965話 血華舞う戦場
「スゥ……ハァ……」
テミスは大剣を構えたまま小さく息を吸い込むと、すぐに短く吐き出した。
手加減をしていた……等という痴れ事を吐くつもりは無いが……どうやら、今目の前に立つ男は、侮れん腕前を持つらしい。
なればこそ、意識を切り替える必要があるだろう。
怒りと苛立ちに身を任せて目の前に群れる雑兵を薙ぎ倒すのではなく、眼前の敵を見据え、本当の意味で戦う必要が。
「ッ……」
「ハン……どうした? 口では偉そうな事を宣った癖に怖気づいたか?」
「抜かせ……」
ニンマリと邪悪な笑みを浮かべたシロウの挑発を冷徹な声で切り捨てると、テミスは冷え切った瞳でシロウを見据えた。
如何なる手を用いたとしても、ロンヴァルディアでは冒険者将校として扱われる程の戦力を持つ転生者を『狩った』のであれば、奴は最低でも魔王軍で言う所の軍団長クラスの力量を持っている事になる。
だとすれば、如何にテミスといえど慎重に事を運ばざるを得なかった。
何故ならばここは敵地であり、戦場。加えて言うのであればテミスは自分以外に手勢は居らず孤立無援。オヴィムやシズクといった協力者の目処はあるが、テミスよりも優先すべきものを持つ彼等の事を、当てにはできないだろう。
「カッ……!! 来ないというのであれば、こちらから征くぞォッ!!!」
「……それは有り難い」
いつまで経っても剣を構えたまま動かぬテミスに業を煮やしたのか、シロウは荒々しく咆哮すると、威嚇するかのように戦斧を振り上げた。
その挑発にテミスは、ニヤリと不敵な笑みを浮かべると、前屈みになっていた姿勢を伸ばして防御の構えを取る。
「カカッ!! その余裕……傲慢!! すぐに泣きじゃくりながら命乞いをさせてみせるわッ!!」
「……馬鹿が」
明らかな受けの姿勢をテミスが見せると、シロウは歯をむき出して獰猛に笑うと、戦斧を振りかぶったままテミスへと突撃した。
だが迅いとはいえ、構えたところへ真正面から飛び込んで来る突撃などテミスにとっては受ける価値すら無く、空気を裂く鈍い音を響かせて振るわれた戦斧は何度振るわれようと、その身体どころか剣さえも捕らえる事は無い。
「ハハハッ!! どォした!? 先程からちょこまかと逃げ回るばかりではないか!!」
「クス……下手くそめ。そんな力ばかりの大振りな攻撃で、この私が捕らえられるとでも思ったのか?」
「ほざくな! 口惜しければ口ではなく、その大層な剣で示して見せろッ!!」
「ッ……!!」
ピシリ。と。
高笑いと共に猛然と振るわれる戦斧の一撃を躱し続けるテミスの頬に、一筋の赤い線が走った。
直後、頬に走った傷口から溢れ出た血が白い柔肌の上を滴り、形の良い顎の先からポタリと落ちる。
「フン!! ようやっと温まってきたわァッ!!」
「グッ……!?」
続いて一撃、二撃。
シロウが斧を振るう度にテミスは肌を裂かれ、僅かな鮮血をまき散らしながら迅さを増すその攻撃を躱し続けていた。
そう。攻撃は全て躱しているはずなのだ。
そもそも、人間の域を越えた怪力を誇るとはいえテミスの肉体はあくまでも華奢な少女そのもの。そんな肉体で、人外の怪力を以て振るわれる戦斧の一撃など受ければ肌が裂ける程度で済むはずも無く、僅かに掠っただけでも肉ごと抉り取られるだろう。
だが。
「チャチな手品だな」
「――ッ!!!」
浅く体を刻まれながらテミスがそう呟いた瞬間だった。
ザゥ……。と。シロウの眼前を一陣の風が駆け抜けると共に、刹那の静寂が訪れる。
その眼前では、一瞬の間に高々と大剣を振り上げたテミスが、ピンと腕を伸ばした格好で静かに佇んでいた。
それはまさに不可視の一撃。
だが、連撃の為に大きく振りかぶられた戦斧にのけ反らせた身体が功を奏したのだろう。
猛然と振り上げられた大剣の刃がシロウの身体に届く事は無かったらしく、驚愕に硬直した体が痛む事は無い。
「ハ……ハハッ……苦し紛れに脅かしやがって……」
よくある事だ。
猛攻に耐え切れなくなった者が繰り出す咄嗟の一撃。今回はそれがただ、途方もなく迅かったというだけの事。斬られた訳では無いッ!
そう判断したシロウが、引き攣った笑みを浮かべた時。
「クス……鈍感なのは外見通りか……」
「なっ……!?」
片腕で大剣を振り上げたままのテミスが、微笑みと共に言葉を漏らす。
だが、剣を振り上げた状態とはいえその格好は、脇も、胸も、腹も、脚も……主だった急所を全て敵の前に晒していて。
そんな千載一遇の好機を前にシロウの身体は、彼自身が意識するよりも早く、脳裏に浮かんだ疑問よりも本能を優先した。
それはつまり、不遜にも無防備を晒すテミスを斬り裂く為に、限界まで振りかぶった戦斧と反らした身体に力を籠めるという事で。
「グゥ……ァァァッ!?」
刹那。
力を込めたシロウの筋肉が膨張すると同時に、体表を覆う厚い毛皮に一陣の線が走ると、突如として現れた傷口から一気に血の飛沫が迸ったのだった。




