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「…………」
目が覚めたのは、真夜中だった。
しんと静まり返った夜の空気。
薄暗い部屋でゆらゆらと揺れる魔法ランプの光。
カーテンの隙間から指し入るやわらかな月明かりが、まだ夜明け前なのだとネモフィラになんとなくの時間を教えてくれた。
(ディーノに本を読む約束、やぶっちゃったわ……)
寝顔だけでも見に行こうかと頭の端で考えるけれど、起き上がる気力がでなかった。
なんだかとても身体が重いのだ。
知らない間に着ていた服は夜着へと変わっていて、編んでいた青い髪もおろされているようだった。
ネモフィラは横たわったまま目元を手の平で覆って、深く長い息を吐く。
小さくひどく掠れた声が、唇のすき間からもれた。
「しかた、ないわね」
諦めるしかない。
「わたくしは、彼にとって邪魔なの。だから、仕方がないわ」
きゅっと唇を横へ引き結んだ。
けれど我慢できなくて、震えたまぶたから溢れた涙が零れ落ち、頭を伝ってシーツへと流れていく。
ネモフィラは侯爵家の長女で、父は国の宰相で、そして勉学でも優秀な成績を収め、社交面でも評判を確立してきたから婚約者でいられてた。
ふさわしいから、認められていた。
でも、もうニコラウスが国王になる足を引っ張るだけの存在になってしまった。
大切な人の重石になるなんて、望むはずがない。
一緒にいなければ、口づけをしばらくしなければ。
やがて今彼の体内にある分も消えて、花咲きの魔法自体が失われるだろうから、婚約解消は絶対なのだ。
――ニコラウスは、王になる人。
ネモフィラは、王家を支える侯爵家の人間。
お互いに重い役目と責任を背負ってる。
だから二人が一緒になることが国の不利益になるのならば、もう結婚はできないのだ。
* * * *
翌朝、玄関ホールに出ていったネモフィラに、ナタリーが心配そうに眉を下げながら顔をのぞき込んでくる。
「お嬢様、本当に登校されるのですか?」
「もちろんよ。体調が悪いわけでもないのに休めないわ」
「でも……お辛いでしょうし……旦那様もしばらくお休みしても問題ないとおっしゃっておりましたが」
まだ公表されたわけではない婚約解消。
しかしネモフィラ付きの侍女ナタリーにだけは事情が知らされていた。
心のケアをと、父が考えてくれたのだ。
母が亡くなって以降、ナタリーがネモフィラにとって一番身近にいる年上の女性だった。
「平気よ」
「でも……」
「平気だってば!」
言ってから、少し強い口調になってしまったことにハッとした。
「ナタリー、その、ごめんなさい」
「いいえ……でも、朝食もほとんど召し上がっておられませんでしたから」
「た、たまたま今日はお腹が空いてないだけ。大丈夫よ。心配しないで」
「心配しますよ! やはり本日はお休みなされた方が」
「熱もないのに休むなんて駄目よ」
「お嬢様は真面目すぎます!」
真面目に学校へ行こうとするネモフィラと、休ませようとするナタリー。
「ネモフィラ、おはよう」
「あら? お父様」
二人の攻防を止めたのは、らせん階段をおりて玄関ホールへ出てきた父だった。
「おはようございます。今からお仕事ですか?」
「そうだ。またしばらく城につめることになる。留守を頼むぞ、ディーノのことも」
「おまかせください。お身体にくれぐれも気をつけて、お勤め頑張ってくださいね」
「あぁ……行くのか?」
頷くと、ひそめた声で父が呟いた。
「それなら、昨夜のことはまだニコラウス殿下には知らせないようにしなさい」
「どうしてですか?」
首をかしげるネモフィラに、説明が続く。
「昨夜、連絡があったのだ。どうやらあちらはまだニコラウス殿下に伝えるタイミングを計っている段階のようでな。王が直接話すまで、二.三日程度お前は知らないふりをしているように」
「知らないふりですか……難しいですね」
もうすでに決まった婚約の解消。
知っているのに知らないふりをして、これまで通り幸せな婚約者を演じるなんて、そんな事ができるだろうか。
(他のことなら取り繕える自信があるわ)
しかしニコラウスとのことになると、とたんにネモフィラは迂闊になってしまいがちだ。
不安な気持ちは顔にでていたのだろう――父がポンと肩をたたいてきた。
「頼む」
「……はい」
国王陛下と、宰相である父が決めたこと。
公にはなっていなくても決定したこと。
婚約解消の原因が自分であり、解決法もない状態では、突っぱねる強い意志と気力もでてこなかった。
ネモフィラは静かにため息を吐く。
(わたくしとの婚約がなくなれば、きっとニコラウス様には新しい縁談がたくさんくるでしょうね)
ネモフィラにいつも向けてくれる優しさを、今度は別の女性が受け取るのだろう。
くったくなく笑ってくれて。
手を繋いでおしゃべりをして
とても嫌だと思うのに、とめる術はない。
悔しくて、悲しくて、でも婚約解消の理由が自分自身であるから誰にぶつけることも出来ない感情は、ぐるぐるとネモフィラの中で重く粘度のある泥みたいなものになって渦巻き続けている。
……ぽとり、涙が足元に落ちた。
昨夜たくさん泣いたのに、まだ足りなかったのか。
「……駄目よ。目を腫らしたりしたら心配をかけてしまうわ」
ぐっと目元に力を込めて、空を仰いで深呼吸する。
「お嬢様」
心配そうな声には振り向かず、ネモフィラは玄関の扉をくぐった。
待機している馬車に乗る前に見上げた空からそそぐのは、明るい日差しだ。
「あぁ、いい天気ね。風も心地いいわ」
まったくどうでもいいことを考えるようにして、沈んだ気持ちをどうにか追い払わなければと必死に繕う。
それでも心は悲鳴をあげている。
……十年間、積もり重ねてきた恋心だ。
そのたくさんの思い出がつまった十年間と、大好きな人への思いを、消してしまわなければならない。
つらいけれどそれでも最後まで美しく凛々しく。
王妃として育てられ、努力して身につけたものを持ったままで、彼と別れよう。
だってそれしか、自分に赦された道はないのだから。
* * * *
(あぁ、あっという間にお昼休みになってしまったわ)
学園について数時間。
いつもなら浮足立って食堂へ向かっていたこの時間が、ついにやってきた。
今日のネモフィラは、どうにも教室の椅子から立つことが出来なかった。
ニコラウスの顔を見るのが怖かった。
気分が乗らなくて、ついぐずぐずしてしまう。
(朝は格好よく最後まで頑張ろうとも思ったのに、いざとなると出来ないものね)
まだニコラウスは婚約破棄の話を聞いていないはずだ。
ネモフィラはそれを知らないふりをして、いつも通り彼に会わなければならない。
(いつも通り、いつもどお、り……で、出来る気がしないわ)
いつだって、ニコラウスの前でだけは取り繕えない。
でも、やらなければならないのだ。
「…………」
「ネモフィラ様? 食堂へ行かないのですか?」
怪訝そうな顔をしたクラスメイトが訊ねてきた。
彼女はエモーシー子爵家のメリットという令嬢で、真っ黒な長い髪を高い位置で結い流している。
少し上がり気味な目元に似合うはきはきとした気持ちのよい性格で、仲が良い友人の一人だ。
彼女からの問いにネモフィラは少し悩んだ後、笑って曖昧にしてしまうことにした。
「ええと、実は……先生に用事を頼まれてしまいまして」
「まぁ、そうなのですか。では本日はニコラウス殿下とご一緒なさらないのですか?」
「えぇ、わたしは購買の軽食ですませてしまおうと思います」
「それは残念ですね。いつもとても楽しみにしてらっしゃるのに」
「本当に……。もしメリット様が今から食堂へ向かうのでしたら、今日は昼食ご一緒できませんと、ニコラウス様への伝言をお願いできるでしょうか」
「もちろん宜しいですよ。お二人の仲睦まじい姿を拝見出来ないのはざんねんですが、必ずお伝えいたしますね」
「有り難うございます」
メリットは伝言を引き受けてくれ、キリッと使命感にみちた顔で食堂へ向かって行く。
そんな背中を見送って、ネモフィラほっと胸を撫でおろした。
学年の違うネモフィラとニコラウスが会えるのは昼休みだけ。
もちろん教室が違うだけで同じ学舎内なので会いに行こうと思えば会えるのだが、上級生の教室の近くを避けさえすればきっと大丈夫だ。
今日はもう彼に会わなくて済むのだと、ひどく安心した。
(会うのが怖いのなんて、初めてだわ)
父との約束通り、ニコラウスに王がタイミングを読んで婚約破棄の話をするまで、ネモフィラはいつも通りのふりをしてみせるのだと、朝は決意したのに。
結局、出来る気がせずに逃げてしまう方をとった自分に自己嫌悪する。
「……とりあえず、今日だけ……今日だけよ。明日からは大丈夫。私はやれるわ、えぇ、絶対」
明日はきっと大丈夫。
そう何度も自分に言い聞かせつつ、席を立つ。
とりあえず今日はクラスメイトのメリットに告げたとおりに購買で軽食を買って、どこか人気のないところに潜んでいることにしよう。