スーパーカー
ハリーファは、ベッドで目が覚めた。
目が覚めたと言うのは、実際は正しくなかったかもしれない。うっすらと意識があり、完全に寝ていなかったのだ。天井を見つめていると、見えてくるのは、アイーシャの遺体だった。
ハリーファの目から、繰り返し涙が流れ落ちた。
『アイーシャ』
小さい声でそう呼びかけた。
そして両手で顔を覆う。すると、思い出の中のアイーシャが、ハリーファに微笑みかける。
もう二度とこの手で触れることができない、そう思うと心臓が締め付けられるように苦しい。
ハリーファはベッドを抜けると、バスルームで顔を洗った。
そして外に出れるよう、簡単に上着を羽織ると、部屋を出た。
警備の男が現れ、言った。
『ハリーファ様、どうなさいましたか』
『眠れない。車を回しておけ』
『ハイパースポーツを、ですか?』
警備の者が聞き返すと、イラついた口調で言った。
『乗りたい時に乗って何が悪い』
ヘッドライトに宝石が散りばめられたハイパースポーツが車回しに停められていた。
ハリーファは黙って乗り込むと、エンジンをかけ、アクセルを踏み込んだ。
警備が門を開けると、真夜中の市街に飛ぶようなスピードで消えていった。
街の光は、ワープするかのように一瞬で後ろに流れ去っていく。
地面を這うような視線から、歩道を見ると、女性が歩いていた。
アバヤどころか、ヒジャブなど顔を覆うものを全く身に着けていない。
黒い髪、白い肌、その女性の容姿には見覚えがあった。
『アイーシャ!』
ハリーファはブレーキを踏んだ。
車が止まった時には、その女性の姿が見えなくなっていた。
『そんな…… そんなはずはない』
ハリーファは自分自身が、妻の死を理解できないことを嫌悪した。
女性に見えたのはきっと今そこを歩いている男だ。そう考えた。
自分の心が、その男を『アイーシャ』に見立ててしまったのだ。
ハリーファがドライブするハイパースポーツは、さらに速度が上がった。
運転に集中することで、夫人達の死を忘れようとしていた。
ハリーファの車は高架に作った都市を一周するハイウェイに入った。
ブルジュ・ジャファルのど真ん中を通過していく、観光用の環状道路だった。
街路とは違い、走る車も少なかった。
制限速度をはるかに超えるスピードで走るハイパースポーツは、自在に車線を変えながら、まばらな他車をぶち抜いていく。
あっという間にブルジュ・ジャファルが見えてくる。
ブルジュ・ジャファル側から、このハイウェイを見下ろすためのデッキがある。
深夜で、誰もいないはずのデッキに人影が見える。
また、ありえないものを見てしまう心理が働く。
そう思ったハリーファは、路面に意識を集中した。
車線を変え、観光用の大型車をパスした時、ハリーファはデッキを見てしまう。
『アイーシャ!』
見間違えだ、と思ってハリーファは両手で顔を叩く。
しかし姿は変わらない。
アバヤも、ヒジャブも何も着けていない。
『アイーシャ!』
ハリーファはアクセルを踏み込んだ。
ハイパースポーツはこの高速走行状態でも、ドライバーの意思に素早く反応した。
ブルジュ・ジャファルのデッキ下を通り過ぎる時、衝動を抑えきれず、体を捩ってもう一度姿を確認してしまう。
アイーシャは靴を脱いでいて、片足の足裏をデッキのガラスにつけていた。
『アイーシャのロボット!?』
そうだ、ロボットだ。ロボットを作らせた時、足裏のスキャンを忘れ、正確にコピーできなかったのだ。
死んだアイーシャのことを思い、ハリーファは泣いた。
視線を前方に移したハリーファは、別の観光用大型車を避けるため車線を変える。
一瞬だった。
涙を拭う、一瞬。
その一瞬、視界を失っていたハリーファは運転を誤った。
ハリーファのハイパースポーツは、前方の低速走行車両の認識が遅れ、ブレーキなしに突っ込んでいった……




