紛争地域
大陸間の海を越えたあたりで、飛行機が激しく上下動すると、運転席側が急に慌ただしくなった。
全ては王国の言葉で交わされていて、何も分からない。
『おい、どうした今の揺れは何だ』
『キャプテンが心臓発作を起こして意識を失いました』
『今誰が操縦してるんだ』
『自動運転です』
『時間的に紛争地域だぞ、コパイロットは操縦桿を握れ、自動では危険だ』
警備の男がシートベルトを外して、状況を確認しに行く。
しばらくすると戻ってきて、有栖刑事に向かって言う。
「航空機の操縦は?」
有栖刑事は大きく手を横に振って否定する。
「出来ません」
麗子は訊く。
「何があったんですか?」
「キャプテンが倒れた。代わりに操縦のサポートができればと思ったのだが」
「えっ、そうだとしても、軍のエリートパイロットがいるじゃないですか」
「そのエリートパイロットが倒れた方のキャプテンだ」
麗子は全身に鳥肌が立った。死。航空機の中で爆死か、空中に放り出され、地面に叩きつけられて死ぬか、海に落ちた衝撃で死ぬか。
どんな死も受け入れたくない。
麗子を突然耳鳴りが襲った。
耳鳴り、いや、鳥の鳴き声のようだった。
どこかで聴いた鳴き声。何かを訴えるようにメッセージが込められたもの。
麗子はおもむろにシートベルトを外した。
『私がやります』
立ち上がると、麗子はアラビア語でそう言っていた。
それを否定する日本語が出てこない。
アラビア語なんて、あいさつぐらいしか覚えていないのに、妙だった。
『何だって? っていうか、あんた、アラビア語話せるのか……』
『私が操縦桿を握ります』
体が動くのを止められない。いつもは命令を出して指示する側なのに、今は別の何かに突き動かされている。
『できるのか?』
『我はアバビルの使いなり』
警備の男は命令を受けたように踵を返し、操縦席に麗子を連れて行く。
コパイロットが麗子を見て言う。
『冗談はよせ! 流石にこの娘が操縦できる訳ないだろう!』
麗子の体から妙な響きの声が発せられる。
『我はアバビルの使いなり』
麗子は一度も座ったことのない航空機のコクピットに、ごく自然に座り、操縦桿を握った。
『低く飛べば高射砲の餌食だ、高く飛ぶとミサイルが飛んでくるぞ。そして速度はこれ以上出ない』
麗子の頭の中に、地上の起伏に合わせて設置された高射機関砲が見えた。
さらに移動車両が停止し、地対空ミサイルが準備されている状況も伝わってくる。
『地対空ミサイルもあるわね』
『地対空ミサイルを捕らえられるレーダーはこの機にはない』
航空機の絶対的な能力が劣っているとしたら、そもそもその地対空ミサイルは避けれないのではないか。麗子は怯んだが、心に声が聞こえてくる。
『私が誘導する。その通りに飛行すればいい』
麗子はその心の声とどう話していいか分からない。言葉に出していた。
「どういうこと?」
『私が見たものをお前に伝える。伝えたものを避けるように飛べ。お前にここで倒れたパイロットのテクニックを使えるようにしてやる』
「アバビル、あなたがアバビルなの? なぜ私の中に居るの?」
『そうだ。もう地対空ミサイルが放たれる。今は説明している時間はない。早くしろ』
麗子はコパイロットに言う。
『私に操縦を任せて。立っている人がいたら全員着席させ、シートベルトをさせて』
警備の男は慌てて、後ろに下がって機内で叫ぶ。
そして全員に非常時の着座姿勢を取らせた。
『準備できたぞ!』
警備の男が叫ぶと、それをきっかけに麗子は操縦桿を倒し、高度を落としながら加速する。
アバビルからの情報が頭に届く。
地上の車両が火を噴いたイメージ。つまりこの機に向けて、地対空ミサイルが発射されたのだ。
「!」
自分の体とは思えない動きで、知らない計器類をチェックし、ジェット機を動かす。
機体はパイプの内側を沿うような、螺旋を描きロールしていく。
後ろの座席側から叫び声が聞こえる。
強い加速度を受けて視界が暗くなる。
『もっと引きつけろ。そして上昇し、やり過ごせ』
アバビルの助言は的確だった。
吐き気がするほど体調が悪くなって、目が回っているが倒れたキャプテンの操縦テクニックは麗子の手足を通じて飛行機を動かした。
麗子が操縦を始めて、十分ほどが過ぎた。
戦闘機でも爆撃機でもない、普通の小型ジェットは、ずらりと並んだ高射機関砲の山を抜け、撃たれた四つの地対空ミサイルを避けていた。
今、麗子達の乗ったジェット機は、王国の領空を静かに飛行していた。
アバビルの支配が解けた麗子は、操縦桿を離した。
『な、何するんだ』
コパイロットが慌てて操縦を始める。
「もう操縦できないです」
『英語かアラビア語で言ってくれ』
麗子はアラビア語で話そうとしたが、何も頭に浮かばない。
さっきまでは『アバビル』が麗子の言語脳を司っていたのだろう。だが今は違う。
「警備の人、ちょっと通訳を」
聞こえたのか、聞こえないのか分からない。
麗子は振り返り、大声を出す。
「警備の人!」
何かガタガタと騒がしかったが、しばらくすると警備の男がやってきた。
『危機は回避できたのか?』
麗子は理解出来ないと首を横に振った。
「通訳して」
警備の男は訊き返す。
『さっきまでのアラビア語はどうした?』
「もう喋れない」
「何だ。言ってみろ」
「もう私は飛行機を操縦できなくなった。後、このシートベルトの外し方を教えて」
呆れた顔をした警備の男は、操縦席のベルトの外し方を麗子に指示した。
シートから立ち上がった麗子は筋肉の疲労のせいで、尻餅を着くように座ってしまう。
「アバビルって何なの、王国と関係あるの?」
「アバビル? 確か経典にあった神が遣わした鳥だ。それがどうかしたか?」
神が使わした鳥。霊鳥のようなものか。麗子は納得した。
「さっき私を動かしていたのはそのアバビルってやつなの」
「……」
警備の男は突然膝をつくと、祈りを始めた。
信仰の力により救われた、と思っているのだろう。
なぜ異教徒の麗子の体にその『アバビル』が入り込んだのか、とかそういう疑問は持たないのだろうか。麗子は不思議な気持ちで、男の祈りを見ていた。
祈りを終えると警備の男は、麗子のことを放って後ろに戻って行き『神がアバビルを使わして、この飛行機を救ってくれた』と言い回った。
座席に捕まりながら、立ち上がり、客用のシートにたどり着くと、麗子は眠った。