963話 神速の反撃
「ッ……!! プッ!! クソッ……油断したッ!!」
石畳の上に着地したテミスは、その勢いのまま後方へと滑りながら、口の中の血を吐き捨てて歯噛みする。
まさか、この男がここまで戦い慣れしているとは誤算だった。
口ぶりから予測される性格や力任せに戦斧を振るう戦い方からも、脳味噌に筋肉でも詰まっているかのような、典型的な猪武者であると断じていた。
だが、その認識は誤りだ。
高い身体能力を生かした鋭い初撃と、それによって生じた隙を突いた攻撃を待ち構えていたかのように突き出された拳。
アレは確実に、あの男が積み重ねた戦いの歴史によって生み出された、奴なりの戦法だ。
「フゥ~……ッ!!」
「チィ……」
しかし、態勢を崩して吹き飛んだテミスへ追撃は無かった。その代わりとばかりに、シロウはテミスの反撃を封殺する為に手放した戦斧を構え直し、万全の態勢で構えを取っていた。
更にその顔には、まるで自らの思惑にまんまと嵌ったテミスを嘲笑するかのような微笑みが浮かんでいる。
「顔に似合わず慎重だな……。完全にキレている癖に頭は冷静。面倒な奴め……。ならば私も、定石通り攻めるとするか」
一方でテミスも、冷静に呟かれた独り言とは裏腹に、シロウを睨み付けるその紅の瞳では、鋭い光が爛々と輝いていた。
ああ、認めよう。
私はお前を侮って、先手を許したのだ。お陰で良い一撃を顔面に食らう羽目になり、ズキズキと痛む鼻からは血が滴っているし、口の中は血の味でいっぱいだ。
だが、たったそれだけの事だ。
胴を切り裂かれた訳でも、腕を落とされた訳でも無い。
「クス……やれやれ……」
ペロリ。と。
テミスはボタボタと鼻血を垂らしながら剣を構え直すと、ニヤリと嗤って口元に流れる自らの血を舐める。
まだまだ外様だとは思っていたが、私も大概この世界に染まって来たらしい。
あの平和な世界であれば、身体ごと吹き飛ぶ程のこんな一撃を食らった途端に警察だ救急車だと大騒ぎだろう。
しかし今ではどうだ。身体を斬られるだの腕が落とされるだの……物騒にも程がある。
「さてと……良い一撃を貰って目が覚めたところで、私の番といこうかッ!!」
「ムッ……!?」
歪んだ笑みを浮かべたテミスが、小さく息を吐くと共にそう叫んだ瞬間。
戦斧を構えて油断なくテミスへと視線を注いでいたシロウの眼前から、その姿が掻き消える。
「逃げ――いや……馬鹿なッ!?」
「クハハ……安心しろ。私の顔面を殴り飛ばしてくれた礼は必ずしてやる」
「クゥッ……!!」
姿を消したテミスにシロウは下げかけた戦斧を構え直すと、憎らしい声の主を探して、歯を食いしばりながら周囲へと目を走らせた。
だが目に留まるのは、降り積もった雪の上に増えていく足跡ばかりで、石畳を蹴る音は聞こえるのに、その姿を一向に捉える事はできなかった。
「迅いッ……!! お得意の魔道具かッ……?」
「さぁ……なッ!!」
「ムゥゥッ!!!」
テミスが選んだ戦法は、いたって単純なものだった。
剛力を誇る者は得てして、その肥大した筋肉の所為で動きが鈍い。
故に、反応すらできない程の速度で圧倒する。
その定石に従い、テミスは目にも留まらぬ速度でシロウの周囲を駆けまわりながら、その背に、肩に、脚に、腕に狙いを定めて大剣を振り下ろすが、その度に武器の打ち合わされるけたたましい音が鳴り響き、その刃が届く事は無かった。
「フッ!!」
「ヌゥッ……!」
「セェッ!!」
「グッ……!」
ガギン! バギン! ギィンッ! ギャリィンッ!! と。
視界に捉える事ができぬほどの超速を誇るテミスが斬り付け、テミスの姿無き残像の中心に立ったシロウがそれを戦斧で受け止める。
暫くの間、そんな一方的な攻防が続いた頃。
息のあがりはじめたテミスの目が一つの異常を捕らえた。
「コイツッ……!!」
それは、ともすれば見逃してしまいそうな程の微かな異常。
否、事実テミスとてこの瞬間まで見逃していたのだろう。
それ程までに小さな異常ではあるものの、一度気付いた途端にその異様さが際立ってくる。
何故なら。
シロウは凄まじいスピードで死角へと回り込んだテミスがその剣を振りかざす前に、テミスが斬りかからんと狙いを定めた先へと、その戦斧を動かしていたのだから。




