966話 交叉する憤怒
「他愛も無い」
手傷を負ったシロウが瞬時に後ろへと跳び退がるのを眺めながら、テミスは小さな声で呟きを漏らした。
一瞬、魔力やら闘気やらを用いた技かと思ったが蓋を開けてみれば、ただの力技……こんな物は児戯にも等しい。
「高速で獲物を振り抜いた後に産まれた真空、その気圧差を利用したカマイタチのようなものか。名付けるのなら……そうだな、風の牙とでも言った所かねぇ」
「ッ……!!」
「ククッ……私も舐められたものだな。こんな大道芸で討ち取られるとでも?」
「な……にィ……ッ……?」
高々と掲げた大剣を肩に担いだテミスが、皮肉気な笑みを浮かべてそう告げると、真一文字に裂けた皮膚から血を滴らせたシロウが忌々し気に気炎を上げる。
それもその筈。
人間ほどでは無いが、種族的に魔法の扱いが不得手であるシロウにとって、この技は修練の果てに会得した奥義なのだ。
そもそも、本来ならばシロウの剛力を以て振るわれた超高速の戦斧を躱す事がまず至難の業。仮に躱されたとしても、不可視の刃による追撃が敵を刻む……。
そんな、二段構え。この技は文字通りの必殺技だったというのに。
「事実。私でもこうして真似できているではないか。尤も? 威力自体は本家である筈のお前を越えているようだが?」
「グッ……ヌゥゥゥッ!!」
歯噛みをするシロウに向けて、テミスはニンマリと愉悦を湛えた笑みを向け、ありったけの皮肉を込めて挑発を贈った。
だが、テミスの柔らかく薄い肌を浅く裂くに留まったシロウの風の牙に対し、テミスの放った風の牙がシロウの毛皮をパックリと切り裂いたのは紛れもない真実で。
シロウは目の前に突き付けられた圧倒的な理不尽に、途方も無い力量の差を噛み締めていた。
「やれやれ……この程度の実力で連中を狩っていただと? ハッ……笑わせてくれる。戦い慣れても居ない雑魚や戦う力すら持たない弱者だけを嬲って強者気取りか」
「黙れッ……!! 正々堂々たる誇りを棄て、笑いながら女子供まで奪い去る醜悪な人間風情がッ!!」
「ククッ……ならばお前も同類だな? 醜悪な獣人族め」
「ッ~~~~!!!!」
クスクスと喉を鳴らして笑うテミスの言葉に、シロウは胸の中に沸きだすあまりの怒りに返す言葉を失っていた。
ふざけるな。数や道具のような卑劣な手段で戦いを穢すお前達とは違うッ!
獣人の戦いは喪われた同胞の為の戦い。奪われたものを取り戻す正当なる戦いだッ!! ただ私利私欲のために奪い、犯し、虐げる人間とは断じて違うッ!!
胸の中でそう吠える一方で、シロウはテミスの異様な強さを認めていた。
確かに強い。当たりすらしないうえに、切り札である不可視の追撃も効かないのであらば、この巨きく重たい戦斧も、誇りであり自慢でもある剛力もほとんど役に立つ事はない。
このまま戦いを続けたとしても、勝ち目など無いのだろう。
だがそれでも尚、獣人族の怒りと誇りに懸けて斃れる訳にはいかない。
シロウはそんな揺るがぬ信念を胸に戦斧を構えると、目の前に立つ憎き人間をギラリと睨み付けた。
「ハァ……実に下らん。妄執に取りつかれた脳筋が」
「その身に刻め。我等が怒りを。如何に傲慢なお前でも、人間共が犯した罪をその身に受ければ、考えを改めるだろう」
「やれやれ。口を開けばやれ獣人の怒りだの人間の罪だの……。何度言ってもその考えを改めんのなら仕方が無い。付き合ってやる」
「何ィ……?」
テミスは、そんなシロウの禍々しさすら帯びた殺意を一身に受けながらそう宣言をすると、空気を薙ぐ鈍い音を響かせて肩に担いだ大剣で宙を薙ぐ。
そして、僅かに姿勢を落とし、地面と平行に構えた大剣の切っ先をピタリとシロウへと向けて構えを取った。
それは、明確な攻めの構えで。
同時にテミスからも、濃密で冷ややかな殺気が周囲へと放たれ始める。
「私の町で暴虐を振るい、罪無き人々を傷付けた罪。力無き者達を攫い、奴隷と堕とした罪。そして何より、私の義姉を追い詰め、傷付け、苦しめた罪。全てお前達畜生にも劣る獣人の犯した罪だ。命を以て贖って貰おうか」
「ッ……!! ハッ……贖うだと? 獣人が? 人間に? 舐めくさった事を囀りよってッッ!!」
ツゥッ……。と。
テミスの放ちはじめた冷ややかな殺気に、シロウの頬を冷や汗が伝う。
だが、それはあくまでも自らに向けられた殺意に対してであり、シロウは唇を歪めて自らの戦斧を固く握り締めた。
刹那。
「――舐めているのはお前だ。獣」
「――ッ!!!」
全力で踏み込んだテミスの身体が、瞬きの間すら無くシロウの眼前へと現れる。
その手に構えられていた大剣は既に動き出し、シロウの身体を両断せんと動きはじめていた。
それはまさに、剣の軌道を読んだ所で応じ得ぬ閃光の如き斬撃で。
シロウは小さくその口元に笑みを浮かべた。
そして……。
「ガッ……!!? ハ……ァ……ッ……!?」
次の瞬間。
苦悶の声と共に、その口からごぼりと血の塊を吐き出したのは、突如として現れた短槍にその腹を貫かれたテミスの方だった。




