少女
「えーっとこれは?」
クレアが指をさした先にあったのはこまごまと書かれた文字の羅列。
読む相手がいることを前提に設計されていないような活字の洪水。
家の外から出たことのない少女にとっては理解できないもの。
「路線図。まあMISIAで調べれば一発だがもってないんだろ」
またしてもあきれたような表情をする雄我。
ややこしいとはいえ自分の家の周囲なら子供でも読める。
少なくとも今まではそう思っていた。
「銭湯で見せた奴だけ」
言われて雄我はクレアを銭湯にぶち込みその間に女性用の服を身繕いその時に百貨店のビルのごみ箱にぶち込んだ今時珍しい折り畳み式の電話を思い出した。
旧時代の遺物。
もはや街中では見なくなったものだ。
おそらく今の時代あれを使っているのは酔狂か、時代劇か、変人か、アンチだろう。
「・・・あれか。あれじゃあできるのは連絡と位置情報の把握だけだからな。検索はできない。・・・今頃、連中はごみ箱の中漁っているだろうよ。定員や客に変な目で見られながらね。下手をすれば警察でも呼ばれてるんじゃないか。階数はわからないし」
雄我が性格の悪い笑みを浮かべる。
クレアは雄我からもう一度路線図の方に視線を移して。
「それにしても難しすぎない?」
目を凝らす。そして理解しようとはする。その頭は少なくとも常人より優秀なはずだ。血統と実績が証明している。
だめだ。少女にはどうしても理解できない。無理もない。駅の数はイルミナル国丸ごとなら三千以上、駅名もほとんどが略され、赤に青に緑に黒に白と多種多様な色でカラフルに彩られている。
これを眺めているだけで楽しい人がいるなど、これを見るだけで旅をする人がいるなど家という箱の中で暮らしてきた小さな女の子には信じがたい。
現実の世界の暗号のように路線図の方も簡単に解読させる気はない。多くの人がそう判断するほど難解。法律として最低限ここに置かれているだけで、駅員はMISIAで調べることを想定している。それほどまでにこのデバイスは普及した。
だが同時にそれは持っていない人に限りない不便を与える。
「まあ感覚で覚えるしかないな。というか大抵の場合親が使っているのを子供の時に視ているものだ。そして子供のころ一切電車に触れずに育った子どもっていうのは大人になっても乗らないからな。特に大きな問題にはなっていない。コメンテーターやらインフルエンサーやらが問題視することはあるがそれだけ。一般人は特に不便を感じていない」
雄我の発言にクレアはぞっとする。
「でも」
「まあ今日のこの時だけだ。別の国ならもう少しわかりやすくはなる」
少女に少し希望が湧いてきた。そしてその希望のまま少し前に背筋を伝った絶望に切り込んでみる。
否定してほしくて。
「・・・そういえば大丈夫なの電車に乗って。私の家は」
わざと今思い出した風に切り出す。そして今日一番不安そうな顔をする。少女は世間を知らない。だが家の大きさをよく知っている。大きく強い。少女などつぶれそうなぐらいに。
問われた少年は楽天的な顔ではない。だが悲観的とも違う顔をする。少年は世間を知っている。そしてレッドアーチ家の大きさもそれなりには知っている。
「ああ知っているよ。交通産業に関わっている。古くからそして現在も。監視カメラがある。その監視カメラには指名手配犯用に個人の顔を識別する機能もある。相手がどこに逃げるのか知っている場合でも知らない場合でもとりあえずの移動手段として一番警戒もされる。だが電車が一番現実的だ。歩ける距離じゃないし、バスやタクシーは市街地を走るから。それにたとえ見つかったとしても白昼に電車を止めはしない。これはただの家出。国際指名手配犯の捕物じゃない。日曜日であることを考えればできる限り避けたいはずだ。居場所はバレるがな」
普通の人はこういう場合安心を与えるために笑顔を見せたり希望を語ったりするのだろうが少年は違う。
現実しか語らない。それが最も必要だと知っているから。
「レッドアーチ家が管理しているのはあくまでこの国の中の大部分。外に出る路線は別会社だ。そこに乗ってしまえば直接的な妨害はない。・・・ただ足のつかない傭兵が出てくる可能性高いがな」
クレアにとって話の中で聞かないような単語が出てきた。
「・・・傭兵?でも私が家を出たのは今日の五時・・・」
「関係ない。金を積まれればその辺はどうとでもなるのが傭兵だ」
断言した。
「・・・でも傭兵は軍人崩れが多いからそこまで強くないってスポールおばあ様が」
「それは上の下以下の場合だ。一般家庭でも雇えるレベルの。そこから上となるとフリーランスのほうが稼げるからやっている場合だけ。それこそ小説や漫画に出てくるような生活をしている」
その時ホームの方から音がする。
クレアは聞いたことがない。
「今のは?」
「エーテル電車は音しないからな。到着を知らせる音だ。俺たちが乗るのは次の次。それが一番効率がいい」
雄我がクレアにMISIAのディスプレイを見せる。そこにも細かい文字がびっしりとあった。だが貼り付けられていた路線図とは違い特定の場所を大きく映す機能や推定到着時間、込み具合まで乗ってあった。
「便利なものね」
「俺のは特殊だがな。まあ基本これぐらいは標準装備だ。十年やそこらで世間が手持ちから手巻きに移行した理由が分かるぐらいの便利さだ」
「ふぅー」
どうにか座れた。
もはや習慣のようになっている。周囲をぐるりと見渡した。
(乗る時には映っただろうがさすがにいないか)
金持ちらしく行儀よく座る雄我だが隣は違った。
「うわー」
クレアの眼が輝く。その顔は窓の外を向いていた。靴まで脱いでいる。
「はしゃぎすぎた。まだ動いてすらないぞ」
あきれている。交通会社の社長令嬢というのに。
「うん。人が多いからって。あんなもの貧乏人が乗るものだって」
矛盾。いったいこれからどうして電車が発展するというのか。
「貴族ともなるとそこまで傲慢になるのか世も末だな。そりゃあ娘に愛想つかされるはずだ。今日初めてお前に同情した」
エーテル電車が動き出した。
音も揺れもありはしない。車との違いは景色が動くことと決まった道を走るだけだ。
クレアは窓の外を笑顔で眺めている。
(同じぐらいの年だというのに本当に乗ったことがないのか。王族の上に中学校のときは寮生活だった俺より)
憐憫か哀れみか。もはや雄我本人にもわからない。
向かい側に子供が座っている。
靴を脱いで外の景色を眺めているようだ。隣に座る父親らしき人も母親らしき人もほほえましいように見ている。自然と周囲の雰囲気も明るくなっているような気がした。
現在この空間には異常な人が二人いる。片方は今まで電車に乗ってきたことがない少女。クレア。そしてもう一人は異常に慣れた少年雄我。
(ここに来るまでに監視カメラに映ってしまった。まあそれは必然。どうしようもないが・・・)
駅に近づいたことを知らせる音が鳴った。
少しして列車が止まる。さすがにこのときばかりはクレアもおとなしくなる。
事前に打ち合わせした通り、頭を下げすぐ逃げられるように靴を履く。
八人が外に出て十人が中に入る。
「どう?」
「・・・問題はない。全員素人 」
何事もなく電車が再び動き出す。
「あと二つだ。逆に言えば可能性が跳ね上がる。一戦ぐらい覚悟しとけ」
「うん」
乗ってきた人は皆座る。
(さすがにここまで来るとすいてくるな・・・しかしここまで何もないと不気味。話を聞く限り逃げられた段階で家は対策を取ってくる。電車を張っているならとっくに戦闘が始まってもおかしくはないはずだ。車やバスなら電車の速度に追いつけない。テレポートでも速度と方向と座標が分かっているとはいえ動き続ける物体に乗り込むのは難易度が跳ね上がる・・・いやそもそも公共の交通機構は魔力制御装置がついているはず。レッドアーチ家の当主なら自分のところなら切れる。問題はほかの路線だ。大なり小なり影響力はある。だが当然法律に違反する。だがレッドアーチ家なら・・・)
レッドアーチ家の権力と影響力なら魔法制御装置の一時停止ぐらいの違反ならもみ消せる。だが当然ただではない。それなりの不評を買う。
そうなると必要なのはクレア=レッドアーチの価値と投手の価値観。
その時腕がゆすられた。
「何だ?」
「もう少しでつく」
「そうか・・・クレアお前兄弟は?」
「兄が二人、姉が一人、妹が一人の五人兄妹」
「多いな。それならそこまでのリスクは侵さないか」
「・・・どういうこと」
電車が音もなく止まる。
その時雄我の視界の端に二人組の男が見える。
「・・・まだ聞いていないことがあった」
素人のクレアにもわかるぐらいに雄我の雰囲気が変わる。戦闘モードとでもいうべきか。
「・・・何」
「朝あった時に男二人に女にあったことないかって聞かれたんだが。その二人は何者だ」
「教育係。両方とも礼儀作法。貴族出身だって」
「あの傲慢さと卑屈さはそれか・・・」
さすがのクレアもその質問の意図を察する。
「・・・まさか」
「いる。やっぱりここか。駅内は魔法を使えない。つまりテレポートで来るにせよ広い空間が必要となる。なら近くに公園があるこの駅だと思ってはいた」
「どうするの。確か戦闘もそれなりになら」
「箱入りのお嬢様から見るとそうなんだろう。俺からするとそこまで強くはないさ。それより問題が一つ」
「何」
「この列車に乗っているのは相手も知っている。ならば乗り込んでくる。不意を衝いて黙らせることはできるが、それだと今この場をおさめるだけだ。筋書きはクレア=レッドアーチはどうにかしてお金を持ち込み電車に乗って遠くに逃げる。一人で」
「一人」
「それなら相手も戦闘力に関しては警戒しない。だがここで俺が二人を倒せば護衛がついていることが家にも伝わる。それはまずい」
「でも逃げるにせよ監視カメラが・・・」
「ああだからここからは徒歩だ」
「え」
「切符は持っているな」
「ええっと」
クレアがポケットの底から取り出す薄いが確かに熱を持った厚紙。
「そこの扉を出たところに階段があるそこを登ってまっすぐ行けば改札がある。そこにさっきと同じところに切符を入れるんだ」
手短に説明する。自然と早口になる。
「待って。何でここで説明を」
「少し別行動だ。外に出たらできるだけ遠くに逃げて隠れろ」
「でも私電話を」
「大丈夫」
雄我が首飾りを外しクレアに渡す。
その時薔薇が杖に形を変えた。
「これを持っていろ。こいつは俺の意思一つで俺の元に戻ってくる。その方向をたどればどこにいるのかがわかる」
「いやそれより別行動って何を」
雄我が手のひらから魔力を出してみる。
「・・・やっぱり切っているか。それだけの価値はあるということか。まあそれが自分の首を絞めることになるんだがな」
電車のドアが開く。不揃いな足音が聞こえてくる。
「俺は右から出る。クレアは左から」
「わかった」