
「何なの、こいつ? なんでまだ動けるの!」
三日月の身体が赤く光り出した。
「まずいっ。リリー、早くそいつから離れろ!」
アーケルはとっさに防御壁を張った。刹那!
三日月が自爆した。大爆発が起こり太い樹木が消し飛ぶ。付近の地面ごと抉られる。爆風と砂煙が収まると。
「リリーが、いない!」
運の悪いことに爆発の衝撃で地面が崩落したのだ。それに巻き込まれたらしい。
アーケルが崖下を覗くと、樹木に遮られてリリアムの姿は見えなかった。土砂の流れた跡はわかるので、それを追えば見つかりそうだった。
ただ、身体が無事かはわからない。アーケルの防御壁はリリアムが落下した時点で消滅している。対象者を認識しないと張れないからだ。
アーケルは崖下に飛び込もうとした。
「あたしも乗せて!」
アーケルはハーデンベルギアを振り返った。見たこともないアーケルの表情に一瞬、ハーデンベルギアはと胸を突かれた。
「早く乗れ!」
ハーデンベルギアを背中に乗せると、アーケルは崖下へダイブした。
一方。崖下へ転落したリリアムはヴェズルフェルニルを召喚しようとした。しかし、木の枝に背中からぶつかった。一瞬息がつまる。次々に枝を倒しながら地面に落ちた。
土砂と一緒に斜面をそのまま転がり落ちる。樹木がなぎ倒される。何かにぶつかって身体が跳ねた。弾みで地面に頭を強打した。気を失ったリリアムは壊れた人形のように斜面を滑り落ちていった。
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「……気がついたか?」
目を開けると、見知らぬ老婆が覗き込んでいた。
「……ここはどこ?」
「わしらの家じゃ」
「……痛っ!」
起き上がろうとして、頭に激しい痛みが走った。頭には包帯が巻かれていた。
「まだ寝とれ。頭を打ってるから、しばらく安静にしとったほうがええ」
「頭を…」
頭の中にもやがかかっているような感覚だ。何がなんだかさっぱりわからない。
「……わたし、どうしてここで寝てるの?」
「あんた、山の上から落っこちてきなすったんじゃ。覚えとらんのか?」
「ええ。わたし…どうして山の上になんていたのかな」
「知らんのう。―ほれ、そこの男」
女性が顎をしゃくった先に、若い男が坐って何か手仕事をしていた。
「わしの孫のリクニスが、あんたを拾ってきたんじゃ」
「拾う…」
「山津波が起きたんじゃ。避難小屋にいたリクニスの目の前に、あんたが転がり落ちてきたんじゃと。意識はないわ、頭から血を流してるわで、リクニスが慌てて家に連れ帰ったんだわ」
「助けていただいたのですね。―リクニスさん、ありがとうございました」
「……別に、何も…」
「……」
「リクニスは口下手じゃて、堪忍しとくれ」
「いえ、とんでもありません」
改めて横になりながら、周りを見回した。
小さな木造の小屋のような家だった。粗末なベッドに寝かされていた。それでもそれは一つしかないようだった。他には居間と炊事場しかない。
「もしかして、これ、おばあさまのベッド? 占領しちゃってこめんなさい」
「気にせんでええ。わしらはどこでも寝られるでの。わしはグレーニアという。あんたの名前は何ていうんじゃ」
「わたしですか…」
―名前? わたしの名前…。
突然胸がドキドキして苦しくなってきた。
「……思い出せません」
「ほあ? 思い出せんと?」
「……わたし―わたしって、誰なの? 思い出せない。記憶が…ない」
「そりゃ、難儀じゃな。しばらくすりゃ思い出せるじゃろうが、その間名無しじゃ呼びづらいのう」
「……アンゲルス」
「え…」
リクニスがポツンと呟くように言った。
「空から降ってきたから、天使だ」
「おお、それがええ。リクニスにしては上出来だて。ほんとうの名前を思い出すまでは、あんたはアンゲルスじゃ」
グレーニアとリクニスはとても親切だった。リクニスは木こりをしていた。ここはシンフィツム村といって、木こりを生業にしている者が多いのだという。お世辞にも裕福とは言えないが、アンゲルスのために優先して食事を分けてくれた。
アンゲルスは、2、3日もすると動けるようになった。かなり山の上のほうから落ちたらしいが、打撲や擦り傷程度で不思議にどこにも大きな怪我を負っていなかった。今までのお礼とばかりに、炊事や洗濯などグレーニアを助けて一生懸命働いた。
そんな日々が一週間ほど続いたころ。
「リック!」
アンゲルスは大きく手を振った。リクニスも手を振り返す。アンゲルスは村の娘が着るような服を身にまとっていた。リクニスの亡くなった母親の服だそうだ。
「もうそろそろお昼よ。休憩にしましょう」
手には包みを二つ抱えている。アンゲルスはリクニスのために毎日お弁当を作って山まで持ってきているのだ。
「……ありがとう」
リクニスは手を休めて包みを受け取った。
「一緒に食べよ」
アンゲルスは輝く笑顔でもう一つの包みを掲げてみせた。リクニスは一瞬眩しそうに見惚れると、慌ててうつむき切り出したばかりの丸太を椅子代わりに腰掛けた。その隣にアンゲルスも腰掛ける。
「……この丸太、今日もリック一人で切り出したの?」
アンゲルスは山積みにされた丸太を見て、目を丸くした。
「ああ」
「すごいね、働き者だなあ」
「それはアンのほうだって、よく働いてくれてる」
「わたしは居候だもん、そりゃ、働かなくちゃ悪いでしょーよ」
「ばあちゃんの相手をしてくれるから、助かるよ」
「だって、グレンおばあさま、かわいいんだもん。わたし、好きよ」
アンゲルスはニコニコしながらサンドウィッチを頬張る。それを、また眩しそうにリクニスが見つめた。
「……ん? わたしの顔に何かついてる?」
「あ…いや、別に、何も…」
リクニスは頬を赤らめながら顔を背けた。
アンゲルスは、そんなリクニスを好もしそうに見ながら言った。
「わたしさ、自分の顔すら思い出せなくて、赤毛はわかってたけど、グレンおばあさまに鏡を借りて見るまでこんなにくせっ毛ってわからなかった。頭に包帯してたしね。とかしてもまとまんなくて。前のわたし、どんな手入れしてたんだろうね」
「……」
「なんか、ここでこんなふうにリックと話してるの、とっても不思議なんだ」
「不思議…」
「だってさ、リックの話じゃ、わたし山の上から落ちたんでしょ、よく生きてたなあ、と思って」
「……」
「死んでてもおかしくないよね。でも、記憶を失くしただけで身体はピンピンしてる。神さまかなんか知らないけど、リックに会わせるためにそうなったんじゃないかな、ってこのごろ思うんだ」
「……前の自分、思い出したくないのか?」
「そりゃあ、思い出したいよ。どこの誰でどんな生活していて、家族や友だちはいたのかとか」
「……」
「でも、今の生活も悪くないかなー、なんてね。最悪、記憶が戻らなくても、それはそれで仕方ないかも」
アンゲルスは大きく伸びをした。とても穏やかな時間が流れている。鳥の鳴き声がした。清浄で冷たい空気が心地良い。山は深く色付き、まさに『山、燃える』装いだ。
「……アンは前向きだな」
「そう? あんまりグジュグジュ考えてもしょうがないじゃない?」
「俺はむしろ不安だ」
「……なんで?」
「いつか、アンはいなくなってしまう。記憶が戻れば俺の前から消えてしまう。そんな気がするから」
「……わたしは、どこにも行かないよ」
「……きみは天使だから」
「え…」
「天使のいるべき場所は天界だ。今は折れた翼を休めてるだけで、そのうち天界に帰っていく人だから」
「わたしは…」
アンゲルスは俯いた。
「俺だって、ほんとうは―」
「……」
リクニスは黙り込んだままだ。アンゲルスはリクニスの横顔を見つめた。
「ほんとうは……なに?」
「いや…なんでもない」
「言いかけてやめないでよ。気になるじゃない」
「いや、ほんとになんでもないんだ」
「えー、言いなよ」
アンゲルスは無意識にリクニスの手を握って揺さぶった。
「……!」
真っ赤になったリクニスの顔を見て、アンゲルスはハッとして手を離した。
「……ご、ごめん。馴れ馴れしかったよね」
「……いや、別に…」
「……わたし、そろそろ戻るね」
「あ、ああ」
アンゲルスは急いで弁当を片付けると、小走りにその場を離れた。が、途中で振り返る。
「あんまり、帰り遅くならないでねーっ」
「……」
手を振り笑顔で去っていくアンゲルスを、リクニスは静かに見送っていた。