五〇〇キロ爆弾で吹き飛ばされたツネ婆の思い出(三十と一夜の短篇第53回)
真夏の空に太陽の光が渦を巻いていた。湾の外には積みあがった黒雲の伽藍が真水の雨で海面を洗い、稲光が青い空に響き渡っていた。雨の降り方はとても局所的だったが、雲の下の世界は嵐の風独特の緊張と高揚に満ち、陸から雲を見る物好きたちは発動機付きの船を出し、その雲の下へ出たり入ったりをして、豪雨と晴天の切り替わりを楽しんだ。
峰のふもとをまわしみたいに走る街道のこぶのように高くなった土地に小さな茶屋があった。街道をゆく行商人や巡礼僧を相手にした小さな商いの店でツネ婆は何十年も休まず、せっせと働き、息子が買ってくれたラジオで演劇をきくのが数少ない楽しみだった。
『――特別外交団はその任を果たすべく――数千キロの海路を越えて――我が国の平和はこの外交官たちの手に――』
ツネ婆の茶屋から眺める海は格別に美しいわけではなく、他のところから眺めるのと同じくらいのかけがえのなさがあるだけだったが、長年居ついた愛着がこの景色を特別なものにしていた。大勢の人びとがここで露台に腰かけ、そして旅を再開するのを何年も眺め続けたが、ツネ婆自身が旅をしたことは一度もなかった。女手ひとつで息子を育てるのはどんな小旅行も許してくれないほど油断のならない苦難だった。それに茶屋の客たちの旅の話を何度もきいているうちにその土地を旅した気分になれたので、それで十分だった。
ツネ婆は見晴らしのなかに立つ黒い雲がどこにも動くことなく、海の上に立っているのを眺めていた。だが、撃剣興行の一座がやってきたのでツネ婆はその団子だ茶だを用意するのに慌ただしくなり、お客も発って、ようやく人心地ついたところで、村長がやってきた。
「もうすぐ着くころですな」
「はあ、そうですね」
「あのススムくんが立派になったものですなあ」
「せがれもこのままじゃ親の死に目に会えんくらい忙しいと手紙を出します」
「それは不義理じゃ」
「不義理なもんですかいな。忙しいっていうのは人に頼られているからですからね。いじめっ子に泣かされたといつもぴいぴい泣いていたあのススムが親の死に目に会えないくらい人に頼られているのは親としてはほんにありがたいことで、誇らしいことで」
「ははあ。そういう目もありますかあ」
「なにがありますかあなもんですか」
「これはわしの言ったことじゃあないんですがな」
「なんですな?」
「ほら、今度の外交団。平和なんてまっぴらごめんだって言うやつらがいてですな」
ツネ婆はキッとなって言った。
「誰ですな。そんな馬鹿なこと言うんは?」
「わしじゃあない。わしじゃない。ほれ、退役軍人会館でくだを巻いとる若い酔っ払いどもが、戦争になってギャフンとやっつけたれって。ほれ、海軍士官が来ましたろ。小学校で話をしましたろ? 戦争するなら今しかないって」
「その海軍士官は馬鹿ですの。戦争になったら、真っ先に自分が死ぬのが分からんのですかいな」
「だから、わしが言ったんじゃない。海軍士官さんが言ったんだ。お国のために死ねるのは幸せだって」
「その士官さんは夏服でしたかいの? ほら、あの真白いやつ」
「いや、ほら、もっときちんとしたときに着る紺の服だった」
「なら、馬鹿ですな」
「どうして?」
「こんな暑い夏になして、紺の服を着るんですか」
「さあのう。海軍さんの考えることはわしには分からん」
「もし、外交団さんが平和持ってこなかったら、みな死ぬんだっせ?」
「そんな大げさなもんじゃあないだろう。我が国の戦艦と敵国の戦艦が撃ち合うかもしれんが、その程度ですじゃろ」
「ススムはいま戦争になったら、そんなもんじゃあ済まんと言っとりました。だから、絶対、平和を持ち帰らないといけないんだって」
「でも、大臣さんは、ほれ、外務省の。あの大臣さんは戦争に賛成しとるじゃろ」
「だから、ススムが頑張らないかんのです」
「ほうですか。しかし、海軍さんは戦争に賛成しとるんですなあ」
「馬鹿ですな。海軍は陸軍よりずっと死にやすいのに。陸の兵隊なら逃げるのに土の上走れますが、海じゃあ泳ぐしかないでっしゃろ? 海にはフカもおる。フカに食われて死んじまっても、やあ、村長さんとこのせがれはお国のために立派にフカに食われた、立派、立派と褒めてもらえるんですかいな?」
「わしが言ったことじゃない。海軍さんが言ったことじゃ。どうも、今日のツネ婆は怒りっぽくていかん」
村長は立ち去り際、妙にシンとした顔でツネ婆にたずねた。
「なあ、海軍は危なかろうか? 末のせがれが軍艦に乗っ取るが、危なかろうか?」
そうやって不安げに首を前に曲げ、指の先をいじくるのを見て、ツネ婆は優しいことを言ってやろうという気になり、
「馬鹿なこと言うでないです。危ないわけがなかろうに。陸の兵隊さんは生身の体で戦うけれど、海の兵隊さんは戦艦の鉄板に守られとるじゃないですか」
「そうかあ。そうじゃなあ」
村長が去っていくと、ツネ婆は海を臨む露台に腰かけた。ラジオは三味線のお師匠を流している。嵐をはらんだ黒雲が海のすぐ上を柱みたいに生えている。元気のありあまった若い衆が、その黒雲の下をボートで行き来して、ずぶ濡れになりながら、ひゃあひゃあ騒いでいる。黒雲は漁師の釣り針に引っかかったように、じっとしていて、ちぎれもせず、昇りもせず、湾の外にある。そんな黒雲を見ると、ツネ婆はとても悲しくなり、優しく慰めるような声で雲に話しかけた。
「ススムよう。お前は死んじまったんだな? 交渉したけど、平和になれんから、きっとこれから大勢死んじまうから、だから腹切って死んじまったんだな? お前は昔から真面目な子だったもんなあ。だから、母ちゃんのこと、見にくれたんだな? そんなカミナリ雲にまでなってよう、あんなに平和になればいいと思ってたお前が、こうして死んじまって、そんな姿になって母ちゃんのところに帰ってくるなんてなあ。ススムよう。母ちゃんはええ。親の死に目に会えぬほど人に頼られたお前だもの。母ちゃんは泣かねえ。母ちゃんは戦争で死んでも、ええ。他のもんがお前を怨もうが、母ちゃんだけはお前を守ったる。だから、好きなだけいたらええ。好きなだけカミナリ落としてもええし、成仏したくなったらしてもええ。母ちゃん、いつだって、お前のこと、守ったるからな」