936話 ひとかけらの信頼
シズクの手によって無事、テミスが屋根の棟の上まで引き上げられた後、二人は荒い息を繰り返しながらその場に蹲っていた。
しかし、苦し気な吐息だけが木霊する時間が長くは続かず、区切りとばかりに大きく息を吐きだしたシズクは顔を上げると、未だに顔を伏せたままのテミスへ視線を向けて口を開く。
「それで……どうなのです?」
「っ……? ゼェ……ハァッ……どう……とは……?」
「先程の質問ですよ。テミスさんなら、どうするのか……」
シズクの問いに、テミスはまだ息は整っていないものの、顔を上げて応じる。
しかし、シズクの言う問いに覚えなど無く、ただ眉を顰めて首を傾げる事しかできない。
「私の声に驚いたテミスさんが足を滑らせる直前です。傷痕をこじ開けるとか、新たな急所を突く……とか」
「…………。あぁ……」
そんなテミスの様子に、シズクは何かを察したかのようにクスリと口角を緩めた後、テミスの隣に腰を下ろして言葉を続けた。
それを聞いて、ようやくシズクの問いを理解したテミスは、滑落の焦りと衝撃で千々に乱れ切っていた自らの頭が、ゆっくりと動き出すのを感じる。
そうだ。確か、そんな事を考えていたんだった。
そしたら急に、気配すら感じさせずに真後ろから声をかけられたものだから……。
「って……、アレはお前だったのか!? わざわざ気配を絶ってまで後ろに忍び寄るなんて趣味が悪いぞ?」
「あはは……それは、ごめんなさい。あんなにびっくりするとは思わなくって。でも、こんな所に来るくらいですから、私が登ってくるって解ってたらテミスさん、逃げましたよね?」
「っ……!!」
次第にいつもの調子を取り戻したテミスが、目を細めてシズクを睨みながら苦言を呈する。しかし、シズクが柔らかくはにかみながらも即座に返した言葉に二の句も告げられなくなり、バツが悪そうに黙り込む事しかできなかった。
「何かの比喩でしょうか……? 傷痕に急所……魔獣? いえ……ですが……」
「…………。ハァ……」
だが、当のシズクは元から全ての説明をテミスから受ける気はなかったのか、黙り込んだテミスの横でただひたすらにブツブツと独り言を呟きながら考え込んでいる。
正直、滑落から助けられた恩もあるし、私としてはシズクにならば説明をしてやっても良いのだが、こうも真剣に考えられてしまうと、その思考を阻むのはどうにも憚られてしまう。
結果、ただひたすらに思考を巡らせ続けるシズクの横で、テミスはただぼんやりと眼下に広がるギルファーの街並みへと視線を泳がせる事しかできなかった。
「っ……!!! そうかッ!! 傷痕とは突撃で開けた敵の包囲の位置ッ! 新たな急所とは急変した配置転換によって現れた包囲の綻びッ!! つまり、考えていたのは今回の作戦の事ですねッ!?」
十数分の後。
体が冷え始めてきたため、シズクに声をかけるか悩み始めたテミスの横で、シズクが興奮気味に歓声を上げながら答えを導き出す。
その瞳は、まるで胸中に立ち込めていた靄が晴れたかの如く輝いており、興奮によって赤らんだ頬が、外気の寒さも相まって真っ赤に染まっていた。
「フッ……正解だ。今回の作戦では、敵の包囲網を食い破ってその内部に侵入した後、スラムの連中を連れて包囲を脱せねばならん。だが、それに対する答えは、悪いが私も持ち合わせてはいない」
「っ……!! それは……」
「あ~……邪推するな。私とてこんな所でお前達に倒れられては困る、教えてやれるものなら教えてやりたいさ。だがな……」
シズクの導き出した答えに、テミスは思わず微笑を零しながら言葉を返す。
だが、続けられた言葉を聞いたシズクが悲し気に眉を顰めると、慌てたように言葉を重ね、困ったように頭を掻きながら、ゆっくりと口を開いた。
「その時の状況によるとしか言えんのだ。包囲を破った後の敵勢力の動き、こちらの残存戦力や友軍の状況。こればかりは、全てを鑑みて判断する必要がある。それに私はこの町の地理に疎いからな」
「そう……ですか……」
「フム……」
しかし、答えが出せない理由を説明した後でも、シズクは反論こそしなかったものの先程までの明るさは無く、どこか残念そうに俯いてしまう。
その落胆ぶりに、テミスは僅かに心が痛むのを感じると、小さく息を吐いて思考を巡らせ始めた。
シズクにしてみれば、必死に考えて至った答えの報酬がこんなものでは、期待外れも良い所なのだろう。それに恐らく、今回の戦いではムネヨシの側近であるシズクも出撃するはずだ。だからこそ、彼女なりに役に立とうと、健気にも私を屋根の上まで追って来たのかもしれない。
「……そうだな。ある意味、保険にはなるか」
「保険……ですか?」
「あぁ、保険だ。だが、これはとっておきの切り札。自分の力ではどうしようもなくなった時の最終手段だ。だからこの話は決して誰にも漏らすな……無論、ムネヨシにもだ。誇りでも神でも何でもいい、お前の信ずる正義に誓って……約束できるか?」
「っ……!!!」
それは、ただの閃きだった。
この屋根の上で彼女に救われなければ、あるいはファントからギルファーまでの旅路で交わした会話が無ければ、思い付きもしなかったかもしれない。
シズクが先程見せた、ただ縋るのではなく、自らの意志で答えを導き出さんとする姿。そんな、僅かばかりの成長に心が揺れていなければ、思い付いた所で伝える事は無かっただろう。
テミスの纏う雰囲気の変化に気付いたのか、シズクはテミスの問いに小さく息を呑んでから背筋を伸ばすと、真剣なまなざしで静かに答えを返す。
「はいッ!!」
「クス……。そうか、ならばお前にだけ、秘蔵の奥の手を教えてやろう」
そう前置きすると、テミスは不敵ながらもどこか優し気な微笑みを浮かべながら、閃いた保険をシズクへと語り聞かせたのだった。




