軍の施設
異国の地。
冴島麗子と橋口かんなは、車に乗せられていた。
侍女のモナが運転して、後部座席には皇太子の第一夫人であるアイーシャが座っている。
麗子は助手席で、橋口は第一夫人の隣に座っていた。
「運転上手いですね?」
麗子が言うと、アイーシャがモナに伝える。モナの答えは、またアイーシャが翻訳した。
『そんなことないです。まだ四回目の運転です』
「えっ?」
麗子がびっくりすると、アイーシャは自らの言葉で話す。
「そもそも、我が王国で女性が免許取れる様になったのは、二年ほど前からです」
そうだったのか。麗子は思った。とすると、速度を出しているのに安定しているのは、車の性能が良いから、とか、そういう別の理由なのだ。
真っ直ぐな乾いた道の右側は、同じように、ずっと柵が立っている。
金網の柵と、柵の上で螺旋を描く有刺鉄線。
柵の向こうは、同じように何もない茶色の大地が広がっている。だが、どうやらそこは軍の演習場で、皇太子は軍の演習場の施設にいるらしい。
高さは然程ないものの、ずっと先まで続いて見える大きな建物が見えてきた。
車はその建物の端に止まり、麗子達は降ろされた。
「ここがその軍の施設ですね」
麗子が尋ねるとアイーシャが答える。
「そうです。そこに広がる土地は、軍所有の演習場の一つで、皇太子は、この施設にあるお風呂を気に入っているのです」
「お風呂?」
「これからこの施設のお風呂に行きます」
軍の施設だとすれば、男しかいないのではないか? こっちは全員女だ。軍に女性がいてもおかしくはないが、そもそも皇太子は男性だ。つまり女性が男性用の風呂に入るということになる。この国の規範ではかなり大胆なことだ。
「大丈夫なんですか?」
「女性が入れるか、という意味なら、今日の為、軍にも、他の者にも立ち入らないよう事前に指示が出ています」
建物から一人の男性が出てくる。
いきなりいるじゃないか、と麗子は思う。
かなり偉い人らしく、胸にじゃらじゃらと勲章がついていた。
男の肌は白く、男性らしい骨格というよりは、どちらかというと中性的なイケメンだった。
『お待ちしておりました』
『人払いはできていますね』
『はい。どうぞ、お入りください』
アイーシャが話すと、訳がないので麗子達には何を言っているのかわからない。
『部屋で待機していて』
『はい』
軍の偉い人は再び建物の方に戻っていく。
モナに誘導されながら建物に入る。
「軍の施設に入るのに、結構慣れた感じですね」
「何度も来ていますから」
それはそうか。麗子は納得した。
脱衣所で、皆アバヤを脱いだ。
「ここから先はハリーファしかいませんし、湿気が強いですから」
アイーシャだけが、ヒジャブもニカブも取ったが、麗子と橋口は外すことはできなかった。
三人はドアを開けて、大きなお風呂場に入った。
アバヤは脱いだが、侍女であるモナはこの先には入れないのだ。
中に入ると、麗子達は目を見張った。
確かにこれは軍の施設にしては豪華だ。
個別のシャワーの設備がずらっと並んでいるが、奥にプールのような広い温泉設備がある。
外の砂漠のような乾いた土地の真ん中に、こんなお風呂を作れば、皇太子が気に入って何度も来てしまう、というのもわかる気がした。まあ、王族なのだから、風呂が好きなら自宅にいくらでも大きいものを作れるのだろうが……
「奥におられるのが皇太子です」
皇太子。確か、ハリーファ・ビン・サルマーン・アル・ガストという名だ。国王の兄弟は全員亡くなっているから、順番として国王の長男であるハリーファが皇太子らしい。
ハリーファの下は水着、上半身はラッシュガードを着て極力肌を出さないようにしている。
それにしても…… 麗子は思った。風呂の中に見える手足の肌の様子に比較して、湯の外に出ている顔や首周りの皺の多さはなんだ。
大使館であった老人もそうだったが、この国の人は皺が多いのだろうか。
「あの、随分イメージしていたよりお歳のような」
『失礼』
皇太子が何か言うと、風呂の中に体を沈めてしまった。
「えっ?」
ザッと音がして、風呂から顔を出すと、まるで別人のように皺が無くなっている。
「えっ!? どういうこと?」
「お分かりになりましたか? 説明しますと、皇太子はこの水に浸かっていないと老化してしまう『呪い』をかけられているようです」
橋口が風呂に近づいて、湯に手を触れようとしていた。
「かんな、ちょっと待ちなさい!」
アイーシャが言った。
「大丈夫ですよ。すぐに風呂の湯を調べさせましたが、皇太子以外には、なんの効果もありませんでした」
それを聞いて、橋口は湯を手で掬ってみた。
「このお湯、循環して綺麗にしているみたいなんだケド」
「その通りです。ハリーファが出れなくなってからは、フィルターも頻繁に変えていますし、衛生上は問題ありません」
皇太子は、私たちの話を聞いている間にも、老化してきている。
麗子は、風呂の床や壁に手を触れてみるが、何も感じない。つまり水にも、この場所や建物にも、特殊な霊力が働いていないということだ。
そこから考えると、皇太子をここから出さない『結界』のようなものではなく、やはり直接本人に係る『呪い』なのだ。
「……」
この場所から『呪い』をかけてきた相手を特定するのは無理だ。皇太子の人間関係から考えるしかない。この場に留まることで有利になる人間、あるいはこれまでに酷い恨みを買った人間を探しその者調べていくしかない。
「誰かに恨みを買うようなことはないんだケド」
アイーシャが通訳した。
「皇太子は、そのような恨みに心当たりがないから霊能者を連れて来たのだ、だが誰一人この呪いを解けなかった。お前も無能なエセ『霊能者』なら、この場で殺して墓場行きだ、と言っています」
麗子は思う。皇太子という立場だけで妬まれ、恨まれることがあるだろう。例え『妬まれる』ことが宗教上悪いことだとしても、全ての人間関係で『妬まれる』ことをなくすことは出来ないだろう。
「エセではないということを証明するために、少しご協力いただきます」
麗子は手の平を湯船にいる皇太子に向け、左から右へ動かした。
ハリーファの目から光が消え、澱んだようになって、視線はどこか遠くへいった。
「皇太子に聞いてください。『本当に恨みを買う覚えがないのか』と」
アイーシャが恐る恐る通訳する。
するとロボットのように単調な声で、皇太子が答えた。
『あるとすれば弟だ。俺と歳が近いから、王位が回ってこないとボヤいていたから……』
「今、なんと言ったのですか」
アイーシャは、ハッとしたようになり、慌てて口を開いた。
「弟のジャファルは王位が回ってこないから妬んでいるかも」
「ジャファルさんて、私たちあったことあるかしら」
「……あなた方を空港に迎えに行ったはずです」
麗子は記憶を手繰る。確か、眼光鋭い、威圧的なオーラの持ち主だった。弟はどちらかというと中性的な顔立ちで、ここにいるハリーファの方が男っぽい顔つきだ。だが、兄は弟ほど強いオーラを感じない。オーラが弱いのは、もしかしたら、この呪いのせいかもしれないが。
「もう一つ訊ねてください。『他に恨みはないか』と」
アイーシャが通訳すると、ハリーファは答える。
『恨まれるとすればスワイリフだろうか』
麗子達にも声は聞こえるが、その意味はわからない。
「何もないそうです」
「そうですか」
麗子は手のひらにぶつぶつとつぶやくと、手を開き、右から左に動かすと、左で何かを掴むように拳を作った。
『はっ?』
そう声を上げると、皇太子の目の光が戻った。
『なんだ今のは。どんな術をかけたのだ』
『ハリーファ様が質問に正直に答えるように術をかけたのだと思います』
皇太子はびっくりしたような表情になった。
『私は、なんと言っていた?』
『ジャファルのことを気にしていると』
『……』
しばらく何かを考えるように間をおくと、麗子達をじっと見た。
『なるほど。能力はありそうだな』
『私もそう思います』
『やっと有能な霊能士が来たな。しばらく、任せてみよう』
ハリーファとアイーシャは顔を見合わせ、頷いた。
アイーシャは自身の顔に触れ、言った。
『ハリーファ様。老化が始まっています』
指摘され、慌てて湯に浸かる皇太子。大きくお湯が跳ねて、アイーシャの服に掛かる。
しかし気に留める様子はない。それだけ皇太子が心配なのだ。
しばらく湯に潜ってから、また顔を出す。
『もう大丈夫だ』
皇太子の様子を確認して、ホッとした様子のアイーシャ。
「これ、別の場所でも、お湯をかけ続けるとかでは対応できないの?」
アイーシャは首を横に振る。
「その手の方法は、さまざま試みましたが、ダメでした。ここのお湯に仕掛けがあるわけではないのです」
「その、あの、ずっとここに居なきゃいけないとすると、日常生活で問題があると思うんだケド」
「……あ、あまり話したくはありませんが、簡易便器で対応しています」
麗子は頷いてから、別の質問をする。
「じゃあ、寝る時はどうするんですか?」
「えっ……」
アイーシャは頬を赤くし、視線を逸らした。
麗子はどうして顔を赤くしたか推測した。
「いや、夫婦の営みではなく、本当にSleepするときの話です」
アイーシャは余計に顔が赤くなってしまった。
「それでしたら、鼻と口の穴が開いた布をつけ、湯を染み込ませます。そして常に付き添いのものが居て、必要に応じて湯をかけます」
アイーシャが照れるのを見て、皇太子が不審に思ったのか声を上げた。
『アイーシャ。いったい何の話をしているんだ』
『ハリーファの現在の生活についてです』
ハリーファは笑った。
『なんだ、糞の話か』
アイーシャが顔を手で抑えるので、内容は伝わっていないのに、皇太子が変な勘違いをしたと思い、麗子達も赤くなってしまう。
「あんまり変なことは言わないでください」
「もう大丈夫でしょうか?」
「ええ。とりあえず今のところは」
麗子達は脱衣所に戻ってアバヤを羽織ったが、アイーシャはアバヤを着ない。
「濡れた服を着替えてから参ります。先に車に戻っていてください」
麗子達は侍女のモナに導かれ、施設を出て、車に戻った。
モナが車のエンジンを掛け、車の冷房を入れる。
「言葉がわからないのは辛いな」
「スマフォを使えばいいんだケド」
「……そうか。やってみる?」
麗子と橋口のスマフォはガスト王国では通話機能は使えないのだが、車に搭載した通信装置を経由してインターネットは使えるようになっていた。
麗子はスマフォを取り出すと、翻訳してモナに聞かせた。
『皇太子の夫婦生活はどうしているの?』
ヒジャブとニカブでモナの反応がわからないため、麗子は繰り返し再生する。
『やめてください。恥ずかしい!』
「えっ?」
麗子はスマフォのマイクのアイコンをタップすると、モナに向けた。
『恥ずかしい』
翻訳されると、麗子はまたしても変に誤解されたと思った。
「これだけ何度も誤解されると、本当に夫婦のするエッチなことの話も聞いて見たいんだケド」
「私は聞きたくないから」
麗子は文字を入れ直し、再度翻訳する。音声ではなく、画面で確認してもらう。
モナがマイクのアイコンをタップすると言った。
『えっと、四人の夫人とは全員仲がいいですよ』
翻訳された言葉が伝わる。
麗子が読むと、橋口にも画面を見せた。
モナがスマフォを寄越せという仕草をするので、渡すとさらに何か話しかけた。
『四人の夫人は、同じ間隔でこの施設を訪問して、皇太子と過ごす時間を持っています』
スマフォを回して、二人で確認した。
麗子達はこの国に連れてこられてから、必死にこの国のことを勉強していた。
この国では、一夫多妻が可能だが、妻を均等に愛さねばならないと言うことだ。だから、皇太子がそれぞれの夫人の部屋を訪れることができない代わりに、夫人がここに来て、同じ時間をここで過ごすのだろう。
「つまり、ここでエッチなことしてるってことなんだケド」
そう言って橋口は笑った。
「ニヤつかないでよ。気持ち悪い」
「興味ないって嘘をつく方が気持ち悪いんだケド」
「なんだと!」
麗子は手を伸ばして、橋口の服を掴んだ。
橋口も橋口で、麗子の顔をギュウギュウと押した。
車のシート越しに、二人は喧嘩になってしまった。
『やめてください。車が壊れちゃう!』