960話 憎しみの護刃
「ぁ……っ……ぁぁ……」
――また、失うのか……?
敗れたリュウコへと歩み寄るテミスの姿を、男はただ為す術もなく見つめていた。
どうやらリュウコの奴、相当に気合を入れた一撃を食らわせてくれたらしい。一分で動けるようになるなどと抜かした癖に、未だ身体に巣食う痺れは抜けちゃいない。
だが、現実と言うものはただひたすらに残酷で。
最早この痺れた身体が快復する暇が無い事は、火を見るよりも明らかだった。
「っ……!! グゥッ……」
胸の内に燻る憎しみの炎すら、消してしまう程の後悔が男の胸に降り注ぐと、男は堪え損ねた嗚咽を口の端から僅かに零す。
確かに、儂は奴の力量を侮っていた。矮小で卑しい人間だとタカをくくり、連中がこれまで為してきた蛮行を刻み込むべく、この戦斧を振るっていたのだ。
だが奴は……リュウコは違った。
闘争を求める気性がそうさせるのか、リュウコにとって種族などというものは些末なものでしか無く、かつて我等獣人族が受けた苦しみも、恥辱も、彼女は歯牙にかける事すら無い。
「…………」
否。この認識もきっと違うのだろう。
融和派が過激派と呼ぶ我々の側に属する以上、傷を負っていない者など居ない。
本人の口から聞いた訳ではないが、恐らくリュウコが闘争を求める理由、強さを渇望する理由こそ彼女の抱える闇の根源だ。
リュウコの場合、憎しみよりも渇望が勝ると言うだけで。
だからこそ、リュウコの目は平等に強さを測れたのだ。
あの人間が、途方もない強さを秘めていると。全力を賭し、死力を尽くして漸く勝ちをもぎ取る事ができる……そんな化け物だと。
「フゥッ……フゥッッ……!!」
しかし、熟慮の時間すらも許さんと言わんばかりに、憎き人間の携えた漆黒の大剣が、まるで罪人でも処断する刃のように高々と振り上げられる。
このままでは、間違い無くリュウコは殺されてしまう。
かつて、薄汚い人間共に虐め抜かれた挙句、嬲り殺しにされた我が娘のように。
――情けない。
体躯にこそ恵まれなかったものの、儂はその分だけ鍛え上げ、輝かしき武功を残してきたはずだった。
だが、刃が如く打ち鍛えたこの身体からは、真に護りたいものこそ零れ落ちていく。
愛しき娘も。妻も。そして戦友さえ。
また、護りたいと……救いたいと伸ばしたこの手が届く事は無いのだろうか。
「………………」
ボソリ。と。
大剣を振り上げた人間の口が、目の前に倒れたリュウコへ向けて小さく蠢く。
その言葉こそ聞き取る事はできなかったが、どうせ人間が我等へと向けるものだ、おおかた嘲笑や侮蔑の類だろう。
「っ……!!!」
そう認識した途端、男の胸の内を口惜しさと怒りが塗り潰し、食いしばった歯がギシギシと軋みをあげた。
そして同時に理解する。
リュウコの秘めた強さの根源が、飽くなき強者への渇望であったのならば。
四肢をもがれるが如く奪われ続けた儂の飢えるべき根源は、まごう事無くこの胸を焦がす憎しみなのだと。
「許……さんッ……!!!」
男の口から、血を吐き出すように憎しみに彩られた呟きが零れた刹那。
高々と振り上げられた漆黒の大剣が、リュウコへと向けて落ち始める。
だが、憎悪と憤怒に呑まれた男の目には、その速度は酷く緩やかに映っていた。
だというのに、広く開けた視界は鮮明で、殺意に塗れた頭も自らですら驚愕する程の冷静さを保ち続けている。
「ゥ……グゥォォォォォオオオオオオオッッッ!!!」
直後、男は血走った眼を見開いて咆哮を上げると、力任せに戦斧の柄を掴み上げ、痺れを帯びた身体へ無理矢理に力を込めて走り出す。
そうだ。
何を憂う事があるだろう?
……あの時とは違うのだ。
いくら化け物の如き強さを誇ろうとも、憎き敵は目の前に居る。
儂が護りたいと願う戦友もまた、未だその命は潰えてはいない。
ならば、やるべき事は明々にして白々。
いまこそ眼前の怨敵を千々に引き裂き、刻み潰して戦友を護るッ!!
まだ……今ならばこの伸ばした手は届くのだから。
「殺らせるかァァァァァッッ!! リュウコォォォォォォォッッッ!!!」
力任せに、半ば射出されるような形で駆け出した男の態勢は酷く無様で。
その格好は最早、駆けると称すよりも飛び込むと言った方が適切なのだろう。
しかし、がむしゃらに石畳を蹴った足はその凄まじい筋力を身体へと伝え、態勢を低く崩しながらもテミスの元へと男を運んでいった。
そして、男は今まさに振り下ろされている刃の下へとその身を躍らせると、迫り来る漆黒の刃へ渾身の力を込めた戦斧を叩きつけたのだった。




