幽鬼の契約
麗子達は、軍の施設からハッダートに向かった。
ハッダートにはシュルークの家があり、今日はそこで地方に伝わる『ジン』について話を聞くことになっている。
強い日差しの元、ジープに揺られていると運動をしているわけでもないのに、かなり疲労していた。
車が侍女シュルークの家に着くと、シュルークの母が出てきた。
『ようこそ。食事の用意ができてますよ』
『ただいま。車の運転は疲れるわ』
二人は抱き合って、久しぶりの再会に笑みを浮かべていた。
『あなたはすごいわね。私は車の運転なんてとてもできないわ』
その時、シュルークの母は、アイーシャの姿をしたロボットが通訳をしているのに気づいた。
『あれ、こちらは王族の第一夫人様では?』
シュルークは麗子の顔を見る。
「通訳がいないからアイーシャがやっている」
『そんな、第一夫人様がこんな粗末な家で食事なんて』
『気にしないでください』
シュルークの母が拝むように頭を下げた。
言葉は分からなかったが、麗子はロボットがうまくやってくれたと感じた。
家に入ると、全員アバヤもヒジャブも脱いで素顔で対面した。
シュルークのお母さんは、皺が多かったが、声には張りが合って若々しかった。
食事をご馳走になり、少し落ち着くと、お話を聞くことになった。
シュルーク自身も『ジン』についてはよく分かっていなかった。
『私はあまりそう言う話が好きじゃなくて、母が話し始めると耳を抑えちゃうの』
『そうね、怖がりだったから』
そう言うとシュルークの母は話を始めた。
『基本的に幽鬼の話は伝説だと思うんだけど、たまに実際の話が紛れてて、ゾッとする時があるの』
母の話からするとこうだった。
この家の近所に住んでいる家庭の話だった。
夫同士が親友で、夫人同士も仲良くしていたらしい。さほど収入には差がなく、同じような暮らしをしていた。
だがある時、夫Aは戦争で手柄をたて、褒賞が入り、出世した。すると表面上は夫A、Bは仲が良いままだったが、夫Bは自身の妻に愚痴をこぼすようになる。
『遊びに誘っても断られる。出世して付き合いが悪くなった』
夫Aからすれば、今までと同じようにしたかったが、出世したことによる責任や仕事の増大で、今までと同じようには行かなかったのだ。だが、Bはそのことを考えようとしない。Aの家の家具が豪華になっただの、車が変わったとか、妬むばかりだった。
『あなた、妬むのは教えに反します』
初めのうちは妻もそう言って嗜めて収まっていたが、夫Bの妬みは強くなるばかりだった。
そして夫Bは、愚痴だけではなく妻に暴力を振るうようになる。
理由のない暴力の原因を、夫Aの出世だと思った。
そして、この地方に伝わる『幽鬼』と契約する方法を調べてしまう。
『幽鬼という面倒な言葉を使ってはいますが、はっきり言えば悪魔です。悪魔が願いを叶える時は、必ず何かの代償が必要なのです』
夫Bの妻は、幽鬼を呼び出すという『香』を手に入れる。
その頃の夫Bは、手がつけられなかった。
祈りの時間も無視して、酒を飲み続け、妻と顔を合わせると暴力を振るった。
周りの人々の助言も無視し、酒を止めようとしない。
もうすでに夫Aを妬んでの行動というレベルを超えていたのだが、原因は夫Aの出世にあると妻は考え続けていた。
その日も酷い暴力で、顔中が痣とかさぶただらけになった妻は、ついに香を焚いてしまう。
香には、自らの血を混ぜて焼くことが必要だった。
煙は立ち上り始めると、妻は気を失っていた。
気づくと、妻の横に寄り添うように寝そべっている黒い肌の男がいた。
『誰です!』
『呼び出しておいて誰とは、どういうことだ』
起き上がると、香はまだ煙を上げていた。
『あなたが香の精ですね』
ニヤリと笑った。
『契約したいんだろう? 何を願うんだ』
『夫Aを降格させて、貧乏にしてください』
『願いを叶えるには、お前からもいただく事になるぞ』
妻は緊張した。何を取られてもいい。夫が希望を見出して、再び普通の生活に戻れれば。
『では、お前の寿命をいただくとするか』
妻はしばらく答えなかったが、ついに同意してしまった。
『契約は成立だ』
そう言うと香は燃え上がり消えてしまった。
煙と共に真っ黒な男の姿もいなくなる。
その週の内に、夫Aが行った軍事作戦が失敗し、夫A自身も大きな怪我をしてしまう。
怪我もあり、そのまま軍での地位を続けることが出来なくなってしまった。
妻はこれで妬むことがなくなり、夫Bが正しい道に戻ると思っていた。
しかし、いくら言っても夫Bは酒を辞めなかった。
『あなた、なぜお酒をやめないんです』
『もう俺はダメなんだ、もう何もかもうまく行かない』
『それはお酒をやめないから』
『うるさい』
夫Bは妻の足を払うと、妻は床に倒れてしまう。
『酒を買ってくる』
夫が言って、戻ってくると妻はまだ床に倒れていた。
慌てて医者を呼んだが、妻は死んでいたそうだ。
『その妻の葬式に行ったものが、幽鬼を見たと言っていた』
麗子は言った。
「見たと言うのは?」
『葬儀に参列している者の中に吐出して背の高い、肌の黒い男がいたと言うんです』
「それだけ?」
『それだけ背が高ければ誰かがその者の名を言えるはずです。しかし誰もその者の名を知らなかった。もし妻しか知らないとすれば、それが幽鬼に違いない』
シュルークの母は続ける。
『医者が死因を確かめる時に、Bの妻の体を確認した際、背中に刺青が浮かび上がったと聞きます。ただそれはすぐ消えてしまった。その刺青には、契約完了と書かれていたそうです』
麗子はさまざま質問をして、結論づけした。
ジンを呼び出すには特殊な香が必要で、契約者の血を混ぜる。
願いを叶えるには、何らかの代償が必要になる。
契約者の体、おそらく背中に契約したかどうかが刺青のように書かれる。契約が終わる時、それは契約完了となって消える。
ただ、その『香』の買い方は分からない。
普通に香を売っているお店で買えるなら、間違って買ってしまうかもしれない。
呪術師が売っているのかもしれない。だが、誰が呪術師かはわからない。そういう職業があるわけではない。
「たとえば…… ですが、王族の人なら知っているでしょうか?」
『王族というより、王国の機関に所属する宗教指導者の中には、幽鬼の呼び出し方に通じたものがいるかもしれません』
シュルークが言う。
『そうね。宗教指導者なら、莫大な資料にアクセスできるから、必要ならその香を作り出すこともできるかも』
今までの登場人物の中に宗教指導者がいたろうか? 麗子は考え、シュルークに訊く。
「宗教指導者にはどうやったら会えますか?」
『よっぽど肩書きがあれば良いんでしょうけど、異国の若い女性に会ってくれるとは思えない』
「それは皇太子の夫人だとしても?」
麗子の頭にはファルハーナが頭に浮かんでいた。
『殆ど可能性はないですが、皇太子夫人なら、公的に会えるかもしれないです。ただ公的に会ったら、その香が渡ったこと自体が周知されてしまいますから』
「そう…… そうですよね」
夫人が直接的に手に入れずとも、間接的に手に入れればいいのだが、そうすると協力者がいることになる。
私たちがファルハーナに何を質問するか、盗み聞いていた侍女が協力者だとしたら。
「とりあえず、香を売っている店で話を聞いてみたいんですが」
シュルークに言ったつもりだったが、シュルークの母が代わりに答えた。
『香のことでしたら、良い人を紹介できますよ』