935話 足元にご用心
正常な議論が交わされ始めた会議室を後にしたテミスが向かったのは、融和派が拠点としている屋敷の屋上だった。
無論。屋上といっても、ファントの詰所のように様々な用途に利用できるように整備されている訳では無く、窓からよじ登る羽目になったのだが。
「……。フム……」
パキパキと音を立ててテミスは凍り付いた屋根を踏みしめながら、冷え切った外気に顔を晒して小さく息を吐いた。
露出した顔に吹き付ける極寒の風は意外にも心地よく、自分が会議室の熱気に充てられていたのだと、改めて自覚できる。
「これならば、辛うじて何とかはなる……か……? いや……」
テミスはブツブツと呟きを漏らしながら天辺まで屋根を上ると、足で雪を払ってから静かに腰を下ろす。凍て付いた屋根の冷たさが衣服をも貫通して尻を焦がしたが、その冷たさすら今のテミスには心地よく感じられていた。
ふと視線を向けた眼下では、しんしんと降りしきる雪の中、煌々と輝く灯りが極北の地に息づく人々の暮らしを物語っている。
その一角では、怒りに滾る蠢く兵士たちが、今まさにスラムの人々を駆逐せんと息まいているのだろう。
それを防ぐために、今もテミスの尻の下では、ムネヨシ達が方策を語り合っているはずだ。
「限界ギリギリ……遊びが無さ過ぎるな」
バサリ。と。
テミスがそう言葉を零した途端、強く吹き付けた風が、まるでテミスの胸の中に渦巻く不安を肯定するかのように、羽織った外套を大きくはためかせる。
融和派と過激派の戦力差は隔絶している。
それ故の電撃的な奇襲作戦だ。油断した敵軍の背後から襲い掛かり、その強固な包囲を食い破る。
まず間違いなく、行きは成功するだろう。だが問題は帰りだ。
戦力に余裕の無い融和派が、包囲に開けた孔を維持するのは困難だろう。なればこそ、早急にスラム側の戦力と合流した上で、再び包囲を食い破る必要がある。
「……問題は傷痕をこじ開けるか、新たな急所を貫くか……だな」
それは間違い無く、今後の命運を分ける事となる選択だ。だが、その判断を下す役は私ではない。判断を下すのは、恐らくはムネヨシだろうか。その性質上、スラム側の者達の状況や敵軍の動きなどを鑑みながら判断を下す必要がある。
なればこそ、本来は指揮官を拒んだテミスが気を揉む必要など無いのだが。
頭と体が急速に冷えていく中、言い知れぬ不安感と口惜しさを感じながら、テミスが白く煙る息を吐き出した時だった。
「テミスさんなら、どうしますか?」
「っ……!? うぉっ――!?」
突如。
気配の欠片も無く告げられた言葉にテミスはビクリと身を跳ねさせると、半ば反射的に立ち上がって凍り付いた屋根で足を滑らせる。
「――っ!!! しまっ……!?」
だが、テミスが自らの迂闊さに歯噛みした時には既に遅く、腰の刀を抜き放つべく構えようとした姿勢のまま、その身体は急速に屋根の上を転がり落ち始めていた。
「くッ……!! ぁッ……!!」
慌てて刀の柄に添えた手を離し、自らの腰掛けていた屋根の棟へと伸ばすが僅かに届かず、掴み損ねた手は無様に伸ばされたまま、凍り付いた屋根の上を身体と共に滑り落ちていく。
――かに思われた。
「くぅっ……!! ぐくッ……!! っ……屋根の上ではッ! くれぐれも跳んだり跳ねたりは厳禁ですッ! こうして……足を滑らせてしまうのでッ……!!」
「ッ……!! シ……ズク……?」
為す術もなくテミスの身体が落下を始めた直後。
屋根の棟の向こうから突如として現れた手が力強くテミスの手を掴み、滑落を始めたテミスの身体は、その手にぶら下がるようにして動きを止めた。
「はいッ!! 驚く気持ちはわかります……がッ!! 早くッ!! 今すぐ何かに掴まってくださいッ! このままではッ……!!」
「な、なんだ!? どうしたというのだ!! 掴まる物……と言ったって……」
鬼気迫るシズクの声に焦りを覚えながら、テミスは素早く視線を左右に巡らせる。
しかし、今テミスの身体を支えているシズクの手を除けば、テミスの周囲に掴まる事のできる突起など都合良くあるはずも無く、その事実がさらにテミスの焦りを加速させた。
「ぐぎぎッ……!! 屋根に沿うように身体を寄せて掴まるんですッ! 身体全体で体重を預けるようにしてッ!! はや……くッ!! あんなに小柄なのになんでこんなにテミスさん重ッ……!!」
「誰が重いだッ!! 装備のせいだ装備のッ!! こう……かァッ!!?」
「ひぃっ!? 何も言ってないです! 何もッ!!」
テミスはシズクの口走った、女の身を持つ者としては聞き逃せぬ暴言に叫びを上げながらも、その言葉通りに屋根に身を寄せると、それまで片腕だけにかかっていた重さが一気に和らいだ。
「そう! そうです! そのまま手を離さないで! 私が引き上げますからッ!!」
「わかったッ!! 頼むッ……!」
その後、テミスは息も絶え絶えになりながらも、シズクの手を借りて元の場所までよじ登ると、この地では二度と屋根の上になど登るまいと固く心に誓ったのだった。




