917話 はぐれ者達の秤
ガタリッガタリッ!! と。
テミスが殺気にも等しい気配を放った瞬間、賑わっていた酒場の中の空気が一気に緊迫したものへと変化した。
中には、既に自らの得物を抜き放っている者も少なくは無く、誰もが緊張した面持ちでテミスの方へと視線を向けている。
「フム……これは……。私はどちらと受け取ればいいのだ?」
だが、テミスは自らへと向けられる視線など歯牙にもかけず、悠然とした口調で眼前で冷や汗を流すオヴィムに問いかけた。
旧知の間柄とはいえ、オヴィムやアルスリードはファントの者ではない。更に、オヴィムの性格を鑑みれば、不義理こそ働く事は無いだろうが、ディオンの家に連なる者……ひいてはアルスリードの為ならば、迷うことなくテミスに弓を引くはずだ。
故に。問題はそれが今なのか……だ。
ひなびた酒場に溜まっている連中が、偶然にもテミスの殺気へ即応できる程度には腕利きであったのか、それともオヴィムがテミスを始末する為に、自らの仲間が集うこの場所へと招き入れたのか。
騒ぎを起こしたくないテミスとしては、前者であった方が有難いのだが……。
「止せッ……!! 止さんかッ……!! 皆、すまぬ! お主もお主だッ! 儂等を疑る気持ちは理解できんでも無いが、皆の神経が張り詰めているこの時分に斯様な殺気を放つなど、些か配慮に欠けておるぞ!!」
「っ……!? …………。す……すまない……」
しかし、オヴィムの反応はテミスが全く予想だにして居なかったもので。
慌てて席を立ちあがったかと思えば、テミスの殺気に反応して緊迫した店内へ頭を下げて詫びてから、まるで子供を叱るかのような口調でテミスを一喝した。
そんな意外極まるオヴィムの対応に、テミスはビクリと肩を跳ねさせて驚きに目を瞬かせた後、オヴィムを見上げて謝意を口にする。
「……儂は構わぬ。これでも、背中を慮らねばならぬお主の事情も諸々察しては居るつもりだ。だが……」
テミスの謝罪に、オヴィムは重々しく頷くと、視線だけでテミスへ静まり返った店内を指し示した。
そこには、先程まで流れていた雑多ながらも賑やかで楽し気な空気など微塵も無く、そこにいる者達もオヴィムの言葉で武器こそは収めたものの、未だ緊張した面持ちを浮かべている。
「こう静まり返っていては、おちおち話もできんぞ?」
「っ……!! ハァ……履き違えていたのは私の方という訳か……」
その言葉に、テミスは苦笑いを浮かべてため息を零すと、ゴトリと音を立てて席を立って大きく息を吸い込んだ。
どうやら私も、知らず知らずのうちにこの町に漂う陰謀詭計の気に呑まれていたらしい。
「騒がせてすまないッ! 軽挙の詫びに、この場の皆へ私から一杯ご馳走させて貰おうッ!!」
テミスは店中に響く程に大きな声でそう詫びると、一歩前へと進み出て深々と頭を下げた。
そして、僅かな静寂が訪れて、テミスの声の残響が消え去った後。
「ウォォオォォッッッ!! なんて太っ腹な姉ちゃんだッ! 許す! 俺は許したぞッ!!」
「おい聞いたかよ!! 奢りだってよ!? あの姉チャン人間だよな? 俺、人間に奢られるのなんてはじめてだぜ!?」
「ハハハハハッ!! 大したヤツだ!! そりゃ、あいつ等と手を組むような連中がアタシ等みたいなのに奢る訳ねぇもんなッ!!」
店をビリビリと振るわせるほどの大歓声が沸き上がったかと思うと、店の中の客たちは一斉に口笛を吹いて囃し立てたり、表情を輝かせて言葉を交わし始める。
つい先ほどまで漂っていた陰鬱で緊張した雰囲気など、まるで最初から無かったかのように霧散し、一瞬で店内の空気は元の賑やかで楽し気なものへと戻っていた。
「あ~……私が言うのも何だが、たかだか酒の一杯でヒトを信じすぎじゃないか?」
「クククッ……なるほど。自らがどれ程の事をしたのか自覚して居らぬ者を見るのは、斯様に面白いものなのか……」
「えぇ……それがテミスさんだと猶更……ですね……。普段、毅然としている人が、こうも目を白黒させているのは……その……」
テミスは自らの驚きを尻目に、早々に歓談を始める客たちを指差してオヴィム達を振り返って問いかけた。
しかし、そんなテミスを見てオヴィムは喉を鳴らして笑うばかりで、アルスリードは何故か頬を赤らめてテミスから視線を逸らしている。
「フッ……。お前は自分が塵だの屑だのと蔑むような連中に、身銭を切って酒を分け与えるのか? それ程までに、この国の確執は根深いという訳だ。丁度、我等の分も来たようだ。それも含め、説明してやろう」
そんなテミスを眺めながら、オヴィムはひとしきり喉を鳴らして笑った後、未だ事態を呑み込めていないテミスへ静かに笑みを零すと、上機嫌な給仕の店員によって運ばれてきたジョッキを受け取ったのだった。




