時をかける青年
今日は天気がいい。
青空に浮かぶ雲を眺めながら、アーケルはそう思った。
小高い丘の上に一本だけ立つ大きな栗の木の下が、アーケルのお気に入りの場所だった。幹に寄りかかったり根本に寝そべったりしながら空を眺めるのが好きだった。
丘からは村の様子もよく見えた。寄り添うように建つ小さな家々からは炊事の煙が立ち昇っている。そろそろ昼餉の時間だ。遊び歩いている子どもを呼んでいるのか、女性が窓から顔をつき出して何か怒鳴っている。路上で話し込んでいた男たちが三々五々散っていく。
この風景だけを見ればのどかで平和そのものだ。魔獣軍が襲ってさえこなければ。
「……お兄さま。またこちらにいらしたの?」
アーケルの双子の妹、ロサが丘を上ってきた。かなり前から近付いてきているのはわかっていた。用件もわかっている。それが嫌だからここを動かずにいたのだ。
「セラサスさんがお兄さまを呼んでいますよ」
「……わかっている」
「遅くなるとまた叱られます」
「いつものことだ。慣れている」
「……」
ロサはため息を一つつくとアーケルの隣に座った。
「……お兄さまは、やっぱり今も反対なの?」
「当然だ。どこに好き好んで妹を危険にさらす兄がいる」
「危険といったらお兄さまだって危険です」
「一日前に遡る実験は成功している」
「200年前に遡るのですよ。たった一日じゃ、参考にもならない」
「そのたった一日の遡りで、お前は三日も寝込んでしまったではないか。200年も遡ったら、お前の命がもたない」
「……覚悟の上です。私たちの希望は、もうこれしか残っていないから」
世界は魔王に支配されていた。
魔王は無限に魔獣を作り出すことができた。その魔獣軍を魔王直属の配下、五指仙に指揮させ人間を次々に狩り出していた。
社会秩序も経済活動も人々の平凡な日々さえもすべて崩壊し、人間は細々と生き永らえていた。魔獣軍に対抗すべく魔法使いや剣士、召喚士が立ち向かったが、ことごとく敗退した。日増に魔獣軍は勢力を伸ばし生き残った人間を飲み込むのも時間の問題と思われた。
しかし人間は、強大な魔力を持つ人間を魔法によって人工的に作り出す術を開発した。対魔獣軍のための魔法戦士である。彼らの魔力は凄まじく、あっという間に魔獣軍を押し返した。
その魔法戦士をもってしても、五指仙を倒すことはできなかった。ましてや魔王には相対することさえできなかった。無限の魔獣軍は倒しても倒しても尽きることなく人間を襲ってきた。ついに人間が滅ぶときが来た。誰もがそう絶望したある日、新しい魔法が開発された。
タイムリープである。
理論上は存在を知られていたが、タイムリープを使用できる魔法戦士が現れなかったのだ。これまでは。
唯一、タイムリープを発動できる魔法戦士。それがロサだった。
魔王が誕生したのは200年前だというのは記録で分かっていた。リリアムという名の召喚士の召喚獣が魔王となったのだ。
魔王がまだいない200年前の世界にタイムリープで魔法戦士を送り込み、魔王になる前の召喚獣を倒す。これが人間に残されたただ一つの希望だった。
しかし、問題がいくつもあった。一つ。送り込む魔法戦士を誰にするのか。一つ。送り込む魔法戦士の心身両面への影響が不明。一つ。送り込む場所が特定できない。一つ。魔王になる前の召喚獣を倒すことによる歴史への影響。一つ。タイムリープを発動する魔法戦士の生命の保証がない……。
「私は魔王を倒すためなら喜んでこの命、捧げます。そのために私たちは生まれてきたのですから」
「オレがいなくなったら、この世界はどうなる。五指仙に対抗できるのか」
「セラサスさんがいます。そりゃ、魔法戦士の中でも最強のお兄さまが抜けたら、大幅な戦力ダウンでしょうけど。なんとかなりますよ」
もっとも、自分が残ったところで、五指仙を倒すことはできないことに変わりはない。
「お兄さまが召喚獣を倒すまでの辛抱です」
「……」
もし、倒せたとして、歴史はどう変わるのだろう。対魔獣軍のために生み出された自分たちは存在意義を失い消滅してしまうのか。
自分たちは一体何なのか。何のために生まれてきたのだろう。
「……来る!」
アーケルは急に立ち上がった。
「魔獣軍だ。ここを嗅ぎつかれた。大勢の生体エネルギーを感じる」
「大変! 早くセラサスさんに知らせないと」
二人は空を飛んだ。村の集会場へ降り立つ。
「セラサス。魔獣軍が来る。早く迎撃体制を取れ」
「わかってる。前線からもついさっき『豹』の旗が翻っていると連絡があった」
空想の聖なる動物『豹』は、魔王の紋章である。魔獣軍は常に『豹』の紋章を前面に押し立てて攻めてくる。
「指揮は私がとる。お前は例の準備に入れ」
「……オレは承知していない」
「まだそんなこと言ってるのか」
セラサスはアーケルの両肩を掴んだ。
「いい加減にしろよ。もう何度も話し合ったはずだ」
「魔獣軍先方、第一警戒線に到達!」
前線にいる魔法戦士からの思念伝達で戦況が報告される。
「カルミアに迎撃させろ!」
セラサスは思念伝達できる魔法戦士へ指示を飛ばす。
「アーケル。もう私たちにはこれしか残ってないんだ。まだ検証し切れていないことはあるが、どこかで見切りをつけるしかない」
「わかっている。頭ではわかっているんだ。でも…」
「カルミア戦死! 大凶ですっ、五指仙の大凶が…うわーっ!」
思念伝達が唐突に途切れた。
「……頼むよ、アーケル」
セラサスが笑った。アーケルとさして変わらない長身で筋肉質の身体をした女だが、そうすると可憐な少女のようだった。
「第二警戒線も突破されたぞ!」
魔法戦士が集会室に飛び込んできた。
「もう村の目の前まで来てるっ。どうする? セラサス」
「私が行く! ―じゃあな、アーケル。魔王のいない未来で会おうぜ」
セラサスはウインクするともうアーケルを振り返らなかった。
「大凶かあ。こりゃホネが折れるな。おい、村人を早く避難させろ。この村は放棄する。まあ、放棄しなくても大凶相手じゃ消し飛んじまうが」
セラサスが魔法戦士を連れて出ていくと集会室は静まり返った。
「……お兄さま」
「ロサ。送ってくれ」
「はい。……お兄さま、これを」
ロサは、はめていた紫水晶の指輪を抜いた。
「それはお前が大事にしていた指輪だろう」
「お兄さまが旅立つときに渡そうと前から決めていました」
「……」
アーケルはそれ以上何も言わず、己の指にはめた。
ロサは目元を指で拭うと魔力を集中させた。全身が髪と同じ紫色に包まれる。ロサには精神感応の能力もある。今は時を超えて召喚士リリアムのいる場所へ繋がることを信じるしかない。
「お兄さま、さよならは言いません。どうか、どうかご無事で!」
ロサを包む紫色が一際強く輝いた。
アーケルは意識が遠くなった。気を失っていたかもしれない。それは一瞬だった気もするし何百年もたったような気もする。
やがて遠くから声が聞こえてきた。
「……わたしは召喚士なんだからっ! ……ナンボなんだからっ!」
女の声だった。
「……こうなったら、魔王でも悪魔でも何でもいい! わたしの召喚に応えなさいっ!」
ようやく声がはっきり聞こえてきた。意識が戻ってくる。目の前に人がいた。ぼやけていた輪郭が綺麗になる。綺麗なのは輪郭だけではなかった。赤い髪と蒼い瞳をした若い女が驚いたように目を見開いていた。
ひと目でリリアムだと分かった。ではロサはやり遂げたのだ。
アーケルはすべての感情を奥底に押し込めた。ロサやセラサスのためにも今度は自分が使命を成し遂げなければならない。
「……オレの名はアーケル。お前の召喚の声が聞こえたんでな、応えて来てやったんだ―」