923話 忘れ得ぬ勇姿
一方その頃。
宿屋に置き去りにされたシズクは一人、トボトボと重い足を引き摺りながら、テミスの姿を探してギルファーの街中を歩き回っていた。
何故、テミスはあれ程まで急に私達を見限ったのだろう? 一体何が彼女の逆鱗に触れたのだろう? 止めどなく溢れる疑問と正体の見えない不安にさいなまれながらも、シズクは雪深いながらも賑わう街中に視線を走らせる。
「っ……!!」
この事を融和派の皆へ伝えれば、彼等は嬉々として今回の騒動の責任をテミスに擦り付けるだろう。
加えて、彼女を引き込んだ私に責任が及ぶのは間違い無く、下手をすれば私の上司であるムネヨシ様にまで及びかねない。
「それだけは……駄目です……ッ!! そうなれば獣人族は……人魔の融和から取り残されてしまうッ……!!」
ぎしり。と。
シズクは固く歯を食いしばると、今にも溢れてしまいそうな涙を堪えて歩き続けた。
あの町を見て……ファントを見て私は確信していた。かの町が掲げる人魔の融和は必ず成ると。
だがそれも、よくよく考えてみれば当たり前の事だ。
誰だって憎しみに塗れた殺し合いなんかしたくないし、平和な世の中で笑って暮らしていたいはずだ。
けれど、誰もが簡単に憎しみを棄てる事なんてできないから……。自分達は苦しくて憎らしくて仕方が無いのに、平穏の中で笑っている人たちが羨ましくて……。
だから、奪おうとする。
「………………」
その煮え滾るような気持ちは、理解できなくもない。
シズクは遂に足を止めると、道の真ん中に佇んで空を仰いだ。
しかし、そこにあるのはファントで見た透き通るような青空ではなく、しんしんと無限に雪を降らせ続ける、どんよりと重たい灰色の雲だけで。
そうだ。たしかあの日も、こんな重たい空だった。
――あれはもう、何年……何十年前の事だろう。
シズクがまだ、年端も行かない子供だった頃。
あの頃のギルファーは今よりもっと栄えていて、降るしきる深い雪すらも吹き飛ばすような熱い活気が、そこかしこで沸き上がっていた。
そんな時分……はじめは、ちょっとした冒険だった。
いつもとは違う町角を曲がり、いつもよりちょっと遠くへと出かけてみる。
子供の頃。誰だって一度は感じた事があるだろう抑え難い好奇心。
今となっては大した事の無い、ちょっとした散歩みたいな事なのだけれど。当時の私にとっては紛れもない大冒険だった。
「っ~~~!!!!!」
いつもとは違う景色に胸を躍らせ、昂る思いが導くままに、時間をも忘れてひたすら駆け抜けていた。
だからだろう。
日が陰り始め、昂る好奇心が過ぎ去った頃には、自分がどこに居るのかもわからなくなっていたんだ。
あの時の絶望は今でも覚えている。
「す……すみませーん? 誰か……居ませんか?」
崩れかけた窓の隙間から家の中を覗き込んで声をかけても返ってくる声は無く、まるでこの世界で一人ぼっちになってしまったような途方もない孤独感。
幼き日のシズクが、そんな絶望に長く耐えられるはずも無く。
頭の中はパニックでぐちゃぐちゃになり、手当たり次第に廃墟の中を覗き込んでは叫び声をあげて助けを求めた。
だが、場所と時刻が災いした。夜は一層厳しい寒さに見舞われるギルファーで、日も暮れかけた時間に廃墟だらけの外縁部に居る者など碌な輩ではない。
「んん~……? ヒヒッ……どうしたんだい? お嬢ちゃん迷子かい?」
「っ……!! お家……どこかわからなくなっちゃったッ!!!」
「おっと……グフフフッ……そうかいそうかい……」
けれど、孤独感に圧し潰されそう担っていたあの時の私には、突如として姿を現した怪し気な人間は救世主のように見えて。
泣き喚きながら脱兎の如く飛び出すと、その身体にしがみついたのだ。
しかし……。
「そりゃ好都合だ。グフフフッ……幼い獣人族……しかもメス。素晴らしい獲物だ! 嗚呼神よ……感謝いたします」
「え……?」
ガチャリ。と。
助けを求めて縋りついた私の首にかけられたのは、鎖のついた鉄の輪だった。
そこからは、よく覚えていない。
首輪まで嵌められてようやく事態に気付くも時は既に遅く。泣き喚き、暴れ、全身全霊の抵抗虚しく、私はズルズルと引き摺られていったんだ。
それはきっと、当時のギルファーではよく起こっていた事。何も解らないまま、とにかくがむしゃらに抵抗し、何処へと知れず連れ去られていく。
一体どれだけ、そんな時間が続いたのだろう。
「何だお前……まさか商品を奪う気――うぎゃァッ!?」
突如として響いた悲鳴と共に閃いたのは一筋の閃光だった。
同時に雷鳴の轟くような音が空気を切り裂き、紫電を走らせる。
急に起こった出来事を理解できず、シズクは目の前に現れた男を呆然と見上げる事しかできなくて。
「……ったく、ガキなんざ攫うなっての。胸糞悪りぃ。おーい? 大丈夫か? たぶんギルファーの子だよな? っと……その前に首輪か。いいか? 動くなよ?」
「……?」
けれど、男はシズクの目の前で戸惑ったように手を宙に泳がせた後、首に嵌められた枷に視線を止めて鋭く目を細めたんだ。
次の瞬間。
「――っ!」
シャキンッ! と。
どこか軽快な音と共に再び閃光が迸ると、シズクの首に嵌められていた鉄の首輪が、そこから伸びる鎖が千々に刻まれ、バラバラと地面へ落ちていく。
「安心しな。もう大丈夫だ。俺が街まで送って行ってやる」
そう言いながら、キン……。と腰に大太刀を収めた男は、ニカリと笑うと、優しくシズクの頭を撫でてくれた。
そして、その言葉の通り、男はシズクの家の近くまで連れて行ってくれて。でもそれを告げた途端、再び優しく頭を撫でると、人混みの中へ紛れて消えてしまったのだ。
「……でも、私は覚えている。私を助けてくれた彼も、確かに人間だった事を」
ボソリ。と。
往来の真ん中で立ち止まり、曇天を仰ぎ見るシズクに道行く人々が不審な視線を向ける中で、シズクは固く拳を握り締めながら、噛み締めるように呟いたのだった。




