3
「ねぇしゃま、ごほんはぁ? ごほんー?」
「夜に読んであげるから、それまで待っていてね」
「やぁーだぁー」
「ほら、林檎のプティングを用意してもらうから。好きでしょう?」
「いぃぃぃやぁぁ」
ぐずるディーノを宥め、彼の乳母のもとへと送ったあと。
ネモフィラは着替えるために自室へと戻ってきた。
「ネモフィラ様。私はドレスを用意してまいりますね。しばしお待ちください」
「えぇ、お願い」
言いながら首元のリボンを引き抜き、そのまま前開きのワンピースドレス型の制服のボタンを2つ外してしまう。
首元まできっちり覆われた襟付きタイプの服は、制服くらいでしか着ない。
だからなんとなく苦しくて、いつも一番最初にくつろげたかった。
ネモフィラがそのままチェストへとリボンをしまい、ひと呼吸ついたあと。
なんとなしに見渡した、部屋の中。
「あら、きちんと届けてくれたのね」
窓辺の棚上に、昼間のオレンジのガーベラがすでに届けられ、花瓶に飾られていたのに気がついた。
「やっぱりかすみ草と相性がいいみたい。白にオレンジがひきたってるわ」
今日のガーベラと昨日のかすみ草だけではない。
ネモフィラの部屋は、他にもニコラウスの贈ってくれた花でいっぱいだ。
どこを見渡しても花瓶に生けられた花があり、手製のドライフラワーのリースが壁を飾っている。
さら本に挟んでいるしおりは全て押し花をあしらえてあったし、衣装部屋のドレスはサシェをいつも添えて保存していた
そのおかけでネモフィラは、香水なんてつけなくてもいつだって花の香りをまとってる。
「そうだわ。ナタリーが戻る前に、今日の水替えをしてしまいましょう」
さっそくわずかに瞼を落とすと深呼吸して集中し、ゆっくりと胸の高さまで両手をあげた。
次いで、前へと伸ばした手のひらを上へ向ける。
そうして魔力を高め、伸ばした手のひらの方へと集めていく。
「【水よ、ここへ】」
間もなく、手のひらの上に魔法陣が浮かび上がった。
淡い光を纏いクルクル回る魔法陣は、二つ。
二属性の魔法を同時に駆使しているためで、上下に並んで浮いている。
水の魔法陣と木の魔法陣の間から、ややあって水の球が現れた。
ネモフィラは水と木の二属性の魔力持ちだ。
ゆえに、生み出す水は植物の成長に特化した性質をもっている。
「【――――いきなさい】」
さらに魔力をこめ、上へ向けていた手のひらをくるりと反す。
すると魔力を纏う水はキラキラとまばゆく輝きだした。
表面が波打ち、そこから形を替えて何本もの帯状に変化する。
それらは踊るようにうねり、跳ねながら、部屋の方々へと伸びていく。
くるりくるりと部屋中を巡ったきらめく水の帯は、飾られたいくつもの花瓶へと辿り着き、流れ、注がれていった。
同時にもともと入っていた水も操り、消失させることも忘れない。
すべての花瓶の水替えが終わったのを確認すると、ネモフィラは魔力を抜いて魔法陣を消した。
「あっ」
しかし、確認のためにすぐ目の前にあったガーベラを眺めていたとき。
オレンジ色の花びらが一枚、ゆっくりヒラリヒラリと落ちていった。
「まだ今日咲いたばかりの新しい花なのに、もう散ろうとしているの?」
ニコラウスの魔力から生まれた花は、いつもは普通の花よりよっぽど長い期間もつのに。
たった数時間しか経って以内のに枯れ始めるなんて、とても珍しいことだ。
まるでとても不吉なことが起こる前触れのよう。
「――……本当に、お父様ったら何のご用なのかしら。心配のしすぎならいいのだけど」
ドキドキと不安に鳴る胸の上、ネモフィラは手をぎゅっと握り込んだ。
* * * *
やはり悪い予感は当たるもので――――。
「こんやく、かいしょ、う……?」
父の執務室を訪ねてすぐ、言われたことにネモフィラは唇を震わせた。
どうして、そんな話が出てくるのだ。
こんなの、ありえない。
「なっ、何を言ってるのですかお父様。わたくしは嫌です。絶対嫌! 嫌です!」
「もう決まったことだ。私と国王が相談してな」
「国王陛下もご了承なのですか……」
「あぁ」
この国の国王と、その一番の側近である宰相の父が決めたこと。
ネモフィラに逆らえる力なんてありはしない。
どれほど拒否したって無駄なのだと分かってしまうから、悔しくて悲しくて、目の奥が熱くなる。
それでもネモフィラは首を振って、嫌だと繰り返した。
だってどうしても嫌だったのだ。
了承なんてしたくなかった。
ネモフィラは絶対にニコラウスと結婚したかった。大好きだから。
「嫌です。一体なぜ、そんなことになったのですか」
絞り出した声は震えていた。
頭がとても熱くて、熱がでそうなほどに興奮している。
そんなネモフィラを父ジェイムはとても険しい表情を向け、でも瞳には申し訳なさそうな色を含めてため息をはいた。
「ネモフィラ。ニコラウス殿下は、王になられるお方だ。弟殿下が二人いらっしゃるが、兄弟の中でニコラウス殿下はずば抜けて優秀な頭脳の持ち主であり、誰もが次期国王だと認めている」
「えぇ、ですからわたくしはそんな彼の隣に立つ王妃になるため、ふさわしくなるために、頑張ってきたのです。たくさん努力しました。勉学も、社交能力も、国政についても、音楽もダンスも、作詞も刺繍だって」
幼い頃のネモフィラは、物語が大好きだった。
弟のディーノが絵本を読んでと良くねだっているが、ネモフィラの頃はもっとしつこくねがっていた。
文字が読めるようになってからは自分で擦り切れるまで繰り返し読んだ。
さらに子供向けの童話を覚えては、そらんじて家族に披露してみせていた。
その物語の世界の住人になったつもりで空想にふけ、自分でも新しい物語を考えるような子だった。
そんな夢見がちなことを全部やめてしまったのは、大好きな人の隣に立ちたいという夢ができたから。
好きなことを我慢して、現実的な勉強だけに目を向けるようになった。
ずっと頑張ってきた。
努力してきた。
だから今ネモフィラは、自分に自信をもって胸を張ってニコラウスの隣に立っている。
「今、同年代で負けるような令嬢なんておりませんわ……なのに、どうして…? まさか国外の王族の姫君と縁談の打診でもきたのですか?」
国内にライバルはもういないはず。
だったら国外かと想像したネモフィラだったが、ジェイムは首を振った。
「そうではない。王になるあのお方の、感情が表にでてしまうことが問題なのだ」
「え……?」
「嬉しいと花がでる。それはどれだけ笑っていても、花が出なければ本心では喜んでいないのだと相手に丸わかりだと言うことだ。そんな内心が丸わかりの状態で、国内外の重鎮たちと渡り合えると思うか?」
「それ、は……おもいません、が……」
怒ってみせているのに、花が咲いたら?
嬉しいのだとバレてしまう。
泣いて同情しているようにみせているのに、花が咲いたら?
喜んでいるのだとバレてしまう。
腹の黒い大勢の人たちと接する中で、一番内心を悟られてはいけないはずの王の感情が、目で見て丸わかりの状態だったら?
この国の政治は、きっと壊滅的になる。
どうしてそんな簡単なこと、今まで想像しなかったのだろう。
考えてみれば、問題視されるのは当たり前だったのに。
きっとネモフィラが知らないところで最初から問題視されていた。
恋に浮かれてニコラウスに対してだけ視野がせまくなっていたのかもしれない。
もしかして怖くて、無意識に考えないようにしていたのかもしれない。
「ネモフィラとの魔力の混じわりがなくなれば、次第にあの体質は失われるはずだ」
「っ……」
たしかにキスをしない関係になれば、混じり合った魔力はゆっくりと元のニコラウスのものへと戻るだろう。
時折キスを交わしているから、彼の花咲きの魔法体質は続いているのだ。
くしゃりと顔がゆがむ。視界がにじむ。
「わたしは邪魔なのですね。彼にとっても、この国にとっても」
「………すまない。何か方法はないかと、半年間王と話し合いを続けてきたが、こればかりはどうにもならぬ」
ジェイムは、深く頭を下げた。
「お、お父様! いけません! わたしに頭をさげるなんてっ」
「すまない、ネモフィラ。すまない……」
「っ……お父様……」
いつだって威厳のある父だった。
こんなふうに謝られたことは記憶にない。
(それくらいに、絶対に婚約解消はしなければならないことなのね)
どれほどネモフィラがニコラウスを好きかを、分かっているのだろう。
それでも解消しなければならないから、ジェイムは苦しそうに頭を下げている。
(私の存在が原因で、国を滅ぼすかもしれないから。どうしようもない、と……)
王になるニコラウスの、大きすぎる足かせが自分自身なのか。
ネモフィラは努力をおこたらず、彼の隣に立つのに相応しくあるよう心がけて行動してきたのだ。
そうしていれば一生の伴侶になれるのだと、信じてきた――――信じてきた、のに。
少し考えれば分かることなのに、ただ好意が目に見えて嬉しいと喜ぶばかりだった。
いや、起こるだろう問題点を意識しなかったのは、無意識に恐れ、こうなることを考えないようにしていたのかも。
(私は、ニコラウス様のそばにいてはいけない。結婚してはいけないのね)
ついさっきまできらめいていた世界がガラガラと崩れていく。
何もかもが真っ黒に塗りつぶされていくような、何もかもが消えていくような感覚がする。
「ネモフィラ⁉︎」
慌てた父の声が、なんだかとても遠い。
「しっかりしろネモフィラ! 誰か! 誰か来い! 医者を呼ぶんだ!」
「まぁお嬢様!」
人払いしていた部屋の扉が開かれ、バタバタと人の足音に囲まれた。
そんな状態になって、ネモフィラはやっと自分がショックのあまり倒れてしまったことに気がついた。
そのままふつりと、意識は途絶えた。