軍の施設訪問、二日目
翌日。
麗子はアイーシャに『今日は通訳はいらない』と言ったらまたキレられてしまった。
「勝手にしてください」
その言葉を聞いた瞬間、麗子はまるで頬を叩かれたような錯覚を覚えた。
錯覚だと分かった後、麗子は頭を下げて謝る。
「……すみません」
アイーシャは踵を返し、自らの部屋に戻っていった。
「第一夫人の怒りはかなり激しいんだケド」
「ハリーファを助けたいのに、自分では何もできないとしたら誰でもイライラするよね」
「本当にそれだけの意味かは分からないんだケド」
「……」
麗子は橋口の顔を見るが、橋口は首をかしげる。つまり言った言葉以上のことは考えていないようだった。
もし本当に別の意味があるとすると、第一夫人も犯人、あるいは犯人に関係している可能性があることになる。
ただ、自分の夫が変なお風呂に縛り付けられて得をするとは思えない。まあ、それは誰にも言えることではあった。あんな施設の風呂場に閉じ込めるのなら、この建物の部屋でも良いはずなのだ。
部屋に戻ると言った。
「アーヤ」
『なんでしょう』
「シュルークに電話して、ハリーファのいる施設に行こうと伝えて」
アーヤはそのまま自らの内部の回路を使って回線を繋ぎ、シュルークと連絡を取った。
『車回しにいらして下さいとのことです』
「かんな、行くわよ。準備できてる?」
「準備は出来てるんだケド、また今日もあの施設に行く意味が分からないんだケド」
麗子はまず人差し指を立てて言った。
「一つは、あの施設に閉じ込めることで誰が得するのかを知りたい。しかも、今日は第二夫人がくる予定だから、同じぐらいの時間帯に行けば施設に入って調べることができる」
「『一つは』ってことは別の理由もあるんだケド」
麗子は続けて中指も立てて指で『V』の字を作った。
「二つ目は、昨日侍女のシュルークが言った『スワイリフ』の噂。これを本人に確かめる」
「自分が疑われていると知ったら言う訳ないんだケド」
「当然、命令を使うわ」
王国に入ってから命令はあまりうまく作用していない、と麗子は思った。しかし、現時点ではこれしか有効な手がない。そして皇太子を閉じ込める場所が、なぜあの施設ではならないのか。それはあの施設でしか分からない。そんな気がしていた。
「私は早くこっちの文化で言う『ジン』の事を調べるべきなんだと思うケド」
「うーん。私もそれは気になってるんだけどな」
部屋が監視、盗聴されているのだとしたら、あまり突っ込んだ話はできない。
「それは移動中に車の中で話そう」
麗子はそういうとアバヤを着た。
食事の度につけたり外したりしているので、ヒジャブなどの着け外しも大分慣れてきた。
車回しに出ると、ちょうどシュルークの運転するジープが入ってきた。
「ジープはジープだけど、相当古いジープなんだケド」
錆びたりはしていないが、本当に古い戦争映画などで見るような古臭い形状をしていた。
車が止まると、侍女が中からドアを開けた。
「第一夫人が一緒じゃないと、扱いが下がったように思えるんだケド」
「そんなの気にしないでいいじゃない。私たちの方が、シュルークより若いんだし」
「立場的には私たちの方が上なんだケド」
麗子はため息をついた。
そして、開けてくれたドアから乗り込んだ。続けて橋口とアーヤも乗った。
『出発します』
急発進するような挙動の直後、ジープのエンジンが止まった。
「えっ?」
アーヤが通訳する。
『ごめんなさい。エンストしました』
ジープが軍の施設に向かう長い直線道路を走っていた。
スピードは出ていないのに、やたらエンジン音がうるさかった。
麗子は大声を出す。
「かんな! ジンの話は、どうやって調べる?」
「ファルハーナの出身は名前からすると『ハッダート』なんだケド」
あまりに車の音がうるさいので、シュルークの隣に座っている麗子は、メーターを覗き込む。
「回転数が高いってことは、ギアがおかしいんじゃない?」
アーヤが通訳できないせいで、シュルークも何も返してこない。
「アーヤ? 通訳して。ギアがおかしいって」
ようやく通訳されると、シュルークは床から伸びているシフトレバーを見直した。
そして、アクセルを離し、クラッチを踏み込むと、レバーを操作する。
『ガガガガガ』
やばい、止まってしまう。
『は、入りました。失礼しました』
ようやく高いギアに入って、回転数が少なくともスピードが出るようになった。
「かんな、ごめんね。ハッダードだっけ?」
「そう。ファルハーナ・ビン・サルマーン・アル・ハッダート。サルマーン家があるのはハッダート地方なんだケド」
「シュルーク、ハッダートってここから遠いの?」
『そんなに遠くないです。今からいく施設からならそんなに時間はかからないと思います』
まずは行ってみるか。どこの誰から話を聞けるかは分からないが……
『ハッダートは私の家がありますから』
「なんて偶然! ハッダートで誰かお話し聞けないかしら」
麗子の顔が笑顔になった。
『どんな話が聞きたいんですか?』
「ジンについて」
『……』
シュルークが固まったように思えた。
その時、後ろからものすごい勢いで車が追い越してきた。
車はジープの前に出ると、減速して近づいてきた。
「何、あの車」
『第二夫人を乗せた車です』
「運転はタグリード?」
モナはあんなに上手に追い越せないだろう。軍で車を運転していたタグリードだと予想したのだ。
『そうです。よく分かりましたね』
「軍で運転してんたんでしょ」
第二夫人を乗せた車が、スピードを上げた。
「頑張って追いかけて!」
『はい!』
麗子達のジープが施設ついた時、第二夫人達は車から降りるところだった。
「シュルーク、運転ありがとう。頑張ったね、大して離されてなかった」
『ありがとうございます』
施設側から、一人の男が出てきて何か言っていた。
「あれがスワイリフだよね」
『そうです』
麗子達も車を止めて、車を降り、施設に向かった。
すると、第二夫人を案内していたスワイリフが何かに気づき、慌てて麗子達に近づいてくる。
麗子はスワイリフに話を聞く予定だったので、近づいてくるスワイリフに走り寄って頭を下げる。
「今日はよろしくお願いします」
スワイリフは麗子のことを素通りしていた。
そしてアーヤに近づくと小声で言った。
『(今日は第二夫人がハリーファと会う日です)』
『(私は通訳するために連れてこられました)』
『(なぜ第一夫人であるあなたがそのようなことを…… 私が執事に言って別の者を付けさせる)』
「ちょっと、あんた達、男女としては距離近いんだケド」
背が低くて気づかなかったようで、スワイリフは橋口に驚き、飛び退くように距離を取った。
「……」
それから、橋口、麗子、そして侍女のシュルークの視線に、スワイリフは『今』気づいたかのような反応をした。
『お話があるのでしたね。私は、施設に先に戻っています。ゆっくりおいで下さい』
麗子はアーヤとシュルークを呼んで言った。
「アーヤ、スワイリフは、あなたの事、第一夫人だと思ってるかな?」
『私は感情を判断できません』
シュルークが言う。
『多分、気づいていないよ』
「なら、私が良いと言うまでアイーシャのフリして。私もアイーシャって呼ぶから」
『承知いたしました』
侍女が言う。
『まさかスワイリフが結婚したかったのが、第一夫人だと言ってる?』
「だって、見たでしょ? あんなに慌てて走ってくるんだよ?」
ありえない、という表情で施設の方を見つめるシュルーク。
なんにせよ、鍵を握っている人物だ、と麗子は思う。
「アイーシャ、ちょっと作戦があるから聞いて」
麗子はロボットに長々と耳打ちをした。
『承知いたしました』
麗子は軍の施設を指差して言った。
「さあ、出発よ」