翌日のアイーシャ
第一夫人のアイーシャは、自身部屋でスマフォを取り電話をかけた。
スマフォには相手の名前ではなく、愛称が表示されている。
『おかけになった電話は電波の届かない所にあるか、電源が入っていません』
『……』
同じ相手に、朝からずっとかけ続けているが、出ない。
アイーシャは部屋を出る決断をする。
扉から外見て、誰もいないことを確認すると部屋を出た。
侍女が待機している部屋に向かうと、車の鍵を取った。
『あの、お出かけでしたらモナかタグリードに言いつけて頂ければ……』
アイーシャは言った。
『車の中に忘れ物をしただけよ』
『それなら尚更』
『うるさい! 敷地内を車で走ってみたいのよ』
皇太子の家の敷地内であれば免許はいらない。車は皇太子と夫人の共同所有物だ。侍女にはそれ以上口出しはできない。
アイーシャはそのまま車庫に向かい、車のエンジンをかける。
アイーシャは免許を持っていない。
だが車でしか行けない場所に行く必要があった。
敷地内をぐるっと回ると、自信がついたのか、車を門に向かわせた。
『アイーシャ様、失礼ですが免許がないと公道は……』
そう言って警備の者が引き止めようとすると、アイーシャは怒ったように強く言い返す。
『大丈夫よ。すぐ戻ってくるんだから。いいから、門を開けなさい』
門が開いた。
ゆっくりと、しかし、強引に、他車の間に割り込み、車は走り始める。
道は分かっている。
何度も行き来していたからだ。
市街地を出ると、前後を走る車がなくなり、直線道路だけになる。
土煙を上げながら、軍の施設に向かう。
施設の駐車場に、デタラメな置き方で車を駐車すると、施設から軍関係者が出てくる。
いかにも軍の任務が似合う感じの大きい、タフな男だった。
二人の間が近づくと、軍関係者が気づき、言った。
『アイーシャ様!? 本日は皇太子に面会する日ではないですが』
『今日は、スワイリフに話があります』
『スワイリフ様は紛争地域の指揮を執るために……』
と言っている途中に割り込み、
『今は、一時的に戻ってきているでしょ! いいから退きなさい!』
アイーシャより遥かに大きい軍関係者が、体を引くほど大きな声だった。
『ハッ』
夫人に敬礼すると、今度はその大きな体でアイーシャを先導して歩き始めた。
施設の建物に入ると、最短ルートを通って、スワイリフの執務室に着く。
ノックをすると言った。
『スワイリフ様。皇太子夫人がいらしています』
中からの返事がない。
『スワイリフ様?』
軍関係者が耳につけていた通信機に、指示が入ったらしく、耳を押さえる。
そのままアイーシャを見ていたが、男は言った。
『ここで失礼させていただきます』
軍関係者が去っていく。
スワイリフの執務室の前に、アイーシャだけが立っている。
周りを見てから、アイーシャは扉を開けようとして、閉まっていることに気づくと、次は扉を叩いた。
『スワイリフ、いるのでしょう? 開けなさい』
『……』
『スワイリフ!? ねぇ、お願い』
扉から廊下に声が聞こえてくる。小さすぎて、何を言っているかわからない。
『何? ねぇ、スワイリフ! 開けて』
『(開けられない。僕は戦場にいく)』
『スワイリフ?』
扉を開けようと取っ手にしがみつくようにして懸命に動かす。
『どういうこと?』
『(もう会えないんだ、アイーシャ。ファルハーナが死んだ今、僕はもう生きる望みが)』
『ねぇ、お願い。スワイリフ、貴方だけが私の生きる理由なの』
『(帰ってくれ。僕は戦場に行かなければならない)』
スワイリフの声を聞くと、アイーシャの目に自然と涙が溢れてくる。
『待って、扉を開けて、私を』
廊下の端から、さっきの大きな軍関係者がやってくる。
『失礼します』
そう言うと、男はアイーシャを軽々と持ち上げ、そのまま施設の外に連れ出してしまう。
車にのせ、男が運転すると、あっという間に車は皇太子の邸宅に着いた。
運転席を降りて、男はアイーシャのドアを開けに回り込む。
車の中で、アイーシャは運転席に移動する。
男は運転席の方の扉を開けると、あっさり夫人を捕まえ、車の外に引き摺り出してしまう。
『これ以上邪魔すると、ここで騒ぐわよ』
『……』
男はアイーシャを捕まえている手を離す。
アイーシャは再び車に乗り込もうとするが、男がアバヤを片手で掴むと、それ以上先に動けなくなった。
『夫人、諦めてください』
『!』
引き留めているだけだった男の腕が、力強く引っ張り、アイーシャは車から大きく遠ざかってしまう。
勢いが強すぎて、アイーシャは転んでしまう。
アイーシャを引き剥がすと、男はそのまま運転席に乗り込んだ。
『……』
運転席の窓を下ろし、アイーシャを見つめる。
すると、男は乗れとばかりに顎を動かした。
アイーシャには、青い肌の影が、男に重なって見えた。
『まさか、あなた幽鬼なの? そうなのね?』
アイーシャは立ち上がると、何かを思い出したようにスマフォを操作する。
車に乗り込んで待つと、皇太子の家の建物から一人出てきて、何も言わずに車に乗り込んだ。
扉が閉まると、車は静かに走り出した。
車線と交差するように、紛争地域へ向け軍用ヘリが飛び去った。
スワイリフを乗せて。




